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村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』


 


 



『本など読むな、バカになる』(安原顕)

図書新聞 1994

『ねじまき鳥クロニクル』を読み終え、
判然としない気持ちを引きずったまま、これを読む。

所収の「究極の愚作『ねじまき鳥クロニクル』精読批判」では、
『国境の南、太陽の西』以降の村上作品を認めず
(後に『神の子どもたちはみな踊る』は評価していたが、
死の直前、『海辺のカフカ』もゲラの状態で読み、
酷評していた)、
この『……クロニクル』にはずいぶん腹を立てている。

謎めいたムードだけで、
それらに何一つ落とし前をつけておらず、
ストーリーにも登場人物にも
感情移入できるようなリアリティがなく、
時代からずれているというもので、
担当編集者はそうした矛盾点などを
なぜこのように指摘しないのかということが
(オエッ)などといった罵詈雑言文体で綴られているが、
しかしそれがあまり嫌みでなく、
むしろ期待を裏切られた
愛情の裏返しのようにも感じられる。

ただ、これはあまりにも言い過ぎじゃないのと
首を傾げるところも多々あるが、
判然としない読後感の一部が代弁されている。



『ねじまき鳥の探し方』(久居つばき)

太田出版 1994

その安原顕への反論が
『象が平原に還った日』
(現在『村上春樹の読み方』と改題改訂)の
著者の一人、久居つばきによってなされている。

「『詐欺小説』だというような認識は、
自分の読みの甘さをさらけ出すだけのもので、
読み違いもはなはだしいと言うほかありません」
(p135-136)。

つまり、この小説は、
それまでの小説の読み方とは違った、
著者によって密かに張りめぐらされた仕掛けに
気づいてこそ楽しめるというのである。

水、クラゲ、井戸合わせ、日本の古典文学など、
なるほどよく調べているし、
そういう共通する姿勢を確かに村上春樹にも感じる。

しかし、本来ならそういうことを知らなくても
物語を引っ張るだけの力があるべきだと思うが、
収斂していく力がどこか衰えているように
僕も思うのだ。

単に村上春樹の前進に
僕がついていけてないだけという面も
大いにあるのだろうが。



『村上春樹、転換する』(吉田春生)1

彩流社 1998

まず村上自身の発言から
(「メイキング・オブ・ねじまき鳥クロニクル」)。

「僕は実を言うと、第二部を書き終えた時に、
これでこの話はもう終わりだと思ったんです。
もちろんそこでは何も解決していません。
問題がどんどんふくらんでいって、
謎がますます深まっていって、
そこで急に話が終わる……。
でも僕はそれでいいと思ったんですよ。
僕の考える『閉じない小説』というものの
ある種の極限的なかたちというのかな、
この話はこう終わるしかないと確信したんです。
解決をする必要がどこにあるんだ、という風に」

これに対しては、
謎を次々出しておきながら落とし前をつけていないと
安原顕だけでなく中条省平も批判するが、
吉田はそれに反論して、
「小説の中で何が磁力を放つモチーフで、
そのことについて整合的な説明が必要なのかという
設問と自省は中条にはまったく不在である」と問う。

「村上春樹は
ストーリーの合理性に執着する作家なのでなく、
……モチーフの持続やその展開に
心を砕くタイプの作家なのである」

実際に村上が言うように、

「ストーリー的に納得がいくようには
書かれていない。しかし、
村上の作品を読み続けている読者なら、
モチーフという点で、明らかな一貫性
――持続と発展――を感受することができる。
それは、『世界の終わりと
ハードボイルド・ワンダーランド』で
変化に富む『ハードボイルド・ワンダーランド』
部分が、ストーリー性ということでは
必ずしも納得のいくものではなかったにもかかわらず、
『世界の終わり』部分との照応において、
モチーフという点からは
大変説得力のある作品だったことを思い出させる」

久居がメタファーとシンボルに軸足を置いたように、
吉田は素材とモチーフ、テーマに目を注ぐ。

「『ねじまき鳥クロニクル』は、
モチーフの呈示やテーマの手繰り寄せのために
ストーリー展開を巧みに利用しており、
油断するとただストーリーの合理性だけを
追っていたということになりかねない」

ちなみに第三部は、
「第一部、第二部で自分で仕掛けた謎に対して、
自分で答えてみたいという気持ちもあった」と
村上春樹は明かしているが……。

では、『ねじまき鳥クロニクル』のモチーフとは何か。

これがいろいろ詰め込まれすぎて
どうも物語が破綻しているように僕には思える。

吉田も「モチーフの磁力の低下と
不必要なストーリーの奔流」と言う。

大まかにモチーフを挙げていくと、
妻の他者性を発見し夫婦の関係を探ること、
暴力性と歴史性、癒しとコミットメント、
光の洪水という恩寵の経験などなど、
盛りだくさんなのだが、
どうして妻との関係だけに
テーマを収斂していかなかったのだろう。

ただ、笠原メイに「僕」が
次のように問われるところは面白い。

「自分ではうまくやれた、
別の自分になれたと思っていても、
そのうわべの下には
もとのあなたがちゃんといるし、
何かあればそれが『こんにちは』って
顔を出すのよ。……
きっとあなたは今、そのことで仕返しされているのよ。
いろんなものから。
たとえばあなたが捨てちゃおうとした世界から、
たとえばあなたが捨てちゃおうと思った
あなた自身から」

これまでの村上春樹自身が
作り上げてきたものの自己否定。

しかし、他者性をあらわにした妻が
「僕」のもとから去ってしまったのち、
「彼女を闇の世界から取り戻すためには
暴力を揮わざるをえない」と
村上春樹は解説するのだが、
吉田も首を傾げるように、
僕にもそこらへんがどうもまだよく分からん。

『ねじまき鳥』に関してはもう少し考える必要がある。



『イアン・ブルマの日本探訪
──村上春樹からヒロシマまで』(イアン・ブルマ)2

TBSブリタニカ 1998

村上春樹を大磯まで訪問した章を読む。

「『日本は単一民族国家だ、一体感がある。
日本的な風景、天皇制……。
危険で理不尽な要素かも知れない。
でも僕は自分もその一部だと感じている。
昔は嫌いだった。
しかし、今は日本の中に
自分にとって大切なものを見つけたいと思っている』」

確かに初期の村上春樹の小説の魅力は、
日本的なウェットさから徹底的に離れて
幻想の中の疑似アメリカのような世界を
小説の中に構築しようとする
そのスタイルにあったのかもしれない。

しかし、その態度がどんどん変わってきた背景には、
こんなことがあったのか。

「彼のアメリカ憧憬は、
もはや逃避家の幻想ではなく、
陳腐な現実になった」

「『ねじまき鳥クロニクル』は
今までの作品とは違っている。
バターの臭いではなく血の臭いがする」

その変化のキーは父親との関係かもしれない。

「父親とは今では疎遠になっており、
滅多に会うこともないということだった。
父親は……徴兵されて陸軍に入り、中国へ渡った。
村上は子供の頃に一度、
父親がドキッとするような
中国での経験を語ってくれたのを覚えている。
……『ひょっとすると、それが原因で
いまだに中華料理が食べられないのかも知れない』」

「村上は父親のことを語るつもりは
なかったのだろう。……
翌日電話をかけてきて、
あのことは書きたてないでくれと言った。……
微妙な問題だから」

村上春樹の魅力は、
祖国・日本と父親に対する
愛憎の態度なのかもしれないと、これを読んで思った。



『村上春樹全作品1990〜2000 4
ねじまき鳥クロニクル1』

講談社

巻末にある著者自身の解題から。

「僕の作品に出てくる登場人物たち……は、
経済的にますます繁栄し、
更に自己充足を進めていく社会システムから
一歩離れたところに居場所を定め、
孤立し(あるいはドロップアウトし)、
べつの観念を静かに追求する人々だった。
彼らは決して社会的な強者ではない。
しかし彼らには優しい諦観と、
内的な価値のぬくもりと、
そしてある種のタフさがあった。
彼らは大げさな言葉や、
輝かしい目標や、
安易な連帯を信じない。
制度の永続性や、社会的達成を信じない。
功利的な知性を信じない。
彼らがもっとも大事に考えるのは、
言葉や数字ではあらわすことのできない、
自らの生き方の静かな総合性であり、一貫性だ。
僕は社会体制のあり方に対する
ひとつのアンチテーゼとして、
彼らの生き方を描いていたのだと思う。
あるいはまた、自分自身のあり場所を確認し、
自らを励ますために
そのような物語を書いていた
という部分もあるかもしれない」

『ねじまき鳥クロニクル』は、
そうした今までのスタイルから変化したものだと
ここでは書いているのだが、
90年に入って現れた村上春樹の作品における
その積極性、アグレッシブさに困惑を覚える
読者も僕同様、多いのだろうなあ。
実際、『スメルジャコフ対織田信長家臣団』に
安西水丸との肉声対談が収録されているのだが、
そのしゃべり方は、
やさしき団塊世代というイメージではなく、
そうとうアグレッシブだ。
じっくりそこらへんのことを考えたり
まとめたりしたいと思うのだが……。



 


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