神之田常盛氏とドン・ドレーガー氏
ドン・ドレーガー (Donn F. Draeger) という名前をご存知だろうか? あなたが若い日本人であれば、ご存じなくとも無理はない。ドレーガー氏が亡くなってから既に二十年の歳月が経っている。しかし、武道を嗜む外国人の友人がいれば、その名前を聞いてみるとよい。国籍を問わず、大半の方がその名前を一度は耳にしたことがあると言うに違いない。事実、ドレーガー氏の著書で奥深さを知り、日本武道を志した人は数多い。戦後、日本武道を海外に紹介した草分け的存在である。氏自身、昭和ニ十年(1945年)に来日以降幾度も長期に渡って滞在し、神道夢想流杖道をはじめ、講道館柔道、剣道、松涛館流空手道、香取神道流ほか幅広く武道を研鑚し、それぞれにおいて相当の域に達した。柔道では、東京オリンピック銀メダリストのダグ・ロジャース(Doug Rogers)や、世界チャンピオンの岡野功氏、猪熊功氏等を育てた。直接指導を受けた者は一様に、その強さと優しさを併せ持った誠実な人柄を懐かしむ。武道をこよなく愛し、後に続く者を薫陶したドン・ドレーガーとは一体いかなる人物だったのであろうか?
1922年4月15日米国ウィスコンシン州生まれ、本名はDonald F. Draeger。七歳のときに柔術を習ったのが、武道に入ったきっかけである。長じてハーバード大学の大学院で電子工学を専攻した。戦時中、海兵隊の中佐として参加した硫黄島の戦いで日本兵の強靭さを目の当たりし感嘆、そのバックボーンとなったであろう武道の研究を生涯の使命と感ずるようになる。日本精神を研究するには古来より伝わる武道を身につけるのが最適であり、将来それを米国の青少年に伝え、歴史の浅い米国の人造りの一翼を担いたい、という意味のことを後に清水師範に語ったという。終戦後に来日し、武道家を探し求める。戦勝国からわざわざ貧しい時期に来て、しかも日本人に教えを乞うのである。彼ほどの学歴と実力があれば、その気になれば平和な時代に一儲けすることはいともた易いことだったろう。当時、神之田師範が勤めていた四ッ谷の機動隊の道場で隊員と一緒になって汗を流し、風呂を浴び、タクアンをかじりながら修行することに嬉々としていたという。揺るぎない自信と、溢れる情熱の成せる芸当ではある。その武道研究と普及に明け暮れた一生は聖書の中に出てくる「一粒の麦」に例えられ、賞賛された。
昭和四十五年(1970年)には杖道普及の為の親善使節として清水師範、神之田師範とともに2ヵ月間、真夏の米国を横断しながら各地での演武および指導を、通訳を兼ねてマネージメントした。このイベントは「キャンプ武士道」と呼ばれた。もちろん、ドレーガー氏自身、演武や指導を行いながらのハードスケジュールである。昭和四十七年(1972年)には、黒田市太郎師範を加えたメンバーでマレーシアを訪問、その後も昭和五十五年(1980年)に欧州各国を廻る等、精力的に活動した。
ドレーガー氏が日本滞在中の逸話は枚挙にいとまがない。日本を舞台とし、昭和42年(1967年)に公開された映画007シリーズ「007は二度死ぬ」の中で、ドレーガー氏はヒーローのジェームズ・ボンド役(当時はショーン・コネリー)のスタントマンを一部請け負っている。この映画の武術シーン撮影のため、武道各界へ協力依頼があった。神之田師範も撮影に協力した一人である。また、女流武道家として名高い三宅綱子師範は、講道館時代にドレーガー氏に熱心に誘われたのが縁で清水師範と出会い、杖道を始めたという。三宅師範は現在も海外での指導や中国で京劇を行うなど、積極的に活動されている。
「ちょうどそんな状態のところへ、折よく一人の人が現れて、私の生き方を大きく変えてくれることになった。実は私はその前にすでに、柔道場のたたみの上で、その人に逢っていた。私の柔道の受け身を批判したアメリカ人の大男ドン・ドレージャーがその人であった。ドレージャーは柔道六段の黒帯、杖術六段の黒帯のほか、十指に余る各種武道の黒帯の資格を持っていた。長身で、筋骨隆々、姿勢正しく、射るような眼光を持ち、何かあると、カラカラと大声で笑う。ドレージャーはそういう非常に印象的な人物であった。しかもすこぶる優しい人がらで、武道を習う門弟にいつでも援助の手をさし伸べ、必要な時にはジョークを飛ばし、友人や見知らぬ人にもかゆいところに手のとどくほど親切であった。 …中略 …
ドン・ドレージャーは私を出迎え、自室で日本式に鉄びんで茶を立て、小さな木箱の中に大切にしまってある、貴重な茶碗にその茶を入れてすすめてくれた。日本式の低い机の上には、彼のタイプライターと執筆中の原稿がおかれていた。ドレージャーは今日では多くの本を書き、もっともすぐれた西洋人の武道解説者として広く認められている。…中略 … 私たちは武道の話をし、私のような初心者が練習生活を送るのには、どうしたら一番いいかということを相談した。そして私はドンの提案を受け入れ、一室を借りて、同居し、責任と家賃を分担することにきめ、その翌日講道館から荷物を持って引っ越した。…中略 …
私のそれまでの環境は親日的なものではなかった。私が少年時代に日本的なものに大きな興味を持ち出したときには、家中がふるえあがった。イギリス人も日本人と同じく島国根性を持っていて、おまけに、日本人には(結構なことだが)今までに手ひどい目に遭わされている。私の若いころのイギリスではまだ、捕虜の虐待、斬首、ジャングルの鉄道建設の話などがよく噂されていた。しかし、ドンは物事の違う面を見せてくれた。太平洋戦争に従軍し、硫黄島の岸で隣にいる戦友たちのバタバタ死ぬのを眺め、食うか食われるかの境地で日本人と対決し、日本人を殺したこともあったのに、この人ほどに日本人を愛し、尊敬し、武道と柔和の道を解している人はなかった。根性のせまいのは、いつでもまわりの傍観者たちである。」 …“第二章 力は心に宿る”より。
この本にはこの他にも、当時太極拳の第一人者で清水師範とも交流があった王樹金先生との稽古風景、ドレーガー氏の杖術の稽古で仰天した話、機動隊での杖道の稽古の様子、ニコル氏自身の清水師範との邂逅など、杖道修行者にとって興味深いエピソードが多く登場する。昭和61年の発行で、惜しいことに絶版となっている。こまめに古書店を探せばまだ見つかるかもしれない。一読をお薦めする。(オリジナルの英語版もなかなか入手できない。数年前に日本杖道会の会員がニコル氏にお会いする機会があった際に尋ねたところ、「あの本は幻の本です」と言われた。自伝風だが、武道を通して日本人の精神的土壌を平易に解説しており、私達が読んでも失いかけた魂を蘇えらせるような秀逸な作品である。出版関係者にはぜひとも再版を望みたい。)
ここに一枚の新聞記事がある。昭和五十五年(1980年)2月28日付のサンケイ新聞の「素顔」というコラムで、ドレーガー氏がクローズアップされている。この中で、ドレーガー氏は学者の立場から、二年後ハワイにホプロロジーセンターを開館するという夢を語っている。
奇しくもこの二年後に氏は病で倒れ、還らぬ人となった。今もし彼が生きていれば、現在の世界情勢をみてなんと言うだろうか? 武道を通じて平和の尊さを、もっともっと世界の人々に訴えたかったに違いない。ドレーガー氏は多くの著作を残しているが、氏自身について書かれたものは極めて少ない。なにぶん生前の氏を知る方々は相応の年齢になってきている。(日本杖道会の会員は、折りに触れ神之田師範、大里師範ほか諸先輩より氏についての話を聞く機会があり、恵まれた立場ではある。) この拙文を目にした若い方の中から、将来氏の遺志を継ぐような人が一人でも多く現れんことを切に願う。
1982年(昭和五十七年)10月20日、ドレーガー氏は生まれ故郷ウィスコンシン州、ミルウォーキー市のWood National Hospitalで逝去。(一部に10月21日と報道されたのは、米国と日本との時差から発生した誤りと思われる。)享年六十歳。同年十一月五日、東京麻布の国際文化会館にて追悼式がしめやかに催された。日本古武道振興会会長(当時)の小笠原清信先生、副会長(当時)の大坪指方先生、講道館の諸先生、古流の宗家や各界の師範をはじめ百数十名参列され、故人の功績を称え、遺徳を偲んだ。かつて彼ほど幅広く武道界から受け入れられ、敬愛された外国人武道家がいただろうか…。このときのもようは日本杖道会会報第4号に、友人代表として読み上げた神之田師範の弔辞の全文と共に掲載されている。
< この項参照 >
「杖で天下を取った男」(あの人この人社、杉崎寛著)
Camp Bushido 1970 (Camp Bushido Headquarters)
Journal of Asian Martial Arts Vol. 8 No. 3, 1997 (Via
Media Publishing Co.)
「私の日本武者修行」 (角川書店/C.Wニコル著、松田銑訳)
「サンケイ新聞」昭和55年2月28日
日本杖道会会報(普及会だより) 昭和57年12月25日 第4号





