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| 所在地 堀川通り上御霊前上る上天神町 アクセス 市バス堀川線・天神公園前下車 |
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文禄の初めこの辺りに庵を結んでいた虚応を開祖として1603年古田織部正勝重の素願で建立され、名を円通山興聖寺顕蜜自得禅寺と改めました。かつては数十カ寺を有する本山でしたが天明の大火以後の復興がままならず、明治20年に臨済宗相国寺派に合流しました。現在は臨済宗興聖寺派の本山として禅の道場になっています。本堂には本尊の釈迦如来像の両脇に愛宕山の旧本地仏であった勝軍地蔵菩薩像,藤堂高虎の寄進という達磨像が安置されています。 重要文化財に指定されている紙本墨画寒山拾得図は曽我簫白(しょうはく)の作,絹本著色兜率天曼荼羅(とそつてんまんだら)図は鎌倉時代の弥勒(みろく)信仰による弥勒浄土を描いています。 仏殿は元禄2年(1689年)方丈・庫裏は天明の大火(1788年)以後の再建です。藤堂高虎の寄贈による「達磨像」という坐像が有名ですが多数の文化財を秘蔵しているほか、古田織部ゆかりの茶の寺としても知られています。 古田織部は、1544年、現在の岐阜県本巣郡本巣町に生まれ、信長、秀吉、家康、秀忠に仕えた武将でありながら、天下一の数寄者として名を馳せました。伯父古田重安の養子になって3万500石を相続し、織田信長亡き後は秀吉に忠勤を励み数々の武勲を挙げた戦国武将で、利休や紹鴎の薫陶を受けた茶人として名をあげ、秀吉の命で書院式茶道を完成し、小堀遠州のほか多数の武将に茶道の奥義を伝授し茶道界において一大勢力を誇っていました。利休が完成された「侘び」の精神を継承しながら、「織部好み」とよばれる大胆で自由な茶の湯を創りだしたのです。 主君秀吉が没した後、超然と茶道生活に入り秀忠の師範をしていましたが、密かにお家再興を狙っていた節があり、幕府の監視下におかれていました。折りしも京洛に放火事件が起こり、織部の茶坊主が犯人として捕らえられ、夏の陣が終わると罪状を科せられ切腹を申し渡され男子は悉く父の罪科によって切腹しました。古田織部の墓は大徳寺の塔頭三玄院にあります。 以前は、古田織部の書院式茶道の家元として茶道を教え、月釜をかけていたことがありましたが、今は茶道を離れ、禅寺として座禅講座を開き一般の参禅を受け入れています。 |
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