着信履歴をみると、それは「はちこくやま」からの発信だった。まだそれほど携帯電話が普及していなかった98年、夏の終わりぐらいのことである。はちこくやまとは、96年の夏、当時のバンド「八国山 All Stars」の解散以後、2年ほど付き合いが止まっていた。その間、マスターも僕もお互いに一切連絡を取り合っていなかったから、この着信は不思議だった。
 意を決して、マスターに電話をしてみた。
「ご無沙汰してます。Kennですが、お電話いただいたようで...」、確かこんな会話から始まったと思う。
「あぁ、Kenn! 久し振りだね。元気そうで何より。」
「おかげさまで。マスターはどうですか?」
「うん、元気だよ。それよりちょっと頼みたいことがあるんだよ。他の人には言えないんだけど。」、人間関係の多彩なマスターが、他の人には頼めず、付き合いが止まっていた僕にしか頼めないこととは何だろう? ちょっと嫌な予感がした。
「何かあったんですか?」
「うん、仲野さん、覚えてるだろう?」
「えぇ。」
「実は、彼が肝臓ガンであと数ヶ月の命だって言うんだよ。もちろん本人は全然知らないんだけどね。」、肝硬変でお袋を亡くしている僕にはドキッとする内容だった。
「でさぁ、仲野さんね、あれからも頑張ってサックスの練習してるんだよ。人間、打ち込めるものとか夢中になるものがあると、余命が伸びるって言うじゃない。だから、仲野さんにもサックスで目標を持ってもらいたいんだよ。それで少しでも長生きができるならいいじゃない。練習だけでもいいから、手伝ってくれないかな。」
「わかりました。そういう事情なら、喜んで引き受けましょう。今夜、お店に寄りますから、その時までにはアイディアを練っておきます。」、僕は二つ返事でマスターの提案を受け入れた。



 遡ること、その2年前、僕らは「八国山 All Stars」というバンドをやっていた。今風に言えば、はちこくやまのハコバンだったのだ。といっても、メンバーはみなそれぞれ仕事をしていたので、店で演奏できるのは月に1回、リハーサルのスケジュールも組めなかったので、開店の5時間ぐらい前に集まり、時間と格闘しながらリハーサルをしたものである。新曲を最低でも7〜8曲ほど入れていたから、今にして思えばなかなかハードなスケジュールだった。
 そんな中、常連のお客さんだった仲野さんがサックスを始めたので、ゲストで出演したいと言う。確か「八国山 All Stars」名義での3回目ぐらいのギグからだったと記憶している。22:30からの3ステージ目(最終ステージ)の本当に盛り上がる時にサックスを持って登場するという、非常においしいゲストだった。曲もただ1曲のみ、ジャズのスタンダード「Coming Home, Baby」である。リハーサルでも本番でも、仲野さんは一所懸命吹いた。サックスも素人なら、バンドも初めてだから、なかなかこちらの思うようには仕上がらないが、でもとにかく一生懸命吹いていた。最初のギグでバンドの難しさを経験した仲野さんは、次のギグから自分なりにアプローチを変え、何とか上手くなろうと必死に吹いた。僕らも本番では、この年上のサックスプレイヤーの演奏を楽しみながら聴き、バックの演奏をし、そしてそれぞれのソロへと廻した。仲野さんはメロディーしか吹けなかったので、彼には最初と最後のテーマ部分を演奏してもらい、僕らが中のソロ部分を担当していたのである。なかなか評判は良く、仲野さんの演奏も回を重ねるごとに上手くなっていった。


 2年振りにはちこくやまに行った。
「本当にご無沙汰していました。」
「いや、いいんだよ。それより、仲野さんの件、KennならOKしてくれると思ったけど、まさか二つ返事だとは思わなかったから嬉しかったよ。」
「いえいえ、人の命がかかっているんですから、即答は当たり前のことです。それよりマスター、いろいろ考えたんですけど、やっぱりステージやるのが良いと思うんですよね。練習だけでは目標として弱いし。でもあまり日程が遠すぎると、ステージやる前に体がおかしくなるといけないから、今年の年末はどうですか? 毎年恒例の僕らのクリスマスパーティーを今年ははちこくやまでやるとして、その中でやるのなら自然な成りゆきだし、仲野さんにも変に勘繰られないで済むし。あと3ヶ月ぐらいなら何とかなるでしょう。」
「それはグッドアイディアだね。早速仲野さんには話してみるよ。」
「メンバーは、マスターがドラム、僕がキーボード、のぐちゃんがベース。のぐちゃんには僕から話をしておきます。彼も、事情を説明すれば、二つ返事で引き受けてくれるでしょう。」
「でもさ、Kennから連絡が突然来たっていう嘘の説明をする方が大変そうじゃない?」
「そうですね。そこはマスターが何とかして下さい。」
「あぁ、大丈夫。任せておきなさい。」
カウンターに座るや否や、こういう会話をした。このあとは、2年間ものブランクがあったとは思えないほど、マスターも僕もすっかり以前のような友人に戻っていた。こういうきっかけがなければ、もしかしたらその後もずっとそのまま付き合いがなかったかもしれないので、仲野さんは命懸けで僕らの縁を繋いでくれたのである。仲野さん本人はまったく知らないことではあるが。


 初めての練習日。とりあえず営業がない日曜日の夕方から、メンバー全員はちこくやまに集まった。まず、仲野さんのやりたい曲をあげてもらい、それをバックの3人が譜面どおりに演奏することから始めた。毎週はできなかったので、2週に1回リハーサルをした。何回か練習を重ねていくと全体像が見えてきたので、本番の1ヶ月ぐらい前には、きちんとしたアレンジをし、このバンドでできる最高の音を目指した。僕にとっても、実は最初のインストルメンタルバンドだったので、アレンジにも自然と熱が入った。
 練習が終わると、近くにあるマスター馴染みの焼き肉屋(今はもうなくなってしまった)で、反省会と銘打って打ち上げ(まだ練習なのに)をしていた。この頃の僕らは何か変だった。何かにとりつかれていたような、そんな感じだった。今にして思えば、仲野さんの余命の短さと、それを何とか引き伸ばそうとする僕らの思い、この2つのバランスが取れていなかったのだろう。打ち上げの度に、とことん酔いつぶれ、異常なまでに自分たちを盛り上げていた。それが不自然に感じないぐらい、必死だった。

 「Kennちゃん、大丈夫けぇ。最近、見る度疲れた顔してるぞ。」、仲野さんはよくそう言っては僕を気遣ってくれてた。まだ、「八国山 All Stars」を始める以前の話である。僕よりはるかに年上の大先輩だが、けして先輩面するようなこともなく、いつも同じ目線で語り掛けてくれた。
 バカな話ができる先輩はたくさんいた。話の面白い先輩も数多い。だが、多くの場合、それ以上の何かを持っている先輩は極めて少なかった。だが、仲野さんは違った。同じ目線での会話であっても、仲野さんは人生の先輩として、その多くの経験からさりげなく良きアドバイスをこんな若造にしてくれたものである。その頃は、別に共通項があったわけでもない。単に飲んでいたらお互い隣同士に座っていただけ。つまり飲み友達に過ぎない。だがこの大先輩は魅力的だった。会う度に仲良くなり、仲間と一緒にバーベキューにも出掛けたものだ。その頃発行されていたはちこくやまの広報誌「はちこくやま落書(らくしょ)」に掲載されていた仲野さんの文章は、まさに名文というものが数多い。バカな話ができる、面白い話ができるだけの先輩たちにはできないことだった。


 クリスマスパーティー当日、つまり本番当日を迎えた。それまで何十回となくステージをやってきたが、今回はちょっと気持ちの持ち方が違っていた。というのも、僕は大体70%ぐらいの感じで演奏するようにしている。これは別に手を抜いているというわけではなく、その方が良い結果が出ることが多いからだ。そして残りの30%はアクシデントに備え取っておくようにしている。だが、今回はそうはいかない。仲野さんは、まさに「命懸け」で演奏するのだ。いつも以上に自分の全てを出し切るつもりでないと、仲野さんの演奏に負けてしまう。そんな気持ちだった。
 そして本番。マスターのカウントで演奏が始まった。もちろんいつものように楽しみながら、でも仲野さんの命懸けの演奏に泥を塗ることのないよう、1フレーズ1フレーズに魂を込めて演奏した。命と命のぶつかり合いと言っても過言ではない。長いような、それでいて短いような、何か不思議な時間が流れ、演奏は終わった。どっと力が抜けた瞬間だった。
 敢えて友人たちには仲野さんの病気のことは伝えなかった。せっかくのパーティーだし、心から楽しんでもらいたかった。だが、何も知らない友人たちにも、この演奏はいつもの僕の演奏とは違ったものに聴こえたらしい。「どうしたの? いつもと違って、必死に演奏してるように見えたけど。でも、すごい良かったよ。」、そう声を掛けてくれた。

 それから4ヶ月後の、99年4月19日、仲野さんは永眠した。僕にとっては、大先輩であり、良き友人であり、演奏仲間であり、数少ない人生の師であった。実母の葬儀の時にも涙を流さなかった僕が、初めて泣いた。命を懸けるということの意味を初めて知った。一つの時代が過ぎていく足音が聞こえた気がした。

 僕が唯一後悔していることがある。それは仲野さんの演奏を、記録としてテープやビデオなどに一度も収録しなかったことである。仲野さんの音は、まさに伝説となってしまい、語ることはできても、伝えることができなくなってしまった。それに気がついたのは通夜の日、後悔先に立たずとはこのことである。それ以来、なるべく自分の作品をキチンと音として残すようにしている。

 本当にありがとう、仲野さん。
Back