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\.現代日本人の仏教アプローチ
【1】仏教とは何か
今まで、釈迦の仏教から現在の日本の仏教までを通して見てきた。
仏教は、2500年もの間、東アジア地域に伝播しながら、受け継がれてきた精神である。これほど長い期間、広範な地域の人々に支持された魅力とは一体何だったのだろうか?

仏教は宗教である。宗教とは何だろうか? 人間の生活と人生を支える心の拠り所である。無事であってほしい、恙無く暮らしてゆきたい、という人々の切なる願いを叶えるものである。
不安な時代に宗教は繁栄する。現代の日本と比べて、繁栄期におけるインド、中国、日本の仏教は、信じがたいほどの盛況ぶりであった。今の時代、不安とは言っても、当時の生活苦とは比べものにならないくらい豊かになったことが伺える。
しかし、一つ興味深いことがある。教祖である釈迦。彼はインド小国の王子として生まれ、何不自由のない贅沢な暮らしをして育った。その彼が「人生は苦である」、と言い放ったことが実に興味深い。たとえ物質的に豊かであっても、人間の気持ち・精神・人生が満足するとは限らない。仏教の奥深さを証明するエピソードである。

【2】契機
現代の私たち日本人に、宗教は縁遠いものとなっている。世界に目を向けると欧米のキリスト教、中近東のイスラム教その他多くの地域で宗教が盛んに行われ、敬虔な信者が世界には多く存在するようである。そして我々はどうしてそんなに宗教を重んじるのか、皆目わけがわからない。

今の日本人の宗教人口は、統計上は「神道」約1億人、「仏教」約5千万人(ダブリが入る)となっている。しかしその中で敬虔な信者の数といったら1%にも満たないと断言できる。
多くの形式上の信者は1年のうち、それらの宗教に携わる日数はごくわずかであり、とても信者とは言えない。実質上日本人の99%は無宗教者である。

このような現代日本の精神風土の中で、私たちが宗教に接し、頼りにするときはどんな時だろう。
「苦しいときの神頼み」という言葉がある。我々日本人にとって、宗教が必要とされるときは、人生の中で苦しいこと辛いことに遭ったときである。
形骸化した初詣や葬式などの習慣を除き、私たちが切に宗教を必要とするときは、こういうときしかない。

【3】アプローチ
仏教は宗教であり、宗教は人生の拠り所として、幸福を願うものである。
さて、私たちが人生の辛い局面に出会い、仏教を必要としたとき、仏教をどこでどのように学び、どう実践していったら良いであろうか。

仏教の歴史は、仏教が仏教でなくなる歴史と言われているが、これまで見てきたとおりである。
今日本にある仏教のほとんどは葬式仏教であり、ほとんど寺院は、僧侶がその生活の糧として経営している事業であると言っても良い。仏教の名を借りた事業経営である。その専門は葬式と法事、墓の管理である。
悩める人々に法を説き、その人生を救ってくれるような僧侶はほとんどいない。

釈迦が出家した目的は、人生の苦悩を解決するためであり、釈迦が成道した内容は、この世界の存在の真理を悟り、人間はその真理に叶うように判断の基準を置いて日常生活を送り、目指すべき道を進み、それによって人生の苦悩から脱却できる、と説いたものである。
今、私たちがアプローチすべき仏教は、「
釈尊仏教」である。
今まで各時代、各国の数多くの仏教と現代日本の仏教を見てきたが、これらのすべての研究は、釈尊仏教を正しく理解するための側面的研究
として捉えるべきである。

さてそれでは釈尊仏教にどのようにアプローチしたらよいか。釈尊仏教をどこでどう学び、実践して行ったら良いか。教義を具体的に学び、具体的に実践する方法。
至極残念なことに、いま私たちはこの方法を見つけることが極めて困難な状況にある。もっとも現実的な方法は、心もとないことに「独学独習」しかない。他に考えられることは、草の根を分けて、大海で木片を探すように、釈尊仏教を伝える寺・僧侶を探し出し、師事をお願いするしかない。
現実的には、書物から知識を得て、日々の生活の中で根気よく復習と実践を続け、自分にできる社会活動をし、期待せずに気長に師を探し、いつか師が現れるのを待つ、ということではないだろうか。