
| 私たちはなぜ働くのか | 平成19年 1月 1日 |
| 年頭所感 〜希望溢れる社会の訪れを願って〜 | 平成18年 1月 3日 |
| 最近の労働事情とその対処策を考える | 平成17年 7月24日 |
| 「失われた10年」が遺した負の遺産 | 平成16年 5月 1日 |
| 閉塞社会の打破に向けて | 平成14年 7月 9日 |
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平成19年1月1日
2007年が明けた。
昨年は「いじめ」と「偽装」が蔓延、暗黒の閉塞社会が表面化した年だった。
新年がいい年になりますように。そんな祈りが日本中に溢れるような年越しだった。
こどもの心とこどもの社会が乱れるのは、ひとえに大人の心が不安に満ち、大人社会が乱れているからである。
大人社会の中心は企業社会である。
企業社会で起こっている「いじめ」、「偽装」の数々が家庭の主婦(=母親)に伝染し、子供たちに伝染しているのである。
私たち労働者は、このように乱れた企業社会で、自分本来の目標を見失い、目先の生活収入を得ることだけにとらわれ、将来不安の中で右往左往している。
かつての、企業でただ精一杯働くだけで、人生の多くが得られた時代は終わった。
私たちは「働く」という美徳な価値観を持った過去の常識を完全に振り払って、いま一度、「なぜ働くのか」を考えてみることが、この閉塞感を破る一つの契機になるのではないだろうか。
私を含めて、「働かないと食べていけないから、仕方なく嫌な会社に勤めている」という泥沼的思考を少しでも前向きに変える契機になるのではないだろうか。
経済的に今より厳しくなろうとも、前向きな人生を送るためのよりよい選択ができるのではないだろうか。
新年を迎え、私たち労働者はこの、「なぜ働くのか」という命題をしっかりと考えるため、昨年「なぜ私たちは働くのか」という演題で講演された方の素晴らしい言葉を掲載させていただくことにしました。
この言葉を胸に、新年が前向きに生きられるよう、自分自身にエールを送ると同時に、来訪者のすべての皆様にエールを送ります。
「なぜ私たちは働くのか」リッチモンド大学教授 ジョアン・キウーラ氏
平成18年5月10日 日本経済新聞社主催
第5回日経CSRシンポジウム「なぜはたらくのか」変化する社会契約
私が始めて来日した1979年は、日本が一躍脚光を集めた年でした。エズラ・ボーゲルがその年、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を出版したからです。日本人は米国人よりも長い時間一生懸命に仕事し、休日は少なく、また貯蓄率も高い。まさにマックス・ウェーバー言ったプロテスタントの労働倫理をプロテスタント以上に日本人は実践していました。だからこそ、日本経済は当時、世界最強だったのです。
同じくエズラ・ボーゲルが63年に書いた「日本の新中間階級」も示唆に富んだ一冊でした。そのなかでボーゲルは、日本のサラリーマンは40年前どのような状況であったかを書いています。「みんな秩序のある生活を送っていて、大手の安定した組織での長期雇用がそれを可能にしている。サラリーマンは、定期的に決まった報酬を受け取るので、5年後、10年後、15年後、あるいは20年後、自分の立場やサラリーがどのようになっているかを予見することができる」と。現状と大きく異なっていることがわかります。
かつてのように秩序だった生活は、いまや日本にはなくなりました。米国の労働者は80年代の後半から90年代の前半にかけて一足早くそれを経験しています。大手の企業が大規模なレイオフを始めたからです。
先ごろフランスで企業社会のあり方を巡って大きな事件が起きました。学生たちが中心となった若者雇用促進策への反対デモです。彼らが問題視したのは仕事に対する社会契約の変化でした。社会契約というのは、雇い手と働き手の間にある仕事に関する期待、そして倫理的な義務を明示あるいは暗黙の形で記したものです。企業はこうした契約がフェアなものであり、従業員がそれに同意することを担保しなくてはなりません。しかし、この社会契約の中身がいま大きく変わろうとしています。
新たな社会的責任提示
昔は仕事をこなしさえすれば職を失うことはありませんでしたが、いまでは仕事ができても失職することが珍しくありません。仕事をうまくやれば雇用を続けようという社会契約は過去のものです。こうした中、社会的に責任のある企業はいったい従業員に何を約束でき、何を与えられるのかを自らに問う必要に迫られています。不安定な経済環境のなかで、長期的な雇用が約束できないのであれば、なんらかの新しい社会的に責任のある契約を企業は考え出さなくてはなりません。
会社自体が社員に対し、忠誠心やコミットメント(約束)を与えられないのであれば、社員からそれを求めることができないのは当然です。21世紀のいま、仕事と人生に関して選択をする際の価値観、さらには先進国の間で起こる社会的な変化を理解することなくして、新しい社会契約を定義することはできません。たとえば日本では現在、女性の高学歴化とともに、少子化が進んでいます。彼女たちは働きたいし、子供も欲しいのです。しかし、企業は一般にそうした女性を受け入れる社会的責任を考えて来ませんでした。
責任ある企業は何をコミットメントし、社会で何を果たすべきなのかを考える前提として、仕事の意味、そして人生におけるその位置づけについて考えてみる必要があります。かつては職業倫理が私たちの道徳的な価値観の中心にありました。自らのアイデンティティーや自尊心、幸福感が実は仕事に危険なほどに依存していたのです。経済が不確定ないま、このような依存は危険と言わざるを得ません。いまや多くの企業は社員に対して、株主に対するほど多くの約束ができなくなっているからです。
仕事の価値を考える
先進国においては、どこに住むか、生業を何で立てるか、どのように暮らすか、そしてどのような人物になりたいかに関して先祖よりも多くの選択肢を持っています。生きて子孫を残すこと以外に、なぜ仕事は余暇や遊びよりも重要なのか、仕事の価値とは何なのか、どのように生きるべきなのか、文化的背景によって答えはさまざまでしょうが、いま一度考えてみることが必要です。
そうした疑問を解くヒントを、我々はイソップの寓話に見つけることができます。物語に出てくる生物たちはそれぞれが価値観を体現しており、われわれに仕事と人生の意味を問いかけます。アリ、キリギリス、そしてミツバチは、人生に対する3つのアプローチを示しています。アリは勤勉、キリギリスは怠惰の象徴として描かれています。ミツバチは、アリのように働き、キリギリスのように楽しみます。
アリは確かに働き者には違いありませんが、それは他人や社会のためではありません。ミツバチは他人に役に立つものを作ることに意味を見いだし、他者から感謝されています。今日ではミツバチの生き方にこそCSRの理想型を見つけることができるかもしれません。
多様化する価値観
これだけ価値観が多様化している中で、企業の果たすべき社会的責任とは、よりよい人生を形成するものを社員に与えることです。しかし、かつてのような家族主義的な企業のあり方は、今日では必ずしも社員に歓迎されません。だからといって、社員の面倒を見るなと言うのではなく、家族主義的な職場を改め、そこで働く人々の価値観に合わせることが大切なのです。
企業には、よい人生を指南する必要はありません。きちんとした賃金を払い、十分な休みを与え、仕事で学び成長する機会を与えることで十分なのです。最も大切なのは、仕事の現状について、きちんとした情報を伝達することに尽きます。企業には社員が自らの人生を計画できるようにする義務があります。
人生には仕事のほかにもやるべきことがたくさんあります。にもかかわらず、個人の幸福やアイデンティティーが仕事になぜこれほど依存しなくてはならないのでしょうか。それは、仕事がしばしば私たちの生き方を決めるものだからです。多くの人は意味ある仕事を求めますが、それはたやすくは得られません。しかし、本当に望めば見つかるでしょう。
とはいえ、全員が意味ある仕事を求めているのではないし、誰にも等しく意味ある仕事があるわけでもありません。どう生きるかについての統一的な規定はないのです。人によっては、娯楽や余暇を優先する人もいるでしょう。仕事だけの人もいるでしょう。重要なのは、仕事に生活を合わせるのではなく、人生にどう仕事を合わせるかです。
自分の仕事は、残りの人生において自分を幸せにし、周りの人も幸せにするのか、それとも惨めにするのかと自問することが必要なのです。大切なのは仕事に依存する人生ではなく、仕事がプラスに機能する人生でしょう。そうした人生の基本は、生まれてから死ぬまでの限られた時間の中で、仕事とは何か、何を仕事でなしたいのか、はっきりとした絵が描けるかどうかにかかっているのです。
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〔旧メッセージC〕
平成18年1月3日
年頭所感
〜希望溢れる社会の訪れを願って〜
2006年が明けた。
昨年を思い返せば、景気こそよくなったが、庶民を取巻く社会環境は引続き厳しいものと言わざるを得ない。
第1章 社会の有力者たちの不義、不正
「儲けこそすべてを癒す」。
最近どこかでこんな言葉を聞いた。
この社会を政治家・官僚と共に作り上げてきた有力経営者や有力ビジネスマン、有力技術者たちのとんでもない勘違いを象徴している言葉である。
昨年末は「姉歯建築士の偽造設計問題」が大きな社会問題として取り上げられた。
問題の根は業界ぐるみであった。建築基準法を管理する国の怠慢も見逃せない。
いわば一国を挙げての不正または怠慢である。
零細業者たる姉歯設計事務所が、立場の強いものから強圧を受けて、それに従わなければ、今までの積年の努力も水泡と化し、社会及び生活の基盤を奪われるという脅迫の元に上位業者の指示に泣く泣く従ったことについて、私的には同情の余地を禁じえない。
企業社会はその必要性から、CSR(企業の社会的責任)、コンプライアンス経営などが現在盛んに進められているが、企業不祥事が今後も根絶することはない。
三菱自動車他日本を代表する大手一流企業でも続々と明らかにされてきた不祥事の数々。
小泉首相の靖国神社参拝は、裁判で違憲と判決されたにもかかわらず、平然と続けられている。
これまでの最大の不祥事として記憶されるのは、総理大臣田中角栄の有罪判決だ。
国民を代表する立場の者でも、私腹を肥やして不正を働いたという紛れもない事実。
人に上に立つ者の自覚や気概というものが感じられない。
議員年金の問題にしてもそうだ。廃止するには掛け金の全額返還が条件とした国会議員たち。
ただの庶民ならわかるが、明日の日本を創ろうという志を持つべき国の代表者たちが自分の老後を贅沢に暮らせるようにプラスアルファたるハシタ金のことでぐずぐずいうことに国民の多くが幻滅したことだろう。
第2章 社会正義
社会正義とはなんだろうか?
正義とは、「不正をこらす、正しい道理」。
辞書を引いてもよくわからないが、この概念は、宗教以前に人間の根底から出てきているような本能ではないかと思う。
正しい道理が通らないとき、人はみな不満を抱く。人の本能として当然の感情であろう。
正義が社会で通らないとき、人はその社会に不満を抱く。
しかし、歴史を振り返ってみれば、正義の社会が訪れた時代や国は皆無であろう。
過去におけるいつの時代もどこの国も、強者が弱者を踏みにじる弱肉強食の世の中であった。一昨年のアメリカによるイラク攻撃は、その典型的な例である。
しかし、それでも私たちは、正義を望む。
景気がよくなっても、なお、私たちの心が晴れることなく言い知れない不安を感じている理由のひとつが、国民を代表する政治家や財界有力者たちが導く国づくりへの不信感である。
安心して暮らせる社会は、経済的問題に限らない。
いつ自分に降りかかってくるかもしれない不条理に対する不安がなお一層、我々庶民に閉塞感を募らせているのである。
第3章 孤立した人間関係
閉塞感を拭いきれない理由の第2点。
それは、カネ、カネ、カネの世の中。
昨年は古き「昭和」を懐かしむ回帰現象も一部で見られた。
私たちは暮らしやすさ、便利さを求めて、昭和から平成へと生きてきた。
確かに便利にはなったが、果たして総合的にみて暮らしやすくなっただろうか?
「戦後昭和」が持っていた魅力は2つある。
一つは高度成長の夢、もう一つは「人情」、「助け合いの心」である。
今思えば、私たちは便利さを求め、暮らしやすさを求め、個人の権利(子供の人権、生徒の人権、女性の人権、障害者の人権、犯罪者の人権、消費者の人権、生活者の人権等々)を求め、その多くを手にしてきた。それ自体は決して悪いことではなかったが、その結果個人主義が台頭して、他人や家族との人間関係が希薄になってしまったことが今日、気づかざる重大問題となって浮かび上がってきた。
人は、人とのかかわりの中で生きていく動物である。
経済成長で得た豊かさの代わりに、私たちは、一人ひとりが孤立してしまったようだ。
親戚や兄弟が生活に困ったとき、可哀そうだと思っても手を差し伸べるだけの気持ちがない。近所の人が災難にあっても世間話の種にするだけ。ホームレスが駅に寝そべっていても迷惑だと思うだけ。テレビで外国の貧困状況を見ても大変な国だと思うだけ…。
そう、自分以外のことは全部文字通りの他人事になってしまった。
もちろん、そうしている自分も他人からは親身に接してもらうこともない。
自分の災難は自分ひとりで受け止め、一人で老いていく寂莫たる孤独感は、癒しようがない。
まさしくカネだけが頼りの世の中になってしまった。
第4章 私たちができること
2006年。新たな年を迎え、私たちが直面する社会は、不正義な有力者たちによって支配された国で、淋しく不安の中で孤立する庶民で溢れている。
こんな中でも私たち庶民に、できることはたくさんある。
まずひとつは、助け合いの心をもつことである。人間として、生活者として、ともに生きることを目指すことである。
「迷子の手を引いていたら誘拐と間違われた」、「妊婦に座席を譲ったらただの太った人だった」、「騒いでいる子供を注意したら親に文句を言われた」。昭和時代のように好意でやったことが裏目に出て傷ついた人の話もよく聞く。言葉で言うはやさしいが、実際は難しいことである。
しかし自分のためにも友人のパイプをたくさん作っておくことは大切だ。
昭和時代とは違った形でより多く、より深い人間関係を構築していく意識を持ちながら生きていくことが大切であろう。
そしてもう一つ。自分が生きている範囲で、社会正義を目指していって欲しい。
人の立場は、一面的ではない。
平社員であろうとその下に新入社員がいる。新入社員であろうとその下に零細請負業者がいる。社長だろうと親がいる。
私たちはたいてい強者の立場と弱者の立場を並存している。
子に対する親、後輩に対する先輩、部下に対する上司、生徒に対する先生、子どもに対する大人、若輩に対する年輩、子会社に対する親会社、経営者に対する株主、店員に対する客、教師に対するPTA、労働者に対する経営者、下請に対する元請、娘婿に対する義父、後進国の人々に対する先進国の人々、貧乏人に対する金持ち、女性に対する男性…。
私たちは末端庶民といえども、このように強者たる一面を一部に持ち合わせている。
社会正義は自分が強者であるとき、発揮できる。
強者と弱者の関係は、強者の気持ちひとつで加害者と被害者という関係になるからである。
自分の世界の中で、強者の立場であるとき、是非正義を発揮して欲しい。
自分の都合のよいときだけ自分の弱者を強調して、社会や国家を非難しないで欲しい。
みんながそれぞれの立場で自分ができる社会正義を勇気を持って実践したとき、その力は社会全体にも影響を及ぼすことになるであろう。
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〔旧メッセージB〕
平成17年7月24日
【1】働くことの宿命
生活を支えるために「働く」という行為は、この世に生を受けたすべての生物に課せられた宿命である。命の根源たる生物の宿命と言える。
問題は宿命・運命に与えられた環境の中で、「どこでどう働くか」ということに尽きる。
働き方には大別して3つある。
@雇用、A自営、B家事労働
「雇用」とは、企業の労務に服して、賃金を得る形態のことである。(「労働」とほぼ同義)
近年の日本では、雇用の割合が極めて多くなってきた。
特に現役成人男性の圧倒的多数がこの雇用による働き方を採るようになっている。
これが、「労働」という社会概念領域が近年ますます重要になってきている理由である。
【2】職場の問題
労働問題、職場の悩みは実に種々雑多である。大きなものを挙げると
@労働法違反の問題
A人間関係の問題
B人事の問題
C編成組織の問題
D社風文化の問題
E直面している仕事の具体的問題
F企業運営方針の根本的問題
G企業業績の問題
H経営能力の根本的問題
I担当職務そのものの根本的問題
J生活賃金の問題
K不安定雇用の心配
L人権侵害の問題
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改めて書き出してみると、労働現場には実に様々な種類の問題がころがっていることがわかる。
【3】労働トラブルとその構造
近年組織的な労働争議はすっかり息を潜めたが、個別的な労働トラブルはバブル崩壊後の平成不況期に著しく増加した。
各地各所で労働相談や労働裁判が頻発しており、それらの一端は様々なメディアによって目にする機会も増えた。しかしそれらは氷山の一角に過ぎない。
労働者が抱える悩みを含めて労働問題・事件の件数は、実は労働者の人数に近い数ほど存在すると考えた方がよい。
労働問題がこれほど多い理由はなんだろうか。
その一番の理由は、労働者が社会的弱者だからである。
社会的弱者だから、社会的強者が牛耳るこの社会からなかなか保護・改善が得られないのである。
しかし、ひとつ一番重要なことが意外に注目されていない。
それは社会的弱者たる労働者は、社会の圧倒的多数派を占めているという事実である。
かつて武力が社会を制覇したが、今ではカネの力が社会を制覇する時代となった。
しかしそのカネの源泉は、私たち労働者が労働で創造する付加価値である。
だから労働者が団結さえすれば、労働問題や職場の悩みの大半は、理屈上解決するはずなのである。
【4】労働組合の衰弱
労働者の団結は、戦後大いに叫ばれ、労働組合組織率は、一時50%を超えていたが、以後一貫して減り続け、今では20%を下回る現状になっている。
労働者の組合離れは、組合活動の成果等により、賃金水準が上昇したことが一番の理由であると推測する。
しかし労働問題は賃金だけが課題ではない。取り組むべき課題は山積している。
組合離れの理由の2点目は、労組の硬直化にあったと推測している。
組織運営の安定が長く続くと、大企業病に陥るのは労組も企業と同じである。
内部権力抗争、不勉強、体裁維持、不正汚職、圧力団体化、利権追及、そして一部の上級団体専従者は労働貴族への変貌…
こんなことをしている中で刻々と進み訪れたグローバル経済社会。平成不況下で一気に浸透した派遣・契約型有期契約労働者。外部環境に適応できずに、既存の労働組合は一気に崩れ去った感じだ。
労働者が団結する器は、労働組合である。
それ以外にも別の形でできないこともないが、法的保護を受けて強い立場で活動できる組織は労働組合しかない。
旧来の労組は、環境変化に適応できずに庶民の信頼を失って衰弱した。
環境変化の主な中身は次のようなものがある。
@賃金水準の向上
A非正規労働者の増加
B労働と生活の価値観の多様化
C労働組合のない企業の増加(中小企業数の増加による)
D技術革新による職務の高度化と職種の多様化
E企業合理化による一人当たり職務質量の増加
Fゆとりの欠如と様々な多様化による社員同士の交流と仲間意識の減少
このような環境変化は、かつての職場の仕事環境をドラスティックに変えていった。
ここの挙げた環境変化の中身は、ほぼそのまま労働組合組織率が低下した理由であり、労働者が団結しないあるいはできなくなった理由である。
【5】新しい団結の形を求めて
私たち労働者は、新時代に訪れた新しい労働環境の実態をしっかりと把握して、適切な問題の把握・分析を行い、再度新しい形で団結していかなければならない。
もっとも重要なポイントは、従来と違って、雇用形態も多様化、価値観も多様化、労働者階級は、大企業組合員、中小企業労働者、非正規労働者と3区分に決定的に色分けされ、それぞれに利害が異なるということである。共に働く同僚も自分とまったく違った幸福の形を求め、交流も共感の機会もかつてより大きく減少し、団結しにくくなっているのである。
労働者一人ひとりは極めて無力である。更に労働者の多くは労働というものに対して極めて無知である。そして企業は労働者の無知に付け込み不当に都合よく使用し、かつ絶妙に分断させる。
その結果、職場で労働者同士が対立する。企業の思う壺である。多くの労働者はこの構造に気づかず、仕事上の不満を他部門や同僚たちのせいだと思っているケースが実に多い。
中小企業労働者や今や多数派を占めつつある非正規労働者のほとんどは、労働組合に加入する手立てに乏しい。
こんな現状の中で、日本全国の労働者を団結させる、組織化させることはきわめて難しい。
しかし、これを目指していかなければ、労働者の地位向上はあり得ない。理不尽な解雇に泣き寝入りする日々は終わらない。
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〔旧メッセージA〕
平成16年5月1日
T.新時代の到来
バブル崩壊から低迷を続けた日本経済のことを、経済の世界では「失われた10年」と呼んでいるようである。
今年は長かった平成不況期もいよいよ終焉を迎え、景気の足音が聞こえてくるかのように、人々の活気が街々に感じるこの頃である。
新時代到来の喜びは、いかほどのことであろうか!
10年という月日は、「十年一昔」といわれるほど人間にとって大区切りの歳月である。
それだけの期間、経済と社会が低迷を続けていたわけであるから、「待ちに待った」という待望感は実に大きかった。
そして、私たちは再び「前向き」な気持ちで、将来に夢と希望を描くことを許された…。
U.残された負の遺産
はたして私たちに遺された10年は、経済の話に限ったことであろうか? 決して経済だけに止まらなかったはずだ。
それは自分の周辺社会、自分の家庭、そして自分自身にも大きな爪跡を遺していった。
経済は人々の生活の礎である。
経済の主体は企業であるが、個人は企業という職場を通じて経済とつながる。
経済低迷の10年は、個人ベースの表現に直すと、失業・解雇、過重労働、いじめ・嫌がらせ等、職場における勤労権の侵害拡大の10年であったということができる。
こういうことが多くの職場で長期間行われ続けた結果、社会と個人に、金銭面、健康面、精神面にわたって多大な負の遺産を残すことになった。
(1)金銭面
住宅ローン地獄、ヤミ金地獄、家計崩壊、離婚、自殺、子供の中途退学、自己破産、ホームレス、夜逃げ、犯罪
(2)健康面
慢性過労、睡眠不足・障害、偏食障害、過労死、成人病、うつ病他各種神経・心身症、各種依存症
(3)精神面
○対人的意識の希薄化 ・人間不信 ・思いやりの減少
○未来への希望の消失 ・夢や希望の消失 ・成功・幸福のモデル喪失
○自己愛の減少 ・自信喪失
○社会道徳の滅失 ・道徳心の減少 ・企業論理(反道徳)の横行 ・心理詐欺の横行
特に精神面でのダメージは、広く社会に重大な影響を及ぼしたものと考える。
将来に希望が持てず、
他人に欺かれ続けて信用することをやめ、思いやりを掛け合うこともなく、
自信を失って自分自身までを大切にできなくなってしまった
社会と人々の心が乱れる原因は、様々あるが、この10年不況によってもたらされた労働社会における企業とその追随社員および関連政府・行政の悪行は、その大きな原因のひとつであると考える。
V.新時代に向けて
ともあれ、平成不況は終わった。
長期的に今後どうなるかは誰にもわからないが、生きる希望の芽が顔を出した。
生活を立て直すチャンスが広がった。
長年の苦境で深く傷ついた、生活、健康、精神。
遺された負の遺産は、すぐに解消できるような軽いキズではない!
急がずにゆっくりと癒していきたい…。
未だ苦境のど真ん中にいる方には、いいチャンスが訪れることを祈っている。
「人が人らしく生きること」
20世紀、高度な発展を見せた科学技術は、人類自らの殺傷のために主に使われた。
生活を便利にするはずの科学技術の進歩は、人類にとっては猫に小判、意味は持たなかった。
21世紀は社会科学や人文科学の進歩に期待をかけたい。
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〔旧メッセージ@〕
平成14年7月9日
閉塞社会の打破に向けて
1.閉塞社会の到来
思えば平成の幕開けとともにそれは始まった。
バブル崩壊、そしていつ終わるとも知れず未だに続く平成不況である。
大型企業倒産の続出。失業率の急上昇。土地神話の崩壊。右肩上がり経済の終焉。そしてリストラの嵐。
われわれ労働者の生活と未来は一変した。重くのしかかる住宅ローン・家賃、子供の教育費。失業者の増加と失業者ホームレスの出現。困難を極める中高年の再就職。労働強化でますます厳しくなる仕事環境。
かつて気楽な稼業と言われたサラリーマンにいまやその影もない。いつ会社がつぶれるか、いつリストラされるか、まったくわからない。定年まで勤め上げることはもはや幻想となった。運良く居られたとしても給料は頭打ちだ。それどころか給料はあがらない方が良いかもしれない。給料が上がって成果を出せなければ辞めさせられるからだ。
労働者が働くことを辞めたら人間であることを放棄しなければならない。働くことは生きることそのものでもある。生きにくい世の中になってしまった。生きることだけで精一杯の生活しかできなくなってしまった。もちろん昔の庶民はみんなそうだった。しかし昔と違い今の世の中は、豊富な家庭電気製品、高度情報化、高学歴化、社会保障整備化、産業インフラ高度整備化、民主化とあらゆる近代的環境が整備された21世紀の社会である。そんな時代で現実の労働者は日々働くことで精一杯な生活を余儀なくされているという現実は、世の中が歪んでいるとしかいいようがない。
閉塞された環境にあるのは労働者だけではない。高齢者については、一人暮らしが増え、年金収入も減らされ、受給年齢も引き上げられている。悪質訪問販売の一番のターゲットとなるなどその暮らしぶりは後退している。子供・少年については、いじめ、ひきこもり、教育の過熱化などでゆとりがなく精神的に不安な子供・少年が増えている。また経済低迷の中、企業がその業績を悪化させていることはいうまでもない。いわば社会全体に閉塞感が漂っているのである。
こんな閉塞した今の世の中にあって、今を生きる労働者である私たちはどう考え、何をしなければならないのだろうか。家庭にあってはその中心的役割を負い、会社にあっても経営の実際の手足となる労働者は、まちがいなく世の中の中心を担う階層である。
日本社会が、活気を取り戻し、明るい未来展望が開けるようになるために、社会はどうならなければならないか?
まず国としては経済の復活、国際化へもう一段の対応、環境問題の推進、少子高齢化問題の抜本的対策の構築、そして雇用の安定などが考えられる。
つぎに個人としては核家族化の崩壊、生活水準の急向上、高度情報化などによる価値観の変化・多様化によって子供から女性、高齢者に至るまで新しい生き方の確立が求められる。
2.労働者としてのあり方
このようなことを考えながら、社会の中心を担う労働者は、まずはみずからの本業である労働の場を安定確保すること、社会経済の潮流を見定めながらより良い働き方を模索し、努力を続けることが大切です。
見渡せば、日本は戦後約60年の間に民主主義、法治主義、人権主義の浸透で個人の自由と権利は広く認められるようになった。しかしながら、労働現場における会社の労働者に対する不当な仕打ちの数々は、いまだとどまるところを知らない。社員や部下を自分の従属物として扱う何とも時代錯誤の会社が未だに幅を利かせている。過労死・過労自殺を生む日本の長時間サービス残業をはじめとする労働風土は狂っているとしかいいようがない。
質の悪いことに、そういう狂った職場環境に長年慣れた労働者の半数以上は、それが当然の事だ、それが社会だ、人間辛抱だなどと勘違いして、経営者と共にそういう風土を助長していく。経営者は黙って何でも言うことを聞き、長時間サービス残業・休日出勤も厭わない社員を厚遇して要職に登用し、更にその風土を強めていく…。
会社はこのように一見正しそうな言葉の数々を巧みに使い、社員に対し未成熟な若年のうちから事あるごとに摺り込み、洗脳し、会社に都合のよい社員と社風を育てていく。
- 人間辛抱だ
- 素直さが一番大事だ
- 一生懸命働くことは尊いことだ
- 先輩、上司の言うことは、黙ってきくものだ
- 会社のルールに従うのは当たり前だ
- 働くとは端を楽にすることだ
- 会社、上司が何を求めているのかを考えながら働くことが大切だ
しかし、このような企業の犠牲になるものは数知れない。
身体の弱い者、女性、家事・趣味・その他の活動に重きをおく者はいずれ会社から淘汰される。
父親不在の家庭の妻や子供から様々な悩み、トラブルそして社会問題まで発生している。
中小企業では長年がんばった社員でも、病気で長期間働けなくなると、おざなり程度の見舞金で結局は解雇または巧みな退職勧奨で追い出します。
精一杯働くことは言うまでもなく労働者の本分であり、義務です。
会社の経営方針や上司の運営方針にしたがって働くことも義務です。
しかし、労働者は労働することだけが目的で生きているわけではありません。
労働者である前に、人としてよりよく生きるべきではありませんか。
だから、会社の過度の要求に応えて健康を壊しては元も子もありません。(時には必要な場合もありますが)
家庭を壊しては働く意味がありません。
他人を不幸にしては生きる資格さえありません。
会社に提供するものは知識、技術を含めた労働力であって、自分の魂まで提供してしまっては自分自身であることを放棄することに他なりません。
分別ある大人の労働者は、よりよい社会人として、ときに企業の詐術論理に惑わされてはならないのです。
労働者の皆さん、もし会社に不当な行為・処分があれば毅然とした声をあげましょう。そして納得のいく職場で元気に精一杯働きましょう。職場以外の社会にもっと進出しましょう。家庭にも関心を持ちましょう。そして、助け合いましょう。閉塞社会の打破は、最大多数の労働者の勇気あるアクションと連携こそが必要なのです。