平成16年6月18日公開
| T.はじめに | 1.日本経済の歴史 |
| 2.庶民の職業 | |
| 3.企業の発展と庶民生活の向上 | |
| 4.暮らしの中心となった企業経済 | |
| 5.企業の歴史 | |
| 6.考察の動機 | |
| U.近代の黎明 | |
| V.戦争で発展した日本経済 | |
| W.財閥 | |
| X.戦後企業集団 | 1.財閥解体と財閥再結集 〜六大企業集団〜 |
| 2.自動車産業・電機産業の隆盛 | |
| 3.メインバンク制 | |
| 4.戦後企業集団の特徴 〜企業集団と企業グループ〜 | |
| Y.平成の業界再編 | 1.バブル崩壊と情報化社会の進展 |
| 2.現在 〜混沌とする業界地図〜 | |
| Z.企業史トピックス | 1.命懸けの組合対策 |
| 2.有力財閥 | |
| 3.日本興業銀行 | |
| 4.公害病 | |
| 5.日本実業界の父、渋沢栄一 | |
| [.最後に 〜人と企業の関係〜 |
有力企業集団変遷図
1.日本経済の歴史
人々の暮らしは、元々はすべて自給自足であった。生活に必要なものはすべて自分で地球から採取し、採取した一部分は自分で加工してモノを作って、食糧や生活の道具とした。
それからやがて物々交換経済が始まって、様々なモノが流通するようになり、貨幣が生まれ、売買が始まった。
経済の主な客体は「商品」である。社会の発展とともに農・水産物と加工品の種類が徐々に増えていった。運送、医療、理美容などの様々な「役務の提供=サービス」もやがて商品として認識されるようになった。商品アイテムの増加とともに経済は発展していった。
経済は都市によって発展する。社会の発展とともに首都を中心として都市が発達した。人口が集中し、諸需要も集まる都市で、豪商が現れ始めた。大量生産、大量売買が可能になったからである。この豪商は、やがて時を経て現代の「企業」となっていく。
豪商の出現は、それと同時に多数の人手を要するため、初めてこの時点で、人の「雇用」・「労働者」という初期概念の生計形態が誕生した。
明治時代、日本は産業革命を迎え、世の中には科学を用いた格段に便利なモノが出回り、人々の生活も格段に便利な暮らしに変わっていった。
そして戦後日本。戦後の混乱から立ち直ると日本経済は未曾有の成長を遂げ、世界有数の富裕国家となった。
2.庶民の職業
近代以前、ほとんどの人の職業は農業、漁業であった。貴族、武士、商人などは比率から言えば、ごくわずかしかいなかった。
やがて都市の発達の中、需要の発生で商人という職業が現れた。さらに加工品が作られるようになると工業・工場が都市に現れた。商業・工業の発達、大量生産需要は、労働者という職業身分を生み出した。つぎに産業革命による大工場の出現は、大量雇用を創出した。地方の貧農たちの多くは、食うや食わずの貧しいぎりぎりの生活を強いられており、こぞって都市工場での雇用を求めたからである。こうして「労働者」という職業身分が確立した。
3.企業の発展と庶民生活の向上
企業の発展は、庶民の生活水準と密接な関係にある。企業はモノ・サービスを売ることが目的だが、売る相手、エンドユーザーは必ず個人生活者、個人家庭(=家計、消費者)である。つまり、庶民に購買力がなければ、企業も成り立たない。
つまり、企業の発展とともに、多くの地方貧農たちが、都市工場の労働者となって、生活水準を向上させていったわけである。
4.暮らしの中心となった企業経済
現在、私たちが生活の中で使っているあらゆるモノ。特に意識することはないが、これらはすべて「企業」が作っている。
大昔は全部自分で採取し、作っていた食糧も生活用品も、今ではほぼすべて企業が作ったモノを買って生活している。悪いたとえで言えば、麻薬のように、人々は企業の商品を買わなければ生活できない状況になってしまった。
ほんの50年ほど前なら、自分で作っていたモノはたくさんあった。服を作っていた、布団を作っていた、障子を張り替えていた、いくつかの農作物をつくっていた、鶏を飼って卵を採取していた、果物の木を植えて果実を採取していた、子どもの遊び道具は自然から採取していた、野山へ行って山菜を採取していた、あらゆる日用小物をつくっていた。生活諸道具の補修などは全部自分でやっていた。
それが今ではどうだろう。雑巾が売っている、メモ用紙が売っている、衣服の補修屋がある、調理された惣菜が売っている、家事サービス業がある、宅配業者がいる、電気製品の訪問修理サービスがある…。
便利な商品・サービスが存在すれば、利用したくなるのが当然である。このようにして私たちの暮らしは、生活に必要なすべてのモノ・サービスを企業から購入するようになってしまったのである。
一方で人々の生活手段。昔は農業、漁業、商業とみんな自営業だった。それが今では企業による雇用労働を生活手段とする者が、大半となっている。
こうしていまや生活道具の調達も生活費そのものの調達も含めて、企業が人々のすべての生活を取り巻いている。
5.企業の歴史
人間の生活にかかわるものを大きな領域に分けると、政治、経済、教育、科学などが挙げられる。
このうち経済は人の存在とともに必ずその存在が前提にある。しかし、自給自足に始まる個人単位の原始経済は別にして、社会全体を取り巻く国家経済に発展し、経済主体たる企業が出現したのは明治時代。日本の長い歴史の中で、ほんの最近である。
政治が、大和時代に国家の成立とともに政権として始めて出現したことと比べると、国家経済の発展の歴史は、実に浅い。
明治から現在まで非常に短期間で企業は出現し、発展し、社会の中心たる地位を占めるまでに至った。
6.考察の動機
日本の普通教育の中で、政治の歴史の学習はしても、企業経済の歴史に触れることは少ない。経済を学習する機会はあっても、企業を学習する機会は実に少ない。
ここまで見てきたように、企業の存在が、私たちの暮らしの中心を占めるにもかかわらず、その学習機会が少なかったことに今更ながら気がつき、その歴史を中心に、企業を俯瞰的に考察したのが、当該ページである。
日本の長い歴史の中で、企業はなぜ明治維新の声を聞くまで出現しなかったのか。答えは簡単、それまでの経済体制が資本主義でなかったからである。
日本は明治維新を迎えたとき、上から下まで大混乱だったことが容易に想像できる。幕末において日本は初めて「外国」の脅威を意識し、富国強兵・殖産興業政策を強力に推し進め、資本主義経済体制に変更していった。
明治政府はまず、旧幕藩体制の解体を進め、藩と武士を消滅させた。
次に経済発展の基礎として銀行を作り、貨幣制度を安定させ、資本調達・流通の活性化を図った。巨大企業が出現した大きな契機のひとつに、官営企業の払い下げがあった(1882年)。
人類にとって最も忌まわしいものが戦争。最も重要なものが経済。戦争による多くの人間の悲劇が、日本経済、近代産業が大発展を遂げる原動力となったことは、まったく皮肉なことである。
明治前期に産業革命を迎えた日本は、最初、繊維産業が栄えた。そして日清(1894年)、日露(1904年)、第1次世界大戦(1914年)を契機にして重工業が栄えた。
話を少し戻して明治維新。江戸時代に栄えた豪商は、維新の混乱の中で次々に倒産していった。特に大名貸し棒引き(1873年)による両替商の倒産は多かった。
この中で生き残り、財閥まで成長したのは、三井、住友、鴻池であった。
その反対に、藩と武士の廃止による秩禄公債(1871年)、金禄公債(1876年)を利用して、新たに台頭したのが安田であった。安田以外にも維新後の産業奨励気運の中で続々と政商が誕生していった。
成立した政商たちはその後、官営企業払い下げ、産業革命、戦争による軍需ブームなどによる産業発展を経て、財閥まで成長していく。
太平洋戦争前までに隆盛を誇った財閥は次のとおりである。
明治期に台頭した主な財閥を挙げると、前時代からの三井、住友、鴻池に加えて三菱、安田、浅野、根津、大倉、古河、川崎(造船)、渋沢、鈴木商店。
大正・戦前昭和期に台頭した主な新興財閥は、特にコンツェルンと呼ばれ、森、日産(鮎川)、日窒、日曹、理研などがあった。
敗戦国日本の戦後経済は、GHQによる財閥解体によって始まった。主要財閥はすべて解体を余儀なくされたが、その後の方針の緩和、後退により、財閥の再結集が始まった。ただ、財閥再結集とは言っても、独禁法により、ピラミッド型コンツェルンではなく、各社横並び、メンバー企業同士の緩やかな連合体の戦後型企業集団を形成した。
この頃、巨大企業群の成長には、3つの要件があった。「銀行」が資金を融通し、「メーカー」がモノを作り、「商社」が流通させる、というパターンである。特に資金調達は重要であり、銀行は企業集団の中核として君臨した。
財閥再結集は、総合的にすべての分野に進出していた「三井」「住友」「三菱」がそれぞれ単体でかつての財閥を復元したが、その他の旧財閥は、銀行を中心に連合して集団を作った。富士銀行を中心とする、富士(安田)、浅野、根津、大倉、森、と日産の一部で「芙蓉グルーブ」、第一勧業銀行を中心とする、古河、川崎などで「一勧グループ」、三和銀行を中心として、日立(日産の一部)を始め独立系各社が集結した「三和グループ」。これらは戦後の六大企業集団と呼ばれ、互いに覇を競い合い、高度経済成長の主役となった。
戦後の日本経済は、廃虚と化した街からの出発であった。しかし朝鮮戦争(1950年)というまたも戦争による軍需ブームで復興のきっかけをつかむと一気に波に乗り、未曾有の高度成長期、安定成長期を経て現在の高度に発展した社会まで上り詰める。
この時代にもっとも隆盛を極めたのが自動車産業であった。
戦前の各種軍用機の製造技術がそのまま自動車に移行したことでより性能のよい商品が開発されたためであった。
電機産業もまた隆盛を極めた。戦後はアメリカが日本を占領したため、アメリカの影響を多大に受けた。当時の日本庶民にとってアメリカ家庭の生活ぶりは実に魅力的であった。それはあらゆる電化製品に囲まれて便利に暮らしている姿が盛んに紹介されたからであった。
経済の発展とともに庶民の生活水準も戦中・戦後直後のどん底生活から格段に向上した。庶民の購買力の向上とともに自動車と電気製品はますますその需要を伸ばしていった。
この中で戦後急速な発展を遂げた企業は、次のとおりである。
自動車産業では、トヨタ自動車、日産自動車、本田技研工業、マツダ、スズキ、ヤマハ発動機、富士重工業、いすゞ自動車、三菱自動車などがあった。
電機産業では、ソニー、松下電器産業、シャープ、日立製作所、NEC、富士通、東芝、三菱電機、京セラなどである。
戦後形成された六大企業集団の大きな特徴のひとつに、銀行を中核としたグルーブ編成というのがあった。経済規模の拡大に比例して各企業の資金調達の重要性は増し、それとともに銀行・金融機関・マネーの重要性はますます高まり、銀行は年を追う毎に強大になっていった。それは花形産業となった自動車産業にとっても例外ではない。自動車各社の重要な経営の決断はメインバンクの同意、許可がなければ不可能と言われるまでの影響力をもつに至った。
六大企業集団のトップに立つ有力銀行は、三井銀行、住友銀行、三菱銀行、富士銀行、第一勧業銀行、三和銀行であった。またこれらに加えて日本興業銀行、大和銀行、北海道拓殖銀行、協和銀行、神戸銀行なども独自の企業集団を形作った。中でも長期の設備資金を供給した日本興業銀行は六大企業集団を上回る隆盛ぶりを発揮した。
メインバンクとは、取引銀行中、融資額が最大の銀行のことを言う。しかし、日本のメインバンクの慣行はそれだけにとどまらず、株式保有、役員派遣等を通じて取引先と密接な関係にあり、取引先が経営不振に陥った場合は、他行に率先して、その救済・支援に当たることが期待されていた。
これらのことから総合して言えることは、戦後の日本経済は銀行が支配した、ということである。
戦後企業集団は、旧財閥と花形産業、新興企業によって結成されたが、独禁法により持ち株会社は禁止され、集団の中に財閥本社のような司令塔は存在せず、互いの力関係の差はあっても形の上では、メンバー各社横並びの緩やかな連合体となった。株式も相互持ち合いや共同投資などを軸としながら、一種の相互保険機構の形をとった。
他方、集団を形成する各メンバー企業も、自らが親会社となって傘下に数多くの子会社を要する「企業グループ」という形を取りはじめた。傘下の子会社は自らの事業分社により発生したものと、事業展開上必要な機能の会社を外部から取り込んだものがあった。
このようにして、経済主体たる日本企業の構造は、六大集団を代表とする「企業集団」という巨大企業群があって、その下に子会社が企業集団メンバーの傘下で多数存在しそれぞれ「企業グループ」を構成しているという、二重構造が形成された。
昭和末期から平成初期にかけて日本はバブル期を迎え、日本経済は最高潮に達した。しかしそれを頂点とした後、バブルが崩壊、その後10余年もの間長い平成不況が続いた。その間、企業業績の軒並み悪化、倒産企業の続出、失業者の増大など様々な暗い世相が蔓延した。
この間の大きな経済事情の変化を挙げると、情報通信産業の進化とそれに伴う経済・金融のグローバル化である。
IT技術の進化により、世界・日本のあらゆる情報がインターネット等で一瞬にしてアクセスできるようになった。この技術進化により影響が大きかったのが金融の世界だ。金融の自由化と国際化により資本市場からの直接金融の比重が増大するのに伴って、銀行の影響力は低下し、銀行が企業を一方的に支配する時代は終わった。
この変化はメインバンク制を徐々に後退させた。多額の不良債権を抱え込んで厳しい経営を強いられた銀行としても、集団メンバーである再建難の会社を見放す動きが出始めた。六大企業集団の崩壊前夜であった。
この間に栄えた情報産業は民営化したNTTグループがある。情報機器にかかわる電機産業各社はこの不況の時代にも、淘汰しながら引き続き栄えた。
IT技術によるインターネットの出現は、今後も画期的にビジネスのあり方を根本から変えるほどの力を秘めている。現在はeビジネスなどと呼ばれ、あらゆる分野で新産業が百花繚乱の様相を呈している。
さて、2000年頃を境に、深刻な不良債権問題を抱えた銀行が統合を始めた。かつて企業集団のトップに君臨した銀行が崩れたのをきっかけに六大企業集団は一挙に分解した。各企業は、それに前後して自社生き残りのため、企業集団に関係なく、合併・提携をめまぐるしく行って現在に至っており、現在もその真最中である。
企業集団の形としては、六大企業集団から四大金融グループを軸とする集団が新たに形成された。
三井住友グループ、三菱東京グループ、みずほグループ、UFJグループである。(後に三菱東京グループとUFJグループが合併し三菱東京UFJグループとなり、三大メガバンクとなった。)
しかしその中身を見ると、とても集団というにはほど遠い。合併や提携の相手先を見ると、その多くが集団とまったく関係のない企業同士で行われているからである。
だから新たに四大集団が新結成されたと見るのは正しくない。個別の有力企業グループで経済界全体を捉える見方が正しい。
企業の発生から現在までの変遷をまとめたものが次のチャート図である。→有力企業集団変遷図
戦前・戦中、日本はファシズム国家であり、社会主義者は思想犯として投獄されていた。戦後、思想的に解放されると社会主義者たちは晴れて社会主義革命を前提とする政治闘争に入った。同時に企業でも労働組合が雨後のタケノコのように発生し、深刻な貧困事情と相俟ってその活動は尖鋭化した。
現在でも集団で経営者を取り囲んで様々な威圧行為が行われることが一部であるが、当時の頻度と程度はその比ではなく、暴力行為まで日常的にあったらしい。戦後史に残る事件として、「下山事件」「松川事件」という未解明の殺人事件がある。一時、労働組合の仕業である説がまことしやかに流れたが、今ではGHQによるレッドパージの一環で労働組合を落としいれた説が有力となっている。
混沌の中での社会再生期。経営者も労働者も文字どおり命懸けであった様子が伺えるエピソードである。
(1)鈴木商店
鈴木商店、と言ってもあなたの家の近所にある鈴木商店ではない。私も調べて初めて知ったのだが、戦前に鈴木商店という名の大財閥(政商)があったのだ。しかもその巨大さは半端ではなかった。
三井、三菱、住友を凌ぐ日本一のスケールを誇っていたというから驚きだ。それどころか、当時、スエズ運河を通過する全船舶の1割はニッポンのスズキのものと言われたほど、世界でも屈指の大商社であった。
これほどの大財閥も1927年の金融恐慌であっさり倒産し、姿を消してしまう。メインバンクの台湾銀行から融資の停止を受けたことがきっかけであった。この事件以後財界は鈴木、三井、三菱から三井、三菱、住友、安田の4大財閥の時代へ入っていく。この4大財閥はいずれもグループ内に銀行を持っていたことで倒産を免れ、反対に他の倒産した小銀行を淘汰し、第一銀行を含めた5大銀行にますます資本が集約される結果となり、財閥としての地位を確立する。
倒産した鈴木商店は、この時姿を消したが、子会社、再建会社からの系譜として現在の神戸製鋼、帝人、日商岩井などが今なお活躍している。
(2)日産
日本のトップ産業である自動車。その自動車産業の三大企業の一つとしてあまりに有名な日産。
しかし、日産が古くから財閥として勢力を奮っていたことは、それほど知られていない。また私自身、日産と日立がかつて同じ企業であったことを知ったときは、ちょっとした発見のような気持ちであった。
日産財閥は、新興コンツェルンとして、大正・戦前昭和期に多いに栄えた。
日産が成長する過程は、他の財閥とは違っていた。3つのユニークな点を紹介したい。
日産の歴史を辿ると、日立銅山、戸畑鋳物、快進自動車、実用自動車製造など複数の会社に辿り着く。日産の歴史は、吸収合併の歴史であった。
誕生初期に紆余曲折を経て、鮎川義介氏が統一して日本産業を設立し、構築したのが日産コンツェルンであった。
日産の特徴の第1点。鮎川の起源は戸畑鋳物であったが、久原鉱業、ダット自動車製造をはじめ数々の企業を吸収し、日本産業を持ち株会社とし、事業を各産業別に再構築して分社化したことである。
日産の特徴の第2点。日本産業は、日本初の本格的株式会社とも言える。後発財閥でグループ内に銀行を持っていなかった日産は、株式公開で資金調達を図ることにより、日産コンツェルンの基盤を作った。
日産は後発財閥でありながら、このような手法により、比較的短期間に多角的な産業分野に進出し、繁栄した。三大財閥・四大財閥と数えられる中に日産は入っていないが、開戦直前期の頃の日産は、三井、三菱に次ぐ第3の財閥にまで成長していた。
戦前に栄えた日産企業の多くが現在でも有力企業として栄えている。日産自動車、日立製作所、日立造船、日本水産、日本鉱業(ジャパンエナジー)などである。
日産の特徴の第3点。戦後の財閥解体の後、財閥の再統合が行われたが、日産だけは統合することなく、企業別に別れ、芙蓉グループ、一勧グルーブ、三和グループ、興銀グループと見事なほどバラバラに分散してしまったことである。その理由の調査までは踏み込まなかったが、そもそもの資金基盤が他人の株式によるものであったことと、もともと日本産業の成立が、吸収合併による寄せ集めであったことが理由ではないかと想像している。
現在の日産各社の隆盛ぶりを見ると、日産がもし再統合していれば、かつての六大企業集団は、統一日産を含む集団が突出することになったか、銀行を得て七大集団となっていたか、イフの世界は限りなく膨らむ。
なお日産各社は、企業集団として統一することはなかったが、春光懇話会という親睦・情報交換会を結成している。
(3)中島
戦後GHQの財閥解体政策で旧財閥は一度解体されたが、その後企業集団として再結集した財閥とバラバラになったままの財閥に分かれた。
バラバラになったまま、しかも名前まで消えてしまい、さらに業種まで変わったが、現在まで生き残っている企業がある。「中島飛行機」である。
中島飛行機は、後発財閥でありながら、大正・戦前昭和期において、従業員20万人を擁する、日本の航空機生産業界の頂点に立つ日本有数の企業であった。
中島飛行機は、大戦中連合国を震え上がらせた零戦などの戦闘機エンジンを主に作っていたため、戦後の財閥解体で徹底的に解体され、2度と再結集することはなかった。戦後12に分断された会社はそれぞれ業種を変え、自動車や精密機器などの製造会社として再出発した。
その後分断された各企業は紆余曲折を経て、合併等でほとんど消滅したが、現在まで生き残っている企業がただ1社ある。「富士重工業」である。
戦闘機の製造技術は、自動車の技術に引き継がれ、現在に至っている。
戦後昭和期の財界は六大企業集団を中心に日本経済が回っていた。しかし、それに劣らぬ勢力を誇っていたのが、日本興業銀行(興銀)であった。
興銀は1902年、特殊銀行(法の下で国家の特別保護を受け、国策金融を主業とする銀行)として設立され、当初から重工業向けの長期金融を行い、日本金融界の中核機関として機能した。
戦後、特殊銀行がGHQによって廃止されたが、1952年、長期信用銀行法(長期資金融資機能の銀行)が成立した。
興銀は戦前から続く唯一の長期信用銀行であったため、既存の優良融資先があったことから有利に展開するとともに、その歴史から財閥系列に属さない中立性と相俟って、「国家的見地」から産業を論じ、戦後から1970年代まで、大蔵省、日銀と並んで日本経済を牽引してきた功績が評価されている。
六大企業集団に続く経済勢力として興銀を中心とする興銀グループが位置づけられることもあるが、興銀とその主要融資先というのがグループ企業間の主たる関係であり、グループと呼ぶほどの企業間相互関係はなかったと思われる。
興銀の主要融資企業は、旧財閥で戦後、集団を結成できなかった、日産の一部、日窒(チッソ)、日曹(日本曹達)、理研、中島(富士重工業)とその他新興企業があった。
興銀グループは2000年、業界再編の中で芙蓉、一勧と組んで「みずほグループ」を結成した。
企業の発展、化学の発展、新商品・新技術の開発・発明の陰で、自然環境・住環境の破壊・汚染が激しく行われた。
それまで、自然は完全に人間を凌駕する存在であった。人間の力は自然の前で無力に等しいほど小さかった。自然は人類の営みのすべてを受け容れてくれていた。人間は自然環境から欲しいだけ、採取していた。ゴミを自然に捨てれば、やがて自然の一部に帰っていった。川にいくらゴミを捨てても、常に川は清んだまま変わらないものと信じられていた。
しかし、科学と産業を発達させて強大になった人類は、ついに自然の包容力を凌駕した。変わることのなかった自然は、発達した人類によって、無残に破壊され、汚染されるようになった。
企業による自然環境の破壊・汚染は、巡って人々の住環境まで破壊・汚染をしはじめた。
徐々に強大化する企業の社会的権力を背景に、富国強兵、殖産興業、経済発展を重視する政府は、公害問題の初期においては、常に企業側を庇い、結託して被害住民を抑圧し、訴えを無視した。
(1)足尾鉱毒事件と古河財閥
1877年、古河市兵衛は足尾銅山の経営を引き継ぎ、国内外の新技術を取り入れて銅の生産量を増やし、鉱山資本家として古河鉱業を中核とする古河新興財閥を形成するに至った。
銅の生産量の増加とともに、足尾銅山下流の渡良瀬川流域の農漁業には、降雨時に廃鉱石堆積場から大量の銅が流出して、大きな被害を与え、1990年代、足尾鉱毒被害は深刻な問題となった。
地元の代表田中正造は、足尾鉱毒問題を帝国議会で取り上げたが、古河財閥は陸奥宗光、原敬、西郷隆盛の弟など有力政治家やその親族多数を取り込んで対抗した。
田中正造をリーダーとする被害農民グループは、さまざまな鉱毒反対運動を展開したが、古河財閥とその意を汲む政府は、主に弾圧・強圧と無視の姿勢で対応した。
最後は1907年谷中村民強制退去と遊水池化、1913年田中正造死去で鉱毒問題は闇に葬られた。
古河財閥はその後、戦後の財閥解体により一時解体されたが、その後再集結して「古川三水会」を結成し、一勧グルーブの中核的存在として発展、現在では一子会社に過ぎなかった「富士通」が電機産業界で日本を代表する企業の一つに数えられるまでの成長を遂げている。
(2)水俣病とチッソ
日窒コンツェルンの中核企業であった日本窒素肥料(日窒)は1937年、九州・水俣工場で酢酸の工業生産を始めた。このとき触媒として使われた「水銀」が有機水銀として水俣湾に排出された。1940年には塩化ビニールの生産も始めたが、この時も同様に触媒として使われた「水銀」が有機水銀として水俣湾に排出された。
1953年に水俣病患者第1例が確認され、その後1990年代に至って12615人が公式患者数として認められた。
水俣病の原因については1956年、熊本大学の研究グループが日窒工場の排水が原因と発表したのが最初だった。原因物質については1959年、有機水銀が疑われた。
水俣市は日窒の企業城下町であり、巨大な権力を誇る日窒はあの手この手でシンパの市長や大学教授、多数の政治家などが別の原因説をでっち上げたが、徐々に外堀は埋められ、第1例から15年後の1868年、やっと政府は水俣病を水俣工場排水に含まれる有機水銀中毒と認定した。
1969年より長い長い水俣病裁判が始まった。提訴した人々は企業城下町たる水俣地域社会の中で孤立し、苦戦したが最後まで実によく闘った。最終決着は1996年、提訴から30年、発症から実に45年かかって民事裁判、刑事裁判、行政裁判のすべてに勝訴した。
1965年に日窒は名門企業のイメージダウンのため、チッソと社名を変更していたが、その後30年の裁判で「水俣病のチッソ」とこちらの方が著名になってしまった。
チッソの賠償金は企業の支払能力をはるかに超えるほど多額にのぼり、熊本県が県債を発行して対応したが、毎年多額の償還による経営赤字が続く。
このように水俣病は、患者の不幸、企業経営の圧迫、そして地域社会の分裂という甚大な不幸を呼んだ。
(3)新潟水俣病と昭和電工
森財閥の中核企業であった昭和電工は、1950年、新潟・鹿瀬工場において、化学製品の中間品として「アセドアルデヒド」の生産を開始した。アセドアルデヒドの生産過程で「水銀」が使用され、工場排水として阿賀野川に放出された。やがて生産量の増加とともに、阿賀野川の生物の食物連鎖で水銀が濃縮され、河口に近い魚介類の水銀濃度が高くなった。
1964年、阿賀野川河口の漁民が有機水銀の中毒による水俣病と疑われた。新潟県も阿賀野川の水銀汚染を強く疑って、阿賀野川の魚介類を食べないように呼びかけた。
昭和電工は、阿賀野川の水銀汚染を否定する一方で、水俣におけるチッソの轍を踏まないよう、1965年にはアセドアルデヒドの生産をやめてしまった。社名を鹿瀬電工に変更し、昭和電工のイメージダウンと加害責任を回避しようとした。
通産省や昭和電工シンパの大学教授は新潟地震による農薬流出説をでっち上げて昭和電工をかばったが、その後証拠も徐々に集まり、1967年、被害住民は裁判所に昭和電工を告訴した。4大公害裁判最初の提訴であった。
最終的に決着したのは1996年、昭和電工と国の行政責任・政治責任が認められた。
企業の歴史を振り返る過程で、多くの財閥とその創業者の名前が出てくるが、その中で一つだけ明らかに異質な財閥と創業者が存在した。それが渋沢財閥、渋沢栄一である。
他の財閥と最も異なって目立った点は、世襲をしなかったことである。
渋沢栄一の仕事で最も有名なのが「第一(国立)銀行」(のちの第一勧銀→現みずほ銀行)の設立であるが、彼は生涯に500社以上の企業を設立したそうである。企業名を聞くと東京海上保険、東京ガス、王子製紙、東京印刷、大阪紡績、サッポロビールなど錚錚たる名前が並ぶ。あらゆる産業に渡っており、彼が日本実業界の父と呼ばれるゆえんである。
「事業が個人を利するだけでなく、多数の社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とは言えない。」
渋沢は、生涯のテーマとして「道徳経済合一説」を唱えていたが、そのエッセンスを一言でまとめるとこんな内容である。
商人の道を論語と結び付けて、彼は「論語の基本は「人間としてのモラル」にあり、「商道の基本も信義を旨とすべし。」として「論語とそろばんの一致」を推奨した。
彼の精神を如実に物語るエピソードがある。
「隅田川船上の闘い」と呼ばれる有名な話らしい。
≪「ある時渋沢は、三菱創業者の岩崎弥太郎に向島の料亭に招かれた。
二人は興に乗じて隅田川へと繰り出した。
そのとき岩崎がこういった。
「事業というものは、唯我独尊で思いのままにやってこそ醍醐味がある。オーナー企業こそが理想で男の夢だ。株主を多く集めれば、派閥ができたり主導権争いが生じたりする。会社の利益はまったく社長の一身に帰し、会社の損失も社長の一身に帰す。」
これに対して渋沢はこう答えた。
「一人の知恵者より衆人の知恵。一人の財力より衆人の財力を合併して大商いを為すべし。こうでなくては私利私欲の守銭奴で終わるだけのこと。あの世へ去らねばならぬとき、あんたは小判だの宝石だのを懐に入れて行くのですか。」≫
渋沢は、晩年もその意志を貫ぬいた。実業界から引退後、今度は社会事業、公共事業に参画し、病院、教育、国際関係など600以上の団体事業に寄与したというから驚きである。
こんな話もある。
90歳になって風邪で臥せっていたある日の事である。社会事業団体の代表者達が渋沢に面会を求めてきた。面会謝絶の病状であり周囲は止めたが、渋沢は進んで面会を受けた。訪問の趣旨はこうであった。「いま寒さと飢えに苦しむ窮民が全国に20万人もいる。政府は救護法を制定したが予算の裏づけがないため、実効が上がらない。なんとか先生の力で予算化に持っていっていただきたい。」
渋沢はこの話を聞いてすぐに大臣へ面会の準備を始めた。驚いて止める主治医に対してこう言った。「先生のお世話でこんな老いぼれが平素養生しているのは、せめてこういうときの役に立ちたいからです。もしこれがもとで私が死んでも、20万人もの不幸な人たちが救われるなら本望じゃないですか。」
そして大臣と面会を果たした。渋沢は涙をこぼしながら、「一体、私たちは何のために日本の経済を今日まで大きくしたのですか。それは、こういうときこそ、今困っている多くの人々を救うためにしてきたのです。私は財界の使命は、ここにあると思います。」と言って訴えたそうである。
また、渋沢はその最期においてもいくつかのエピソードを残している。
死の数日前、第一勧銀頭取の見舞いを受けたときのことである。
頭取は死の床にいる渋沢に向かってこう言った。「敬三さん(渋沢の孫)がいますから、銀行のことはご安心ください。必ず敬三さんを頭取にします。」
すると幽明の境をさまよっていた渋沢は驚くような大声でこう言ったそうである。「それはいけません。そんなことは余計なことです。本人にやれる力があれば別ですが、私の孫だからという理由だけで頭取にするのは間違っています。」
カネと権力と野望が渦を巻く企業・財界に係る歴史の中で、渋沢栄一、彼に係る話だけは、唯一深い感動を覚える逸話である。
我々人類は、生活に利便性を求めた。
経済の始まりはたったこの一点ではなかったか。
その結果、科学の進歩と相俟って経済社会が高度に発展し、一躍社会の主役に企業が躍り出た。
社会の主役は「人間」に決まっているだろう! 果たしてそう言い切れるだろうか? 世の中のしくみとしてそうなっているだろうか?
歴史的に社会の主役は誰であったか?
前時代まで社会の主役は、権力者であった。天皇であり、貴族であり、武士であった。一般庶民は奴隷ではなかったが、権力者の生活を支える道具であった。
戦前の日本の主権は天皇にあった。つまり社会の主役は天皇であった。そして天皇の委託で国を治めた政治家・官僚は「御上(オカミ)」として絶対権力を得た。一般庶民は天皇の臣民という地位であった。臣民とは家来というような意味であろう。
戦後私たちは敗戦という悲劇と引き換えに、実にすばらしいものを得た。「日本国憲法」である。私たち庶民はこの憲法により、社会での主権を得、人権を得、庶民が主役の世の中が到来した。このことは現在の平和な世の中を生きる私たちが考える以上に画期的なことである。
しかし、そうは言っても庶民は、かつての権力者であった主役たちと違い、自分を養ってくれる者は自分しかいない。自ら働いて食を得て生活していくスタイルに昔と変わるところはない。
この間に台頭したのが企業である。科学技術・貨幣経済の発展、そして利便性と収入の糧を求める庶民の気持ちが合わさって、企業は庶民を消費者として、かつ労働者として広く取り込み、巨大に成長することに成功した。
このようにして、庶民は今やその大半は労働者として生活の糧を得て生活するようになった。今や都市部において自営により生活することは、多くの平凡な庶民には不可能に近い。
労働者とは、「企業に労働を提供して、賃金を得る者」というのがその定義である。しかし「労働を提供する」とは、「身体と時間を企業に拘束され、企業の意志で行動する」ことであり、十分な人権の配慮を伴わなければ奴隷と変わらない。そして特に日本においては、労働奴隷・社畜たる労働者ばかりが出現することとなった。
経済を担い、巨大な力を得た企業は、政治家と並んで現在実質的に日本を支配している。国民主権という建前とは裏腹に、社会の主役は政治家と企業である。
企業は社会権力を得ると、更なる成長を目指す経営の過程で時に反社会的行動も多々あった。先に述べた公害物質垂れ流しや環境破壊、世に有名な女工哀史に見る人買い・強制労働・病患労働者殺害などである。
しかし時代の経過とともに何はともあれ、企業と国民の努力により、社会は発展した。国民の生活が安定してくると、国民の権利意識は高まった。
その間、様々な社会制度が整備された。企業に対して国は、保護政策を軸としながらも、国民生活を阻害する行き過ぎた経営政策に関してはそれを牽制して、調和ある社会づくりが進められていると言える。
そして今21世紀が幕を開けたところである。
企業のおかげで私たち個人は、実に便利な生活を享受している。
しかし、それでも憲法で保障された「人権」は、実際は完全に保障されている状況ではない。
価値観・働き方の多様化が進みつつあり、生きる方法の選択肢が増えている現在ではあるが、未だに労働奴隷・社畜労働者は多く存在している。バブル崩壊と長く続いた平成不況で社畜の身分から追われて困っている人さえいる。奴隷労働を望んでもなかなか手に入らない雇用状況が続いた。過労死・過労自殺は現在も少なくない。今も厳しい庶民の生活状況である。
最終的にどんな世の中がよいと言えるか。
それは「社会の主役は、やっぱり国民である」といえる世の中ではないだろうか。
やはり企業とは社会の主役に躍り出るものではなく、人の生活を便利にするための道具なのではないだろうか。
21世紀は、調和ある社会づくり。個人は企業に支配されることなく、人と企業の調和ある関係を目指したい。