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平成20年2月23日
1.総説
現代。
国家や地方公共団体、有力企業の無責任、偽装、不正はとどまるところを知らない。
職場や学校、地域でも、鬼のような世間と化している。
世界各国が利己主義を通し、気がついてみたら地球環境が破壊されて深刻な事態となっていた。
何故こんなふうになってしまったかをよくよく考えてみたら、「お金」に突き当たった。
ほぼすべての地球上の人間は「お金が欲しい」と思い、そのための生活活動の結果、気がついてみたら、人の心が歪んで社会がグチャグチャになってしまった。
日本だけの話ではない。中国はもっと深刻である。
日本の国民総生産は平成不況の10数年の間でさえ、減少の年はほんの数年に過ぎず、経済はほぼ一貫して成長し続けている。世界全体でもそのはずである。
人口は増加しているものの、経済成長はそれを遥かに上回っている。
それなのに貧困と飢餓は日本でも世界でもなくならない。
その理由が、今問題になっている「所得格差の増大」である。
仮に富裕者の富・財・金の一部が貧困者に渡れば、地球上から飢餓や貧困は解消する。
全世界の富はそれだけ増えている。
しかし日本や世界の富裕者に、「分け与えろ」と正当に言えるかといえば、言えない。
自ら稼ぎあるいは相続されて所有する富は、私有財産として好きなように使えることが、資本主義社会の大前提であるからだ。
問題は一部の大富豪たちの富の占有に限ったことではない。
私たちごく一般の庶民にも当てはまる。
一般庶民が、ホームレスに財産の一部を分け与えなさい、と半強制されたらどうだろう。
まったく同じ理屈が成り立つ。
2.お金絶対主義の弊害
自由競争、所有権絶対主義。これらを指導理念とする資本主義は、人間の欲望によくマッチしていた。
その結果が、科学技術の発展を促し、商業、工業は高度に発達し、人の生活は実に便利になった。
しかし今、資本主義の弊害が深刻に顕れてきた。
人間の価値観が「お金至上主義」になってしまった。
人は、他人や自然と共存しなければならない。
本来そうしなければ生きていけない存在である。
ところが「お金至上主義」は、この人間にとって一番大切な理念を捨て去ってしまった。
自分と家族や恋人だけが大切。それ以外の他人や自然環境は一切関知しない。
他人の権利や地球環境を侵しても構わない。自分のために利用するだけの存在となった。
それどころか自分の家族や恋人さえも自分のために利用する存在となりつつある。
まことに恐ろしい社会に変貌しつつある。
気がつけば周り中が鬼だらけ。
利己主義者たちは、やがてはこんな冷たい社会に自分の子どもや子孫たちが晒されるであろうことなど気が回らない。というか究極の利己主義者は、自分の子どもや子孫さえも関係ない、と思っているかもしれない。
3.資本主義の短所
行き過ぎた資本主義は、私たちの生活のあちこちから地球環境に至るさまざまなところでほころびを見せている。
資本主義の長所は、これまで存分に人間社会に活かされた。
しかしそろそろ私たちは、「資本主義の短所」をしっかり押さえる時期にきた。
●資本主義とは、自由競争社会であり、競争に負けた者に本来生存権は与えられないものである。
●資本主義の特徴として、よりよく暮らし続けるための前提として、社会経済の成長・発展・拡大が常に求められる。
しかし経済には必ず波がある。よって下降局面で社会の、特に弱者たちに大きな無理が伴うことは体制的に必然である。
●競争と経済発展を繰り返すたびに、所得格差・貧富の差は、広がり続けることは必然である。
●資本主義は、利潤を上げることを究極目的としている。利潤を上げるために事実上手段は問われず、人として社会として大切なことまですべて消し去るような欲望追求主義である。現に利潤を上げた者だけがすべてを手にできる。
●資本主義とは、裕福な資本家階級が貧しい労働者階級を支配する身分制度体制である。
そもそもが身分制度社会であるから、支配される労働者には、様々な形で搾取・収奪、抑圧・弾圧、人権蹂躙が行なわれてしかるべき体制である。
労働者階級から資本家階級に成り上がる者もいるが、成り上がったとたん労働者に圧力をかける存在となる。
資本主義は、今や行き過ぎた。
カネのために、地球環境まで破壊されている。これはどう考えてもまずい。
4.国家理念と資本主義の乖離
資本主義の性格をよく見極めれば、日本国憲法の理念(国民の最低生活の保障、すべての国民の人権尊重など)はそもそも実現不可能であることがわかる。
戦後60数年の間、数十人の総理大臣がそれぞれ立派な公約・所信表明をなされてきたが、その結果が、現在である。
どんな優れた人が国政を担当しようと、大きな限界が「資本主義制度体制」に内在しているのである。統治者の失政、能力不足だけでは説明できない部分があるわけである。
地球環境汚染という大きすぎる課題を抱えた今こそ、「カネ」を人間生活の価値観の中心に置いた「資本主義社会」そのものに変化が求められている。小手先の手法で解決できるような話ではなくなっている。
5.共産主義の失敗
かつて新しい社会体制と目された「社会主義、共産主義」は完全に失敗し、世界から姿を消しつつある。
失敗の原因は、人間の「欲」にあった(特に権力者や公務員)。
自分だけいい暮らしをしたいと思う気持ちが、理想社会実現という夢多き可能性を秘めた手段を失敗・撤退に追い込んでしまった。
新しい社会を模索するに当たり、この轍は踏まないようにしたい。
6.新経済体制の模索
新しい社会体制と言っても、資本主義をまったく捨て去る体制は今のところ考えられない。
資本主義の体制は残しながらも「お金絶対の価値観」を消し去ることができるほどの大幅な修正が必要であると私は考える。
現在の社会でもっとも深刻な問題を持つ領域が「経済」である。
かつての共産主義、社会主義は、経済活動のみならず、思想、身体まで国家に拘束された。
経済以外の部分は現行の路線を踏襲し、経済体制と国民の良識を大きく変える必要がある。
以後は、私の未熟な空想である。
例えば、第一の国家理念は、「共存共生主義」などとする。
国民の最高の栄誉的行動は、人類の共存共生に向けた貢献であるという意識・社会風潮を定着させる。
経済以外の部分について、「国民の自由と権利」等は今以上に実質的に保障する。
一方経済体制について、「自由競争」「所有権絶対の原則」などの看板は下ろす。
私企業が経済活動を行なって生み出した利潤(富、金)の帰属は一旦すべて国家が所有することとする。その上で、私企業に成果配分することとする。
(今の体制は、自らに帰属してその後税金で徴収するから、税金を「取られた」という意識が芽生える。国是を「利益の個人所有)から「共存共生」と変えれば、このことも当然のこととなる。)
こうして国家に金を充分に集める。
このとき、権力者と公務員に念には念を入れた厳重な監視体制を敷き、共産主義、社会主義の失敗を決して繰り返さないようにする。
そして金の第一の使途として、すべての国民の最低生活費の確保を最優先する。
国民生活に重要な仕事に公務員の人数を充分に当て、犯罪や不正や違法行為の摘発を徹底する。
このようにして、国民生活の安心を今のようにポーズだけでなく、実質的に保障して国民の生活上の不安感を払拭する。
このような体制をつくれれば、自然に「お金絶対の価値観」は消え去り、共存共生の精神が芽生え、社会に正義と思いやりが戻ってくるだろう。
7.現在の日本国の体制と今後
現在の日本国は、「資本主義制度」を大原則とし、付録的に「福祉制度」を置いて、国民生活の安全を保障するという体制を採っている。
日本は戦後より、徐々に経済は復興、成長し、国民生活も相当豊かな内容になってきた。
ある時期、「モノの豊かさから心の豊かさへ」というフレーズが多用された。
経済成長で「一億総中流」と国民が意識した後の時期である。
このような国民生活の向上とともに国民の権利意識も徐々に高まり、「安心して暮す権利」や「人権が尊重される権利」、そして「福祉制度」の向上が意識されるようになってきた。
そしてバブル崩壊と長期平成不況が訪れ、経済の急降下・長期不況で経済社会は大いに混乱し、国民生活は深刻な打撃を受けた。
何と言っても資本主義経済の発展は、「金がすべて」という風潮の世の中になっていた。
そして社会から金が不足すると、一気にひずみが噴出した。
しかし一度気づいた、国民の安心、人権、福祉の権利意識の要求が収まることはない。
金がない政府は、どんな優秀な人が担当したとしても、今の体制では物理的に無理なのである。
資本主義は進みすぎて、貧民層は今後もますます増大する。
昨年は、我慢の限界を超えて、生存と死のはざまにいる者たちが、声を上げ始めた。
時の状況次第で政権は自民党から民主党に移るかもしれない。
しかし民主党とて、「資本主義経済体制+付録としての福祉制度」という理念は変わらない。
今、社会から「お金絶対の価値観」を消し去るための革命のような抜本的改革こそが必要である。
「バカな人間は自ら滅んだ」という映画「猿の惑星」。
猿が地球を支配することは今のところは考えられないが、将来充分に考えられることは、「地球環境が人間の手で汚染されて、人類は自業自得で死滅するかもしれない」ということである。
平成20年2月13日
複数の人が集まる社会。人が自分の思いや権利や利益を主張すると、それが他人の思いや権利や利益を侵害することがよくある。それは家庭の中でさえ例外ではない。
これらのことを丸く治めるために、「受忍限度」という概念がある。
「受忍限度」とは法律用語で、被害や権利侵害の程度が、社会通念上さほどでないと認められるときは、耐え忍ぶべき範囲内とされ、権利や利益の侵害には当たらないとされる。
受忍限度とされる程度とは、法的には「社会通念上」という基準で測られる。
しかし、被害・権利侵害の内容と程度によって受忍限度は、人それぞれ大きく違うものである。
個人差は、簡単に言えば、我慢強さとか感受性の強さ・感覚の敏感さとかである。
俗な例を挙げると、汚い部屋にいて気になって掃除を始める人と、気にならない人がいる。
上司や夫で強圧的で口うるさく嫌味なタイプの人に対して、いちいち気にする人、怖がってしまう人、それほど気にしない人、心の中で腹を立てている人・恨んでいる人、いちいち逆らう人、とにかく避けようとする人、ご機嫌を伺ってばかりいる人など様々に感じて様々に対応する。
さて、私たち生活者、労働者は、生きていく上で、どの程度の「受忍限度」が必要であろうか。
社会は様々な理不尽で溢れている。
マスコミでひとたび事件が報道されると私たちは、ひどい会社だねえ、ひどい人だねえ、ひどい親だねえ、ひどい国の対応だねえ、などと口にする。
しかし、マスコミで取り上げられなくても、世の中の犯罪や不正、さらにいじめ、陰口などを含めた悪事は、私たちの周辺にずっとずっと以前から起こっていたし、今も起こっている。
そして今では、「カネがすべて」の世の中となり、「人の道」を重んじる空気は世の中からなくなった。
「他人を思いやる」ということが世の中から消えつつある。
他人の気持ちを考える必要のある相手は、上司や得意先などビジネス、カネがらみの人だけとなってしまった。
(それ以外は異性の関心を買うときぐらいだろうか。)
こんな中で、私たち生活者、労働者の「受忍限度」は、ますます幅を広げていかないと、まともな神経では生きていけない世の中になってしまった。
鋭敏な感受性、木目の細かい他人への配慮・おもいやり、そして正直さ。
これらは人間としての「優れた能力」である。
しかし、今の社会は、こんな「人としての大事な感情」を寄せ付けず、極めて「鈍感」である。
(新聞でこんな記事を読んだ。今、会社の人事考課で実際に評価される能力は、「弁解力」「偽装力」「謝罪力」だそうである。)
「受忍限度」は、昨年流行った言葉「鈍感力」とオーバーラップする。
私たちは今、「自分の受忍限度」「鈍感力」を高めていかなければならない。
我慢の限界を超えたら、気が狂ってしまう。
気が狂ったら、仕事を失い、家族は崩壊し、破滅する。
だから我慢の限界を超えないように自分の我慢の限界を高めていかなければならない。
努めて鈍感になる必要もある。
ときに、見ざる聞かざる言わざるを実行せざるを得ない。
見てしまっては、聞かざるを得ず、聞いてしまっては言わざるを得ない。
そして正しいことを言えばその社会から厄介者扱いされる。
(もちろん、断固として主張すべき場面では別であるが。)
少なくとも見なくていいもの、聞かなくていいもの、言わなくていいものは、関わらない方が賢明だ。
心無い人間の言動をいちいち鋭敏に反応していたら、苦しくなるばかりである。
まともに相手にせず、明るい気持ちで過ごす方がずっといい。
できれば、カネや肩書き・地位・名誉などと一切無縁な場所を会社以外に見つけて、そこで自分本来の優れた能力を発揮して、人として大切なものを見失わないようにしたいものである。
平成20年1月1日
年末年始の季節は、行く年を振り返り、来る年に希望を祈る厳かな気持ちになる時期だ。
また大晦日は、テレビを中心に1年で最も日本中の人々の気持ちが盛り上がる日だ。
私のホームポジションは、長らく「失業」にあったので、在職で年が越せることにまずは何より安心している。
昨日の大晦日は、私の中では、夜10時を過ぎてから、やっと盛り上がってきた。
久々に10時以降のテレビは、NHKの紅白歌合戦に専念した。
「偽」「嘘」などが蔓延しきった2007年。
普段はまったく見ない歌番組だが、選りすぐりの歌と歌手を揃えた紅白歌合戦の後半は、このような世相の中で、心に響くような歌が披露された。
このくらいのレベルになると、流行歌ではなく、「芸術」の世界に入る。
いい歌には、メッセージ性がある。そしていい歌手は、感度が優れた媒介であり、それ以上に歌手自身がメッセージそのものであったりする。
メッセージの内容は、「人の心」であり、「理想」である。
昨日、私がことさらに感動したのは、世の中が乱れきった中で、「純粋な人の心」のメッセージとしてそれを聞いたからであろう。
歌の文句には、「カネとか打算とか経済とか悪意の嘘とか」、まったく出てこない。
ひたすら出てくるのは、「人の純粋な心、思い」である。
いい歌・いい歌手が、本当にいいと評価されるのは、多くの人が共感するからである。
人は、心が主で、身体は従である。
しかし私たちは、現実の生活の中では、「心」に重きが置かれず、「カネとか打算とか経済とか悪意の嘘とか」、つまりは「身体」のことにばかり執着しているわけである。
人間は、身体を維持するために、カネがなければ生きていくことができない。
しかしそのために、実社会では「心」をないがしろにせざるを得ない厳しい社会である。
本末転倒な人間の習性である。
心を活かすためにこそ、身体があるのに、身体を維持することに精一杯で、心を失くしてしまう。
心を活かすために、身体つまり財産にゆとりを持たせようと思って、無理な働き方をする過程で、肝心の心を失ってしまう。
一昨年、旋風を巻き起こした「千の風になって」が昨日も披露された。
人は、身体は死んでも、心はずっと死なない。
どうしようもなく生きにくい世の中になっている。
世の中ここまで乱れたら、もはや身体や生命の維持にそんなに執着することもない。
生命に執着するあまり、生きながら心が死んでしまっては、生き続ける意味もない。
今は厳かな気持ちになれる年末年始の数少ないいい機会である。
神様が餓死・凍死させたいのなら、それに甘んじてみよう、と、もう一度「心の大切さ」を再考してみてもいいのではないだろうか。
自分が遠い昔に持っていた「純粋な心」をもう一度思い出してみてはいかがだろうか…。
平成19年12月29日
今年のカレンダーによれば、小売・サービス業等を除く多くの会社や公官庁の仕事納めは28日になっている。
私の所属する会社も昨日の28日、大掃除と納会が行なわれて、一年の締めくくりとなった。
私は現社に入社して5年目を迎えている。
仕事そのものは単純で、雇用は安定しているのだが、仕事を取巻く諸環境が悪く、今年も3年連続でうつ病が再発した(今は治っている)。
今年も特に人間関係に関して、嫌な思いをしっぱなしの一年間だった。
そんな思いの中で迎えた今年の最終日。
大掃除も終わり、今年やる仕事は一切終えたあとでの納会。
場所は社内の大会議室で、もちろん会社の費用、全員参加で、時間はわずか1時間強。
実にすっきりとした気持ちで一年の最後を終えることができた。
これで今年のすべてが終え、明日からは年末年始の休みに入るとあって、社員・役員全員の気持ちが穏やかになっている。
●仕事では対立気味の社員とも酒を注ぎあった(この点は大人としての最低の包容力がある会社と社員だ)。
●帰りの挨拶は、どこの会社でも同じであるが、「今年一年お世話になり、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします」とお互いに言いあって別れる。
無能力無気力無責任な私の上司である社長兼経理部長もその例外ではない。
今日だけ(それ以外は年始の挨拶くらい)は、お互いにしっかり目を見て気持ちを込めて自然に挨拶ができた。
●帰り道は駅まで中途の同期入社で同職の同僚と一緒だった。
今年の納会はすっきりとしましたね、と話しかけたら、今日一日の段取りがよく開始時刻が勤務終了時刻前に始まり、短時間で中締めが入ってそれで全員がお開きになったから、あまり深い話が出る間もなく、当社の社風としてはそれがよかったんでしょう。
彼との別れ際、お互いに「あなたがいたから一年間なんとかやってこれました。ありがとうございました」。
彼は、私と年齢、経験、性別、仕事上の常識感覚が近く、私にとって心強い唯一の同僚だが、私に比べて、人格円満で、人間の出来・魂の高さが数段優れており、日常は私が精神的に世話になりっぱなしの関係だ。
だから私の方は当然の言葉を言っただけだったが、彼は私が言うより先にしかも自ら手を差し出して言ってくれた今年最後の言葉に、わずか一瞬、心が感極まった。
一人になった帰宅途中、大事なことに気がついた。
対立気味だった社員への憎しみ・こだわりの感情が、自分の中から自然に消えていることに。
私にとっては、一年を水に流すことのできた素晴らしい納会だった。
私はこの2年、あれこれと不愉快なので、職場の忘年会は欠席を続けている。
しかし、「忘年会」の意味は、まさにこの「一年を水に流す会」のことだ。
昨今、現実の多くは、ただの定例飲み会に成り下がってしまっている忘年会であるが、今回は忘年会の本来の意義を納会で実感することができた。
平成19年12月17日
先週、清水寺で今年の世相を表す漢字が発表された。
今年の漢字は 「偽」。
一昨年は「建築設計偽装」、昨年は「偽装請負」、そして今年は「食品偽装」。
寺の住職は、「こんな漢字が選ばれるなんて情けない」と憤っていた。
世の中ますます乱れきっている。そんな中で終わろうとしている2007年だ。
今や「偽装社会」と「人間不信」は当然のような世の中になってきた。
私自身も「理不尽な社会と会社はもう相手にしない(NO.57)」と宣言して生きたこの1年だった。できれば社会も人も信用したいと心の隅で思いつつも、終わってみればますます氾濫した偽装と利己主義だった。
年金問題は実は50年前から想定されていたが、後世に回したツケが今年回ってきたものだ。
地方自治体の一部でバブル期のツケが回って財政再建団体になっているように、国も借金を後世に回しているといずれどこかでハジけるだろう。
地球温暖化防止会議も数値目標を削除して採択。環境破壊のツケは数百年後、とんでもない惨事を後世の人々にもたらすことだろう。
薬害問題は、患者にしてみればとんでもないトバッチリだ。エイズも肝炎も国に健康を侵されて殺されるようなものだ。
北朝鮮拉致問題は、一向に進まない。
24年後幸いにも帰国できた人がいたが、暴力によって他国へ連れて行かれるという、とてつもない理不尽が元々のベースにあって、そこで結婚して子供も作って生活をする、ということが一体どれだけ辛く、苦しく、複雑な胸の内であったことか見当もつかない。
北九州市の生活保護殺人事件、今年も減らない過労死・過労自殺も本人には責任はない。
毎年1年ずつ歳をとり、人の世の全貌が少しずつ見えてくると、世の中には「あり得ないと思っていたことが、いくらでもある」ことがわかってくる。
自分の親や多くの先人、先輩たちが、歩んできた人生や暮らしを見て、自分の場合もだいたいこんな風に展開するだろうと漠然と想像していた自分の未来・人生が、時にあり得ないような出来事に遭遇し、考えてもいなかった、想像だにしなかった方向へ展開していく。考えもしなかったいい方向に展開すればよいが、それがまた人生で悪い方に展開していく。
この世は、「理不尽」が集まってできたようなものだ。
そしてその「理不尽」から学ぶように仕組まれて私たちは生まれてきた。
そもそも人生は他人との比較ではない。人それぞれ、違う目的・目標を持って生まれてきた。
他人と「比較」をするから、余計に、うまく行かない自分の運命を嘆く…。
いろいろと細かく比較すれば、自分の方が他人より優れていたり、うまくいっていたりすることもあるのに、得てして他人の生活や境遇はいいところしか目がいかない。
自分より苦しんでいる人には目がいかず、いい待遇や生活をしている人に目がいって、羨む。
最近、人間不信が高じて、他人に優しさを持てないようになってきた。
そしてそのことによる自責の念は自分自身へと向かう。
今後乗り越えて優しさが取り戻せるか、あるいは自責の念で苦しむ経験が私の宿命の中で求められているのか、いずれにしても、すべては仕組まれた人生だ。
「理不尽」に耐えることは、報われない努力をするように辛い。
しかし、これからも寿命が尽きるまで、毎年「理不尽」を経験し、学ぶ。それが人の人生だ。
平成19年11月15日
船場吉兆が菓子や総菜の賞味・消費期限を偽装していた問題で、当局は「偽装はパート社員の独断」として本社の関与を否定してきたが、パート女性らが11月14日記者会見をし、九州を統括する湯木尚治取締役から偽装を指示されたと証言した。
証言内容は次のとおり。
●現場責任者が賞味期限まで14〜15日となったちりめん商品の扱いを湯木氏に電話で尋ねた際には、「そんなん、日持ちするんやで。1ヶ月くらい延ばせ」と大声で言われた。
●偽装が発覚した直後の10月31日の夜、吉兆博多店で湯木氏らから、「商品管理をしていたのは現場責任者」とする内容の「事故報告書」に署名と押印を要求された。
●11月1日、吉兆博多店のマネージャーから白紙の紙を渡され、「なぜ賞味期限切れの商品を売ったのか書け」と求められた。
●10月31日、11月1日とも2時間程度、深夜まで説得されたが、署名を拒否。湯木取締役は、「何としてでも会社を守らなあかん」と言い、署名を拒むと「やったのはあんたやないか」と怒鳴った。トイレにもなかなか行かせてもらえなかった。
●記者会見に臨んだ4人の女性たちは店側への反感を次々に口にした。
●湯木氏から偽装のリーダー役と指摘されたパート女性は、「ずっと我慢していた。(湯木取締役の主張への反論は)言えないですよね、怖くて…」とこれまで反論しなかった理由をこのように語った。
●保健所の立ち入り調査後、湯木氏から「あんたのせいやで」としかられた。
●11月1日の作業を終えた夜、当日が期限切れの黒豆プリンが残っているのに気がついて、電話で判断を仰いだところ、湯木氏から「頑張って売ってくれ」と言われた。翌日も指示が覆らず、閉店後に女性が自らプリンを買って帰った。
●売れ残りが気がかりで責任者だったパート女性に値引の販売を持ちかけ、そのパート女性が湯木氏に電話したが、とりあってもらえず、やむなく賞味期限のシールを張り替えた。
会見は弁護士立会いで、再就職に悪影響が及ぶとして4人の氏名や年齢は伏せられ、写真・テレビカメラ撮影は禁止された。(以上、11月15日付朝日新聞より抜粋)
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私は知らなかったが、吉兆と言えば、大阪以南では有名な高級料理店らしい。
しかしちょっと調べるとやはり湯木という一族の同族経営であった。
会見に臨んだ方たちは、偽装労働を命じられたとき、偽装労働を行なったとき、偽装が発覚したとき、偽装がパート社員たちの独断で行なわれたと偽りの発表がされたとき、記者会見を決断したとき、記者会見を現に行なったとき、それぞれの瞬間、どんな気持ちを持っていたのだろうか?
偽装を命じられ、偽装を自らの手で行なったとき、心はどのくらい痛んだろうか。あるいは職務命令と割り切ってまたは私の知らない他人が食べるのだから私は関係ないと思って平然とやってのけたのだろうか。数え切れないくらい毎日毎日日常的に偽装労働を命じられて行なっているうちに、罪の意識はだんだん薄れてなくなってしまったのだろうか。
売れ残りが気がかりで仕方なく、値引販売を提案したと告白したパート社員の方は、少なくとも罪の意識を持ちつつ、穏便に現状の問題を解決する方法を探っており、前向きさが感じられる。
そして偽装が発覚し、その後偽装は「現場担当である自分たちの独断」と偽りの発表が本社からなされたとき、彼女たちの怒りが沸点に達したことは容易に想像できる。
記者会見で「再就職に悪影響が及ぶ」として配慮されたことは、奉公人としての限界を如実に物語っている。
そう、奉公人たる私たち労働者未満の労働者たちは、「蜜蜂の一刺し」で自分の退職と刺し違えることでのみ、唯一会社に一矢報いることができるのである!!
ミートホープの田中稔社長や船場吉兆の湯木尚治取締役のように圧倒的な権力を振りかざす者の前で、労働者は、声も出せない。
最低限の自己の主張もできない世界は、人が人らしく生きられる世界ではない。動物の世界に等しい。
下等な動物は自分の身体が大きく破損しても痛みを感じないように作られている。まして下等動物に他人の痛みなど知るよしもない。
人が人らしく生きられない世界では、自己防衛本能により、自分の痛みもなるべく感じないようになってしまうかもしれない。まして他人の痛みなどいわんやおやである。
不当・不法な会社で、抗議や提案がまったく通らない社風であるとき、だからと言って、経済弱者の労働者は、すぐに辞めることができない。
家庭のため、子供のため、家族の大黒柱は、特に辞められない。
「おとうさんは、会社で世の中に害のある商品を製造し、販売しているんだよ。人を騙して契約してお金を他人から騙し取っているんだよ。そのお金でお前を養っているんだよ。」
こんな風に子供に説明する親は一人もいないだろう。こう考える人自体極めて少ないだろう。
「そんなこと言ったって、正義を通して、自己主張が会社に通るわけもなく、結局会社を辞めるはめになって、家庭が崩壊したら、元も子もないだろう」。たぶん、こんな風な反論が返ってくるだろう。
この意見は現実問題として半分は正しいのかも知れない。
悲しき労働者、いや、奉公人・奴隷労働者の宿命である。
平成19年11月10日
私の現在の職業は中小企業の経理事務員である。
今日私のところに回ってきた伝票で、ちょっとびっくりした。
得意先のお祝い金・協賛金の類の出金伝票に添付されていた稟議書。
たった1万円の出費なのに、所属長決裁が許されず社長及び相談役まで稟議書が上げられて押印されていた。
数ヶ月前、社長及び相談役は親族の結婚式の祝い金としてそれぞれ10万円超の額を自分の財布から出さずに、鶴の一声で、会社の経理から出金するよう命じ、それぞれ祝儀袋に個人名を書いていた…。
要するに、会社のカネは、自分たち親族のカネ。会社は自分たち親族の個人的所有物。
個人家庭のカネと同じだと思っているから、自分たちは好き勝手に使うが、他人には所属長であろうとなるべく権限を与えず、細かい出費までチェックする。
親族社員や身内が大事で、他人である社員をそもそも信用していない。会社という概念がないので、社員はあくまで他人なのだ!
あまりにアンバランスな出来事を見聞きして、気がついた。
要するに「私たち社員は、労働者ではなく、創業家の家業の使用人・奉公人なのだ」。
そもそも「ここを「会社」だと思うからいけないのだ!」と。
会社だと思うから、私は、社長(経理部長兼務で私の直属上司)をはじめとする創業者ファミリーの無能ぶり、わがままぶりに怒りが収まらないのだ。
自分を労働者だと思うから、「よりよく働く権利を侵害されている」と不満が身体中に充満しているのだ。
創業以来50年経つ会社だが、創業者ファミリーたちは時代錯誤なことに、私たち社員をずっと未だに、こういうつもりで雇ってきたのだ。
使用人・奉公人だと思えば、無能な社長の身の回りの世話やミスの尻拭いやわがままな命令を聞くことも、立派な仕事である。割り切ることができるかどうかは別として。
労働者として、社会に貢献する自負を持って、自分の能力を発揮する意図を持って、やりがい・生きがい・自己実現を追求する舞台と考える「会社」は、少なくとも株主という外の世界からチェックの目が入る上場企業でなければならない。
あるいは会社に正常な労働組合がなければならない。
ミートホープも石屋製菓も、オーナー企業でオーナーの意のままに運営されてあんな問題が起きた。新聞は、社長のワンマン企業で「社内に組織らしい組織がなかった」と評していた。
またNOVA(マイナー市場に上場していたが)の倒産前夜、監査役が次々と辞めていったがその理由として、「会社としての体をなしていない」と言い残した。
複数の他人が集まって事業を行なう集団たる会社は、正常な組織や役割や権限や職場のルールや全員一丸の目標があって、一人ひとりの人権と枠内での自由な意見が尊重され、生活できる報酬給料が支給されて、社会の法律・ルールに則った運営の中で、社会に財・サービスを提供する事業活動が遂行される。これが会社である。
しかし、中小企業の実態は、社会の公器たる上記会社の概念を真っ向から覆し、個人あるいは家族親族の幸福追求の目的で事業が運営されている。
仏教では、「あるがままを認めよ」という言葉が多くの本で見受けられる。
「ここを会社だと思うからいけない」。
当社に入社して5年くらい経ったが、私のうまく説明できない会社の居づらさは、今日この言葉を発見して、かなりすっきりした気分である。
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中小企業に勤める労働者の割合は労働者全体の約7割を占めると言われている。
(労働統計の多くは企業単位ではなく事業所単位で統計を取っているため、なかなか把握しにくい。
余談になるが昨今の労働統計は、例えば派遣・請負形態の社員が激増し、彼らは実際携わっている業種ではなく、自社業種である「サービス業」に分類されていたり、あるいは失業率・就職率・求人倍率などは実は派遣・請負・期間雇用契約など一時的臨時的求人・就職などがかなり多くの割合を占めつつあるなど、実態と異なる結果を示すケースが多くなっており、注意が必要である。)
中小企業でも優良企業はあり、大企業でも悪質企業は存在するが、ざくっと言えば、全労働者の7割は、労働者の権利を侵害され、昔ながらの「奉公人」として扱われているわけである。
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では「奉公人」が、「労働者」に格上げされるためには、どうしたらよいだろうか。
その方法は一つ。労働者が団結して、労働組合を結成して改善要求をすることである。
しかし、そう簡単にはいかない。
私は経営者の無知・無能を多く批判しているが、労働者の方も同様に無知・無能・利己主義な人間が多い。
私は労組設立への協力を脈がありそうな社員にほのめかしたことがあったが、まったく反応が鈍く、私の目論見はあっけなく頓挫した。
労働者の多くは、自分の権利が侵害されているということさえ、わかっていないのだ。
あるいは、たとえ悪い社会であっても、子供の頃から擂り込まれた「協調性」「和」の精神が身に染み込んでおり、「上」に異を唱え、「上」が行なう不正と闘おうとすることに、後ろめたさを感じ、自分が不当解雇されるなどせっぱつまるまで、リスクを負ってまで勇気を出して行動しようとはしないのだ。
ミートホープの社員がいい例である。彼らは会社が倒産し、解雇されてから切羽詰って労働組合を作って自分たちの主張をした。
自分たちが全国の消費者たちに何十年も不正な、有害かもしれない食品を提供し続けてきた側面について十分考えることができず、自分の生活のためにのみ自己主張をするという見識のない即物的な労働者たちの典型例であり、世の中こういう労働者が大半なのである。
彼らの多くは、会社に居づらさ・働きにくさを感じると、その矛先は、自分の身近な他の社員のせいにする。そしてそれは時に自分より立場の弱い人間などに対して、「いじめ」などの現象となって噴出する。「会社の運営が悪い、経営者・管理職が悪い」となかなかならないことが、当初私にはとても意外だった。
残念なことである。無知・無能・利己主義な多くの労働者たちは、自分で自分の首を絞めていることに気がついていない。
そして私自身も残念なことに、このような教養・人格ともにレベルの低い他の社員たちの一部を敵視するも連携する手段を持たない。
自分の人間力のなさである…。
平成19年11月3日
雨宮処凛氏。今年、彗星のように現れた「末端労働界のジャンヌ・ダルク」。
私にはこれまで彼女がそんなイメージで映っていた。
あとで知ったが、朝日新聞は彼女を「プレカリアートのマリア」と呼んだそうだ。
そんな彼女の本が新聞記事の中で紹介されていた。私の目に留まったのは冒頭の一行だった。「我々は反撃を開始する。」
反撃、という言葉に私の心は激しく共鳴した。
私はHPのタイトルにResistance(抵抗)をつけている。
しかし水面下でいろいろ試みたことはあっても、自分のことだけのしかも小さな小さな抵抗しか未だにできていない。
それに対して雨宮氏は、「抵抗」を上回る「反撃」、ときた。
今や時代の寵児で有名人となった彼女の力は、虫けらサラリーマンたる私の比ではない。
一体どんな反撃を開始したのだろうか?
私は、胸躍らせながら書店に走った…。
買って一気に最後まで走り読み終わったが、反撃らしいものは、なかった。
一体どこで反撃の記述が出てくるのか、それだけを待ちながら読み進めたが、最後までなかった。
敢えて言えば「はじめに」の章で、「ひきこもりの労働拒否」「ニートのストライキ」が出てきたが、まさか彼女が言う反撃は、これだったのか???
本の内容そのものは悪くはなかったので、再度読み直した。
そしたら、あった。反撃という言葉が。
彼女の言う「反撃」は第6章「抵抗する人々」の章で述べられていた。
彼女の言う「反撃」の内容は、「メーデーのデモ」「フリーターを対象とする労働組合・NPOの出現とその活動」のことであった。
これらのことは私はすでに新聞で知っている。
期待が大き過ぎただけに、最初に走り読みしたときには、気がつかなかったほどの内容だった…。
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気を取り直して、冷静に、この本を推薦したい。
私の当初の期待は裏切られたが、今後の日本をリードする本となって欲しいと思う。
内容の多くはフリーター、若者の厳しい生活実態が細かく記載されている。
これを読まずに、正社員の大人がフリーターを安易に語ってはいけない、と思うほど、フリーターの生活は厳しい。若者の心が破壊されている。氷河期世代(フリーター世代とかなり重なる)の人たちの不運を他の世代はもっと受け止めるべきである。
内容の大部分は、彼女の意見ではなく、労働を取巻く社会問題の当事者や実務者のインタビューに終始している。
フリーター・非正規社員の厳しさだけでなく、正社員の過酷な労働、メンタル系と呼ばれる精神的病気を持つ人たちの生きづらさ、格差問題の政治的核心にまで及んでいる。
そして本全体を取巻く彼女の強い意志は、題名のとおりただ「生きさせろ」という絶望的社会の中での叫びである。
彼女がこの本の中で、最も得意そうに語る「反撃」の部分を探してみた。
それは、あるフリーターが不当解雇処分を受け、フリーター労組に加入して団交を行って、和解、円満退職となり、24万円を手にした、というくだりであった。
たったの24万円で大喜びする関係者たちの気持ちは、フリーターの過酷な生活と社会的弱者ぶりを如実に物語っているものであった。
私の勘違いも少しあったが、彼女の本業は作家であり、主たる活動は労働運動ではあるが、当事者でも実務者でもない。
これからも末端労働運動のシンボルとして、代弁者として、大いに活躍していただきたいものである。
今後きっとやってくれるだろう。私が当初期待した「反撃」を。
平成19年10月23日
昨日は、一日中仕事がなかった。なくても何かやっているように振る舞わなければならないことが辛い。
仕事になれた今は、勤務時間の約半分がヒマである。
事務職は、上司が求めない資料を作っても、意味がない。
経営に役立つような資料を作って提出したことがあったが、猫に小判である。一定レベル以上の数字は読めず、言葉は通じないからである。
無能で無口な上司は、インターネットを見たり、自分の奥さんの会社の資料を作ったり、まったく本業にはやる気がないらしい。
有給休暇の申請は、仕事以上にシビアだが、出勤していれば、仕事の進捗がどうであろうと関係ないという考えの持ち主だ。
本人も体調が悪いとき、早退して家で休めばいいところを、帰らずに駐車場においてあるクルマの中で寝ているのだ。
時代錯誤のはなはだしい人である。
毎日毎日○○の書類こちらに来てませんか、という書類探しが会社のどこかで必ず行なわれている。送った・送らない、渡した・もらってないの水掛け論、自分が必要な書類だけとって、残りの書類はさっぽっておく社員も少なくない。管理職ほどこの傾向が強い。できの悪い小学生が集まったような職場である。
私のストレス、うつ病の原因に先輩女性社員のおしゃべりも入っていることに最近気がついた。
ただのおしゃべりではなく、人の悪口、自分の言い訳・責任転嫁・美化をたっぷり含んだ「毒」が含まれているからである。
私の場合は残業も休日出勤もない。しかし、一日が終わる頃、おなかの辺りには、ストレスでできたガスのようなもので、パンパンになっている。
私の辛い仕事環境は、他人に説明することが、実に実に難しい。
残業はない、給料はきちんと生活できる金額が出る。成果をせっつかれる営業職でもなければ、嫌味・パワハラな上司でもない。
仕事環境をハード的に分析すると、こんなふうになるから、何がそんなに辛いんだ、十分に我慢の範囲だろう、と内外の言葉がすぐに聞こえてくる。
自分自身いまでも適切な言葉を捜しきれていない。
でも、得てしてそんなものである。自分の過去の職歴の退職理由を振り返ってみても、数年後に、自分の気持ちがやっと言葉として表現できるようになったことも少なくなかったからだ。
しかし、いずれは私もしっかりと他人に説明できるようにならなければならない。
オーナー経営の伝統的中小企業の社風の中で働く者の辛さを。
無能・傲慢なオーナーファミリーとそのシンパがやりたい放題に振る舞い、その他大勢の社員は彼らのお膳立てと尻拭いに日々ドタバタし、仕事、労働をする労働者というより、凡そ彼らの身の回りの世話の延長が職務内容となっている使用人の辛さを。
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今年、確かに時代は動き出した。
○昨年の偽装請負事件が引き金となったのかもしれないが、貧民労働者が、今年各地で声を挙げ、行動を起こした。
大企業正社員しか労働者ではないような政府及びナショナルセンター(労働組合全国組織)の長年の政策・態度に反旗を翻し、非正規労働者が集まる労働組合が各地ででき、高らかに声を挙げた。
○北九州市で生活保護を拒否された挙句の餓死者が出た。
これまでにも類似の事件はあったが、毎年のように削減される数々の福祉政策に、耐え切れなくなって、この事件を契機に厚生労働省と市町村役場に非難の声が高まっている。
○老後の唯一の生活手段である年金が、厚生労働省と市町村役場によって、盗まれた。
削減され続ける支給額と上がり続ける受給開始年齢に、いよいよ生活できなくなった国民が増えてその声を無視できなくなるほどの勢力となり、年金問題が国民的問題となったのである。
○夏の参議院選は、久々の自民党過半数割れ、歴史的大敗となり、政権党にNOの意思表示が示された。貧民層が、いよいよ生活できなくなって、立ち上がったのである。
○格差問題は、いよいよ深刻化し、日本国の最重要課題になりつつある。
貧民層の労働者、高齢者、学生などは、文字通り「死」と隣り合わせのぎりぎりのところまで追い詰められている。現に自殺者は毎年増え続けている。
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労働問題に戻ると、そもそもの発端は、新手の非正規社員、つまり、契約社員、派遣社員、請負社員、業務委託社員(自営扱い)などを作ったことにある。
これにより、今まで一括りだった労働者階級が、階級分化されてしまった。
社員の方も階級ごとに差別をし、反目し合うようになった。
待遇等の不満が経営者に向かず、階級の違う労働者に向けられるようになる。資本家・経営者の思う壺である。
自分が不当な待遇・職務環境であっても、自分より下がいるじゃないか、彼らに比べたら自分はましなんだ。こんな声が内外で聞かれるようになる。
最初の頃は、上のほう、正社員の立場の者が圧倒的に多かった。しかし、年を経るごとに下のほう、派遣、請負、業務委託などの人数がどんどん増えていった。
かつて多くは一億総中流のうちの一人だと思っていたが、気がつくといつの間にか多くの庶民が貧民層に落ちていた。
我々は江戸時代の身分制度による幕府の庶民統治の常套手段にはまってしまったのだ。
今年、派遣・請負労働者たちが、労働者の権利を求めて各地で立ち上がった。彼らの一番の目的は、普通にアパートに暮らせて、普通の食事ができて、普通に睡眠時間が取れる生活、そのために企業の労働基準法遵守を求めている。
労働基準法は、労働に関する最低限の基準を定めた国のルールである。
こんな当たり前すぎることが当たり前に統制できず、死人を続出させている日本は、何という遅れた国だろう。
私は、正社員ではあるが、問題の多いオーナー経営中小企業の所属である。
「お前の辛さなど非正規社員たちに比べたら、屁のようなもんだ」とは言わないで欲しい。
支配階級の詭弁にどうか惑わされないで欲しい。
私たちすべての労働者は、よりよく働く権利があるのだ。しがない労働者風情であっても「人権」を大切にされる存在として認められているのだ。
非正規社員の厳しい現状の一方で、多くの正社員はグローバル化、国際競争の名の下に過酷且つ理不尽な労働を強いられている。
「非正規社員よりずっと待遇がいいんだから、文句を言わずに働け」という詭弁を認めたら、労働者は相変わらず、奴隷のままである。
平成19年10月12日
昨日のNHK番組「クローズアップ現代」のテーマは「相次ぐ餓死続発の謎?」。
内容は生活保護を不当に受けさせない行政の話だった。
2007年7月に起こった北九州市餓死事件を主に取り上げていた。
すべての日本国民は憲法の規定により、生存権がある。
生存権の内容は、「健康で文化的な最低レベルの生活を営む権利」である。
この権利の具体的実現方法として、自助努力が最優先されるものの、なおかつ生活に困窮した場合、国が社会保障制度を確立し、当該制度の適用により生存権を実現させるものである。
社会保障制度は大きく分けて、@社会保険、A公的扶助、B社会福祉、C公衆衛生、がある。
このうち、餓死・凍死など貧困の果てに急迫した生命の危険にさらされた最も深刻な事態に陥ったとき、最後のセーフティ・ネットとされる最も大事なものが、A公的扶助であり、具体的には「生活保護制度」である。
日本国民の命の最後の砦の制度である。
今、いや実はずっと以前から、こんな大切な制度がないがしろにされてきた。
「北九州市餓死事件」は、「ないがしろにされてきた生活保護制度」の象徴として、問題を改めてクローズアップさせることとなり、日本各地に波紋を巻き起こしている。
北九州市の場合は、厚生労働省指示の下、国民の生存権侵害にかかる組織的計画的な不当行為である可能性が高い。
相談者・申請者を追っ払い、受給者に「保護打ち切り」あるいは「保護辞退」をさせる巧妙なマニュアルが存在する。
特に申請者を追っ払う行為は「水際作戦」と呼ばれ悪名高い。
いわば組織あげての市民いじめ、弱者いじめ、しかも困窮の果て死の直前にいる者に対するいじめであるから、その罪は極めて重い。殺人行為に準ずる。
その他各地でも担当者の人権侵害、名誉毀損、いじめ、暴言の数々が次第に明らかにされつつある。
これらの話は、以前から風聞として有名である。
窓口の担当者はさんざんバカにした態度を取り、人間として失格だというような言動を繰り返し、働けないあるいは働き口がないのに「働け」を連呼する。人格・人権を言いたい放題に踏みにじられ、福祉事務所に行くくらいなら餓死したほうがまし、という人も少なくない。福祉事務所は市民にとって、困窮を救ってくれるところではなく、暴言や人格否定の言葉を浴びせられた挙句、追い払われる、とても怖いところ、という印象が強い。
そのくせ弁護士等有識者同伴で窓口に行くと担当職員の態度がガラッと変わるという話もよく聞く。
まったくとんでもない生存権の保障の現実である!!!
担当職員としては、多発する「不正受給」と上司、組織、上級官庁からの圧力で「支給額の削減」に頭がいっぱいになっており、板ばさみ状態にあるということは理解できる。
ゆとりがなくなった状態で、「暴言」が出てしまうのだろう。
しかしまた、相談、申請者としては、窓口の担当職員がイコール国家なのであるから、国家から暴言や門前払いを食わされたという絶望的な気持ちになることも事実である。
問題の根源は、「厚生労働省の支給額抑制のための指導」にあるような気がする。
とすれば、「一職員の不適切な対応」で済まされる問題ではなく、「国家から暴言、人権侵害を受け、正当な権利行使を妨げられた」ということになるだろう。
生活保護制度には問題が多い。私は詳しいことは知らないが、次の2点に問題があると考えている。
(1)運用上の問題
行政の冷たい態度、なるべく保護を受けさせないという姿勢が基本となっていることがまず問題である。
窓口相談から始まっていくつもの嫌がらせのような手続きと言う名のハードルを用意している。
いくつかは申請不受理・不当却下など生活保護法違反に当たるものも少なくないと思われる。更には前述したように窓口職員が時に憲法違反たる人権侵害まで行なっている。
(2)制度上及び周知上の問題
国民には生存権があり、制度として生活保護制度がある、ということは多くの国民はなんとなく知っている。
しかし、生活保護制度の具体的な内容について知る者はほとんどその道の専門家しかいない。私も知らない。
それが故、福祉事務所窓口の担当職員に、いいように暴言を吐かれ、見下されようにも、彼らの言うがままに従うしかないのである。
こんな大切な制度が国民に詳しく周知されていないことが問題である。
調べようと思って汎用的な六法全書を開いても掲載してあるのは本法の「生活保護法」のみ。
具体的なことは「実施要領」という法律でないものに書かれているらしく、それは生活保護の仕事関係者しか手に入りにくい。
結局どういう人が生活保護の対象になるのか、一般国民にはブラックボックスになっている。
私が見聞きした範囲では、次のような疑問が解けない。
○「民法親族法で、親と兄弟姉妹には扶養義務がある」とされ、彼らから扶養を受けられるかどうかをまず確認するらしい。別居独立して家族を持っている兄弟ましてや姉妹に扶養を受けるなど、まったく時代錯誤であり、彼らに迷惑をかけ、惨めな姿が白日の下に晒され、同情されるくらいなら、人によっては死んだ方がましだろう。
○「貯金が0円になったらまた相談に来てください」、と言われて窓口で追い返された事実がテレビで放映されたことがあったが、これも「実施要領等」に書かれている正しい指導なのだろうか?
貯金が本当に0円になってしまったら、もはや生活保護窓口に行く交通費もないし、その日の食事もないし、もう手遅れである。とんでもない指導である。
○65歳以下の人には働いて自立させる(=保護を打ち切る)ことが受給者への指導の基本のようである。
今の世の中、健康で、職務能力と経験が豊富な男性であっても、40歳を過ぎるとなかなかまともな仕事に就けない。それなのに、数々の持病や、精神疾患、長年主婦などで職業世界から離れていた人、その他様々な事情で働くことが現実には困難な人にまで、仕事に就くことの要求が厳し過ぎる。そして一定の指導を経て、保護打ち切りに持っていく。こんなことが本当に「実施要領等」で正しい指導とされているのだろうか??
また一方で、「母子家庭」は錦の御旗になっており、母子家庭なら比較的簡単に保護が決定され、しかも一般的な家電製品は当然、携帯電話まで所有し、クルマ(友人名義らしいが)まで乗り回し、別制度で公営住宅に格安料金で入居し、昼間はテニスなどをやって余裕の暮らしをしている者も少なくなく、極めて公平性を欠く扱いである。
先の参議院選挙の結果が証明しているように、国民生活は変わりつつある。
一億総中流社会から、格差社会、貧民層が多数を占めつつある社会に変わりつつある。
政治家、官僚たちが一口に「国民」と言ったとき、どの層を指しているのか。これからは政治家、官僚に限らず、激増する貧民層を「国民の中心層」と考えて発言していかなければ支持されない時代になってくるだろう。
しかもこの生活保護法は、以前から変わることなく「貧民」に対して向けられたものである。
「貧民」の存在を無視あるいは虫けらのように扱う、これまで採ってきた自民党政府、厚生労働省、地方自治体の国民生活保障制度の運用姿勢は大いに非難されなければならないし、早急に180度態度を改めるべきである。
平成19年10月7日
息が詰まるような苦しさをじわじわと感じながら、圧迫される私たちの生活環境。
犯人はもちろん空気ではない。
会社当局、いじわるな先輩・同僚、冷たい市町村役場、人の悪口陰口が本職のおばちゃん、はびこる悪徳業者…。
犯罪のとき主犯はいつも隠れていて、なかなか表に出てこない。
主犯は、他でもない自民党政府。国民の生活の安全のために、私たちがその舵取りをお任せした私たちの親分、リーダーの集団である。
私たちの生活を圧迫する犯人は、何と!私たちを守ってくれるはずの私たちの親分だった!!
しんぶん「赤旗」日曜版2007年10月7日。(ちなみに私は無党派です。)
ここに今の社会の問題点・事件がしっかりまとまって報道されていたので要旨掲載します。
@介護業界の現実と問題点
Aミャンマーの武力弾圧
B後期高齢者医療制度
C福田首相所信表明
Dテロ特措法
E力士急死事件
F「集団自決」教科書削除問題
G日雇い派遣の無法地帯
H福田首相領収書変造事件
(1) 介護業界の現実と問題点
介護福祉養成学校で、生徒が集まらず、定員割れが相次ぎ、昨年全国で4校が閉校。
介護報酬が低く、給料の安い仕事になったのが大きな原因。
介護保険制度は、昨年4月、給付制限や介護報酬を引き下げる大改悪が全面実施。
改悪実施された主な内容は次のとおり。
○「要介護1」以下の軽度の高齢者から車いすやベッドをとりあげた
○ホームヘルパーの利用時間や回数が減らされた
○介護施設の居住費・食費が全額自己負担となり、退所を余儀なくされた
○ケアマネージャーに支払われる介護報酬が引き下げられた