世間に実態が露呈し、追い詰められる日本のお気楽な巨大集団:三菱グループと創価学会

(1)戦後民衆文化に深くかかわってきた三菱

 キリンビールというと、ひと昔前までは庶民の食卓に乗る一番うまいビールであった。上等のホップをちょっときつめに効かしてあって、よく冷やしてあるキリンはいっぱいやる時の定番であった。今思うと使ってある麦の品質は多少古かったという気がするのであるが、なにせ、にがい上等のホップのおかげで、当時は欠点がまったく感じられなかったのであろうと思う。キリンはいわずとしれた三菱グループの会社である。キリンビールが三菱ビールと言われる由縁である。そして、圧倒的な不動のトップシェアを誇って、決して首位を奪取されることは無いだろうと思われ、また会社幹部もそう豪語していたのが、つい数年前のことである。

 これに対して、2、3年前、不動と思われたキリンビールのトップシェアを奪取したのが三菱のライバルである住友グループ傘下のアサヒビールである(むろん発泡酒を入れるとまだキリンがトップではあるが)。アサヒビールは、今から20年ほどまえ(1986年)に住友傘下となって生まれ変わった。それまで、麦そのもの自体には良い品質感はあったものの、いまひとつしまりのない味であったため、残念ながらビール業界の最下位のシェアに甘んじていたところ、とうとう住友グループに吸収されてしまった。ところが、住友に吸収されたとたん、いきなり高品位でまったく別のビールを作る会社として生まれ変わった。そして、その品質と加工技術とが次第に広く認められ、まさかまさかのトップシェア交替となったのである。ただ、キリンが戦後の庶民に果たした圧倒的な役割は、変わることはないないであろう。

 ついでにもうひとつ、三菱の大衆文化創作の例をあげよう。力道山のテレビプロレス中継である。隔週であったが全国放送で金曜八時のゴールデンタイムに、三菱電機の独占提供でプロレスのテレビ実況中継でやるのである。このテレビ中継のおかげで日本全国のテレビ普及率が決定的に伸びたであることはだれも疑わないであろう。そして、このテレビ普及が日本の民主化をおおいに進めたのであり、またそれ以上にアメリカ中心の資本主義社会の構成員としての日本人を作り上げる原動力となったこともまた間違いないであろう。

(2)戦後政治のなかの三菱・幣原喜重郎と日本国憲法

 大衆文化だけでなく、三菱は戦後そもののあり方に大きな影響を及ぼしている。戦後の時代とは、すなわち三菱の時代といえなくもないのである。

 幣原喜重郎という戦後最初の総理大臣は、三菱の創始者・岩崎弥太郎の義理の息子である。幣原は、戦後の日本の骨格となった日本国憲法の草案を書いた人物である。幣原に憲法草案を書かせたのはGHQであるが、GHQは、幣原の原案をもとに戦力放棄・武力放棄という“特殊な憲法”を作り上げ、現在、良くも悪くも日本人にとっては大きな自縄自縛の原因を作り上げた人物なのである。

 また、天皇人間宣言の草案を書いた人物でもある。戦後の日本の流れを作った人物なのである。

 もともと幣原は大阪出身の外交官である。東京帝大を卒業し、イギリスの駐英公使勤務時代に当時の駐英公使であった加藤高明という人物に目をかけられ、加藤高明の妻の妹を娶った。加藤の妻は三菱の創始者・岩崎弥太郎の長女で、結局、幣原は戦前の駐英公館勤務時代に三菱閨閥の仲間入りを果たしたのであった。その後、加藤高明が首相となったとき、幣原はその外相として政界にデビューするのである。いわば、三菱閥が引き立て、育て上げた、虎の子の官僚出身エリートなのである。

 しかし、幣原は、この日本国憲法の叩き台となった私案を書き上げると、すぐにお払い箱となった。どうして、すぐにお払い箱となったのか。むろん戦後初の総選挙に負けたからお払い箱となったのではある。なぜこれだけ重要な人物がすぐにお払い箱になるのか、非常に摩訶不思議な、どうもスッキリしないものがあるのである。

(3)戦前の幣原喜重郎と三菱グループ=加藤高明の関係

 これには、深い深いわけがあることに、まことにおそまきながら最近ようやく気がついた。

 幣原の義理の兄は加藤高明という人物であることはすでに述べた。加藤高明の夫人である春路は三菱創始者の岩崎弥太郎の長女であり、幣原の妻となった雅子は、次女なのである。加藤と幣原の二人が義兄弟となったいきさつとは、幣原がイギリス公使館勤務となって渡英したとき、公使が加藤高明で、加藤が自分の妻の妹を幣原に紹介したということについては、すでに説明した。

 加藤という人物は、幣原とは多少経歴が異なる。加藤は名古屋出身の人物であるが、東京帝大卒業後、すぐに三菱に就職している。ところが、三菱の創始者・岩崎弥太郎の長女と結婚したあと、民間から官界に転ずるのである。この官界への転身には、三菱の総意が込められていると理解するのが正しいと私は思う。加藤が活躍した時代とは、すなわち政党政治が機能していなかった、日本があわただしく変化していた明治末から大正時代という時である。つまり、本人の意思というよりも三井・住友といった旧財閥系の政官組織と対抗するために三菱閥が政界に送り込んだ、三菱閥の利益を守るための強力な切り込み隊長として登場させられたのである。

 この加藤が、自分と同じ東京帝大の後輩で目をかけたのが幣原なのである。この義兄弟が三菱の権益を守るために政官界で華々しく活動をしたという見方をするのはすこしも不自然なことではないであろう。注意深くこの二人の人物の軌跡をおうと、そこには三菱の利権が常に存在しているのが理解できるのである。

 そして、なによりも大事なのは、加藤は裏の、幣原はいわば表の、表裏一体となった非常に意味深長な動きのなかに三菱の利権が見て取れるということなのである。

 

(4)三菱の明治大正期のスタンス

 ところがである。軍部というのは、もともと長州閥が支配していたところであり、三菱からすると、やや遠い存在なのである。三菱の幣原が、軍部に批判的であったということを、幣原が立派な人物で、彼の主張は本人の誠実さを表していると理解するのはまことに危険なのである。すなわち長州軍閥には三菱の不倶戴天のライバル・三井財閥の匂いが立ちこもっていた。長州軍閥出の政治家・井上馨が、西郷隆盛から“三井の番頭さん”と呼ばれていたのはその水面下の深い繋がりを物語るものである。長州閥の伊藤博文が初代総裁となった政友会の後の総裁で、民衆宰相と呼ばれた原敬でさえ、その一切の財産を握っていたのは三井であったという。いわんや、軍部中枢や長州系政府要人が三井に深いところでその意思決定を左右されていたとしても、すこしも不思議ではないであろう。

 三菱が、帝国陸軍とはやや離れたスタンスのところに存在したという事情をより理解するには、もうすこし話を巻き戻す必要がある。三菱と一番近い代表的な政治家は、早稲田大学創始者である大隈重信であることはご存じの方も多いであろう。そもそも、明治維新の大元老・大久保利通から可愛がられた大隈重信は、豪放磊落なところがあり、長州閥の最高元老で、ネチネチとして根暗で小心者の山県有朋とはソリが合わなかったのである。山県は陸軍の最初の創設に大久保の同志であった西郷を上手に利用してうまみをしゃぶり尽くし、たまたま西南戦争で大久保と西郷とが同士討ちをしてくれたおかげで、西郷なきあとの陸軍の表舞台にじわりと登場してきてた人物である。

 そして、三菱の岩崎弥太郎が世に出るきっかけを作ってくれたのは、元老・大久保利通と大隈重信である。最初は台湾出兵という日本初の海外派兵・そしてその直後の西南戦争の戦線への物資輸送など、鉄道もない明治はじめに、船舶による軍需物資輸送の仕事を三菱・岩崎弥太郎に優先的にまわしたのが大久保利通と大隈重信なのである。三菱は大久保・大隈のおかげで、あっというまに江戸以来の大財閥にひけを取らないほどの巨大な資本の蓄積を成し遂げた、明治の成金なのである。

 ところが、それまで三菱を保護してくれた最大の庇護者・大久保が西南戦争の翌年の明治11年にいとも簡単に暗殺されてしまう。三菱と大隈は、あっと言う間もないほど、一気に後ろ盾を失う羽目になってしまうのである。すなわち、順風満帆であったはずの三菱とその引き立て役大隈は、この大久保暗殺のあおりを事実上一番まともに喰らってしまったのであると私は思う。

 明治14年に、大隈は西南戦争後の物価高騰と重税課税を理由に長州閥から失脚させられるのである。かたや、日の出の勢いで、向かうところ敵なしの順風満帆であった三菱も、大久保なきあと、社運を賭けて開拓してきた日中航路などを、三井財閥と渋沢栄一率いる政府役人の連合に接収されかかるという苦渋を強いられるのである(むろん名は捨てるものの、しぶとく生き延びるとくことで決着をつけるのであるが、大変な困難を背負わせるということには変わりない。)

 このような経過で、いわば雑草のごとく生きることを強いられることになった大隈と三菱が、それこそありとあらゆる手段を用いて政官界裏工作に打って出たということは言うまでもないであろう。三菱のやり方は、幣原や加藤高明のような、有能な若者を閨閥で取り込んでは育て上げ、万全を期して政界に送り込むという、まさに秘密結社ばりの時間と手間暇をかけた手の込んだやり方なのである。

 かくして、三菱が商船事業から引き上げたあと、政界を追われるきっかけとなった長州閥との闘いは、静かに、しかし、執念を燃やして進んでいったのである。商売相手としての長州閥が支配していた参謀本部・帝国陸軍は大事であるが、そのトップであった山県有朋はむろんのこと、山県と同じ長州閥に属する伊藤博文や伊藤が最初の総裁となった政友会の人脈とも、三菱は明らかに距離を置いているのである。三菱がバックに就いたのは、大隈重信が作り上げた、進歩党(明治29年、1896年)のちの憲政党(明治31年)で、大政翼賛会に吸収されるときの最後の名前が民政党(昭和2年)であった。憲政党(あるいは民政党)は、政府系の政友会とは一線を画して、いわば、民間の言論・ジャーナリズムをうまく利用してのしあがり、その人気取りで国会の多数派を形成しようと目論んだのであった。憲政会の初代の総裁は三菱子飼いで、岩崎弥太郎の義理の息子・加藤高明であるから、いわば、憲政会はそもそも三菱党といっても過言ではないであろう。

(5)三菱と幣原の正体

 このように、三菱は、いわば長州閥と対抗、あるいは最後はうまく利用しながら、山県有朋が死んだあとの長州閥凋落の隙間を突いて、強引に政界に復帰してきたと言えるのである。したがって、三菱の申し子政治家・幣原が、軍部に批判的な言論を展開しても、それを日本国民のため、であるとか、理想的な政治家、とか西欧の良識を良く理解した優れた政治家だったというふうに言うのは、幣原という人物の本質を見誤っているのである。

 幣原が、“中国民族の自主独立尊重”と唱えるとき、それは単に、軍部・政府をまき込んだ凄まじい利権争いの一表現なのであり、‘三菱党’の利権擁護のための‘目くらまし’をブチ上げているに過ぎないと理解しなければならないのである。すなわち、幣原の言っていることは、三菱の利権を擁護するための事実隠蔽のための、歯の浮くような“美辞麗句”なのである。ここに、現在も異常な宣伝攻勢で国民の目を欺き、だまし抜こうとする、まことにたちの悪い三菱の、自己利権擁護体質の原点をみることができるのである。

 

(6)加藤高明と対華二十一ヶ条要求

 このことを、さらに正確に理解するためには幣原の義兄である加藤高明がなにをやったか、また、なにを言ったかということを調べればよい。

 日清日露戦争後の大正3年(1914年)、ユダヤ商人から莫大な借金をして日露戦争をやり、その戦争国債の借金償還で潰れかけていた日本は、第一次世界大戦でヨーロッパが悪戦苦闘していたときの隙を突いて、中国の青島と南洋群島に軍艦を廻して勝手に軍事占領した。ユダヤ商会からの借金のお陰でふらふらになっていた日本は、中国が目の前に下がったニンジンに見えてきたという、まさに犯罪人のような心理状況になったきたのであった。このときの日本の総理大臣はなんと大隈重信なのである。大隈が総理大臣になれたのは、ちょうど山県が担ぎ出した清浦奎吾という華族出身のお坊っちゃん政治家がまことに情けなく、後ろ盾の黒幕である山県がその強権体質のためにまったく人気が無く、多数派を形成することが出来ずに山県の支配が崩壊しだした隙をついて、まんまとジャーナリズムに乗っかって、大隈の憲政会が選挙に勝ったからである。そして、その勢いのまま、大隈は第一次世界大戦のどさくさに紛れて中国人の主権侵害を承知で、イギリスの帝国主義の向こうを張ろうとしたのであった。

 むろん三菱党にとってはまたとない千載一遇のチャンスなのであった。ここに、やっとのことで大隈失脚以来のおいしい舞台が回ってきたのである。ここでがっつかないでどうすると言った、どうしようもない勢いがまぎれもなく存在したであろうと私は思う。しかも、外相に三菱党子飼いの加藤高明を振り当てているのである。対華二十一ヶ条要求という、その後の中国抗日運動の引き金となったえげつない要求を中国に突きつけ、中国から金をまきあげてユダヤ商人から借りた金の借金のかたにしてやろうとしたのである。それには“日露戦争勝利”という幻想に酔っていた日本人の驕りにつけ込んで、民意というものをまんまと誘導し、まんまと政治の主導権を握ろうとしたのである。これは、三菱が仕組んで成功した、もっともひどい実績であろう。三菱のこの民衆扇動のお陰で、何百万もの日本人が無駄死にしたと言えるのである。私は、満州の利権に乗り遅れた欲深い三菱が、上海や南部の中国利権進出を狙って、政治を動かしたのではないかと推測する。

 加藤はこの対華二十一ヶ条要求のもっとも肝要な、第5項の中国政府や中国財界の顧問として日本人を入れよ、中国警察官に日本人を採用せよという、事実上のいわば国家乗っ取りの秘密要求したという張本人である。ところが、このえげつない要求をまったく諸外国には秘密にして行うというあくどいやり方だったのである。完全に国家主権を侵害するこの対華二十一ヶ条要求が、シカゴ・ヘラルド紙に暴露されてしまい、いきなり中国では五・四抗日運動が勃発するのである。しかも、かつて英国公使であった加藤が英語で国際社会にいかに言い訳をしようともまったく無駄であった。この対華二十一ヶ条要求によって、それまで日本が国際社会で生き残って来ることが出来たもっとも根本の外交関係であった日英同盟を完全に破綻させてしまうのであり、その後、日本は英米を相手に廻した大平洋戦争という奈落の底に突き進まざるを得なくなるのである。

(7)三菱の手の込んだ二枚舌の仕組み・加藤高明と幣原喜重郎の兄弟コンビ

 山県亡き後の軍部は、まったく統制が無くなり暴発・暴走の無軌道のいなむしのごとく、悲惨な最期に向かって突っこんでゆく。確実に暴発の引き金となったのは、第一次大戦中のどさくさにまぎれて、まったく無意味に青島半島に武力上陸したということである。本来ならば、高杉晋作の精神のように、欧米人の奴隷にさせられんとした中国人民の救済を行うべきなのに、いつのまにか、中国人は自分たち日本人が欧米人から借金した金のカタになってもいいのだという勝手きわまりない無軌道暴発の決定的な最後の引き金となったことは言うまでもない。軍部が暴発してもはやもうまったく引き返しがつかない状況になった期に及んで、加藤の弟・幣原は加藤首相・幣原外相のコンビで、中国人の主権尊重などという美辞麗句を外国メディア向けに垂れ流すのである。軍部批判とは、軍部を悪者扱いにして、三菱があらたに獲得した利権の確保のための目くらましをやろうという魂胆であり、また欧米にたいしては、日本が中国でやっている事実隠蔽のための、真っ赤なウソなのである。

(8)日本人の足かせとして逆利用された幣原の外交辞令

 幣原はGHQなど、連合軍の中枢部から日本人としては高い評価を受けていた。だからこそ、日本国憲法の草案作りを命じられ、戦後最初の総理大臣となったのである。幣原が評価されたのは、戦前日本が、満州の軍閥を踏みつぶして満州国という傀儡政権を打ち立て、さらに中国領土侵略に驀進していたころ、外相として、軍部に対抗して中国民族の独立性の尊重、無節操な軍事侵略の停止を訴えたということが評価を受けたということになっているのである。

 敗戦後、幣原の美辞麗句は、幣原がどう思っていたかというとこととはまったく別の意図で、まんまと利用されたのである。幣原の戦争批判、武力批判は、とうとう日本人の強制的独自防衛権の放棄というまことに面倒な足かせとなって、戦後ふたたび再利用されたのである。すなわち、良いか悪いかは別として、日本国憲法九条とは、幣原の美辞麗句のツケをいまだに日本が払わされていると言うことに他ならないのである。

(9)暗愚が暗愚を呼ぶ

 ところで、自分たちの利権を確保するために、手なずけた子飼の政治家を世に送り出して、社会をねじ曲げようとたくらむ、三菱のコピーのごとき集団が存在するのである。創価学会と言う存在がそれである。すでに、会員の中から東京大学出身者をはじめとする身内の官僚経験者、あるいは有名人などを、多数政界に送り込んでいる。その数は、三菱を遙かに凌いでいる。

 現在、その国会議員の数に物を言わせ、自民党の補完勢力として、国民無視の傍若無人の愚行を重ねているのであるが、その実態とは、ひたすら権力に恩を売りながら、創価学会の総帥・池田大作という人物のまことにいかがわしい行為の実態をすべて隠蔽するためにひたすら蠢いているまことに怪しげな団体なのである。創価学会は、実際には墓園販売など巨大な金額を動かす商業活動を行いるが、この創価学会の宗教法人利権を守るために、創価学会の下部組織として表向きはまともな政治活動を行っているかのように振る舞っているのが公明党という組織の実態なのである。

 かつて創価学会が日蓮正宗の外護団体の資格をまだ持っていた昭和40年に、「正本堂」と呼ばれた建築物を作るために子供の小遣いまでも掠め取る‘御供養’集めを行った。三菱銀行製の富士山の絵が書かれた水色の貯金箱というのがそれである。そして、集まった350億という巨額の‘御供養金’(現在ではその10倍近くの額に相当する)を、‘正本堂’建築費にはたいして廻さず、在家である創価学会という集団の財産として横取りしているという状況であることは、みなさま先刻ご存じのことと思う。むろん、この巨大な資金のプール役を貰って、創価学会をまったくあきれ果てるほど完璧に支援しているのが、るる述べてきた三菱なのである。その目論みとは、創価学会と手を組んで、先行集団・住友三井に追いつけ追い越せという目標を達成するためには、まったく手段を選ばず、得体の知れない新興宗教集団とも平気で手を結んだということなのである。

 三菱が創価学会の悪行に手を貸しているということは、三菱が、創価学会に自分たちと同じ匂いをかぎつけているということではないだろうかとさえ私には思えるのである。それほど、創価学会と三菱とはそっくりの体質を持ち、完全な運命共同体といってもいいほど一体化しているともいえるのである。

 成り上がるためには手段選ばすという人間とは思えない無節操な体質をもっているのが、三菱の深いところを貫いている体質である。三菱自動車のリコール隠しに見られるような、あまりにも威圧的、非人間的、冷酷きわまりない姿勢が、三菱の創業当初から体質としてまったく変わっていない企業至上主義身内主義をまことに見事に表現しているのである。

 三菱グループは、表面的には、やれ商事だ、一流企業だ、元老だ、首相だ、外交官だと、実に表面は華やかであるが、所詮、札束や閨閥で取り込んだ人間を政治家として世に送り込み、政界をむりやりねじまげるために、ありとあらゆる工作を仕掛け、ひらすらグループの利権保護に奔走するどうしようもない連中なのである。あまりのいかがわしさに、まともに批判されてはたまらないから、徹底的なウソで事実を隠蔽しようとするあこぎな体質をもっているのである。

 ついでに述べておくと、戦後の日本の流れをつけた幣原という人間とは、三菱グループのいかがわしい体質を隠蔽するために登場した‘目くらまし’としての‘飾り’であったということに尽きるのである。だからこそ、戦後日本におおきな影響力を及ぼせたのは、単にGHQにピックアップされたということであって、指導力・実行力を持った『真のリーダー』ではなかったということがはっきりと見て取れるのである。

 

(10)創価学会庇護者としての三菱グループの行く末

 三菱という会社は、熱い太陽照りつける、南国は四国安芸生まれの岩崎弥太郎という成り上がりワンマン経営者の家訓を奉じて大きくなってきた会社である。この会社には、弥太郎は、かつて中央政界を籠絡させようとして、夜な夜な隅田川べりで品のない芸者かりあげのどんちゃん騒ぎを連日やっていたが、表向きは丸の内で活動する紳士面の三菱には、夜になると、つるんでなにをやっているか良く分からないいかがわしい匂いがずっとつきまとっていると私は思う。こう言っては失礼だろうが、三菱は今でも、四国は土佐のワンマン経営者と、武闘集団まがいの徒党たちとの親分ー子分の関係の上にはじめて成立している三流人材集団なのではあるまいか。いくら頭の良い人間を囲い込んだとしても、むしろそのことがけっきょく仇となるような、一族郎党だけで完結閉鎖してしまう、まことに危険な土俗的世界の匂いが私にはするのである。

 大正期の日本では、すでに述べてきたように三菱の子飼いの幣原が、薄っぺらな理想主義を並べたてれれば並べたてるほど、よけいに旧陸軍軍部の暴発を誘い出したのであった。傀儡国家・満州国建国という愚行は、教科書ではまるで軍部の独断の暴発で出来上がったように言われているが、絶対にそんなことはあり得ないのである。旧ソビエトや中国軍閥の跋扈する満州の治安維持を守ろうと思ったら、だれでも帝国陸軍と同じことをやるだろうと私は思う。中国利権による国益などという泥棒行為で民衆を煽り、第一次世界大戦のどさくさで中国侵略の‘毒まんじゅう’の‘しびれるようなうま味’を日本国民に覚えさせた大隈ー加藤ー幣原のラインこそ、民衆の背後にいて、衆愚につけ込み、戦意を煽って軍部をつけあがらせた、真の意味の本当の戦犯なのであると私は思うのである。いくらGHQのお目こぼしにあずかっても、因果の裁きからのがれることは出来ないのである。

 三菱に守られている創価学会はどうか。権力の補完勢力として、日本社会がお粗末な指導者に引きずられて、どんどん崩壊していくのを、もろてをあげて歓迎しているという馬鹿なことをやっているのである。靖国神社を隠れ蓑に、民衆の無知につけこんでどんどん日本を破壊してゆく自民党政権であるが、創価学会が自民党とまったく無節操に取り引きしている理由とは、池田の見苦しい御乱行が世に漏れでてマスコミの総攻撃の的にならないように、言論統制のための政治力を確保しようということ以外にほとんど他に存在理由もなにもないのであるということは、もはや誰の目にも明らかであろう。

 池田大作のメロンの儀式というのが、週刊誌でつとに有名である。、このメロンの儀式というのを聞かされたヤクザの親分が、これは自分への忠誠をためすのにもってこいだ、俺もやってみよう、といった話しが、まことしやかに語り継がれている。池田は、取り巻きの自分への忠誠をためすために、自分が口を付けたメロンを会合で廻すのである。そのときの様子を徹底して観察していれば、その人物がどの程度自分に忠誠を誓っているのかすぐわかるのだそうである。創価学会とは、こんな親分子分の関係しか存在しない社会であるから、自分たちの行状の結果がどういうことを生み出すのかまったく理解できていない、愚人の集まり以外のなにものでもないのである。すなわち、創価学会こそ、三菱の上を行くもっとも非民主的、自己閉鎖集団なのである。しかも、このような閉鎖社会のままどんどん既存社会を浸食していく創価学会であるが、創価学会とは間違いなく日本社会に巣くう“癌”である。

(11)エピローグ

 この程度の非近代的で自己利益の擁護にただひたすら突っ走る創価学会・三菱という土俗集団連合が当分日本の未来を支配するかと思うと、まことに嘆かわしいの一語に尽きるとおもうのであるが、誠にさいわいというか、リコール無視で決定的に信頼を失った三菱自動車に対して市場離れがあまりに凄まじく、三菱自動車への三菱グループからの金融支援がすでに4000億円にもなんなんとしている。三菱グループ全体にひたひたと危機が迫りつつあるのを見るにつけ、戦後世界のリード役三菱であったものの、創価学会の支援団体となったばかりに、三菱は戦後大衆階層の中に築いた大衆文化リード役としてのトップの座を追われつつあるのである。そして、史上最悪の津波が発生した平成16年年末から、いよいよ激動の乱世の平成17年に突入しようとしているのであるが、創価学会なぞいつ吹っ飛んでしまってもおかしくない時を迎えて、仏法のまことにきびしい因果を思い知る今日である。

《引用文献》

伊藤乃雄:日本の歴史22政党政治の天皇、講談社.2002年9月10日 第1刷
読売新聞社:今問われる日露戦争、日露戦争100周年記念シンポジウム講演集、読売新聞東京本社.2004年10月22日
永沢道雄:日本人はどこで歴史を誤ったか、光人社.2003年11月1日.