第3回目の入院その後
強力なヤツ(術後240日目、02.7.3)
抗癌剤の点滴には下痢と便秘の副作用もある。ほとんどの人々が、これで ウンウン 言わされている。
私には最初下痢がきた。つぎに強力な便秘がきた。5日間も出ない。
サラリーマン時代の5、6年間、1週間も出ないことがあった。……がそのときは原因がはっきりしていた。業務上のストレスである。毎月20日間も営業で出張していると便秘に陥る。私はそんなとき出先の駅構内で本屋を探し、立ち読みをした。不思議にこれで僅かな便意を覚える。すかさず駅トイレに駆け込み、用を足す。
これほど悩んだ便秘であっても、出張から帰れば ケロッ と収まった。だから私はそのころ、あまり心配していなかった。
今度の場合は違っている。今回は薬物による副作用。原因ははっきりしている。すでに座薬を使用したが効かない。浣腸は手術後に苦しい思いをした経験がある。何とかしなければ……、と思っていたとき、なんでも相談できるベテラン看護婦が検温にきた。
「いままで努力したけど駄目なんですよ、いい方法はない?」
「悪かったわねぇ。早くこちらで考えなきゃあいけなかったのに……いい方法がありますよ」
座薬と浣腸の中間の方法で、尻に指を差し込み便を掻き出すと言う。
「痔はないの? 3年前に出血? それ以後はないの、じゃあ大丈夫。隣の部屋の検温が終わったら、すぐ戻ってくるわよ」
と嬉しい返事。
「先に詰まっているの出せば、後のものは出てくると思うの。今までに何人もそういう人がいたわよ」
勤めていたとき、同僚の父親が夜半苦しみ、病院に運び込んだときの話を思い出す。
廊下で待っていた友人に医師が言った。
「心配いりませんよ。年寄りには強度な便秘が多いんですよ。トイレにいくのが嫌で、水分を摂らないんですよ。いま看護婦が掻き出していますから……」
「まさか自分が、こんな無様な格好になるとは思わなかった。迷惑をかけてごめん……」
「気を遣わなくていいのよ。私たちはこれが仕事なんですから……」
この看護師さんは、手術の前後に私の面倒をみてくれた実習生の先輩である。そんな縁もあり私は気に入っている。いつも明るく、その笑顔に心が和む。先走らず、患者の話をよく聞いてくれる。美人とは言わないが、親切で控え目で、どの患者にも評判がいい。
美人もいいが、美人面してツンツンしている看護師さんでは、こちらが疲れる。
手術用手袋、ガーゼなどを持って看護師さんが戻ってきた。言われるまま尻を出す。好意を持っている看護師のまえだが、恥ずかしいとは思わない。彼女もプロだから自然に作業を進めていく。左手を肛門に、右手を私の左下腹部に廻した。左手の指がヌルリと中に入り奥をさぐっていった。右手は下腹部をなで回している。
「田中さん、指の届くところまで下りていないわよ。もう少し待つか、座薬で駄目だったのなら、下剤を飲んでみますか? 先生と相談してみますけれど、それでも出なかったら、……浣腸にしましょうよ」
と言いながら右手で腹を下の方、したの方へと押し揉みしている。便秘のことは忘れ、いい気持ちに浸っている。いいから、いいから、そのままいつまでも揉んでいてくれ!
若いときの便秘は、ものを食べているのに出なかった。でも今度はほとんど便になるようなものを食べていない。もうすこし時間をかけ、浣腸で出すよりほかないのかも知れない。
階段
階段を利用した運動を続けている。今朝、中年の男性2人に出合う。夜も出合った。1人はトレーニングシャツに半ズボン、スニーカー姿で、もう1人はパジャマ姿だ。2人とも、シャカ、シャカと歩き方にリズムがあり、元気そうだ。私のように手すりに手を添えたりはしていない。
左手にグリーンの標識表をつけた2人は、
「頑張っていますね。無理しないようにね」
と私に声をかけながら階段を上がっていった。
前回の入院中、
「自殺行為だよ。あまり無理をすると死ぬよ。階段の運動はやめた方がいい」
と若い人が、談話室で身内の人に言われているのを聞いた。
いま、階段を降りながら「無理をしないようにね」と言われて、私はその時のことを思い出している。果たして体が参るのか、どうか? 限界はどのあたりなのか、確かめてみたい気持もある。明日も運動は続ける。
真夏日
見舞いにくる人たちが、外は暑いよ真夏日だよ、とみんなが言う。でもエアコンの利いた院内は、梅雨の合間の暑さもなければ、蒸し暑さも知らない。特に室内は天国だと私は思っている。
ところが、2か月以上も点滴だけで過ごしている向かいの男性は、室内の空気が悪くイライラするという。この人は空気が悪くて機嫌が悪いのではなく、本当はなかなか恢復しない自分にイライラしているのではないか。彼のイライラは医療陣に対してわがままになり、反抗的になる。熱の原因を突き止めるため CT を撮ろう、と医師や看護師が何度も説得にくるが、
「今日どうしても撮れというの? ……今日は駄目だ!」
「今日は駄目だ、きょうは駄目だって、もう3日になるよ。原因を調べて早く手を打たないと、手遅れになることだってあるよ。明日になれば良くなるってもんじゃあないんだから……。風邪かなんかで熱が出ているのなら、明日でもあさってでもいいが、このまま良くなる保証はないよ……。どう? ……調べようよ」
「いや、今日はやめる。そんな気にならん」
「患者さんが嫌だと言えば、こちらは何も出来ないけど、あとで『あの時どうして調べなかったんだ』と言われても困るんだよね。本当にやらなくていいんだね」
「……」
困った患者もいるものだ。病院側の手落ちは手落ちとして、自分の体を治すため治療に協力すればいいものを、と思って私は聞いている。
廊下を隔てた西側の病室に西日が差し込んでいる。
「空気が汚れているから窓を開けてくれないか……。鍵がかかっていて開かないんだよ」
と件の男。
前回の入院時に1度、事務員が鍵を持ってきて窓をあけ、空気を入れ替えてくれた。そして30分後、窓を閉め施錠した。
「安全上の問題で鍵をかけますけれど、ご理解ください。なお、これからも開けてある間はベランダには出ないようにお願いします」
と言われていた。そんないきさつもあるので、事務員でなければ、窓は開けられないと思っていた。
ところが今回は、
「開かないの?」
と看護師が言いながら、施錠されているはずの窓を開け、
「しばらくしたら、また閉めておいてね」
と何事もなかったように部屋を出ていった。
「あれ! どうなっているの……?」
そうか、鍵はかかっていなかったのか。目の前に物があっても心がそこになければ、物は見えないという。思い込みとは恐ろしいものだ。かかっていない鍵を、かかっていると錯覚していた。
地上は午後の照り返しがきついらしいが、8階ともなれば風通しも良くエアコンで管理された環境とは一味ちがい、空気がおいしい。
8階、ベランダ、窓の開放……? 病院として管理上ちょっと問題があるのではないか。昼間はまあ大目に見てもいい。室内患者の目があるから……。夜はどうする? 誰にも知られず、静かにベランダに出るのは可能だ。そのあと、誘われるように空中に跳ぶ患者がいたとしたならば……。
窓の開閉管理は事務員だけが行うものなのか? 事務員以外には指示が出ていないのか? いや、それはあるまい。院内教育が徹底されていないだけだ……、と私は思う。
緩下剤(術後241日目)
回診 血液検査の結果が今以上であれば2日後に点滴を再開する。いま白血球がやや低いが、明朝の検査で20を切っていれば点滴は先に延ばす。20以上だったら予定通り実施。経過を見て問題がなければ1週間後に退院、と主治医。
検温 36.3度(平熱:36.2〜4)きのうまでは37.3度。
緩下剤 ラキソベロン 10ml
11時と23時の2回服用。4日から座薬を使用していたが便は出なかった。今日はもう遅いから、出ないだろうと思っていた。24時ジャスト便は出た。豆粒状のものが4個。便器に水がなければ音がしたのではないか、と思うような硬そうなヤツだった。
血液検査は?(術後242日目)
白血球: 28
血色素: 11.6 よかった、よかった! 明日から点滴再開である。
6時: 豆粒状便が4個。
9時: 団子状のものが9個も出る。
13時: 宿便プラス軟便。出尽くしの感あり。ホウッ、よかった。浣腸よ、バイバイ!
非常警報
20時38分 断続的なブザー音。続いて、
「非常口は各廊下の突き当たりにあります! 非常口は各廊下の突き当たりにあります! 落ち着いて行動して下さい。落ち着いて行動して下さい」
緊急案内は4分間も続いた。何があったんだろう? 火事か? それとも緊急事態の発生か? 患者たちは廊下に出たり入ったり、騒々しくなってきた。事後説明が8時52分に放送される。
「皆さん、お騒がせをしました。先程の大雨のため、感知器が誤作動しました。ご迷惑をかけて申し訳ありません。点検の結果、異常はありませんでした」
それはよかった。何事もなくて……。でも、この説明はちょっとおかしいよ。誤作動があったのに、異常はありせんでした、はないだろう。……百歩譲って誤作動があったのは仕方がないとしよう。だったら、今後は誤作動のないように点検整備をいたします……ぐらいをなぜ言わないのだろう? でも、みんなは、びっくりしたよねぇ、なんて気にもしていない様子。言葉じりを捉えて、それはないよ! と言う私がおかしいのか、偏屈なのか。もう少し物分かりのよい、細かいことを気にしない人間になれよ! と言われても、こればっかりは性分だから仕方がないか。
午後の検温: 37.5度
今度の入院では最高の体温である。明日からの点滴が気にかかる。
再点滴(術後243日目)
検温: 36度(今までの最低記録)よし、点滴に支障はない。
点滴: 午前中。吐き気止め。抗癌剤(100ml)。ソルアセトD。
夕食前。吐き気止め。
台風: 夜半から明け方まで荒れ狂う。
点滴(2日目。術後244日目)
午前中。吐き気止め。ソルアセトD。
◎夕食前の吐き気止め、今日はなし。 食事:気分悪い。
検温: 36.5度
便通: 昨日からなし。
エア: 点滴時、管の中に気泡が残るのは気分が悪い。血管にエアを注射し人を殺す、という事件や推理小説がある。それが気になるから看護師がエア抜きをしてくれないとき、私はポンポンと管を弾いてエアを抜こうとする。気泡は徐々に管の中を上っていき、やがて上から落ちてくる点滴液を受けるコック上の空間に浮き出て泡は消える。ところが今朝は最後の調節コックのところを抜け出てくれない。コックを緩め上へ浮き上がらせようとしたら、点滴液がどっと押し流され、気泡も腕の中に入ろうとする。右手でしっかりと管を折り畳み、ナースコールを押す。
「大丈夫ですよ、このくらいは……。大きな注射器1本分くらいの空気を入れなければ死なないから……」
と、人さし指と親指で注射器の太さを示し、看護師は笑っている。
大丈夫と言われてもなあ、素人のこちらはビビルよ、本当に……。
前にも似たようなことがあった。担当看護師は細かい気泡を見ながら、さも面倒くさそうに、「大丈夫、このくらい」と言った。気泡を消してはくれたが、患者は神経質になりがちだ。もう少し気を遣って欲しい。
このくらいでは死なないよ、と教えてくれた人は看護師長で、言動は荒っぽいが説得力がある。言葉は男っぽく、背は高くはない。しかし貫禄があり光っている。
「そうねぇ……、少し残っているわねぇ」
と言いながら、指でたたいて全部出してくれた。余分な説明はしない。けれども言うことははっきりと患者に説明する。患者に心配をさせない気の遣いようも、人の上に立つだけのことはある。