
| 【】 【2007.5.5(土)】 Gツアー たぶん「ゴールデンウイークに門司高食堂で働く同期3人を訪問しようツアー」の略だと思う。掲示板にも書いたけど、思いもよらず5月1日Gツアーの一行に出会って、合流させてもらった。かずおの家から門司高まではたぶん10分少々くらいの近さで、行こうと思えばほんとにすぐなんだよね。でも、みんなもそうだと思うけど「門司高に行ってみよう」なーんて思い立つはずがない。たぶん今回のGツアーに出会ってなかったら向こう10年間くらい門司高に行く予定はなかったと思う。 そこそこの年齢の人間8人で校内をうろうろ。授業中だったのでみんなで「不審者と思われるから静かに回ろうぜ…」とか話しながら恐る恐る(こそこそ)…って感じの校内見学だった。一通り見学してバックネット付近で「しみじみ」してたら、キーンコーンカーンコーン(だったかな?)ってチャイムの音が。そう授業の終了の合図である。って思ってる間に生徒達や先生がバラバラと廊下やら校庭やらに出てくる。掃除の時間である。ちろちろとあちこちからこっちを見てる視線を感じる。あっこりゃそろそろやばいじゃーん、とか言ったかどうかは覚えてないけど、みんな「引き際だ」ってことで退散することにした。そしたら校門に行くまでに出会った生徒達が挨拶するんだよね。「こんにちはー」って。いやあ少し感動。こんな不審者っぽい我々に挨拶してくれるなんて。まあ、年齢的には彼らのお父さんお母さんくらいの歳だから、「先生に呼び出しを食らった保護者達」って見えないこともない。まあ、またやるなら、迷惑にならない・不審者に見られない程度に静かにやればいいと思う。 さて、幸華会のHPは、koukakai.comの方が主流になってて、こっちは傍流になってしまった。傍流としてはHPをもうやめちゃってもいいんだけど、まあ個人的趣味ってことでしばらく残しておいてもいいかなーって思ってる。自分でもあまり見ないんだけど、傍流HPのカウントも少しずつ進んでるみたいだしね。あの「言いたい放題掲示板」はすごいねえ。内気なかずおは、ちょっとあそこに参加する勇気はないので、もう1つの掲示板でひっそりと過ごしていこうと思う。 【2006.8.18(金)】 変わったかな? 幸華会でいろんな人と会ってどう思っただろうか。久しぶりに会って「ぜーんぜん昔と変わらんやん」って人もあるやろうし、「げっ、昔とぜんぜん違うじゃん」ってのもあるやろう。1次会の終わり頃に、とある男に、「おまえ、性格変わったのー」って言われた。そう言われてみれば少し変わったかもしれない。思えばかずおは小学校の頃から無口な内向的な子供だった。まあ、かなり今でも引きずっているかもしれないが、少なくとも高校の時とは多少変わって見られたようである。 自分で少しは性格が変わったかなーって思うのは、大学の時である。32年前の春、門司高の同期のY(バレー部)と大学に入学してすぐの頃、テニスでも見学に行こうってことで、テニスコートに向かって歩いている途中でふと立ち寄った体育館でバレーボールを見ているうちにえらく口のうまいバレー部の上級生に2人ともサインさせられてしまって、バレーを始めることになってしまった。Yは元々バレー部だからすぐにレギュラーになったりしてよかったんだけど、初めてバレーをしかも大学から始めるなんて思ってもみなかったかずおは、えらくしんどい思いをしてしまった。でも部員が少なかったこともあり、なんとなく卒業まで続けてしまった。もちろんそんなのでうまくなるはずはないので、素人よりはまし程度のものだった。 今考えると、このバレーなるものに出会ってから、どうも自分でも少しは性格が変わったかもしれんなーって感じるわけである。田舎のチームのことであり、練習が終わるとすぐ「誰かの下宿に集まって宴会」って日が多かった。当時は4畳半ってのが下宿の相場だったのだが、その4畳半に廊下まではみ出しながら10〜20人くらいの部員がしょっちゅう宴会をやっていたのであるが、そういうところでまあ無口なかずおも少しはいろんな人と話をするようになったように思う。 このバレーというのはその後の人生でけっこう役に立っていて、就職してからはどこの職場に行ってもバレー部に入れてもらえたおかげで知り合いも増えたし、職場対抗とか寮対抗とかのスポーツ大会ではたいがいどこでもバレーとかをやるので、ほんの少しだけどバレーをかじっていたかずおは世話役とかキャプテンとかを仰せつかったりしていた。結婚してからは、地域には必ずある「ママさんバレー」に妻と通ったことで、これまた知り合いがけっこう増えたりした。 今住んでいる姫路でも、いつも買っている魚屋さん夫婦がバレーをやっていたことでママさんバレーに誘われて、それが縁でソフトボールに誘われ、校区の体育委員に誘われ、校区の自主スポーツクラブの役員をやらされ・・・・ってことでけっこう休日は忙しいことになっている。 まあ、そういう意味で少しは自分が変わったかなーって思う。大学でバレーを始めさせてくれたYにはけっこう感謝している。おーいYよお、行方不明になってるけど元気でいるかー? 【2006.8.17(木)】 近況報告は不要だったかな 何度も言うように、今度の幸華会は互いに遠隔地のSとしのりとYけいことNかずおが行った。よって、事前に集まって相談ってのは一度もやっていない。1次会の内容もまったく決めずに、「とにかく開催の1時間前に集まってちょっとだけ相談しよう」ってことだけだった。 最初はラメールが時間エンドレスでOKとのことで、飽きるまで1次会をやって、それからゆっくり2次会に行くつもりだった。でも、マイクロバスで2次会会場まで送って行ってもらうということで、やはり終わりの時間を決めざるを得ず、とにかく18時くらいまでにしようって決めて始めたわけである。そしたら「次の予約が入ったから17時半頃から片づけを始めて欲しい」ということになって、まあ始めるのも遅かったこともあって、結局2時間くらいしかできなかったわけである。やっぱり短かったよねえ。 近況報告も最初は、「しなくてもいいけど、雰囲気によっては一言ずつ話してもらおう」くらいのつもりであった。けっこう宴たけなわで近況報告をやったので、最初の頃に話した人の話はけっこうみんな聞いてたけど、だんだん後ろの方で話した人のは、あんまり聞けてなかったんじゃあないかと思う。後の方で話した方には申し訳なかったなあって思う。もしかしたら近況報告はやらなくてもよかったかもしれないと思う。 さぼってしまったけど、往復はがきの近況欄にみなさんけっこう書いてくれたので、それを印刷して当日配ればよかったなーって思う。 往復はがきは、6組の人に渡してしまったとのことだけど、なんとか取り戻してHPにでも反映したい。 【2006.8.16(水)】 なんとかなるもんやね 前回の幸華会の場(2004年1月)で、SとしのりとYけいこと私かずおの3人で「次回の5組の幸華会どうしようー・・・・?!」ってこわごわ話してたのに、なーんかなんとか終わることができました。 まず、1年位前にSとしのりがラメールを予約してくれたことで、なーんかすごく気分が楽になって、「とにかく当日に集まるようにしむければいいんじゃーーん」って軽い気分になりました。 ほんとに焦ったのは、今年の春先から以降くらいで、それまではのーんびり名簿の整理とかをやっていました。ちょっと遅かったかもしれないけど、案内の葉書も掲示板で教えてもらってワードの差込印刷ってやつで何とか作ることができたし、いやあIT技術(ホームページ)のおかげでけっこう出席者も集まったし、なんとか開催できてよかったーと思っています。 8月12日の15時すぎに、Hしま先生があいさつを始めてくださったのを横で聞きながら、「あー俺の仕事も終わったぞー!」って感じていました。 会場をラメールにしたのには、2つ理由があって、ひとつはラメールの社長がSとしのりの同級生だってことで、早くから予約してけっこう無理を聞いてもらったってことです。でも、後で聞くと、けっこう他のみんなもラメールの社長のことは知っていたようです。バスも出してもらったし、安くもしてもらったし、あんまり儲かってないかもしれません。 もう一つの理由は、かずおが以前の幸華会(40歳の初め頃)ですごく印象がよかった店だったってことです。だいたい大学のコンパとかは畳のある部屋で膝突き合わせて輪になって話すってのが一般的スタイルだと思ってたんですが、まさに今回の幸華会は海沿いの部屋のあちこちで数人の輪がたくさんできていて、熱心に話し込んでいる光景が見ることができました。 できれば1次会でゆっくり話す時間をとろうってことで、Sとしのりと相談して15時スタートにしたのですが、集まり具合を見ているうちに始まりが15:20頃になってしまいました。それと、幸華会の後の予約が入ったとのことで、17:30頃から記念写真に入らざるを得なくなりました。実質2時間くらいしかありませんでしたので、1次会しか出席していない方々にとっては「短いじゃーん」ってご不満を持たれたかもしれません。次回の6組の方、その点ぜひご配慮お願いします。 さて、ホームページのことですが、何となくみんなのノリで「独自ドメインを取ろう!」って話になり、現実に「kokakai.com」というドメインをすでに取得したと聞きました。かずおはその話題の時、正直白けていました。「独自ドメインんを取ったからどうなるんやろう?」って素朴な疑問を持ちながら聞いていました。はっきり行ってホームページが役に立つか立たないか、アクセス数が増えるかどうかは、あんまりアドレス(URL)に依存しないってのがかずおの持論です。結局使う人に役に立つかどうかだけです。 今のURLは確かにかずお家の個人の物でいいかげんなアドレス名だし、、幸華会の独自ドメインを持てば「かっこいいし」「覚えやすい」かもしれません。でも、ここでいいたいのは、ホームページはURLじゃあなく、使う人がどれだけ育てようって心を持ってるどうかだよ、ってことです。 ドーベルマンでの2次会についても人数が少ないかなーって心配していましたが、マイクロバス満員1台プラス2台目7人ということで、たぶん33人くらいのかたに集まってもらうことができました。ドーベルマンの収容力に感心しました。いっぱいいっぱいに見えたけど、あれより増えたら「男子クラスの人間」は床に座っても大丈夫ですから、50人くらいなら詰めては入れるんじゃあないかと感じました。いやあ、48期にドーベルマンがあってよかったねーって思うのはかずおだけではないはずです。感謝しましょう。 今回の幸華会で、前から会いたい方二人に会うことができました。もちろん(?)女性です。 一人は、小学生(もしくはそれ以前)から、家が10mくらいしか離れてなかった方です。僭越ながら幼なじみと呼んでもいいかと思うのですが、思えばずーっと幼少の頃から知っていた人です。幸華会出席の連絡をいただいて緊張しまくりでした。 もう一人は、不覚にも受付の時に顔がわからなかったのですが、丸山小学校1年2組で入学してすぐに隣りの席になった方です。少しふくよかな笑顔のすばらしい方が痩せていたのでわかりませんでした。 この二人の方は小学・中学・高校とクラスが同じになったり違ったりしながら、いつも「そこにいらっしゃる存在」って感じでした。高校卒業以来お会いしていなかったので、ほんとに今回はお会いできてうれしくていっぱい話をさせていただきました。 もちろん常連の方と2年ぶりの話をゆっくりさせていただくのもうれしいのですが、こういう風に「卒業以来じゃーん」って30年ぶりの会話も(ぎこちないけど)楽しいものです。 さて、5組の幹事もとりあえず終わりましたが、残務処理があります。 幸華会当日配布した名簿は、往復はがきの住所変更等を反映し切れていません。まあ、言ってみれば「かずお」の怠慢のせいで古い名簿のままの方が何人もおられます。一応、Sとしのり君が「修正ができていませんよー」って謝ってくれましたが、実は「かずおの怠慢」です。今回の幸華会に来ていただいた方々に修正名簿を送るのか、それとも2年待ってもらって次の6組の幸華会の時に配布するのか・・・・費用とかを考えながら決めたいと思います。 行方不明者の調査もまったくできていません。名簿上は行方不明なのに、掲示板で書きまくってるYさんのように、調査すれば行方不明ではなくなる方もけっこういると思います。今回の幸華会では、としのりもかずおもけっこう直前に忙しかったこともあって、そういう調査がまったくできていません。とにかく6組に引き継ぐ前に少しでも調査したいと思います。 勝手な希望で申し訳ありませんが、そのうち幸華会を泊りがけで行うのもいいのではないか(?)と考えています。どうしても日帰りでは帰宅時間のことを気にしながらのことになります。一泊して家族も何も忘れて旧交を温めるってのもいいのかもしれません。とはいえ、それには幹事がそうとう苦労することになりますので、「やってくれ」とはとても言えない5組の幹事です。 さて、勝手ながら掲示板を増設しました。今までの掲示板はそのまま残しています。 新しい掲示板は、幸華会の連絡事項や感想などの「ちょっと軽い掲示板」にしたいと思います。まあ、あんまり使われなくなったら消去しますけど、試行ということでしばらく置いておきます。 【2006.1.14(土)】 本年もよろしくお願いします さあ、いよいよ我が5組が同期会を担当する年になった。はっきり言って会場の予約以外はなーーんにもしていない。第一、5組のメンバーといってもとしのり(パッチ)としか連絡を取り合っていない。どうもこのまま行くと、同期会の場所は門司でやるのだけれど、案内の葉書は姫路か愛知から発信することになりそうである。 2年前に名簿の整理をほんの少しだけ着手して、後はそのままほったらかしにしているのであるが、とにかく名簿の整理だけでも早めにやっていかなくちゃあいけない。前に作ってくれている名簿と言うのがexcelとかのファイルじゃあなくて、どうもワープロで作ったものらしくてうまく読み込めてもいないし編集もできずにいる。というわけで、とにかくexcelファイルにするのが今年前半の仕事になりそうである。 場所はとしのり(パッチ)と相談したんだけど、門司港ホテルはきれいで快適なんだけどこの間使ったし、門司倶楽部もちょっと前に使ったし、比較的広くて時間的にも追われないとこないかねえとか話していたら、大里の海沿いのラメールみやびの社長をとしのり(パッチ)が知ってるんで電話してみるってことになり。海側の部屋を時間制限なしで使わせてくれることになったわけである。私の記憶では40歳代初め頃の同期会は、このラメールみやびの海側の部屋でやっている。その時かずおは同期会出席葉書を出していなくて、しかも時間に遅れて参加させていただいた。みんなの近況紹介が終わった後に会場に入ったために、すぐにわけもわからずにいきなり近況報告(自己紹介?)をさせられた記憶がある。 ちなみにあの海側の部屋はけっこういいよねえ。まず部屋が広いし、行きかう船が目の前だし、ちょうど下関側に沈んでいく太陽をバックに海峡がシルエットで・・・・目のいい人なら巌流島の武蔵と小五郎の像も見えるんじゃあないかな。でも、あの像は(去年上陸した時に)いかにも観光用に作ったぞって感じで、巌流島そのものは何にもない小島だったけど。 ところで、大里地区のラメールみやびで1次会をやった場合は2次会どうしよう??どこか予約しておいた方がいいよねえ??たぶん2次会には大多数の人が行くだろうし。どうせならタクシーに分乗して「ドーベルマン」まで一気に移動するか?4人ずつ乗ったらそんなに高い金額にはならないだろうし。 さて、勝手な思いつきなんだけど、今年出席していただける先生に少しだけ「ミニ授業」をお願いできないものだろうかと考えている。先生の負担になったらいけないので時間は10分間でも20分間でも(はたまた1時間??)いいと思う。私の希望としては、今回は5組の担当だから5組の田中先生にお願いできないかなあ・・・・って思っている。それとも各先生方の近況報告の時間を少し長くとってもらって全部「ミニ授業」にしていただくか・・・・? 【2005.3.13(日)】 いやあ、久しぶりの更新だあ ■去年の門司高校同窓会誌「硯の海25号(2004年9月発行)」に掲載された駄文です。 しつこく盛大に続く幸華会 48回生(昭和49年卒業)の同期会は「幸華会」という。この幸華会、今年2004年3月にちょうど卒業30周年を迎えている。年齢は48歳から49歳(たまに50歳)という、まあ社会的に円熟した歳で、そろそろ新聞の字が見えにくくなってきたぞーとか言い始めるくらいの年齢である。生まれは昭和30年から31年で、もう戦争のことが語られることも少なく、団塊の世代の少し後で、高度経済成長よりは少し前で、まあ日本としては少し世の中が落ち着いていた時代かなって頃の生まれあり、小学下学年で東京オリンピック、中学で大阪万博、そして青春時代はフォークソングで長髪とジーパンって世代である。 そんな48回生であるが、この幸華会次の2つのことを「自慢」することができると思う。 (1)きちんと2年毎に同期会を行っている。 (2)幸華会のホームページを持っている。 同期会は、まず卒業3年目に「第1回目」を開いて79名が出席している。当初はオリンピックの年毎に同期会を開いていたようであるが、どうも4年毎だと住所不明者が増えてしまうとかいう理由で、卒業10年頃から2年毎に同期会をやろうってことになり、以後ずっと続いている。幹事は、1組→2組→3組・・・・→6組と途切れることなく回ってくるというシステムで、先回の幹事は2巡り目の4組担当であった。ということは少なくともこのシステムが10回20年間機能しているということである。いやあ、なかなか真面目というか律儀といっていいだろう。 幸い、同期生同志で結婚して門司栄町で「ドーベルマン」というスナックを開いている夫婦がおり、そこが48期生の「母校」ならぬ「母港」的な心のよりどころになっている。もちろん同期会の2次会とか3次会とかはそこに集結しており、遅くまで気兼ねなく騒ぐことができる。 こういう会はある程度決まった人間が「常連化」していくものと思うが、実際卒業以来ほとんど皆勤賞状態の人間が何人かいて会を支えてくれている。私はというと、20年間くらい「ご無沙汰状態」で、40代になった頃に突然思い立って出席し、その後はなんとか出席しているという程度の怠け者である。ほんとにこの同期会を30年間支えてくれた仲間(常連)には感謝している。 この幸華会、別に「関東幸華会(仮称)」というのもあり、少なくともここ6〜7年毎年東京で同期会をしていると聞いている。なかには門司からわざわざその東京の同期会に出席する人間もいるらしい。ということで、卒業後の30年間に合わせて20回近く同期会を開催してきたのではないかと思う。仲がよいというか、宴会好きというか、しつこいというか、不思議な48期である。 一番最近に門司で行った同期会は、今年2004年1月2日(東京は7月23日)に門司港ホテルで行ったものである。題して「卒業30周年(マイナス2か月)記念同窓会」。そう、記念すべき節目の同期会であった。案内が来た時、「おお、30周年かあ、こりゃあなんとしてでも出席しなくっちゃあ!」って感動したものである。で、その時の出席者が先生3名を入れて32名。卒業時264名+先生6名であるので、出席率は約12%である。まあ、30年も経っている割には多いとも言えるし、記念年にしてみればちょっと寂しいとも感じる。うれしいことに毎回先生方が何人か出席していただいている。ほかにもいろいろな卒業生がいることと思うが、このしつこい48期にずっと付き合っていただいてほんとに感謝している。 さて、この記念同窓会で決議し、「卒業30周年記念事業」として我が幸華会のホームページを今年1月4日に立ち上げている。同期会の場で指名されて管理人は私が仰せつかっている。私は個人的に4年前からホームページ作りを趣味としており、それが今現在30万カウントを超えているという「オタク」なところが管理人指名の理由のようである。 幸華会のホームページは、8月初旬の今現在2000カウントを少々超えたところである。まあ、同期会のホームページであるので他人が見るわけでなく、そんなにカウント数は増えないとは思うが、たぶん同期の者が少なくとも毎日10人くらいは覗いてくれているので頼もしく感じている。ホームページの内容は、投稿・掲示板・同期会の報告・同期会出欠はがきに書いてあったみんなの近況などである。掲示板に同期の者がいろいろ書き込んでくれるので、門司を離れている私(姫路在住)にも「門司の雰囲気」や「門司高校の変化」さらに「関東同期会のこと」などが少しずつ伝わってくるのが楽しみである。通常、同窓会のホームページは立ち上げた時は面白がって皆見に行くのであるが、そのうち飽きてしまってアクセスも更新もない、さびしいホームページになりがちである。だからそうならないように「何かホームページの新しい企画はないか」などと考えつつ日々を過ごしていきたいと思う。このホームページの管理人、ちょっと大げさだが、どうやら私のライフワークになりそうである。 ということで「48期のみんなー、同期会とホームページをしつこく盛大に続けようぜー!」 ●48期「幸華会」ホームページ http://homepage3.nifty.com/7neko/ ■この冬に2回、北海道にクレーム処理の出張の機会があった。 1回目は、旭川市内で去年の11月であった。北海道だからやっぱりコートとかいるのかなあ、とか間抜けなことを思いながら行ってみると、旭川空港周辺は真っ白け。市内のいたるところの道路は、ガチガチに凍ってて歩くのに怖いこわい。あー、コート着ていってよかったぁ。 話に聞いていたのであるが、北海道で(冬に?)売っている靴は、底がギザギザになっているので、道路が凍っていてもすべらないとのこと。ところが、関西くらいではそんな(通勤用の)靴は売っていない。かずおの靴も底はまっ平らである。結局1泊2日の間に4〜5回転んでしまった。 で、2回目は2月の下旬、これも旭川空港着である。 この2回目の出張の時は、大きな低気圧が北海道を横切るとかで、大阪を出る時にも「旭川空港は悪天候のため着陸できない可能性があり、その時には千歳に着陸しますのでご了承ください。」とかいう条件付きの離陸だった。クレーム処理のつらさで、そんな状況でも出発したのであるが、幸い旭川空港に着陸することができた。 さて、残念ながらいい靴をもっていないので、しかたなくいつもの通勤靴で出かけたのであるが、今回は夏山の雪渓歩きに使う「軽アイゼン」を持っていった。靴の底に装着する鉄の4本歯のものである。でも、どう考えても市内でそんなもの使うのは不自然である。空港から市内へ向かうバスの中で、そのアイゼンを使おうかどうしょうかさんざん迷った挙句、やっぱりやめておいた。 さて、旭川市で空港からのバスを降りると目の前にデパートがある。前回のことに懲りていたので、そこで靴を買うことにした。さっそく買ったばかりの「冬靴」で歩いてみると、おおっすごい!ぜーんぜん滑らないのである。感動ものである! なんで、こんないいもの関西とかでは売らないのだろう・・・・って思うけど、やっぱりコストと需要の関係だろうねえ。よく東京とかで大雪が降ると転んだ人が救急車で運ばれたとかニュースでやってるのにねえ。 ちなみに、次の日に旭川からJRで北の方の「名寄(なよろ)」まで行って、そこから車で1時間半ほどさらに北上したところにクレームのお客様宅がある、ってことで朝JR駅まで行くと同行者の携帯が鳴った。聞いてみると現地からで「今日はすごい吹雪で移動は危険だから訪問は中止」とのこと。九州育ちのかずおにとっては「へえーそうなんだぁ・・・・」って感心するだけである。 次の日にはみんな別の都合があるし、だいいち低気圧はさらに発達して明日も悪天候みたいで明日の訪問も無理ってことになった。ということで、かずおは帰阪するしかなくなった。 旭川空港と大阪空港の直行便は、1日1往復。その時点で出発時刻まで6時間もあるし、雪は降り続いている。こおりゃあ、旭川空港が閉鎖になったらたいへんだあってことで、しかたなくJRで新千歳空港まで移動して、そこから大阪便に乗って帰ってきた。ということで、北海道まで行って、冬靴を買っただけの出張であった。あとで北海道担当者と話をしたら、「冬靴を買ったことだし、次から冬の北海道クレームは、ぜーんぶかずおに頼むぞー」って・・・・・・おいおい、俺は九州育ちの寒がりなんだって・・・・ |
| 【2004.12.26】忙しい1年だった 思えば、今年はいろいろと忙しい1年だった。 (1)まず、1月1日付けで従来の技術から初めて品質関連の部署に異動になった。 (2)1月2日に幸華会の30周年記念同期会があり、その場でHPを作ることが決まり、かずおが指名されてHPの管理人になった。 (3)1月の初旬に、おやじがペースメーカー埋め込み手術を受けた。ペースメーカーなるものに縁などなかったのでいろいろ心配したけど、その後の経過は良好である。 (4)地域でスポーツクラブという組織が3月に発足して、夫婦でその役員に選ばれた。テニス部やバドミントン部の設立に協力したり、設備備品整備やいろんなイベントの裏方で忙しかった。また、これが縁でバドミントンを夫婦で始めた。(バレーとソフトももともとやっている) (5)6月に、そのスポーツクラブのHPを立ち上げた。カウント数は少ないが、兵庫県のHPからリンクを張ってもらっている。 (6)幸華会のHPの縁で硯友会(門司高同窓会)の会報誌に投稿を頼まれたので、8月に幸華会のことを書いて投稿したら9月に会報誌が配布された。 (7)10月に我が家のHP(消費生活アドバイザー受験記という)に「小論文投稿&添削」の掲示板を立ち上げたところ、合計37個の小論文が投稿されて、11月末の試験日まで、その小論文の添削に追われた。 (8)11月に自治会(町内会)の役員任期延長・規約更改の問題に巻き込まれ、かずおは来年4月から「自治会長」をやることに内定した。 (9)12月にまたおやじが入院して門司に行ったりした。幸いすぐに退院した。 さあ、来年は五十路。どんなことが起こるかな。わくわく・・・・ 【2004.10.3】同窓会がいっぱい 硯の海が届いて「同窓会モード」に入っていたら、立て続けに他からも同窓会の案内が届いた。 まず、門司高校関西支部から。これは出席したことがないのであるが、もしかしたら会費を払ったことがあるのか毎年案内を送ってくださる。しかも、同期(48回生)の関西地区在住者のリストもいっしょに送ってきて、「誘い合わせて出席してください」とのこと。なかなか親切である。そのリストによると関西地区に48期生は16人いるようで、けっこう少数派である。けっこうみんな日本中のいろんな地域に住んでると思うけど、やっぱり九州とか関東が多いのかもしれない。ヒマがあったら、そのうち48回生の現住所の分布をまとめてみよう。 門司高校といえば、夏頃に「兵庫県支部」からも案内がいつも届いている。これも出席したことはないのであるが、会費は払っている。いつも同窓会の会場が神戸あたりで近いので、一度いってみようと思いつつ、なんか他の行事と重なってばかりで行けてない。まあ、そのうちということで・・・・ さて、同窓会ではないのであるが、大学のクラブのOB会の案内が最近続けて2通届いた。 私が入っていたクラブは、毎年OB会ということで、秋の時期に集まって「OB戦」と「総会」と「懇親会(宴会)」を開いている。工学部が大学本部と距離的に離れているため、1年の時には本部のクラブに入り、その後2年進学と共に工学部のクラブに自動移籍というシステムである。ということで、工学部生にだけは、このクラブからOB会のお誘いが、本部クラブからと工学部クラブからとの2通届くのである。 このクラブ、けっこうな「大酒飲み」のクラブで、行けば楽しいのはわかっているのであるが、けっこうな出費である。往復の旅費とOB会費、懇親会費、もしかしたら2次会費、それと宿泊費、いやあ、ボーナスの端境期で家計にとってつらい時期である。さて、今年はどうしよう・・・・ |
| 【2004.9.12】福岡の地名の由来知ってる? 私が今住んでいるのは、姫路市の東の方で、駅で言うと「御着(ごちゃく)」という所である。 この御着には「御着城」とい城跡がある。2階建ての城をまねた建物があるのであるが、これは市役所の支所と公民館が入っている。そう城と言うにはちいさなちいさなものである。 ところがこの御着城は、となりの姫路城よりも歴史が古く、しかも姫路城の親城であったという。つまり姫路城が支城であったのである。 この御着城は、1500年代の初期に小寺氏という武士が作ったものである。その小寺氏の下に、岡山の福岡郷から流れてきた「黒田氏」が家来として仕え、家老になり、その後姫路城をもらったという。その子供が「黒田官兵衛(後の黒田如水)」という。黒田官兵衛は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、知恵者として数々の功績をあげて、後に九州に領地をもらったそうである。その時、その地を先祖の住んでいた岡山の福岡郷の地名をとって「福岡」としたそうである。そう福岡の黒田節で有名な「黒田氏」は、私が今住む御着から出たそうである。 岡山の福岡の地名は、現在は「岡山県邑久郡長船町福岡」という住所で、岡山市と備前市の中間くらいのところである。地図で見ると、小さな町のようだが、「備前福岡郷土館」というのがあるようなので、きっとこの黒田氏のことが展示されていると思う。 以上の事は、司馬遼太郎の「播磨灘物語(全4巻)」にくわしく書かれてるよー。 |
| 【2004.8.22】花火大会に行ってきた 8月13日の関門花火大会に少しだけ行ってきた。 私の実家は、門司港駅から歩いて15分くらいなので、すぐ行けるのである。 母が花火好きで、いつも人をかき分けて海岸の一番前まで行くのに「しぶしぶ」付き合ってたんだけど、今年は母が行かないとのことだったので、妻と門司港駅のバスターミナルでのんびり見た。 バスターミナルからは、門司港駅の屋根で低い花火はちょっと見えないのもあるんだけど、まあおおむね大丈夫である。ここだとそんなに人が多くなくて道路わきの石のベンチ(?)に座ってゆっくりできる。 今年は、旧山城屋前の交差点から海岸までは、車通行止めにしていたので、なかなか快適であった。 花火の帰りには、ドーベルマンに寄らせてもらった。マスターいわく、今年の花火大会の責任者は我が48期のIさんだとか。門司を離れている身としては、このドーベルマンの夫婦といい、Iスイミングクラブの社長といい、地元でがんばってくれていてくれるのはありがたいものである。 ところで、あの花火の費用どこから出てるんだろう? いつも「カンパ箱」みたいなもの置いてるみたいだけど、ほとんど入れてる人はいないみたいだし・・・・ |
| 【2004.8.10】硯の海に投稿したぞ このHPの掲示板に「硯友クラブに投稿していただきたい」と43期の先輩から依頼されたのが7月6日であった。最初硯友クラブって門司高同窓会誌の名前だと思っていたんだけど、同窓会誌の名前は「硯の海」と言い、「硯友クラブ」ってのはその同窓会誌の中の一部で自由に投稿された文章を載せるとこだった。 実はこの「硯の海」だけど、ずーっと以前は届いていたように思うんだけど、最近(20年くらい??)はまったく見たことがなかった。ということは、どうやら門司高の同窓会に会費を払ってなかったみたいである。 そういう話を門司高の同窓会事務局の方と話していたら、投稿するために見本がいるでしょうと、わざわざ「硯に海」の2002年号と2003年号を送ってきてくださった。 ということで、とにかく投稿もなんとか書き上げてFAXで送り、それから同窓会の会費も昨日振り込んできた。 年に1500円ということでけっこう安いのであるが、会誌は約90ページのりっぱな物であり、少ないであろう予算でよくがんばってるなーって思う。 ちなみに、門司高同窓会の事務局の方は私の姉と同期で中学からいっしょだったという。いやあ、門司高の同窓会に対しては「まったくの無視状態」だったんだけど、これからはそうもいかないねえ。 で、この門司高同窓会には「当番期」というのがあるようで、2002年には1が付く期、2003年には2が付く期の卒業生が当番で「総会の運営」と「硯の海の編集」を担当したようである。ということは、1999年には48期も「当番期」だったわけで、次回は2009年になる。ううむ、何か手伝えるかねえ? さて、硯友クラブへの投稿は、やっと今週初めに提出した。いやあ、なんか1か月間悩みっぱなしだった。 ここで、「雑記」を書いてるほうがよっぽど楽じゃーって感じる今日この頃である。 ところで、2002年の硯の海に、我が48期生6組のMじゅんじさんが、「今なら語れる」というところに投稿している。せっかくだから、以下に全文を載せさせていただこうと思う。 ************************************ 「サッカー部誕生」の思い出 時は1973年今から約30年前柳西中学出身のサッカー部同好会キャプテンY野君から「おいM、なんとかサッカー同好会をサッカー部に昇格できないかなあ」と相談を受けたのが始まりでした。サッカー同好会が誕生して数年経っていたが、狭いグランドに今とはほど遠いサッカーの人気がない時代に、野球部、ラグビー部、ハンドボール部など歴史のあるクラブ相手に同好会から正式な運動部に昇格しようというのは絶望的な希望でした。 しかし筆者(M)はY野君とは幼稚園以来の同級生、門司高校で生徒会長を務める立場であったが、ここは一肌脱がない訳にはいかない。 幸い今度の生徒総会では柳小学校入学以来の同級生K谷君の応援も期待できたのである。K谷君はグランドを使わないバスケット部、筆者も水泳部で、野球部、ラグビー部、ハンドボール部などの諸先輩には申し訳ないが、柳小学校−柳西中学人脈の中でサッカー部昇格への動きは固まりつつあった。 事前の談合・密談があったかどうかは定かではないが、生徒総会は利害の反するクラブどうしがぶつかりあった割にはスムーズに(グランドは使えないという条件付きながら)同好会の運動部昇格が議決され、ここに正式にサッカー部が誕生することとなった。 ワールドカップが日韓で開催され、子ども達の人気のスポーツとして根付いた現在ではサッカー部が門司高校で認可されてなかったなど夢のようだが、30年一昔ということでしょうか時代の変わり目だった思い出です。 ちなみにその後20世紀末にY野君はバブルの不良資産整理でアメリカに駐在・筆者とK谷君は香港でドブ板仕事のために駐在、国際電話で昔の思い出を語った一幕もありました。Y野君は中学時代から日本のサッカーの夜明けを待望し(当時は知られていない世界の有名選手のプレーを熱く語りながら)、将来自分たちは世界中に広がって仕事をしているだろうと予言?していた逸人です。 運動部活動を続けている現役の皆さん、将来の夢を語り、汗を流して下さい。きっと時代は変わっていきますよ。 ************************************ ちなみに、かずおの姉は44回生でよくサッカーのことを話していたので、当時のことを聞いてみた。 (1)サッカー同好会は、たぶん昭和43年(1968年)頃に、3つのチームがほぼ同時に結成された。 (2)チーム名は、「ウイングス」と「パルメイラス ジュニア」と、あとひとつは??(忘れたとのこと) (3)姉が参加したのは、「ウイングス」。姉はサッカー同好会の初代マネージャーの一人とのこと。 (4)私ら48期生が入学した46年には、サッカー同好会はひとつだけだったように思う。 それが、47年(?)の生徒総会で「クラブ」として昇格した(・・・・らしい)。 |
| 【2004.1.12〜27(連載中)】ペースメーカー物語 ******************************** 【1】病気がみつかるまで 父は、昨年(2003年)の12月の下旬にガソリンスタンドまで行って、車を降りたところで、気を失って倒れたそうです。 ガソリンスタンドの方がすぐに救急車を呼んでくれて病院に行ったのですが、しばらくして意識を取り戻したようです。病院では、脳波やCTやMRIなど、主に頭部や頚部をいろいろ調べたそうですが、異常が見つからず、やむなくその日は帰宅してくださいということになったそうです。 駆けつけた母とともにタクシーで家の前まで帰ってきたのですが、タクシーを降りたとたん、またもや意識を失ってしまったそうです。 そして、タクシー運転手さんに助けてもらってまたもや病院に戻ったとのことです。 しかし、病院に引き返した後の検査でも、結局異常は発見できなかったそうで、入院を希望したのですが、帰宅させられたとのことです。 その後、2週間ほど何も変化はなく、「あれは何だったんだろうねー」とか話してたのですが、1月に入ってから、突然また父が倒れました。 その日は、母が母の妹とともに里の町へ行くというので、父がバス停まで見送ってきたそうです。そして、バス停の時刻表を見ている時に、また突然意識を失って倒れたそうです。母の妹がすぐに近くのコンビニにお願いして119番通報していただきました。 病院に着いて今度は脈がひどく少ないという異常を発見したそうです。 通常、成人なら1分間に60回とか70回とか(あるいはその前後)脈拍があるのですが、その日の父は20回程度しかなかったそうです。 人間は、脈拍と脈拍の間隔が3秒以上になると、意識を失うことがあるそうです。 というわけで、ここで、父は心臓に異常ありということが判明しました。 ********************************* 【2】ペースメーカー事前説明 医師から、ペースメーカーの埋め込み手術の前に家族に説明していただいた。その病院には、「説明室」という部屋がちゃんとあるので、家族にはきちんと説明しているようである。 説明の前日に「検査」ということで、血管造影で心臓のまわりの「冠動脈」をレントゲン撮影した動画を記録したり、心臓までカテーテルという棒を差し込んで、心臓内の電気信号の伝達なども調べたとのことである。 父の拍動が少ないのは、加齢により「洞結節」の細胞が衰えて、心臓の拍動に必要な電気信号を十分出せなくなってきているためと説明を受けた。そのての本を読んでみると、「洞不全症候群」という言葉を見つけたのであるが、そういうものなのかもしれない。 この洞結節というのは心臓の上部にあって、電気信号を発生させ、その信号がまず心房に届いて心房を収縮させ、次に電気信号が心室に届いて心室を収縮させるらしい。 父の場合は、電気信号の伝達経路には異常がなかったとのことで、とにかく最初の電気信号を発生させるものが必要ということで、心臓ペースメーカーが必要と判断されたようである。 人によっては、洞結節まで伸びる冠動脈が狭窄されているために血液がうまく洞結節まで行かずに電気信号がうまく発生しない人もいるらしい。そういう場合は、心臓ペースメーカーの前にまず冠動脈の拡張(手術)を行うことを考えるらしい。 心臓ペースメーカーといえば、いつも働いていて規則的に無理やり(?)心臓を動かしているようような、なんか人間がロボットにでもなってしまうようなイメージ(?)を持っていたのであるが、そうではなく、心臓ペースメーカーは心臓が自発的に動いている時には休んでいて、心臓の動きがとどこおって来たのを検知したら初めて電気信号を発生するものとのことである。 また、人によって動き方を微調整するものらしい。その微調整や電池の消耗具合は、患者の体内に埋め込んだ後で、非接触で行うことができるとのことである。 今のところ、父は「最高感度」の状態で、拍動が1分間に80回行うような設定にしているそうである。手術の直後は、安全を考えて「最高感度」の設定にするそうであるが、入院中に様子を見ながら、少しずつ設定を微調整していくらしい。 「最高感度」の設定は、電池の消耗が激しいからという理由もあるらしい。 さて、電池の寿命であるが、通常5年から10年くらいで、その人の状況によって電池寿命が変わるらしい。たぶん、拍動の監視だけなら少ない電力でいいのが、電気信号を発射する回数が多いと消費電力も多くて電池の消耗が早いのではないかと想像する。 ******************************** 【3】手術の実施 検査が終わったなら、ペースメーカーを体内に埋め込む手術をするのであるが、実は手術の前の検査の段階で、すでに患者にはペースメーカーが取り付けられている。なにしろ一時も休んじゃあいけない心臓のことである、手術までに何かがあったらたいへんである。 埋め込み手術までに一時的に用いるのが「体外式のペースメーカー」である。これは、鎖骨付近の静脈から「リード」と呼ばれる電線を心臓に向かって挿入し、リードの先端を右心室に持って行き、そして、体外に出ているリードに体外式のペースメーカーを接続する。体外式のペースメーカーの本体はちょうど「ウオークマン」くらいの形態と大きさ・重さである。ただ、イヤホンが耳に行くのでなくて、鎖骨付近に伸びているのである(ちょっと怖い?)。 このリードはセンシングトと電気信号発信の機能を持っているようで、患者の心臓の拍動をセンシングして、拍動が一定時間無ければ、ペースメーカー本体の指示で電気信号を発生するものらしい。 血管の中を通って心臓の内部にまでリードが入っていくというのもけっこう「不気味」な気がするのであるが、患者にとっては大切な生命線となる。 さて、体内に埋め込む実際のペースメーカーの手術の時には、家族が呼ばれて、手術室の前の廊下で待機させられた。なにもない廊下の壁際に長いすが置いてあるだけで、けっこう殺風景である。ただでさえも家族の手術というので気分は沈みがちなのに、追い討ち状態である。 埋め込み式の心臓ペースメーカーは、本体が500円玉のふたまわりほど大きいくらいの大きさで、それに「リード」という長い電線を取り付ける。現物は見せてもらえなかったが、写真とかレントゲン写真を見る限り、万歩計を薄ーくしたような形状である。ペースメーカーには、リードが1本のタイプと2本のタイプがある。1本のタイプは、リードを鎖骨付近の静脈から血管内に挿入して、心臓の右心室まで先端を持っていく。2本のタイプは、同じく鎖骨付近の静脈から血管に2本とも挿入して、1本は右心室に、もう1本は右心房に先端を持っていく。 心臓の拍動は、正常な場合、まず心臓の洞結節で電気信号が生まれ、それが心房に伝達して心房が収縮し、次に心室に伝達して心室が収縮する。よって、ペースメーカーも心房と心室にそれぞれリードを入れてリードから電気信号を発生させて心臓を拍動させるというのがリードが2本のタイプのペースメーカーである。しかし、心室の収縮だけでも生存には影響しないことから、心室にだけリードを挿入するリードが1本のタイプもあるそうである。使い分けについては、医師に聞かなかったのであるが、症例に応じて使い分けるようである。 さて、このリードは一旦体内に挿入すると一生取り外したり、取り換えたりすることはない。そう生涯の友となるのである。しかもこのリードは、体内挿入後は、1か月くらいで体内組織と絡まって、移動しなくなるそうである。これは、拍動の安定性のためには都合がいいそうである。 ペースメーカー本体は、電池の寿命が来ると本体ごと新品と交換である。これはたぶん高い密閉性が必要なためと思われる。そう、ネジを開けて中の電池を交換するなーんてことはしないのである。 ペースメーカーの本体は、胸の鎖骨下部分の皮膚の下の脂肪層と筋肉層との間に「ポケット」と呼ぶ隙間を作って、そこに収めるそうである。通常は、利き腕の左右逆の胸に収納するそうである。 この時脂肪層が厚い人(つまり太ってる人?)では、脂肪層が多いために、せっかく固定したペースメーカーが脂肪層の中で動いて、下の方に下がっていくことがあるそうである。将来ペースメーカーを入れたいという人(?)はダイエットしようね。 そして、ペースメーカー本体に、先ほどのリードを体内で接続したなら、皮膚を縫合して終わりである。 以後の人生は、ペースメーカー君との長ーいお付き合いである。 ********************************* 【4】手術後 さて、手術が終わったら、とりあえず生存に関して「安心」である。心臓は元気に動き出す。 手術の傷は数cmで、それも皮膚の傷だけであるので2週間くらいで抜糸だそうである。 薬は、手術の傷からの感染症を防ぐための「抗生物質」を含んだ点滴を数日受けるだけで、あとは傷跡のばんそうこうの張り替えをやるくらいである。手術の当日から普通の食事も出る。 手術の日とその後数日は、ペースメーカーを埋め込んだ側の腕を胴体とガチッと固定してしまう。そう、ペースメーカーから出るリードの先端が心臓の中で固定されるまで腕を動かさずに待つのである。 まれにリードが心臓内のねらいの位置から動いてしまって、再手術でリードの位置を調整する人もいるらしいが、1週間ほどして動いていなければ、「めでたしめでたし」である。 手術後から患者は「ひまーー」な状態に陥る。そう、傷跡以外は痛くも苦しくもないし、言ってみれば「もう病気ではない」ような状態なのである。何を食べてもいいし、歩き回ってもいいし、トイレにだって自分で行けるのである。 ちょっと病人らしいところと言えば、まず寝巻きを着ていることと、心電図を測定する装置を着けていることだけである。この心電図を測定する装置は、ウオークマンくらいの本体に低周波マッサージ器のような(パッド(電極)が付いており、パッドを胸に貼り付け、本体はひもで首から下げるのである。そして、心臓の動きを測定して電波で飛ばして、それをナースステーションでモニターしている。 そして、入院している間に、時々検査をして患者毎にペースメーカーの設定を少しずつ調整するそうである。手術の時と調整の時には、ペースメーカーを作った会社から人(技術者?)が来て医師の立会いの下で行うとのことである。調整は、患者の体外から非接触で行うそうである。そう、一度埋め込んだペースメーカーは患者の体外から非接触で電池の消耗度などの状態を知ることができ、設定の変更・調整を行うことができるのである。 さて、手術の数日後に患者と家族(母)に対して、ペースメーカーについて、20枚綴りの冊子を頂き2日間にわたって生活の注意などの説明を受けたそうである。説明の概略は次の通りである。 (1)ペースメーカーについて・・・・心臓の規則正しい拍動を造るのが「洞結節」で、この刺激を心臓全体に伝えるのが「刺激伝道系」であり、これらに故障が起こった時に、それを助けるのが人口ペースメーカー。 (2)1日1回脈拍想定を・・・・脈拍を測ることは、ペースメーカーが正しく作動していることを確認するもっとも基本的な方法である。決まった時間に1分間の脈拍を測る習慣を。あなたの脈拍数は、1分間に( )回以上に設定されている。 (3)日常生活の注意・・・・原則的に健康な時と変わらない生活を送れるが、次の注意が必要。 (a)電気機器・・・・日常使われているほとんどの電気製品は安全だが一部注意を要するものがある。 ・心配ないもの・・・・テレビ、電子レンジ、掃除機、コンピュータ、電話、電気ひげそりなど 携帯電話は30cm以上離す。(患者の家族としてはもっと離れて欲しい!) ・注意が必要・・・・電気のこぎり、電磁調理器(IH)、工業機械、電気ドリル、全自動麻雀卓、高電圧変電所・送信塔 ・使用禁止・・・・肩こり治療器などの高・低周波治療器、磁気マッサージ(ピップエレキバン含む)、磁気枕・磁気ふとん、通電式針治療、磁気ネックレス、電気風呂、MRI、電気メス、衝撃波結石破砕装置 (b)運動・旅行・運転 運転:同年代の人がしているくらいの運動は、医師の禁止がない限り差し支えない。 旅行:どんな乗り物も問題ない。空港で金属探知機が鳴るかもしれないが、その場合はペースメーカー手帳を提示する。 運転:車の運転に問題はない。ボンネットを開けて動いているエンジンに近づくと影響があるかもしれないので注意。 (e)仕事・・・・手術後ペースメーカーを埋め込んだ側の腕を極端に上げることは避ける。激しい筋力を必要とすることや、業務用ドリルのように振動の激しいものは避ける。 (4)ペースメーカー手帳・・・・退院前にペースメーカー手帳を渡されるので、常に携帯する習慣をつける。住所・氏名・担当医などが書かれている。医療機関にかかる時には、必ず提示する。 (5)ペースメーカー外来・・・・埋め込み後3か月目と以後6か月毎に受診する。受信日近くになると病院から案内のはがきが届く。その時、電池寿命も確認する。通常電池は5〜10年もち、電池が消耗してきたなら、ペースメーカー本体ごと取り替える。 (6)患者と家族の責任・・・・ペースメーカーの電池はリチウム電池であり、リチウムは1100℃で気体になり、またペースメーカーは厳重に密閉されていることから、患者が死亡してそのまま火葬(1400℃になる)するとに爆発してしまう。よって、死亡した時には、必ず医師に告げてペースメーカーを取り出してから火葬しなければならない。 (・・・・つづく) 続編予定・・・・同時に見つかった狭心症治療、ペースメーカー埋め込み者の手続きと特典、ICU症候群、(いずれも構想中) |
| 【2004.1.25(日)】 雑記ネタ(案) ●恐怖の野郎クラス(・・・・構想中) ●演劇部な日々(・・・・うーーん、記憶がけっこう飛んでいる?) ●大学1年生、ひとめぼれの春(・・・・構想中) ●ある大学生活(・・・・構想中) ●要領だけの院受験と就職(・・・・構想中) ホームページに何か書かなくっちゃあ誰も見てくれないと思って、いろいろひねり出して書いてるんだけど、みんなも、何か投稿してくれないかなあ・・・・ 今のままだと、「あるオタク」の個人HPに成り下がっちゃうよ。 投稿は、掲示板か、5組かずおのメールアドレス(名簿参照)まで・・・・ |
| 【2004.1.24(土)】 ●ある大学受験記・・・・ 私は吉野中学の出身である。まあ、今は統合して名前が変わって、(たしか)門司中学(?)になっているが。 そう、バス停の門司高校下から門司高校に行く途中のあの中学である。家が門司高校まで歩いて12〜13分と近かったこともあり、また門司高校を受験するのにぜんぜん違和感がなかったことから、たぶん高校入試という意味では、そんなにギリギリではなく、まあまあ余裕で合格するくらいの成績だったと思う。 我々の年の門司高校入試の競争率であるが、たしか1.1倍以下じゃあなかったかなあって記憶している(ほんと?)。 ということで、家も近く、受験の緊張感もないままに門司高校に合格したのが悪かったのか、はたまたその後に某スポーツ部に入部したのが悪かったのか、1年の最初の頃の成績は「ボロボロ」であった。 270人くらい入学したうちの250番くらいだったように覚えている。 ちょっとやばいかな・・・・くらいは思ったと思うんだけど、でも、なーんかちっともやる気がなくて1年の時には200番くらいをうろうろしていた。でもまあ不思議と理科系と数学系の成績だけはそこそこよかったので、まあそのうちなんとかなるかーーとか思って2年に突入していた。 でもそのクラブの先輩はなんかやたら優秀で、たしか2年先輩が東大に入ってみんなでびっくりしたのと、よくよく聞くと1年先輩の方々もどうもけっこうみんな成績は上位の方だった。なんかクラブもやっててかっこいいねえと思ったように覚えている。 いつ知ったのかは覚えていないが、ある時期に門司高校の3年生のクラス分けのことを知った。つまり3年生になると「優秀クラス」2つと、「その他クラス」4つに分かれるとのこと。なんとなくだけど心のどこかで気持ちが動いたのである。そう、「2つのクラスに入りたい」って。 門司高校では、スポーツ部の現役は夏までとかいう不文律があったよねえ。そう2年も2学期頃から受験に専念しろーってやつ。2年も夏休み近くになって、もうすぐ引退かーつまんねーなーとかなんとか言ってた頃、同じ体育館では演劇部が練習していた。我々の同期にも2人部員がいたんだけど、その頃その演劇部は9割方女の子で、たしか男は1年下に1人だけだったように思う。で、当然役の上でも裏方の上でも男が必要だったわけなんだけど、どこでどう縁があったのかは忘れたけど、いつの間にか我々のクラブの悪友3人と別の悪友1人とで手伝うようになり、ある日気づくとどっぷりと「部員」として登録されていた。 そう、当時の「男手が必要な演劇部」と「女の子に縁のない我々悪友連」の「妙な利害関係(?)」が一致したのである。 この2年の中頃に入った演劇部に結局悪友4人で卒業まで「おじゃましてしまった」わけである。まあ、4人ともほとんど「キャスト(劇に出る人)」はやらずに、ひたすら「スタッフ」そう「裏方」ばかりしていたのだが・・・・。 で、この悪友4人の中にやたら我々と遊びまくってるわりにはそこそこ成績がいいやつがいて、まあ、俗に言う「いい影響を受けた」のである。なにげに聞いてみると、彼は普段の勉強として問題集を黙々と解いていた。だいたいそうであるが、私のように成績が「ボロボロ」の人間は、試験の前だけ教科書なり参考書を広げて、赤鉛筆で線を引きまくって、ページをまっかっかにして、勉強したつもりになっているものである。もちろんそんな「作業」だけで試験の点数が増えるはずがない。 でまあ、彼がやってることに影響されて、薄めの問題集を買ってきて少しずつ「勉強らしきもの」を始めたわけである。やはり成績と言うのは正直なもので、やっただけ少しずつではあるが順位は上昇していった。 当時学校では定期試験の後には、プリント1枚に試験成績順位が100位までの生徒の名前をずらっと書いて全員に配っていた。(今もやっているのだろうか??) 当然そんなものにはずーっと無縁の私であったが、かっこいいなあとかいう「あこがれ」はずっと持っていた。 で、「優秀クラス」2つには、人数からいって、上位90人くらいが入るんだろうなー、入れるとカッコいいのになーとか思ったりしていた。 で、少しずつがんばっていたおかげか、2年最後の期末試験の結果で、なっなんとその90人くらいのなかに私の名前が入っていたのである(・・・・うるうるうる)。やや美化された記憶ではたしか60〜70番くらいじゃあなかったかと思う。 私は、その後の3年生のクラス分けの発表の日を「楽しみ」に待ったねえ。いやほんと・・・・。 結局、3年6組(理系優秀クラス)には私の名前はなく、「いい夢見たねー」状態であった。そりゃあそうだよね、2年の最初の頃は200番くらいだったんだから、いくら1回だけよくても、そんなぽっと出の人間怖くて「6組」には入れられないよね。でもこの時思ったのは、せっかくだから「どこでもいいから国立を目指しちゃえ」ってこと。 その後、男女4人で勉強仲間ができ、なまけものの私は引っ張ってもらう形でなんとか付いて行き、国立の簡単なところならなんとかってくらいをキープすることができた。 受験には次のこだわりを持っていた。 (1)工学部電気科もしくは電子科しか受けない。 (2)国立大しか受けない。 そうして3年の冬になんとか受かるかもしれない1期校と2期校の工学部電気科を選んで、願書を出したわけである。 この時、2校とも私とまったく同じ電気科に願書を出した友人がいる。1期校を受けた感想は「五分五分かな」くらいだったのであるが、1週間後の合格結果は2人とも「桜散る」であった(・・・・しくしく)。 それから2期校の受験日まで、ちょうど2週間くらいだったんだけど、2人で老松公園の図書館に毎日通って朝から夕方まで必死で勉強したのを覚えている。その2週間が私の生涯で一番勉強した時である。今でも「あの2週間の勉強を3年間やってたら・・・・」なーんて思ったりするが、まあそんなことができたはずがない。 2期校の試験を受けた感想は、これまた「五分五分かも・・・・」って状態だった。 で、その同じ電気科を受けた友人とともに、今のうちに(2期校の発表の前に)予備校でも見に行こうかーってことで某予備校に見学に行った覚えがある。 2期校の発表の日、ひとりで大学に見に行った私は、自分の名前を見つけて、体がガタガタ震えだしたのを覚えている。同じ門司高校の合格者の名前をメモしようとしたら、手が震えて字が書けないのである。いやあ、びっくりしたねえ。 残念ながら友人の名前はなかった。 で、門司に帰ってしばらくしてると、ある日電報が飛び込んできた。「ニュウガクヲキョカス。ウナヘン・・○×ダイガクコウガクブ」っていうような文面だった。なんと1期校の補欠合格の知らせだった。とともに友人から電話があった。彼にもまったく同じ電報が来たとのこと。2人でおおさわぎして、すぐに門司高校に報告に行った。 先生がすぐに職員室の前に合格者の名前として張り出してくれて(私は1期と2期と張り出してもらえた)、いやあ、うれしかったねえ。 結局、友人は1期校に、私は2期校に行くことにした。 実は、これ以降友人とはほとんど連絡をとっていない。まあ、名簿に住所はあるので、少なくとも行方不明ではないようである。 「おーーいK、元気かあ。あの時はいっしょにがんばってよかったねえ。また会おうぜー。」 |
| 【2004.1.8(木)】 ●出欠はがきと格闘 1月2日の同窓会の2次会の最後に、幹事のHがひとかたまりの紙の束を私の手に押し付けて帰って行った。 「あと頼んだぞ!」って感じで・・・・ そう、今回の「卒業30周年(マイナス2ヶ月)記念同窓会」のみんなから届いた出欠のはがきとメールの束である。 そのはがきとメールは、自宅の私が座っている机に約50mmの高さの束として存在している。 Hが丁寧に一枚いちまいの左上に穴を開けて、「出席」「欠席」毎に糸を通してとじてある。 同窓会の会場でも、回覧して見せていただいたのであるが、持ち帰ってゆっくりと一枚いちまい読ませていただくと、数行の中になんとなくそれぞれの人生が詰まってるような気がして、「さあ、どうしたものか」と悩んでしまった。ひとりで持ち続けるのには、すごく「重さ」を感じたわけである。 で、結局1月4日に門司から帰ってきてから、そのすべての内容を「ぱー」っとホームページに掲載しちゃおうって決意したわけである。 本日なんとか掲載し終わることができた。予想通りなんとなく「気持ちが軽くなった」。いやあ、よかったよかった。 つぎの作業は、名簿の修正である。 はがきを見ながらちょこちょこと名簿と比較していると、けっこう名簿の要修正箇所が見つかってしまった。 これはまあ、そんなに急がなくてもいいから、少しずつ進めて行きたい。 さて、せっかく幹事をしてくれたHを責めるようで申し訳ないが、今回の出欠はがきの返信はがき部分には、次の要改善点がある。 (1)組を書く欄が無い。 (2)旧姓、新姓を書く欄が無い。(お名前欄のみ) (3)名前のふりがな欄が無い。 (4)郵便番号を書く欄が無い。 ということで、各組毎の出欠状況のまとめや近況を掲載するのに、1枚1枚のはがきを名簿と照合して、そのはがきは何組の誰のものなのかを調べることから行わなければならなかった。 特に、1年2年と男子クラスだった小生にはなかなか女性の名前や組がわからないのである。 しかも最初は、書いてある名前が旧姓か新姓かもさえわからなかったのである。やれやれ・・・・・ もちろん、次回の5組が幹事をする同窓会では、上の(1)から(4)を配慮しようと思う。 ●門司高校のこと よくは知らないのであるが、この2004年4月から門司高校と門司北高校がいっしょになって、新しい中学高校6年間一環教育の学校ができるとのことである。 新聞記事の記憶では、中学に今の門司北高校の拠点を、高校を今の門司高校の拠点を使う(んじゃあなかったかなー?)ということである。(間違ってたら誰か教えて・・・・) で、先日門司に帰省した時に新聞を見ると、2004年4月からの中学部の120人定員の申込に対して5倍強の志願者がいるとか。 そして、適性検査と面接の後、抽選で合否を決めるようなことを書いていた(ように思う??) ええーー!抽選??って疑問に思った人は、いっぱいいただろうと思う。 申し訳ないけど、非常に不確かな情報なので、知ってる人がいたら、掲示板ででも教えてくれないかなあ。 といっても、私にはぜーんぜん関係ないけどね。 ●ホームページのこと とにかくHPを開いたんだけど、今のところあんまり書くことがない。 とりあえず、先日同窓会の幹事をしたH君に「幹事としてのあいさつを投稿してくれよー」ってTELしたんだけど忙しいらしくてまだ届いていない。 でも、とにかく1月4日に作ってから、今日8日には100カウントを超えているので、まあ、みんな見てくれてるんだなーって少し「安心」である。 それから、同窓会当日何人かデジカメを持ってきてて、けっこう撮ってたように思うし、会の終わり際に「すぐ送るからなー」とか言ってたけどまだ届いていない。 とりあえず写真を貼っとけば、HPとして少しは「サマ」になるんだけどーって思うのであるが、とにかく今は、わたくしめの「ひとりトーク」でつないでいくしかない状況である。(しっしんどい・・・・) えーーっとお、前回とかそのまた前回とかそのまたまた前回とかの同窓会の写真でもいいから、持ってる人は送ってくれないかなあ。 あっそうそう、関東で毎年7月にミニ同窓会をやってるらしいって聞いたんだけど、その時の写真とか様子とか出席者とか場所とか、いろいろ教えてくれないかなあ。 |
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