うたたね / 再会
冴子は地下鉄を降り、私鉄の乗り場に向かった。
地面に敷き詰められたタイルのところどころに水が溜まっていて、ヒールで引っ掛けそうになるのを避けながら、階段を上った。
切符売り場まで、酒気を帯びた会社員やいちゃつく若い男女が行く手を阻んでいる。冴子はめまいを覚え、避難するかのように階段を上りきったところにある古びたカフェに入った。そこは疲れたときによく彼女が寄る店で、汚れた外観とは逆に、店の中では年数を経た木のテーブルが暖かい照明に照らされ艶を放っている。冴子はいつも好んで座る、カウンター席になだれ込むように腰をかけた。
冴子の座っている席からは地下道がよく見えた。視線の行き当たる場所がちょうど広間のようなスペースになっていて、時折、ストリートミュージシャンがパフォーマンスしている。ちょうど今も若者がふたり、ギターを抱え演奏をはじめたところだった。
残念なことに、彼らの歌詞は青臭く、声には艶がなかった。冴子はうつろな顔で歌う若者を見やった。
マスターが注文をとりに来た。そして無表情に外を向いた冴子の顔を見ていった。
「たいしたことないね。ところで、ノブが帰ってきてるん知ってる?」
冴子は振り向き、マスターの言葉を疑うかのように首をかすかに傾げた。無表情だった瞳に光が満ち、しかも恥じらいを帯びていて、マスターは少し慌てた。
「噂だけで、まだ僕も会ってないんやけど。どうも、デビューの話はなくなったらしくて。なんか、トラブルがあったらしいけど……。ブレンドでいい?」
声も出さず冴子はうなづくと、テーブルの上で両手を組み合わせた。
数年前そこで演奏していた青年の歌に、冴子は心の奥底まで、揺すぶられたのだった。 彼の歌には永遠にかなえられない、行き場のない恋慕のようなものが、いつも漂っていた。
青年には既にたくさんの熱狂的なファンがいたのに。
彼の歌には、女にもてることぐらいでは癒されない響きがあったのだ。
その夜、夢の中で、冴子はノブの歌を聞いた。それはいつ果てるともなく続き、彼の柔らかな声は彼女の心の渇きを潤していくようだった。
彼の指がギターを奏でる。 弦のこすれる音は彼女を癒す愛撫のように感じられた。数歩先にノブがいる、そう感じて、目を開けたとき、ノブの声は途切れて雨音だけが耳に残った。
夢の余韻から醒めた時、冴子は雨音の中に、トーンの異なる不快な音を聞き取った。
彼女は飛び起きて電灯を点け、窓のサッシのあたりを見まわした。窓際の天井に3つほどシミができ、雨水が滴っている。冴子はあわてて水を受けるものを探した。バケツは使用に耐えるものがひとつしかなく、たらいや洗面器をあわせても、一箇所分足りない。冴子はしかたなく、風呂場に残っていた幼児用の赤いバケツを持ってくると残りの場所に置いた。
そのバケツは冴子の夫が娘とともに家を出るとき、忘れていったものだった。娘の砂遊び用で、とても小さく、雨水はすぐにあふれてしまうに違いない。冴子はお気楽な夢を見ていた自分が恥ずかしくなった。
目が冴えて、しばらくは眠れそうもない。
冴子の夫が去っていったのは、すべて彼女のせいだった。本当なら彼女が出て行くべきなのだが、この家がもともと冴子の親のものだったため、彼女が一人残されたのだ。
冴子は当時の自分を思った。あのころ、きっと自分は何かに憑かれていたに違いない。自分の中にあるよこしまなものを抑えようとしても、抑えきれずにいた。ただ覚悟だけはしていた。隠しおおせよう、もし露見したら、その時は誰とも別れて独りになると。
布団の中で眠られぬまま、冴子の想念はめぐりめぐった。
冴子はふとある母親のことを思い出した。彼女は娘がまだ一歳にもならないころ肺炎で入院した時、同室の幼い患者に付き添っていたのだった。彼女は点滴をした我が子のすぐ傍で自慢げに、
「30代の女は40代の男から見れば十分若いし、40の女は50の男から見れば十分若いのよ。私だってよく声を掛けられるのよ」
と言い放った。
彼女の言葉と態度に冴子は強い不快感を覚えた。それなのにその言葉は冴子の中に棲み付き、心を支配してやがては冴子の人生を破滅に導いてしまった。
冴子は会社に連絡を取り、雨漏りの修理の間、在宅ワークでよいとの許可を得た。冴子が独身のころから勤めている小さいソフトハウスで、子育て中も在宅を許可してくれていたので特に問題はなかったのだ。
修理は近所の親しい人がいる工務店に依頼したのだが、空いている職人がいないということで、知り合いの同業者を紹介してもらうことになった。
すぐに軽トラックで棟梁と若い大工がやってきた。
棟梁は小柄で丸顔の人のよさそうなおやじさんで、丁寧に雨漏りの箇所を見て回った。そのうしろを、仏頂面の若い大工がついて歩く。
見終わると、棟梁は冴子に近づき、若い大工を指差して言った。
「仕事はこの兄ちゃんに任せます。若いけど、腕はいいから、心配ないよ。うん、わしよりしっかりしとる」
「よろしくおねがいします」
冴子が頭を挙げると、若い大工は首を少し斜めにして会釈をした。横柄な感じ……。冴子が大工に少々疑うような目を向けると、目と目があった。射るような強い視線。
冴子はその時、大工が美しい顔をしているのに気づいたが、それ以上にそのまなざしに重圧感を感じ、不満を持った。
棟梁が帰り、大工はすぐに仕事を始めた。
あの人のよさそうな棟梁が残ってくれたらよかったのに、と思ったが、しかたがない。冴子は必要最小限の説明をし、仕事部屋に入った。
雨漏りの状態は予想よりもひどく雨が伝う天井や壁の板が腐ってきており、2、3日では直らないと聞いたので冴子は一層憂鬱だった。
お昼休みになり、大工に出すお茶を淹れていると、急に玄関のあたりが騒がしくなった。
出てみると、向かいの家の夫人と大工が軽トラックの駐車のことで言い争っていた。夫人は自宅の前に車を止められるのを嫌った。この通りは道が狭く、向かいの家だけ前庭があり家が道より下がっているのでよく車を止められるのだ。気の毒とはいえ、出入りに不自由ないように気を使い、数分だけ止めるだけでも文句をいう。
冴子は大工に車を離れたところに止めてくるよう注意しなかったのを悔やんだ。
向かいの夫人は50代のきつい感じの女性で、近所でも評判が悪かった。自慢の庭に花を植えるために、ホームセンターに電話をして苗の配達を頼んだり、自宅の改築を頼んだ大工を食料品の買い物に行かせたりする。近所に人が引っ越してきて挨拶の品を配るとき、品物にケチをつけたり、平気でするのだ。もともと自分の家がここら一帯の地主であったことが彼女の頭から離れないのが原因らしい。近所でも彼女と言葉を交わす人はいないと思えるほど嫌われていて、冴子も夫と別れてからは一層、彼女を避けていたが、さすがに今日だけは知らんふりをするわけにはいかない。
「どうされたんですか?」
「どこにきた車かと思たら、あんたとこやったん? いつもウチの前には車止めんといてって言うてるん、あんた知ってるやろ。なんで止めさせるの?」
「すみません。これから気をつけます」
「これからって……。これからも毎日この目つきの悪い大工がここに来るの?」
夫人は言うと、大工の方を振り返った。
若い大工は軽トラックを夫人の家の前に置いたまま、玄関に入るとそのまま作業していた部屋に戻っていった。夫人は大工の背中をにらみつけていたが、大工が家に入ってしまうと、今度は軽トラックの周りを眺めはじめた。軽トラックには工務店の電話番号が書かれている。冴子はこの夫人なら、工務店にクレームの電話を入れかねないと思った。
冴子が雨漏りのする部屋に行くと、昼休みも切り上げ、大工が作業を始めていた。
冴子が入っていっても、頭ひとつ下げはしない。鋭い目つきで腐った板を剥ぐ背中は、鬱屈した若さがみなぎっている。手綱を放せば、駆け出してすべてを破壊しかねない、そんな感じだ。冴子は掛ける言葉もなく、階段を下り台所に入ったが、食事をする気力もわかず、冷めかけのお茶を飲んだ。
冴子は、気持ちがいらだったときによく聞くノブのテープを取り出し、小さめの音でかけた。繰り返し聞いたので、テープの始めは傷んでカサカサと音がしてしまう。
やがて伸びやかなノブの声がラジカセから流れ出す。
砂地に雨が沁みこむような慈愛に満ちた歌声。
冴子は目を閉じ、ノブの声を味わった。
「ノブのテープなんで持ってるの?」
突然、声を掛けられ冴子はびくっとした。大工がトイレに降りてきて、台所の傍を通ったとき、ラジカセの音に気づいたらしかった。
「あなた、ノブを知ってるの?」
冴子は目を閉じてノブの歌に聞きほれていた姿を見られたかと思うと、恥ずかしかった。
大工が後ずさりする冴子の目を覗き込む。
「俺の同僚」
そういえばノブがストリートに立っていたころ、昼は大工仕事をしていると聞いたことがある。今はこの若い大工のいる工務店に勤めているのか。
「あんたこそ、ノブの何なの?」
「私はただのファンよ」
「ノブのテープ持ってるやつは少ないよ」
大工は言うと、冴子を見つめ、階段を上がって行った。
冴子には若い大工のおかしな態度も気にならなかった。ノブの居場所がわかった。それだけで頭がいっぱいになっていたのだ。
すりきれそうなテープ、やがてはノブの歌が自分の人生から消え去ってしまうと覚悟していただけに、心がうきうきしてきた。
信之はうつぶせで横たわる学の、金色に日焼けしたうなじを見やった。
「学、お客さんのご近所とけんかしたらしいな。明日、現場を交代するよ。聞いてるか」
学は細めた目を信之の方に向けてうなづいた。
「ノブ……そのお客さんやけど、ノブのデモテープ持ってた。女やけど。ちょっときれいかも。どういう関係?」
信之の脳裏に即座に冴子の知的で憂わしげな顔が浮かんだ。信之がテープを手渡した女性は冴子ただひとりだったからだ。
騒がしい取り巻きの女達の中で、冴子は特異な存在だった。その落ち着き、優しさ。そしてなによりも信之の歌の真意を理解してくれていた。
信之は懐かしさで胸がいっぱいになったが、つとめて無表情に言った。
「よく覚えてない」
冴子に好意を抱いていることを、学には知られない方がいい。
もし悟られたなら、学は冴子にどんな危害を加えるかわからない。
学は信之が昼間アルバイトをしている工務店の後輩だった。
逞しい体躯に少しあどけない顔立ち、屈折した心を宿した鋭い瞳。
信之はそれまで、自分の特殊な性癖を抑えて生きてきた。男を愛してしまう自分を愛することができなかったからだ。そして抑圧された愛情を糧に、美しい歌を作ってきた。
しかし、学の魅力に信之は勝てなかった。
アルバイトながら達者な信之に、学はいろいろなことを聞いてきた。信之は怖れと喜びの入り混じった思いで、学の相手をした。
やがて二人は結ばれた。しかし、程無くデビューの話が持ちあがり、信之は上京することとなった。 学もまた信之の後を追った。そして信之をスカウトしたプロダクションの男性を嫉妬から殴りつけ大怪我をさせてしまったのだ。
「ノブ……ノブのテープ、俺だって持ってないよ。よく覚えてないなんて、おかしい」
信之の上に学の顔があった。息苦しい学の愛情……。信之は無造作に学を払いのけようとしたが思いとどまった。
これ以上話をややこしくすることはない。ただ、身を任せていればいい、怠惰でいれば、流されていればいいんだ。
大きな夢をくじかれて以来、信之は学から逃げる気力さえ無くしていた。そして自分の色情からも逃れることが出来なくなっていた。
信之は重苦しい気分で家をでた。
冴子に会えるのはうれしい。でも学が冴子に危害を加えたら、申し訳ないではすまない。
信之は頭を横切る空想のせいか、焦点の合わない目で表札の前にいた。冴子の名字が変わっているのにも気づかず、ポストからはみ出た新聞のへりに視線を移した。
その時、急に玄関の扉が開いて冴子が顔を出した。
「あっ」
といったきり冴子はしばらく動かなかった。そしてかすれて裏返った声で、
「もしかして今日から来る大工さんってノブなん?」
と聞いた。
棟梁から大工が交代すると聞かされてから、冴子はずっと信之の事を考えていた。同じ工務店に勤めているのだから、当然あり得ることなのに、冴子は信之が来ることを奇跡のように考えていた。だから冴子は信之の顔を見たとたん、声も出ないくらい緊張してしまった。
信之は冴子の表情で自分がどんなに歓迎されているか察した。世捨て人のようになっていた信之の心はほどけ、笑みがこぼれた。
しかし、学のことを思うと単純には喜べない。信之は口元を引き締めた。
10時の休憩になり、冴子はお茶とお菓子を運んだ。信之はタオルで汗を拭いながら、煙草を吸っていた。
「まだ煙草やめてないのね」
歌手なのに、と言いかけて冴子は自分の言葉を飲み込んだ。
信之は改めて自分の指に挟んだ煙草を見つめた。
「声を大事にしろよって皆があんまりうるさいから、かえって意地になってしもた。」
音楽の話をしてもいいのかしら……。冴子はここにいる間に一度歌ってほしいと云おうとしたが、やめた。
「ノブって本当に器用やね。手際よくて。本物の大工さんみたい」
冴子は自分がまたおかしな事を言ってしまったような気がした。
冴子にとっては大工のノブは偽物であり、本物はあくまで歌手のノブだ。しかし信之自身は今は歌手であることを捨て、大工を本職としているつもりかもしれない。
「親父が日曜大工が趣味でね。かなりな腕前やったから、その影響を受けたんかな。最初アルバイトを始めたとき、家庭教師とか割のいいのがあったんやけど、夜は歌を歌いたかったし。物を作れるのが楽しいから、大工を選んで良かったよ」
冴子はどう答えていいかわからず、無言で信之の言葉を聞いていた。
信之は冴子の遠慮がちな態度に気づいた。うつむき加減の冴子の顔に目をやると、眉間の奥に深い疲れが潜んでいるようだった。
例の男とはまだ続いているのか。冴子もまた自分と同様、澱んだ沼に足を取られているのだろうか。信之は冴子が家族とも愛人とも別れたとはまだ知らない。
急に信之は歌いたくなった。自分の性癖に苦しみ、搾り出すようにして書いた歌を、冴子に聞かせたい衝動に駆られた。
もう信之の脳裏には学のことは思い浮かばなかった。信之はつぶやくように歌い始めた。冴子がもっとも好きだった、ノブの歌を。
冴子は驚き、信之を見た。冴子の瞳は涙で見る見る潤み始めた。彼女はよろめき、まっすぐ背を伸ばしていることもできなくなった。
汚れた作業着の胸元に冴子は崩れ落ち、泣いた。