ギャンブルと私

 私は16歳の時からダイエットをきっかけに過食嘔吐を14年間、それに重なるように18歳の時から1人でパチンコ屋通いが12年間、続きました。

私にとってギャンブル・・・パチンコ屋は『家族との娯楽』『なんとなくホッと出来る場所』『何もしなくても痩せられる場所』という存在でした。 物心がついた頃から週末に家族で出かける場所はパチンコ屋が主体でした。 父がパチンコ屋でパチンコを打っていて、母はすぐ傍のスーパーで買い物へ。
私と弟はパチンコ屋で玉を拾って遊んでいたり、母と一緒に買い物に行ったり。
母も買い物の後に父と合流してパチンコで遊び、帰りに夕飯を一緒に食べて帰る・・・というのが大体のお決まりのコースでした。

我が家は父、母、私、弟の4人家族。
父は私が3歳くらいの時に会社を興し、母は私が小学校2年生くらいの時から父の経営する会社で勤め始めました。

中学2年の時、両親が一軒家を購入した・・・ということで住み慣れた土地を離れ、新しい土地に引越しをしました。
引越し先の中学校で私はいじめを受けました。
編入した日、リーダー格の子から「あの子とは絶対に話をしちゃ駄目だよ」と忠告を受けたのですが、私は『別にあえて話かけない理由もないからなぁ』と軽い気持ちでその子になんとなく話かけました。
忠告を聞かなかったことに腹を立てたのか、リーダー格の子を中心として無視されることが始まりました。
そのことを私は両親に相談出来ませんでした。
『働いている両親に迷惑かけちゃいけない』となんとなくそう感じて誰にも話せず、ずっと抱え込んでいました。
でも同時に『気づいて欲しい』という気持ちもあったと思います。

ある日、リーダー格の子から「髪の毛を私くらいの長さ(おかっぱくらいの長さ)にしてきたら仲良くするよ」と言われました。
その言葉を鵜呑みにして悩んだ挙句、朝に風呂場で自分で髪を切りました。 髪を切った後に学校に行く準備をして、台所で朝食の支度をする母のところに行ったのですが、母は特に気にする雰囲気もなかったと思います。
今思うと自分で髪を切った姿を母に見せることがあの当時の私なりのSOSだったのかもしれません。
後になって知ったことですが、両親共に私がいじめにあったことは気づいていたそうです。

弟も中学校でいじめを受け、登校拒否を起こしました。
その時は両親共に学校側に激怒し、怒鳴り込みにいったようです。
いじめにあったことに気づいていたという話を聞く前は『なんで私の時は気づいてくれなかったの?』という気持ちが、聞いて以降は『なんで気づいていたのに弟の時のように動いてくれなかったの?』という気持ちがずっと残っていました。
当時は弟の反抗期がひどく、弟のことで溜め息をつき、頭を抱え込む両親を見てた私は無意識に『私は両親に迷惑をかけないようにしなくっちゃ』と思い、気がついたら両親から見て私は『手のかからない良い子』という風になっていました。

高校は女子高に入ったのですが、私はクラスメートになかなかなじめませんでした。
一挙一動を観察されたり、からかわれたりすることもよくありました。
中学校でクラスメートに無視されている時、そして高校でクラスメートにからかわれる度に『私が太っているからだ』といつも思っていました。
『痩せれば全て解決する』
そう思った私は高校の時にダイエットを始めました。
みるみる体重は減っていきました。
身長が150p、体重が56sだったのが1ヶ月くらいで体重が36sまでになりました。
太ることが怖い、でも好きなものを思う存分、食べたい。
食べ吐きすることを初めて覚えた時は『悩みが全て解決した』という感じでした。

18歳の時にパチンコ屋に1人で行くようになるまでは母の望むように良い成績をとれるように勉強し、夕飯の支度をして両親の帰りを待ち、週末は家族と必ず過ごし・・・と両親の望む『良い子』を自分なりに懸命に演じていたと思います。

18歳の時に初めてパチンコ屋に行く前の日。
家族でたまには別のパチンコ屋に行こう・・・という話になり、いつもとは違うパチンコ屋に母が運転する車で遊びに行きました。
両親共に負けず嫌いで、出るまで粘ってずっと打っていて、最初は母からお金を貰ってあっちこっちの台で弟と一緒に遊んでいたのですが、父も母もなかなか打ち終わらない。
私も弟も両親から貰ったお金を使い果たし、お店の中をブラブラしていましたがそれもすぐに飽きてしまい、弟と2人で「お小遣いを使って打ってみようか?」という話になって適当に台を選んで打ち始めたら偶然、私も弟も当たってしまいました。
両親は結局、出ずじまい。
最初は私も弟も「出たことを黙っていようか?」と話をしていたのですが、なんとなく出たことを両親に話したくなって、パチンコ屋を出た後に「実はね、お小遣いを使って台を打ったら当たったの」と両親に話をしてしまいました。
負けてピリピリしていた両親に私は「あら、すごいじゃない?」と言って笑い飛ばして欲しかったのかもしれません。
でも、その話を聞いた両親は大激怒。
両親がどんな言葉を発していたのかよく覚えていませんが、ものすごい勢いで怒鳴られ、私も弟も勝ったお金を全て没収された記憶は残っています。 その時、私は『両親のお金を使ってパチンコ屋で遊ぶと、勝ったお金は没収されちゃうんだなぁ・・・』となんとなくそう感じ、帰路につきました。

翌日、大学の帰りに地元のパチンコ屋になんとなく行ってみて、投資金額はどれくらいだったかよく覚えていないのですが、500円か1,000円かそれくらいだったと思います。
その時に勝った金額もよく覚えていないのですが、店を出た帰りに『このお金は没収されることはないんだ、私のお金なんだ』と妙に嬉しかった記憶はなんとなく残っています。
その後、家族で何度もパチンコ屋に行きましたが、『両親から貰ったお金で打って出すと、没収される』という感覚がなんとなく常につきまとってて、両親からお金を貰って打つことは殆ど、ありませんでした。
ただ、父と2人でパチンコ屋に残ることが私はなんとなく嫌でした。
父が持っているお金を使い果たし、私のところにやってきて「1万円かしてくれないか?帰ったら返すから」と言いにくるのです。
大負けした時は家に帰って母を通して貸したお金を返してくれるのですが、勝った時は「お前は勝ったんだからいいだろう」と開き直り、貸したお金を返してもらえない。
文句を言いたくても父は逆切れして大声で怒鳴り、虫の居所が悪いと叩いてくるので、私は怖くてそれ以上、文句も言えませんでした。

パチンコ屋に1人で行き出して以降、私は多分、両親の望む『良い子』ではなくなっていたのだと思います。
何故ならば、パチンコ屋に1人で行き出して以降の両親の口癖は「あんなに良い子だったのにどうしちゃったの?」でしたので・・・。

23歳の時に1人暮らしを始めるまで、週末は家族でパチンコ屋、平日は会社の帰りに家族、または1人でパチンコ屋に行っていました。 既に私にとってパチンコ屋は日常生活の一部となっていました。

借金が始まったのは23歳くらいの時です。
『生活費の保険』みたいな感覚で借金を始めたと思います。
食べ吐きで最低でも1日5,000〜6,000円の支出。
プラス、パチンコ屋で遊ぶ為の軍資金。
実家にいた頃はブランド好きだった母のバックを質屋で売り飛ばしたり、両親のお財布からこっそりお金を抜き取ったりしてお金をまわしていました。 両親のお財布からお金を抜き取ったりしたことは何度かバレて怒られましたが、母のバッグを質屋に売り飛ばしたことは不思議とバレることは1度もありませんでした。
初めて質屋に母のバックを売り飛ばす時、初めて消費者金融で借金をする時、『バレるんじゃないか?』と不安や恐れでドキドキしましたが、すんなにうまくいくと、それまで抱いていた不安と恐れはスーッと消えていました。
私が26歳の時、約4年半の闘病生活の末、母が癌で亡くなりました。
享年53歳でした。
母が亡くなって以降、何かにのめりこむことが加速的になっていったような気がします。
最初に私がのめりこんだのは仕事でした。
約2年間、深夜残業、徹夜、休日出勤。
自ら名乗りあげ、率先して行っていました。
私の頭の中は当時の上司に認められたい、褒められたい。
ただ、その一身でした。
自分自身を労わろう・・・なんて発想は全くありませんでした。
人に認められることが自分の評価の全て。

仕事が軌道に乗っている間、パチンコ屋にあまり通う時間がありませんでした。
暇な時間があればパチンコ屋に行くだけだし、暇な時間があることがいけない。
だったら仕事に時間を費やせば、パチンコ屋に通うことも減るし、私の仕事の評価も上がるし、残業代も出るからお金も増えるし一石二鳥。
今思うと暇な時間を病的に仕事に費やしていったような気がします。

仕事が軌道に乗っている間はそれで良かったのかもしれませんが、それが崩れ始めると仕事を休みがちになっていきました。
仕事で失敗してからいつも褒めてくれていた上司あまり褒めてくれなくなっていくにつれて『私はもういらない存在なんだ』と自分自身に『駄目人間』の烙印を押し、パチンコ屋通いが加速的に増えていきました。
一時的に落ち着いていた借金が急激に増え始め、夜は「これ以上やると、借金が増えていく、やばい」と考えたりするのですが、朝になると夜に悩んでいることはコロっと忘れ、いそいそとパチンコ屋に出かける準備を始めて「今日は勝てる!」と妙な確信めいた気持ちを持って、ワクワクしながらパチンコ屋へ。
パチンコ屋に入る前は「今日はお財布に入っている5万円で遊ぼう」と思うのですが、台を打っている最中にお財布の中が空っぽになると、「もう少しで出るのだからここでやめる訳にはいかない」と思い、台をタバコを置いてキープをし、パチンコ屋の近くの消費者金融のATMやコンビニのATMに走っていってお金をおろし、また走ってパチンコ屋のキープしていた台に戻る。 勝った日は「あそこでやめずに粘ってやって良かった」とウキウキし、負けた日は「あそこでやめてよけば良かった」と後悔し、帰路に着く。

朝、早くに目が覚めたら近くのコンビニに財布を持って走っていき、食べ吐き用の食材を購入し、家に帰ってすぐに胃がパンパンになるまで買い込んできた食べ物を飲み物と一緒に食べまくり、トイレに駆け込んで吐き、終わったら布団にもぐって寝なおす。
昼近くに目が覚めたら何も食べずにいそいそとパチンコ屋に出かける準備をし、いつものパチンコ屋に直行し、閉店まで何も食事を取らずにスロットを打つ。
私にとって『ギャンブル』『過食嘔吐』はもう欠かすことが出来ない存在になっていました。
 消費者金融の借り入れが限度額近くになり、『なんとかしなくっちゃ』という感覚で自助グループのミーティングに初めて参加させて頂きました。 父が親戚に多額の借金を残して他界していた為、『借金の件で親戚に頼っちゃいけない』『残された弟に借金の件で迷惑をかけちゃいけない』『父のようになりたくない』・・・と自助グループに繋がった当初はその一心だったと思います。
仕事が過渡期で多忙になっていくと、自然と自助グループのミーティングから足が遠のいていきました。
そして、給料日を境に私のパチンコ屋通いがまた始まりました。 スロットが打ちたい一心で返す見込みも立たないクレジットカードの借り入れをし、借金がまわせなくなって任意整理をしました。
任意整理の直後に残っていた約10万円の生活費を全て、たった1日でスロットで使い果たしました。
スロットを打つ資金を作る為に残された私の選択肢は『闇金』でした。
闇金業者は父が生前、闇金業者に手を出して返済出来なくなった時、闇金業者が実家に張り込んだり・・・と嫌な思いをしていました。
生活費を全て使い果たし、呆然としながらパチンコ屋を後にし、頭の中は真っ白で『どうしよう?』『でも父のようになりたくない』・・・とグルグル考えながら帰路に着きました。

 家に着き、母の形見のブランドのバックを売ろうと思い、押入れから出してバックを目の前にした時、涙がボロボロ出てきて大泣きしました。
情けない気持ちや色々な感情でぐちゃぐちゃで、もう自分でも訳が分からなかったです。
同居している弟に「生活費を全て、落とした」と嘘をついて生活費に3万円借りました。
これが今の私の最後のギャンブルになります。

 自助グループに再度繋がり、今は賭けない今日1日の生活を送らせて頂いております。
過食嘔吐は自助グループに再度繋がって半年くらい経ったくらいの時、パニック障害を発症して以降、自然と止まりました。
正直、過食嘔吐は一生やめられないと思っていました。 『やめなくっちゃ』と強迫的に思えば思う程、どんどん苦しくなっていき、やめることが出来ませんでした。
過食嘔吐がとめられない私を責める仲間もいました。
責められる度に『止められない私は駄目人間なんだ』と自分で自分を責め続けました。
ですが、ある仲間が「まんまのあなたで良いんだよ」という言葉をかけてくれました。
その言葉が私にとってあるがままの自分を受け入れるきっかけになったと思います。

 今も時々、過食嘔吐がしたくなったりパチンコ屋に行きたくなる時があります。
過食嘔吐がしたくなった時は「自分で自分の身体を虐めても仕方ないんじゃない?」と、パチンコ屋に行きたくなった時は「最初の1回の賭けに手を出すと、かつての私はどうなっていったっけ?」と一瞬、考える時間を頂いているような感じです。