思考における多様性




前提ー思考における多様性

これまでコンピュータ言語が人間の思考フレームに与える影響を中心に 話を進めてまいりました。人間の認識形態である間主観性概念と その関係性、構造性、重層性、遷移性をコンピュータ言語の仕組みと結び付けて 検証致しました。そこで、この「思考における多様性」では、具体的な様々な 事象に即して出来るだけ生の思考のダイナミックな流動性が分かるように 思考フレームの生成・展開についてご説明するつもりであります。 ぶっちゃけた話、このHPを作成する上で一番頭を悩ましたのは(悩むほどの 中身はありませんが、 誰に向かって伝えるか?誰が読むのか? であります。伝える内容についての構想はあっても、一体どの程度の理解力 の方々が読むかによって内容は当然影響を受けます。(作者の能力にも…) 既に一部、お分かりの方には、レベル?からして、誰が書いているのか ほぼ予想されておられるでしょう。分からない人にはさっぱりワカリマセンが。 (養老先生は、良くこれを仰いますが、これはあったり前であります。) 他のHPのように思い切って、広報と割り切って本名で掲示するか? サーバーもNiftyじゃなく… アクセス数は当然、今より段違いに=>「減ります!」 「テキストの背景」が読者の質を限定します。文章も整形された ものにならざるを得ません。(ここまでギャグが認められるのか?) そもそも大学のサーバーをなんと心得おるのか? 範たるべき教授まで、「大学時代の野球部の練習試合で元阪神コーチの田淵と 対戦した。」などと「得々と」書きおる始末!それが情報工学と何の 関係があるのか? WEBにおける知の伝達は自費・無償でなければならぬ。AnonymousからAnonymous への偶発的イベントであるべきではないか、と考えた次第であります。 (教育目的や商業主義から無縁であるからこそ、「誤字脱字」が許される!) そこでエクスペリメンタル・エントランスとしてコンピュータ言語を 選択しました。コンピュータ言語に興味を示す程度の論理性と精神的な 柔軟性を備えた読者を対象にすれば良い。彼らが理解できる程度の語彙や 内容で基礎的な部分を説明すれば良いと。(当然、コミック、アユ、 チョコレートパフェのファン達はそれより「上位」に位置します。) ここまで苦労に苦労を重ねつつ読み進んでこられた、貴方、貴女方は立派に この厳しい選抜・精錬に耐え得たのであります。 JavaやScheme、Haskellなどのプログラミング言語には難渋されたかも 分かりませんが、少なくともそれらを乗り越えて、ここまで到達されたのです。 かなり多くの方が次々と脱落する中、くだらんギャグに引きずられながら (そのギャグに脱落した?人も多数って?)その中をなんとか、 なんとか!…感動に言葉が詰まって声になりません! えぇ?Wide Showって面白そうだから、いきなり、このページに 来たってぇ! …こっちの都合もあるからさぁ、出来たら最初からぁ… まあ、とにかく、ここにいらっしゃる読者の方々は人種、年齢、学歴、地位に 関係なく一応の論理性を備えた、つ〜か、駄文に対する忍耐力!を備えた、 人々と信じます。(プログラミング言語に、ご興味がおありだから、 あまりハイ・ステータスの方々はおられませんよね? ビルゲイツを除いて、) 21世紀における「大きな物語」の創始者としての 可能性を秘めたものが持つ資格: 科学的精神と深い思索力 これらを兼ね備えた人々に対して、これからは語ることに致します。 (と大見得を切っても、内容が大幅に変わる訳ではありません。 ご安心下さい。急にここから有料にするなんてセコイことは言いません。 またそれなりの内容ですから…) 目次へ

最近、笠井先生(1948年生れ)と東先生(1971年生れ)との往復書簡集の ようなもの、(新書です。題名は忘れました)を図書館で立ち読みしました。 バフチンのポリフォニーを講義中に、「あのぉドストエフスキーって誰ですか?」 と尋ねた院生が居たぁ?その時の教授が「あぁ、日本もついに、ここまで 来たのか!」との感慨を抱かれたって、お二人で大いに盛り上がっておられた。 バフチンの講義を取って、ドストエフスキーを知らんなんて、こたぁ いくらなんでも、ねーだろう!あんたの「講義」は、それほど意味がないよ! という「抗議」のギャグだ!ってのも分からんのだろうか? 我々、80年代生れに対して「携帯を持ったサル」、とか「動物」とか 好き放題、言われっぱなしであります。連中は論語における「後生畏るべし」 の教えを知らんらしい。思想を学ぶものにとって常に後生は有利である? と言う意味です。 何故か? 過去は、俯瞰可能です。理解可能です。模倣可能です。 過去の人間にとって常に若いもんは未知の生物です。 それが、古来、「最近の若いもんは…」という定型句で表現されて おるのであります。 一度、件の往復書簡集をご覧下さい。 あまりのレベルの低さに笠井先生と東先生が、お互いに「愕然」 とし合っている様子に、こちらが「愕然」と致しました。 東先生はさかんに笠井先生に対して、私は60年代とか70年代に関しては 分かりませんので…とさかんに謙遜して、なんとか笠井先生の昔話からの 脱出を試みておられた。(内心では、そんな左翼崩れの一つ覚えみたいな話は とっくにみ〜んな知ってるってぇ〜、と思いながら…) 東先生!我々から見ても先生の説は同じなんです。いかにも現代オタクに 通じておられるように見えるが、所詮デリダニアン的なポストモダン解釈 なんです。「存在論的、郵便的」から一歩も進歩されてない。いやデリダの 解釈に寄りかかっておられただけ、まだ当時の方がレベルが高かったのです。 従って、我々が畏れるべきは、団塊世代や団塊中間派ではありません。 畏るべきは90年代生れです。モームス畏るべしか? これは冗談じゃありませんぞ。我々が「モームス可愛い!」なんて騒いで いる姿を彼女等は愛くるしい微笑の陰から、冷ややかに眺めておるのであります。 ご存知でしょうか?12歳の女の子は、魚の捌き方は知りません、しかし、 男の捌き方は知っているのです。つまり女性としての「全て」を既に身に つけておるのであります。そしてそれは老婆になるまで変わりません。 逆に言えば全然進歩が無いとも…
上記の笠井先生と東先生の書簡集のタイトルが分かりました。 「動物化する世界の中で」集英社新書¥660です。 本書の中での、議論や、すれ違い、また構成自体、編集サイドによって「演出」 されたものであることは明らかです。従って個別議論の問題点に関して批評する ことはあまり意味がない。逆に両者とも気付かずに一致しているポイントに こそ見るべきものがあると感じた次第です。 それは何か?抜き難い権威主義と、それへの依存です。 笠井先生のアンチマルクス主義にしても、東先生のポストモダンにしても その思想が持つある種の権威を前提にしている。 つまり、「ドストエフスキーって誰ですか?」っと言う質問に現代日本の 「権威知」に対する無知・無関心を共通に憂えておられる。 「ギャグだ!」の発想が何故?浮かばないのだろうか? そして我々若年層の無知蒙昧ぶりを一致して、ある種、危機感まで募らせて 言及されておられる。そこに東先生のヤヌス的側面が感じられた。笠井先生に 東先生が感じる、過去執着性、過去原体験からの視点の硬直性、それはまさに 我々が東先生にも感じている同じものだと何故、お気づきにならないのか? 笠井ー>東視線に対する不快感は、東ー>我々視線に対する不快感と全く同じ ものです。我々の世代は、過去の原体験はありません。 しかし、間主観性構造として既にマルクス主義もアンチマルクス主義も高度消費 資本主義もポストモダン的視点も全て俯瞰的、圧縮的な情報形式で継承されて おります。我々の世代は、その新たな間主観性構造上に位置し、その中を今 最も感受性豊かな瞬間として「原体験的」に生きておるのであります。 大学教授に抗議した院生の心情が痛いほど理解できます。 「貴方はバフチンの多声性をドストエフスキーの文脈を事例として解説して おられる。それはバフチンの手法であり、バフチンの理論である。つまり バフチンやドストエフスキーという権威に寄り掛かっているに過ぎないのじゃ ないか?バフチンやドストエフスキー的な権威を取り去った後に、何が 残るのか?文献知であれば、読めば分かる。貴方自身の付加価値はどこに あるのか?貴方をして講義させしめる意味は何か?」 それが「ドストエフスキーって誰ですか?」のギャグの真意です。 ドストエフスキー的権威を取り去っても貴方の講義は成立するのか? これが問いの意味です。 これまで、このHPにおいてもギャグと真意が混在しております。 「抗議」とか「真意」なんて権威主義的な言辞に羞恥心を感じてしまう。 笠井先生の生涯一ガキ的な態度に、見てられないような羞恥を感じる。 ギャグ的に語ることで、世代的羞恥を抑えておるのであります。 ただ最近、我々の世代間コミュニケーションだけでは駄目だ、と 気付き始めております。過去を俯瞰し得るものが、世代間ギャップを 埋める義務を負っているのじゃなかろうか?未知の生物側から過去語彙・話法 と過去心情を理解しアプローチする以外に理解しあえる方法はないのじゃ なかろうか?そして、「必然的に」問題を未来に先送りせざる得ない世代に 対して、その未来に生きる世代として過去語彙・話法・心情を理解しつつ、 我々の考えを表明し理解を求める責任を負うべきではないか? 「ドストエフスキーって誰ですか?」というギャグに「愕然」とする教授に 対して、その真意を説明する責任を負っているのは我々ではないでしょうか?
なんか笠井先生や東先生を一方的に非難しているように見えるかも知れません。 しかし、Aranskは必ずしも、両先生の姿勢に対して全く理解を示していない 訳ではありません。 哲学や大脳生理学の先生方は、往々にして、あたかも、自らの収入基盤に淡白な 「ふり」をされます。そして自らの研究分野、専門分野、の我田引水的な著作 拡販的な言辞をあたかもそれが、読者のために公平な立場から説かれる が「ごとく」装われます。我々の世代がいかにもそういう世界に疎いように 思われています。ところが、女性が既に12歳にして、生涯必須の「男を捌く知恵」 を身に付けると申しましたが、同様に生存競争に起因する詐為性に対する感度は 高いのであります。 その点、両先生は率直に文学者同志、学者同志の派閥争いの熾烈さに言及されて おられます。いづれにしても狭い世界ですから、パイは小さい訳です。 従って競争者同士の戦いは近親者間での血で血を洗うものになるのです。 「ドストエフスキーって誰ですか?」の質問が院生の抗議のギャグとは 教授には、信じられないのです。大学の権威、教授の立場に依存しているもの にとっては、飼い犬(院生、助手)が手向かうなんて想像もつかないのです。(^^; いみじくも、東先生は叫んでおられます。「貴方は良いですよ。でもこれから 何十年もこの世界で生きる私はどうなるのでしょう?」と、これを噛み砕いて ご説明すると: 1.あんたはもう歳だ。これ以上の野心もないだろう。私はまだ若い。 2.あんたは売文(ミステリー小説やSF)の途がまだあるじゃないか。 3.私はエッセイや哲学の分野しかない。もし大衆がその分野に興味を   示さないようになったら、どうして食っていけばいいんだ。 4.今や若者は院生でさえドストエフスキーも知らない!(これは   前述した若干の誤解はあるが…)   ましてフーコー、ドゥールーズ、デリダをや!自分の知的分野は   日本では壊滅的状況ではないか? 5.かと言ってサブカル・オタク評論で食っていけるのか? まぁこのような想いが重なって、「私はどうなるのでしょう。」発言が 出る訳であります。ずばり、我々は東先生の不安を直感で把握しております。 笠井先生もこの点に関しては非常に良い事を発言された。 「哲学や評論とSFやミステリーは読者の数が違うのですよ。(印税収入の 違いを暗示?)そこで評価されるかどうかは、哲学や評論の小さい世界における 評価とは全く違うのです。」と、「笠井先生の売文的?な部分は 評価しております。」と言う東先生の嫌味?に対して堂々の正論で反撃された! (両先生の饒舌なご意見中、興味を惹いたのは、この辺りだけ… ワタクシ、そもそもサブカルって言葉自体に反発を覚えんだよねぇ。 何故?「サブ」なんて蔑視される必要があるのか?東先生までにさぁ。 どこか権威主義的なんだよね。哲学自体が現代ではサブカル化している ことをご存知ない。コミケに出入りしてます。哲学科に在籍してます。 どちらがヤッベーと思われるか?勿論、後者です。 倉田先生の「ダメンズウォーカー」とヴォーボワールの「第二の性」と 現代に与える影響はどちらが大きいのか?勿論、前者であります。 あれほど赤裸々に現代女性心理を抉った快作をサブと呼べるのか? だから、倉田先生は印税で食っていけるのであります。要はマーケッティングの 問題であります。食うとはビジネスです。東先生もしっかり自ら食う途を 確保して、しかる後にデリダニアンとして好き放題、書けば良いのです。 それが、偶々!当たれば、それに超したことはない、くらいの腹を括らないと 良い本は書けない。スピノザをご覧なさい。一生オランダの貧しいレンズ磨きです。 それでもあれだけのものを書いた。まさに範たるべき人物ではないでしょうか? しかしながら、東先生は国立大学の「化石化」した教授よりは、まだマシで あります。首がつながる可能性は高いのです。 「昔からあるからって、オタク化した文献研究に金を注ぎ込む必要があるのか? まだ、ゲームやアニメ製作に投資した方が、景気浮揚に効果がある!」と、 言い放った人が東京にいるそうです。「哲学なんて数千年の歴史と言うが、 乗馬は数万年の歴史がある。今やインディアンでも「車」でスーパーに買出し に来ておる!」ってさ。
すっかり東先生に嵌ったようです。あれ以降、立て続けに 「網状F改」「動物化するポストモダン」「郵便的不安たち」を図書館で 読んでしまった。(コミック以外、本は原則買いません。全て立ち読みまたは 図書館です。何故か?読後、コミックは売れるが、この手の本は売れない からであります。 東先生!印税収入には寄与しておりませんが、 貴方の貴重な愛読者が一名増えました。 そして、ついに「存在論的、郵便的」を超える作品を発見いたしました。 それは「ソルジェニーツィン試論」であります。 上記「郵便的不安たち」の中の一編、なんと、まだ東先生が学生時代に初めて 書かれた評論です。それを柄谷先生が選び、浅田先生が添削したという超豪華 絢爛の一品です。是非ご一読下さい。 う〜ん!東先生の著作は、若い順に良いのか?段々、下がっているのか?(^^;) いやそんなはずはない、著作年齢が自分に近づくほど共感する部分が大きい 「だけ」だ、と信じたい。他の皆さんはどう思われるでしょうか? 動物化、動物化、と念仏のように唱える東先生、なんとか若い世代をパターン化 しようとする東先生、何を怯えておられるのか?浅田先生が大作の評論を書かれ なくなったとさかんにボヤイテおられた。自由意志で書かれないんじゃ なくて、書け「ない」のではないでしょうか? 材料を統合構成する緻密な記憶能力の衰えではないか? デリダが文体のスタイルを変えたのは、変えざるを得なかったのでは? つまり統合構成するには、切り捨てる決断力が要る。また論理的整合性を 保つため、どうしても理論コジツケ部分、詐為的接着部分が不可欠である。 つまり若さ(馬鹿さ?)故の自己理論に対する陶酔性が不可欠なんじゃな かろうか? 何故、福田先生が多作なのか?ー>ここで、はっきりは申せません。 賢明なる東先生は、ご自分の経験から、やはり真に畏るべきは、後に 続く世代であることをご存知ではなかろうか?年長者にはいつか追いつけます。 追いつけなくても、先に…。しかし若い世代に追い越されたら、二度と 追いつけません。先に…は自分であります! 曰く「言語シンボルによるコミュニケーションの弱体化」 曰く「趣味的世界への埋没」 曰く「自閉症的引きこもり」 曰く「フェイク的集団への逃避」 これら若年層への侮蔑は、東先生の年長者に対する阿りであり、同時に 我々に対しての暗示行為ではないか? 笠井先生に対する批判はフェイクである。一見若い世代を良くご理解されている ように見えるオタク文化の評価は、「近頃の若いもんは」の変形であり、東先生の 「世代防衛」ではなかろうか? 団塊の世代と我々団塊Jr.世代に挟まれた中間派の「怯え」ではなかろうか?
この執筆主管に対して、畏れ多くも、鋭い反撃を喰らわしたメンバーがおります。 曰く: 「ソルジェニーツィン試論」と「存在論的、郵便的」を高く評価した時点で 貴方も抜き難い「権威知」に対する盲信があることを物語っておられませんか? そもそも、ソルジェニーツィン試論はソルジェニーツィンの小説はもとより ドストエフスキー、カフカなどの小説を読んでない人々には何の意味もない ものでしょう?さらに、V.フランクルの「夜と霧」などでユダヤ人強制 収容所の状態をある程度知っておいた方が読解は深まる。また、確率 に関するベイズ理論も…。「存在論的、郵便的」ではデリダだけではなく 近代思想系列からポストモダンをも含む広範な思想背景を理解してなければ、 コンスタティブな読解さえ難しいはずです。なんでこんな本が売れたのか? 貴方はさっぱりワカランって叫んでいた!(著者自身も似たようなことを 仰っておられた?これら書物群は全て貴方の称する「陳腐な」知識人が 有難がる「権威知」のカテゴリーを構成している。 さらに、双方の文体・構成もアカデミズムふんぷんたる論文形式じゃないの? それらを他の著作より高く評価すること、即ち貴方の権威主義を露呈して おられるように思えますが。 つまり、シンジやアスカ、綾波、使徒、アムロ、シャーなんかのキャラ背景と 同列であるはずのものを、「権威知」背景、故に、高く評価するという 心理的なハロー効果に過ぎないのじゃないでしょうか? と、まぁ件のメンバーは一気にまくし立て訳でありまして… タジタジタジタジ…「後生畏るべし」 まぁ真偽は別にして、そう言う「意見もあった」とだけお伝えしておきます。
「ちょっと待ってよ!」とまた別のメンバーがしゃしゃり出て来ました。 曰く: その意見はいかにもリーダーを批判しているように見えて、実は喜ばせて いないかしら?リーダーの自分を棚に祭り上げてのアカデミズムに対する妄信と、 権威にひれ伏すセコイ性格はメンバー間の常識じゃない?(オイオイ!(^^;) そもそも、リーダーなんて分不相応な地位をAransk内で確保できたのは プログラミングなんて単純作業が出来る人間が他に居なかったせいよ。 あまりにヒドイ日本語でこれじゃぁ分かる人でもいやになるんじゃぁって 危惧から全員で手分けして書き直した悪夢?を忘れたの! ただ、修正するなら簡単よ、でもそれじゃリーダーの書いた他の稚拙な 部分と整合性がとれないじゃん。明解な論理性をいかに「出さず」に なんとか分かるレベルに持って行くかって大変だったわよ。モグラ叩き みたいに、あちこち何度も書き直してさぁ。丸3日間の苦闘をアンタ 忘れたわけじゃないでしょう?今でも寝ながらうなされるわよぉ! (そこまでバラさなくっても…) それにドストエフスキー、カフカ、ましてソルジェニーツィンなんて リーダーの本棚に並んでいたのを見たことないわよ。ましてベイズ確率論 なんて、どこをひっくり返せば出てくるのかしら。(それは全て図書館で…) 全部コミックばっかよ、全集で揃っていたのは「ガラスの仮面」だけ… と、まぁ延々と偏見と誤謬に満ちた?意見を言い募っております。(^^; さて、ここで敢えてAranskの内紛まで暴露して、何を皆さんにお伝えしたい のでしょうか?(そんなもん、聞かれて分かる人はおりません!) それは批評空間の構造性であります。この場合、主題をソルジェニーツィン試論と します。これまでの展開を分析してみると、どんな関係が重層的に構成されて おるのでしょうか? 1.ソルジェニーツィン試論以前 東先生が試論を書かれる前の原点的な構成を考えてみます。 まずソルジェニーツィン自身の強制収容所体験があります。この原体験は生きられ ております。思い出して下さい。生きるとは「外部環境」と「内部環境」の 交流を概念的に写像することでしたよね。ここに最初の写像行為が発生します。 そして、それをソルジェニーツィンがエクリチュールとして小説に再構成する。 これが第2次写像であります。 2.試論製作時 東先生はソルジェニーツィンの小説をベースにドストエフスキー、カフカ、 などの小説の要素を付加しつつ批評を製作します。つまりソルジェニーツィンと ドストエフスキー、カフカの複合体を第3次写像として「創作」したのです。 東先生の面白いところは、さらに製作時の日本批評界の姿を柄谷先生や浅田先生の 役割や自分自身もその中に再帰的に包みこんで、論じておられる評論があります。 これが、第4次写像にあたります。 3.試論製作後 それらをAranskが俯瞰的、網羅的に読み、また自分の確固?とした基準に 従って評価を下した訳であります。これが第5次写像を形成します。 その後、その評価に対してのメンバーの批判が第6次写像であり、またその メンバーに対する別のメンバーの批判が第7次写像であります。 これで構造性がお分かりになったことでしょう。ではそれぞれの中身の質に ついて吟味いたします。最後の第7次写像なんか、はたして、これは ソルジェニーツィンの小説について、語っているのでしょうか?わずかに、 これからうかがわれることは、現代日本においてソルジェニーツィンなんて 読む酔狂な人々は極、稀に、「しか」存在しない?ということぐらいか。 自分が批判されていることに、なんの拘りもない、Aranskです。 「公平に」見てこの最終写像は完全な失敗作と断定致します。 で、まぁ順繰りに再帰関数的に元に遡ると、結論としては初期写像こそ 最も価値あるものであることが、歴然といたします。 生きる原体験的な交流認識ー間主観性構造が、全ての出発点であり、それを 超えるものはない。つまり作家活動も批評活動もオリジナルに勝るものでは あり得ません。さらに批評活動も第3次写像までで、第4次写像ー>批評の批評は 殆ど意味がありません。まして第5次写像以降はまるでギャグです。 しかしながら、ここで、お分かりでしょうか?メンバーの批判なども全て 持ち前の広い包容力?で受け止め、きっちり、結論をコンピュータ言語の 関数構造の再帰性で締めくくっております。これは、このHPが深い思索に よって予め企画され構成されておることを意味します。 決して、偶々、行き当たりばったりに執筆してないことが、これで 証明されました。
改めて東先生の「存在論的、郵便的」を読み返しております。文章は短く 的確です。訳注も少し「くどすぎる」程丁寧であります。が、全然面白みがない。 デリダ自身が面白くないから、それを批評、解説しておる本が面白い訳がない。 こんな本が何故売れたのか?この問いは浅田先生の構造と力にも言えます。 さらに戦争直後の西田先生の善の研究にも…?日本人は時々不可解なものに 嵌るのか?そんな本を今頃になって読み返している我々はもっと? そこで笠井先生の往復書簡集に戻ります。すれ違い、食い違いは東先生が 確信犯的に演出されたのではなかろうか?つまり書簡が、デリダ的「郵便」が 相手に届き、理解され、噛み合う状況はなんとしても避けたかった。郵便の 不達可能性、誤読可能性を主張するデリダニアンが、「やあやあ、仰る通り ですね。ワッハッハ」では様にならないではないか?そこで非礼をも省みず 年配者に食って掛かるポーズが必要であった。それは我々若い世代の鬱屈に 対する阿りでもあったのではないでしょうか? 書簡集の最後の方に脈絡もなく突如として東先生は「世界を良くしたい!」と 書いておられます。えぇ!と一瞬絶句しました。そして萌えました。泣きました。 アニメの底流に綿々と流れる「世界を良くしたい!」この叫びは若い世代の ハートを鷲掴みします。 が、デリダニアンである哲学者の台詞であろうか? これは笠井先生に対する非礼についての間接的なお詫びではないでしょうか? 僕はまだこの程度の「夢のある」言葉を臆面もなく叫ぶことが出来る、お尻の 青い青二才?ですから、どうぞお許し下さい。笠井先生のお言葉も理解できない ことを恥ずかしく思います。という暗黙のメッセージであった。 同時にヤヌスの反面としてオタク世代の心をも絡めとる意図的なレベルを下げた 発言であった。 この東先生の戦略的発想の鋭さには目を瞠るものがあります。こうでなくては 読者層が激減しつつある厳しい日本の批評界において生き残ることは出来ません。 言説の中味より、パフォーマンスを重視し、受けを計算に入れた言動が瞬時に とれること。そして同業者に対する談合と棲み分けの知恵を持つこと。 さらに出版社なんかとも共同戦線を張って、読者層のパイを拡大すること。 これらは哲学で食う、批評で食う、エッセイで食うために、最優先考慮事項で あることを我々は東先生から学ばして頂いた次第であります。 東先生ファンは言うでしょう。「そりゃぁお前のうがった邪推に過ぎん!」と それにはポストモダニスト?の端くれとしてこうお応えする以外にありません。 1.エクリチュールは常に可能的解釈と誤読に曝されたものじゃない   でしょうか? 2.もし、私の推測が誤りだとしたら、東先生はそんなに「幼稚?なお方」   だったんだろうか?
さて、「存在論的、郵便的」の読み返しを完了いたしました。どうも腑に落ちない 部分があったので、後ろから逆に読み返してみました。「。たしまみてし返 み読…」とは、さすがに読めません!  後ろの章から前の章単位に 読み返してみたのです。東先生も後で書いておられますが、かなり前の部分が 修正されている様子が良く分かります。つまりホントは未完成なんです。 メビウスの輪が現象から漏れ落ちた部分をすくい上げて俯瞰的視座を形成する ところがありますよね。この本の核心はそのメビウスの輪が単数なのか、複数 なのか、それだけなんです。否定神学につながる超越論的な視座形成が単数であり、 事実上の不達もあれば、想起切断もある、複数の輪の多様性こそがこの本の 中心論点であり、かつ敢えて言えば浅田理論に付加価値をつけた唯一の部分と 断言しても良い様に思えます。 ここからはAranskの独断と推測になりますが、本来、東先生はもっと射程の 長い、かつ広いものを目指してあの論文を書き始めたのではなかろうか? ご承知の通り思想に関する論文ってのはニッチ産業なんです。デリダに関する 論文や資料は山のようにあります。かつデリダって自分独自の構想が少なく 殆どは他人の評論をその他人の文脈を用いて脱構築するような内容が多い。 ニーチェ、フッサール、マルクス…殆どの近代思想、現代思想を網羅する 人々が書いたものを、あるいは切り取りあるいは批判して自分の文章を 構築しているのです。文学で言えばジョイスのユリシーズ的な感じですか? つまり背景知が無いと何がなんだか分からない部類の文章であります。 従って膨大な資料と論文に埋もれないとデリダ評論は出来ません。 そして、これまでのデリダ評論が扱っていない部分を探し出すのが大変なんです。 それをニッチ産業?と申します。思想書で後ろに参考文献が山のように ありますよね。あれはニッチの墓場!でもある次第です。 で、「存在論的、郵便的」に戻りますが、東先生はあのメビウスの輪の複数性 を発見したところで息切れがしたのじゃないでしょうか?つまり論文を終わらせる ためにその結論から逆に前半部分を矮小化?しちゃったんじゃないでしょうか? そして悲劇が起こった。 矮小化作業をしている内に気付いちゃったんです。 複数か単数かって意味が無いことに…。 メビウスの輪は非知部分または潜在意識部分を表しております。 単数は集合論的にとらえているだけなんです。複数だとか多様性なんてことは 非知、潜在意識から能知、顕在意識部分に現れるまでは、認識しようが無いのです。 集合論的に捉えるか、その現れ方を個別的に捉えるかの差異しかないのです。 あの時点であの本が売れたこと。それが東先生のトラウマじゃないでしょうか? 哲学や思想を徹底的に追及するエネルギーが失われた原因ではないかと 愚考する次第であります。 さらに、編集に当たってはかの著名な柄谷先生や浅田先生もご意見を述べられた そうです!特に浅田先生はかなりの入れ込みようであったそうな? これは一重に東先生の哲学的才能があったことに由縁しております。パチパチ! 強力な新人は哲学界でも歓迎されます。新風が吹き込まれることにより読者層が 広がるからです。両先生の本もそれにあやかって売れます。 が、です。 両先生の力量が新人に超えられたら困るのです。前にも申しましたが 後輩に追い越されると、再び追い付き追い越すのは至難の業であります。 そこでアドヴァイスと称して「密やかな哲学的去勢」が東先生に施されたの ではないでしょうか?あの極端な矮小化にその影を認めるのはワタクシだけ でありましょうか? でも東先生にとってはその方が良かったのです。ドロドロの仲間内の争いに 耐えるだけの精神力も成熟性も期待できないからです。 お陰でオタク系に活路を見出すことができたんですから、しかしあれ以降 思想的に見るべきものが無くなったのは少し寂しい気はしますが。
ここんところ東先生一筋に嵌っておりました。ところが、恐るべきエッセイが 出版されておったのです。それは「負け犬の遠吠え」酒井順子著であります。 恥ずかしながら酒井さんの本は初めて読みました。その迫力、思わずのけぞり そうになります。今後Aransk改め「負け犬」予備隊かブリーダーか? または、「負け犬」士官候補生に変更すべきか?ケンケンたる議論が 沸きあがりました。 あの本のショックですっかりメンバーの目付きが変わってしまいました。 こんなHPを書いていて良いのか?まさに負け犬養成講座じゃないの? メンバー全員しばらく協議・執筆する精神的余裕を失いました…(/_;) 「負け犬の遠吠え」から立ち上る恐るべき妖気の正体は何か? それは避けようのない現実であり、生身の生活であります。 このホームページどころか我らが文化人類学そのものも吹っ飛ばすエネルギー を秘めておったのであります。文化人類学の理念である「人類の平和と福祉に 貢献する。」なんて霞んでしまいました。(国連の目標と同じだから… 最近国連も元気ないからねぇ… ネット社会のフィールドワークが何よ! 「一人称複数性における多人称単数性の比較優位性」なんてレポート に一体何の学問的価値があるのかしら? 文化人類学って名前はちょっとカッコ良さ気だけど、就職には絶対不利よ! (いやいや、拾う企業もありますから、受験生の皆さんにはあんまり… 収入も少ない、ステータスも無い、プライドだけの負け犬ってあまりにもミジメェ! (皆様、ご実家がしっかりしておられるから、そこまで心配しなくても… 未だQちゃんショックならぬ負け犬ショックから立ち直れないメンバーが 多く、しばらくこのホームページも更新が難しいような? 酒井さんも罪な本を… どうも女性メンバーの脱会が相次いでおります。東浩紀先生に対する幻滅も 要因の一つではありますが、なんと言っても「負け犬になりたくない症候群」が 大きい。結局このAransk軍団設立時よりの「うん、だべぇ。」の哲学オタと ヴィジュアル系頭空っぽプログラムオタの二人しか最近集まりません。 男性負け犬幹部候補生二人が、この問題について真摯に分析してみました。 題して:文明社会における女性負け犬症候群は何故発生せし哉? 1.世間体による要因 フェミニズム思想、個人志向、男女間給与差是正により負け犬が棲みつき易い 環境が整った。これは上記、書籍でも指摘されております。親に寄生しても結婚を セッツかれることなく、伸び伸びと暮らせるようになったことが上げられます。 その流れを助長している元凶が阿川さんや団さんであります。^m^ 2.消費文明の基盤強化 雇用不安や老後年金不安により一般家庭の財布の紐は固い。そこで狙われるのは 能天気な独身女性、旺盛な虚栄心によるブランド志向が景気の下支えとして 経済循環に組み込まれている。つまり主婦になれば気ままに消費出来ない。 「今のうちだわ!」意識が幅広い消費階層を形成することになり、「もういいわ!」 に心変わりしても、そう易々とこの経済循環から脱出できないのではなかろうか? 3.男性の不甲斐なさ これは確かに耳が痛い話であります。ずばり男性の押しが弱くなったのです。 何人にふられようが、断られようが、正々堂々と「別の新たな」女性に プロポーズする男性的な押しが弱いのです。「貴女を幸せにするのは 僕しか居ません!」って言ってみればぁー>捨てる女神も拾う女神も必ず いるはずだって。  この押しの弱さ、諦めの悪さ、が逆に内向して陰湿なストーカー行為に 繋がっているように思えるのは我々だけであろうか? ただ、問題は結婚してもこの癖が抜けきらないのが居ましてねぇ。 「別の新たな」女性に「貴女を幸せにするのは僕しか居ません!」って… こういう手合いが返って負け犬を増やすことに加担しておるのであります。 甲斐性があり過ぎるのも程々にしろぉ! な〜んちゃってね? 4.種の問題 最後はちと真面目に。アリゾナの湿地帯に棲む鰐の生殖が科学物質の影響で 異常に減っているそうです。またフランス男性の平均精子数もここ10年減少の 一途をたどっているとのこと。やはり地球環境的な問題も無視できないのかも しれません。あるいはこの急激な社会文明・制度の変化に対して人類の 潜在意識がNO!の信号を発しているのか?一種の現代文明病か? そう言えば開発途上国における人口爆発が収束しつつあるなんて聞きませんよね? 男二人で無い知恵を絞りきっても、この程度ですから…Aransk軍団の知的レベルは 確実に低下しております。
上記の文章中「どうも女性メンバーの脱会が相次いでおります。東浩紀先生に 対する幻滅も要因の一つではありますが…」の部分について若干補足して おきます。東先生はご多忙にも関わらず自らBlogを運営しておられます。 東先生の熱心なファンであるAranskが恐る々質問を書き込んだところ… その回答が: >Aranskさんは、テロや自由の問題そのものに関心があるというよりも、 >僕=東浩紀をダブルバインドに追い込むことそのものが質問の目的だった >ようです。 だったものですから、ー>「冬彦さん+被害妄想=東浩紀?だったの!」って 本学の女子学生が東先生に抱いていた、これまでの知的で、切れ者の評論家 イメージが一気に倒壊してしまったのであります。(-_-;) 特に体育会系の女性達=藤原紀香、松島奈々子、篠原涼子、アンジェリーナ・ ジョリー系は殆ど退いて行きました。 まあ捨てる神あれば拾う神ありで 「可愛いじゃない。」と母性本能系の女性達=野際陽子、泉ぴん子 山田花子?、ウピー・ゴールドバーグ系が、かろうじて残ったのであります。 東先生の女性の好みは知りませんが、あれだけの暴言でも、これだけの女性を 惹き付けおくとは…さすが、ただ者ではありません。 Aranskは、しかしながら、この件に関しては深く言行態度を反省し、 新に生まれ変わった真摯なファンとして「Jab」のハンドルで東Blogに参加 発言しております。
閑話です。ほんの軽いタッチで書いております。 「はてな」ダイアリーのサーバー引越しの際に 東先生が波状の弟子達を引き連れて応援に行かれました。 そのときの写真が東Blogに掲載されておりましたので、 その不可解な写真と一連の行動に対するあくまでもAransk的 解釈を少し: 東先生のお写真に対する精神分析的解釈が皆さんにかなり の衝撃を与えた模様です。−>絶対にご本人に伝わらない ようにくれぐれもご配慮願います。もし患者?が事実を知った 時どのような発作を引き起こすのか?想像するだに… オモロイ! ご好評にお応えし、東先生の症例に関してさらにラカン的解釈を ご説明します。ご承知の通り精神分析においては患者?の言葉を 意味通り受け取ってはいけません。その裏に隠された象徴的 解釈こそ患者?の真意の表象であります。 >>今回の僕のはてな引っ越し見学の記録は、写真・動画ともに、完全に プライベートで行ったもので(つまり、単に個人として近藤さんに 頼んで行ったもので)、いまのところどの媒体にも発表する予定は ありません。そもそもそういうノリで記録していません(笑)。 波状言論でもしかしたら簡単なレポでも書くかもしれませんが、 そのていどです。>> この発言に込められた象徴的意味を発掘します。 患者はプライベートであること、決して媒体に発表することはない (取材ではない、自分の為ではない)ことを強調しております。 では体調の悪いにも関わらず東先生は「はてな」のサーバー引越しという 単純労働作業に、何の役にも立たないご自分でありながら、何故参加された のでしょうか? その鍵は: >>近藤(れ)さんからは、帰りぎわに、引っ越し見学の参加賞ということで 京都おみやげのお煎餅をいただきました。とても嬉しかったです。>> この文章から読み取れます。僕は子供じゃないんだ。著名な評論家だよ! わざわざこんな「見学の参加賞」のお煎餅をもらいに来たんじゃないんだぁ。 この気持ちが「とても」嬉しかったです。に表れているのではありませんか? 煎餅もらっただけで「ここまで」喜ぶでしょうか?大の大人が? ほぼ丸一日の労働時間を棒に振ってまで…。 さらに: >>と同時に、こんなものをいただいてよいのか、という不安が。>> この不安は当然です!もらう物が違うからです。(^_^;) 決定的な証拠は: >>いま冷静に振り返るに、近藤(れ)さんは、僕たちがいつまでも 居座っているのでなかなかお帰りになれなかったのではないでしょうか。>> 東先生も必死です。いつまでも居座っちゃったんですよ。もらう物を もらう為に。つまり著名な評論家が付き合ってやってBlogにも載せてやるんだ。 「はてな」の良い宣伝になるだろうが?オタクは広報宣伝費をケチって 煎餅で誤魔化すつもりじゃないよねぇ?って… >>たいへんご迷惑をおかけしました。お煎餅は編集部で大切に食べさせて いただきます。ありがとうございました。>> ついに一銭にもありつけなかった患者の「典型的な捨て台詞」が これではなかったか。
皆さんは自らのコンテキストでしか対象を見ていないのでは なかろうか?何故対象のコンテキストにおいて対象の行為そのもの をブリコラージュしながら脱構築しないのだろうか? 政治家と評論家のコンテキストとは何か? 口では、表面では、キレイ事しか言わない、装わない。 実は「金と地位と女」でしか、決して動かない。これです! (鈴木先生を見よ!植草先生?を見よ!) 先生は波状編集部の子分達まで引き連れて「はてな」に 行かれた。子分の手前、手ぶらで帰れるだろうか? 先生に悪気があったとは言いません。 ただ「はてな」の謝礼で子分達に飯でも奢るつもり だったんでしょう。(謝礼の半分で…) 「はてな」の煎餅で子分達は満足するでしょうか? 精神分析学的に言えば子分達も「キレイ事」で先生の下に 集まった連中です。表面がキレイ事であるほど、実は 「金と地位と女」でしか、決して動かない。これです! 飯でも、食欲ぐらい、満たしてやらないと先生の立場が ないじゃないですかぁ。じゃぁ高給取りの先生が奢れば 良いじゃん、って? それが貧乏人のサバルタン的思想です。 政治家と評論家は決して自腹を切りません。 財布も、責任も…  これが東Blogから必然的に解釈されるコンテキストです。 明解でしょう?
2ちゃんねるの東浩紀スレで下記発言がありました。 >あずまんはイラク事件に関してはあくまでもシカトを >決め込むつもりですな それに対するコメントです。 無茶言っちゃいけません。現実が既に言論を超えて おります。東先生が何を書こうが陳腐なものに ならざるを得ないのです。綿矢さんが「私は 小さな世界の中で生きております。今まで 社会や世界に不満を感じたことはありません。」 と言い切っておられる。あの若さで既に東先生を 超えておられると思われませんか? 東先生に残された世界は「波状」とその子分達だけです。 「はてな」サーバ引越しにおける、波状部隊は まさに現在のイラクにおける自衛隊の姿を思わせます。 国家における武力はファルスであります。自衛隊は現地に おける日本人の拉致事件さえ一切関与出来ません。 日本人を保護出来ない。守れないのです。 イラク人に対する人道支援も危険回避のため続行出来ません。 ただサマワの基地内で自閉的に存在するだけの、完全に 去勢されたファルスであります。 そうかぁ!東先生は自らと子分達を無能化、不能化 することにより象徴的な物語を我々に示されたのかも? ただ不能的に存在することにより「はてな」から煎餅で 追放される哀れな自分と子分の姿は…それを、「わざわざ」 写真にとって自らのBlogに掲載する行為は… 思想家の衿持を賭けた現実に対する最後の抵抗なのかも知れない。 東Blogの語る物語の豊穣性は尽きない…。
お気づきの通り、この章が膨れ上がっております。 コンピュータ言語というある種の制約から解き放たれたことで 書きたい欲望をこれまで抑えられた哲学オタが、一気に その衝動を爆発させております。(爆発させ過ぎた?のも、若干一名 おります…書き込み過ぎてMSG BOARDが壊れた? for the more limited, if adequate, is always preferable. - Aristotle   このような状況なので、なんとか統一性と自己同一性らしきものを かろうじて保ってまいりましたが、このWide Showからは、限りなき 多様性へと逸脱する可能性が高くなっております。また顕著な知的レベルの低下 と資金繰りの悪化が予想されます。知力は女性メンバーに、資金は女性メンバーの お小遣いに負っていた男性メンバーの頼り無さがもろに表面化する恐れが あります。どうぞ、ご了承?願います。 目次へ

21世紀の現実(リアリティ)ー社会学の挑戦 宮台真司・鈴木弘輝編著 ミネルヴァ書房が宮台先生のBlogでcharlieさんが宣伝しておられたので 図書館で読みました。博士課程に在籍中か講師レベルの方々が自ら興味ある 分野に関して執筆されたものを纏めたものです。 内容的に一貫性のあるものではありません。ずばり、ゼミ論文集です。 皆さんも是非ご一読下さい。 21世紀の日本における社会学のレベルが一目で分かります。 宮台先生の担当された終章だけはなんとか読みました。 (ゴメン、charlieさん!他の章は流し読みです…) 宮台先生の章の出だしは:「あらためて言うまでもないことだが、」 宮台先生は文章が下手だ。 これでは端っから読む気を無くす。 担当の論文指導教官を泣かせた口ではなかったか。 (お前に言われたかぁないよって?) 社会学から学生が遠ざかる理由として社会の複雑化、分裂化による全体性の 欠如を挙げておられた。が、それは宮台先生違います。 「社会学の挑戦」がないからです。社会学を学んでも社会に対する提言を、 将来の青写真を提示出来ないことにあります。 その失望感から学生は社会学を見限って行くのではないでしょうか。 哲学は「ミネルヴァの梟は夜飛びます。」つまり、ミネルヴァ書房 とは何の関係もありませんが、後講釈でいい訳です。単なる分析と評価による 理論構築で事足りるのです。 が、しかし、社会学は本来、未来に向かって不確実性を乗り越えて挑戦的に 青写真を示すことが要請されております。 例えば宮台先生のご執筆担当章において、本ゼミ論文集のレベルに対する言い訳と これまでの先生ご自身の執筆内容の釈明を除き、将来に対する提言的要素を含んだ ものは:本文P254 「多様性と流動性を両方増大させたままにするのは無理だから、 流動性を抑制すべし」というものである。(原文ママ) 「流動性の低下」を「ブロック化」(主体の単位を異にするマルチレイヤー化) で実現するという、部分しかありませんでした。 注):「主体の単位を異にするマルチレイヤー化」とは 1.個人、家族、法人、市町村、都道府県、国家、地域ブロック、国連と   代表主体自体が拡大変化してゆくこと。 2.個人や組織が多層的に異なる分類単位に所属すること。 の二つの意味を表す斯学の概念です。(これぐらいの注釈は一般読者用に必要と 思うけどねぇ。宮台先生?) 「ブロック化」には宮台先生が最近提唱されている亜細亜主義が含意されている ことは当然推測されるところです。 そこで宮台先生にお聞きしたい。 まさか、先生は「入り鉄砲と出女!」なんて流動性を規制する意図は毛頭ない はずです。(テロ抑止のための入り鉄砲か…) 流動性が低下する閉鎖的な保護主義ではない、外に開かれた地域ブロック化が 国際的に推奨されている現状において、どのようなブロック化を想定されて おられるのでしょうか? 「大東亜協和圏だぁ。」なんてお応えではないでしょうねぇ…。 目次へ

なかなかネット上で話が噛み合うことは少ないものです。 Yahoo掲示板ー社会科学ー社会学ーネット社会におけるコミュニティ形成スレ において、ballardrainさんと首題に関する議論が弾みました。 同氏のご承認が得られましたので読者のご参考に下記の通り転載します。 投稿者: balladrain 少し読んでるので、応答します。 「『真理の言葉』は『機能の言葉』によってその機能的前提や 機能的波及効果に言及されることで、梯子を外される。 『機能の言葉』は『機能の言葉』によって機能的前提や波及効果に 自己言及することで、限界効用が相当に逓減するまで自己自身を増殖し、 全体性に接近する。」 たぶん、ここが彼の一番言いたいところですね?  このことはちょっと前の姜尚中さんとの対談集の中でもう少し分かり やすく説明されていましたね? もちろん単に(彼の)社会学を擁護する ための言葉なのではなく、多少のもどかしさや欲求不満やあるいは 禁欲と言ってもいいかもしれないようなものをみずからに課すの でなければ、現在、世界の全体像は垣間見ることすらできない、 という、ある意味で至極真っ当な意見なんじゃないだろうかと、 僕は思います。 マルチレイヤー化についても、いま言った対談の中で、 もう少し丁寧に述べられていますね? その少し前から彼は国家を ハンドリングする導きの糸としてのアジア主義ということを言い出して いるわけですが、言わばグローバリズムに対抗するための個別の文化から 「惑星的思考」に至る、そのちょうど中間形態のようなものとして 捉えることもできるのかもしれませんね? 僕はとても興味深いと思っています。 ちょっと細かい余計なこととかまで言っちゃえば、上に引用したようなこと を書いた次の次の章で、 「……『真理の言葉』は、社会的文脈の分岐によって全体性から 見放されていく一方で、心理的な安定化の機能を発揮し続ける。 『機能の言葉』は、全体性への近接と引き替えにカタルシスを犠牲に することで、心理的に人々から遠ざけられ、カルト化する。」 と書いてあるのは、明らかに言い間違いなんじゃないか、 としか思えないんですが(笑)。 投稿者: aransk88 ballardrainさん こんにちは >多少のもどかしさや欲求不満やあるいは禁欲と言っても >いいかもしれないようなものをみずからに課すのでなければ、 >現在、世界の全体像は垣間見ることすらできない 「至極真っ当な」ご意見感服致しました。 >言わばグローバリズムに対抗するための個別の文化から >「惑星的思考」に至る、そのちょうど中間形態のようなもの >として捉えることもできるのかもしれませんね? 姜尚中さんとの対談集は読んでいませんが、宮台さんは ご承知の通りコンテキストと正確な語彙の使用方法に 若干難があります。これは彼一流の隙を敢えて見せることに より読者がその中で思考を深めることを狙った深慮遠謀に よるものなのか、天然か、は私自身まだ判然としておりません。 個別文化の多様性が共存することに意味があるのであり それがブロック化や流動性を抑止する文脈で語ることで 彼が何を意図しているのかもう一つ分からない面が あります。 ご指摘の「機能の言葉」がカルト化しちゃえば、 「真理の言葉」はカルト化せざる得ない、という この章以前の説明が成立しません、と言うか、このまま 素直に解釈すると「言葉は全てカルト化」することに なる???しかしながら、なんとなく彼の言いたいことが 分かってしまうところに読者の母性本能をくすぐる 戦略が隠されているのかも…。 投稿者: balladrain こんにちは。 >これは彼一流の隙を敢えて見せることに >より読者がその中で思考を深めることを狙った深慮遠謀に >よるものなのか、天然か、は私自身まだ判然としておりません。 もちろん、深慮遠謀なのだと思いますよ(笑)。でももちろん、 誰にも自身を統御し切ることなどできませんね? ちょっと意地悪く言うなら、 彼からはときおり、あまりにも意識的であろうとする人に特有の苛立った オーラみたいなものが感受できますね? >個別文化の多様性が共存することに意味があるのであり >それがブロック化や流動性を抑止する文脈で語ることで >彼が何を意図しているのかもう一つ分からない面が >あります。 ここで彼の目指していることを一言でいうとすれば、「形」の 自在な変容、ということじゃないでしょうか。 機会があれば、もう少し敷延して書いてみます。 >しかしながら、なんとなく彼の言いたいことが >分かってしまうところに読者の母性本能をくすぐる >戦略が隠されているのかも…。 僕はやっぱり、言い間違いだと思う(笑)。 投稿者: aransk88 >彼からはときおり、あまりにも意識的 >であろうとする人に特有の苛立った >オーラみたいなものが感受できます? 現在私達がしている作業って評論家を 読者として評論するっていういわば 二重構造になっていますよね? つまり彼の苛立ったオーラみたいなもの が読者に向かっているとしたらそれを もろに受ける立場にある。(笑) 何故俺の言うことが理解出来ないほど 民度が低いのか?という嘆きは 我々の民度を問われている。 彼の文章の厳密性の欠如はさておき その意識や感情は理解できます。 (あの程度の文章力ではとても博士号は 難しいと思ってたら、いつの間にか彼 博士課程中退が博士になっていますよね? 都立大は審査が甘いんじゃないの。 これは全然関係無い話ですが…。 また、私の文章力で言えることでも…。) >彼の目指していることを一言 >でいうとすれば、「形」の自在な >変容、ということじゃないでしょうか。 時代の流れや一部読者に対する迎合的 な「変節」をされないよう、私達 消費者の立場から厳しくウォッチする 必要性は感じております。 投稿者: balladrain 形の自在な変容というのは、僕たちがその都度仮に依拠する対象を、 自覚的にきめ細かにスライドしていける、豊富な選択肢の創出という ことです。小さなコミュニティーから、国家を超えたものまで。 でも、それは、aransk88さんの受け止め方からも窺えるように、 なんだか彼自身の自我の軌跡を評した言葉のようにも響きますね?(笑) 彼が真っ当な思想家であることの証しだと言えるのかもしれません(笑)。 でも敢えて言いますが、民度に苛立っているあいだは、本当によい 「作品」はつくれないのじゃないでしょうか? 僕が尊敬する人たち(笑)も、世界を罵り、激しく呪い、そして 長い長い道のりを経ていつか世界を受容し、最後に愛するまでに至った、 そして「古典」を残した、そんなタイプの人が多かったような気がしますが(笑)。 投稿者: aransk88 ballardrainさん、こんにちは 今回のご発言には随分(笑)が混入しておりますが、 ニガ(笑)うべきは宮台先生であり、ballardrainさん ではありません。(笑) さて、ballardrainさんのご解釈と: A) >形の自在な変容というのは、僕たちがその都度仮 >に依拠する対象を、自覚的にきめ細かにスライド >していける、豊富な選択肢の創出ということです。 >小さなコミュニティーから、国家を超えたものまで。 宮台先生の「亜細亜主義と北一輝〜21世紀の亜細亜主義」の 一節とを比較してみましょう: B) 「日本には馬鹿が多いので、ネオリベラリズム(新自由主義) というと「小さな政府」とか「自助努力」といったクリシェ しか想起できない輩で溢れています。そこから「自己決定論批判」 などをホザク輩もいる。そんなことはどうでもいいんです。 本質はむしろ、「社会政策の遂行」──再配分に象徴されるような ──よりも、「法的意思の貫徹」──重罰化や排除──を優先させる オリエンテーションにこそあります。これを一気に縮めて 表現すると、「流動性と両立不可能ならば多様性を抑圧せよ」 という命令文となります。」 どうでしょう?とてもA)とB)が同一の概念から派生しているとは 思えません。ここに宮台先生のヤヌス(二面性)が秘められては いないでしょうか? つまり読者の民度の低さに嘆きつつ、それ故已む無く別の方向から アプローチしているのだ、との言わば「演技に見せ掛ける」戦略を 先生は選択していないでしょうか? それは極めて危険な戦略であると声を大にして公けに知らしめること、 これは宮台先生ファンの義務です。 特にワタクシ達、立ち読み、図書館派として先生の印税収入に 貢献出来ないもの、のせめてもの「ご恩返し」と信じております。 投稿者: balladrain 簡単に答えます。 彼はある意味で、三島由紀夫に似ています。 あなた達のお気遣いはわかる。しかし私はあなた方の憂慮や誤解を 含めてすべてを承知の上で、極めて意識的に振る舞っています。 もちろんそのような言葉は使わないとしても、三島も宮台も「口吻」が そう語っています。 ただし、宮台は、三島のように死を生きているのではない。 苛立ち(民度に対する苛立ちのことではありません)を含めて、 様々な計算外のシグナルが僕たちに伝わって来やすいのは、 彼が三島に比べるなら、遥かに健全で驚くほど粘り強い啓蒙家 だからだということじゃないでしょうか? ともあれ、おそらく本人にとっても、観客にとっても、 あらゆる思考の実験をためらおうとしないという意味で、 現在、最もスリリングな批評家の一人なんだろうなと思っています。 投稿者: aransk88 ballardrainさん こんにちは >あらゆる思考の実験をためらおうとしないという意味で、 >現在、最もスリリングな批評家の一人なんだろうなと >思っています。 宮台先生が思考の実験をすることは良いのです。また スリリング程度の結果を生み出すようであれば問題はありません。 しかし本当に狼を呼び出すことを助ける効果はないのでしょうか? 「世界を罵り、激しく呪い」は三島由紀夫よりも 2.26事件の磯部主計予備役士官の心情を連想させます。 勿論、宮台先生にはそんな企画力も実行力も欠如しています。 但しプロの批評家、教師として公に意見を発表する以上、 禁欲的で抑制的な部分も必要ではないでしょうか。 ところでballardrainさん、貴方との、この掲示板での やりとりを小生のBlogなりHPに転載することを ご承認頂けないでしょうか? Academic Use onlyです。 最近ネット上での知的アーカイブの保存ということを 考えています。多分このままであれば、ballardrainさんとの やりとりも「きしめん」の話と同列にyahoo掲示板のサーバーに 埋もれてしまうと思われます。 後で整理するって大変な労力ですから。 また、「きしめん」の話がAcademicでは無いなどと 言う意味では決してありませんので…。 投稿者: balladrain ちょっと酒が入ってますが(笑)。 >しかし本当に狼を呼び出すことを助ける効果はないのでしょうか? もちろん、あると思います。彼はそのくらいの危険と引き替えに でなければ、我々がそれ相応の果実を手にすることもまたない、 と言っているのだと思います。 aransk88さんが何度か触れられた「流動性」に関しても同じような ことが言えます。彼はかつてはむしろ「危険な」「流動性」の擁護者だった。 そしてたぶん90年代半ばあたりから顕在化し始めた社会の大きな変化に 呼応するようにして「流動性」の否定に軸足をおくようになりました。 しかしそれとても、彼が導き出すあらゆる命題がそうであるように、 常に限定的なものです。彼の言葉には常に条件がつき、留保がつく。 しかも語りかける対象に応じて、その留保も条件も意図的に変えていく。 表層的には何が等価で、イクオールで結ばれるのかさえ分からない場合がある。 ちょっと余計なことかもしれませんが、aransk88さんが前々回に 引用されていた「流動性の優先」は、ネオリベラリズムの批判に重点が 置かれた文脈のなかでの発言なのではありませんか? 彼が「流動性」を 肯定する契機は今でもあり得ますが、たぶんさっき言った時期以降 あたりからの彼は、例えばネオリベラリズムとのある局面における 親近性をも認めながら、ほとんど専ら「多様性」の擁護にアクセントを 置くようになったのじゃありませんか? いずれにせよ、「流動性」といい、「多様性」といい、近代の 「問題」なのであって、近代のほかに選択肢はあり得ないのだから 敢えてそれを、近代を、さながら「盲信」するかのごとくに振る舞う という態度は、よく分かりますが。 BlogやHPのことはご自由です。僕の正直な希望を言わせてもらえば、 ここでの意見はここで埋もれるだけにしたいですが。 投稿者: aransk88 ballardrainさん こんにちは >しかしそれとても、彼が導き出すあらゆる >命題がそうであるように、常に限定的なものです。 >彼の言葉には常に条件がつき、留保がつく。 >しかも語りかける対象に応じて、その留保も条件も意図的 >に変えていく。表層的には何が等価で、イクオールで >結ばれるのかさえ分からない場合がある。 宮台先生の言説における方法論を良く表した ご意見と思います。 さは、さりながら、三島由紀夫の時代とは違います。 三島の場合自らの扇動行為が時代に合わないものであることを 良く知っていながら、と言うか知っているからこそ、 あのような過激な自死表現を選んだのではないでしょうか。 当時よりも戦争経験が薄れ、現在の方がはるかに免疫力が 弱い状況にあるように感じております。 従い、 >そのくらいの危険と引き替えにでなければ 程度の短絡した思考様式に近い、宮台先生が言われる ところの「民度」の人々が増えてはいないのでしょうか。 >我々がそれ相応の果実を手にすることもまたない。 のような発言こそ迎合的であると考えるのです。 >BlogやHPのことはご自由です。 ご了承有難う御座います。 早速下記の通り弊HPに転載させて頂きました。 http://homepage3.nifty.com/Aransk/contents3.html#ichii 投稿者: balladrain また取り敢えずの、ごく一般的な言い方になってしまいますが、 彼には状況に対する強い危機感があり、それに対する明確な処方箋 もある。でも、薬を無理に飲ませることなんて、もちろん、誰にも できない。かつて三島も、ここに「天皇」という劇薬がある、さて 君達にこれを飲む勇気があるかどうかだ、と言った。いま、僕たちは 三島が死ぬ前にその到来を恐れ、現に生きていたなら実際におぞけを 震ったかもしれないような時代を、どこにも「中心」がないまま、 それが恒常化されようとしている時代を、良くも悪くも平然と 生きているのかもしれません。 ニーチェをもじって怪物と戦うためにはみずから怪物となれ、 あるいは怪物のなかに進んで入ってゆき、その腹を食い破れと、 宮台なら言うかもしれません。それに対して、三島は少なくとも この現実世界に対しては、企みと呼ぶにはあまりにナイーブに 過ぎる企みをしか発案できなかった。あの数々の、企みの最上の 精華と言ってもいいだろう戯曲を創り上げた人が。 確かに三島がクーデタの成功を信じていたことなど、100パーセント あり得ないでしょう。むしろ彼は創造された、あるいは演出された ナンセンスによって、みずから生の幕を閉じたかったのかもしれません。 もちろん彼の失敗は、僕たちにとって幸いなことだった。しかし今では 誰しもに忘れられていた「文化防衛論」が、そして「亜細亜主義」が、 更には「憂国の士」(笑)が、宮台の「流動性」への抵抗を語る文脈の なかで蘇らされる。 毒をもって毒を制するためには確かに免疫力が必要です。しかしここで 毒というのはもちろん言葉の綾なのであって、宮台にしても本心では、 ニーチェの最初の言葉どおり、怪物と戦う者はそのためみずからも 怪物とならぬように、心せねばならぬと思っているのではないでしょうか。 僕はあるいはaransk88さんとは逆に、彼はもっとどこでも、思ったままを、 思ったとおりに、話したほうがいいんじゃないかと思いますが。 言葉を換えれば、いったい何のために、あるいは誰のために語って いるのかを、もっと見えやすくしてくれたほうがいいのじゃないか と思うのですが。別段誤解など意に介さないのだとしても、 なんの隠し事もなく誤解されているほうが、どちらかと言えば 気も楽というものじゃないでしょうか(笑)。いや、もうとっくに 何もかもさらけ出していると、彼は言うのかもしれませんが。 投稿者: aransk88 ballardrainさん こんにちは A) >彼には状況に対する強い危機感があり、 B) >それに対する明確な処方箋もある。 A)は確かにそう感じます。また宮台先生ご自身に対する 焦りも含まれいるのではないでしょうか。 B)に関しては、その明確な処方箋が見つからないことが、 危機感と同時に焦りを生み出している原因では ないかと思うのです。 >もうとっくに何もかもさらけ出していると、 >彼は言うのかもしれませんが。 さらけ出した姿が先生の現在の言動ではないでしょうか。 なんとか処方箋を発見しようと苦闘している 様子は分かりますが…。 これ以上話を進めると宮台先生のコンテキストから逸脱 してしまいます。が、個人的には多様性と流動性の対立 と社会学的に捉えるよりも、もう一段次元を落として人間の 生物種としての身体性や生環境から世界を分節化したら どうか。従来の文化制度的価値観そのものを検証する必要は ないのか。と、おぼつかない、女童的思考にふける ことがあります。 ballardrainさんのお陰で久しぶりにネットで話が 弾み、有難う御座いました。またどこかで お会いすることがあるかも知れません。 取あえず、今回はこれで再見! aransk88 投稿者: balladrain そうですね。 「処方箋」についてだけちょっとつけ加えれば、彼には「場面場面での」、 また「その時々の」、「明確な処方箋」が用意されていて、当然のことですが、 それは変化して行っていますね? これも当然のことですが、予測が外れることも あるし、いろいろな条件に応じて軌道を修正したりもして行ってますね? 僕は彼の良心のようなものを信じられるように思うので、これからも折に 触れて、彼の言説に接してみたいと思っています。 またどこかで(笑)。こちらこそありがとうございました。 目次へ

宮台先生からもcharlieさんからも何の応答も無いので比較的個人的に関心の 深い「21世紀の現実ー社会学の挑戦」の7章「その先のインターネット社会」 について率直な読者の感想を書いてみます。(宮台ゼミの熱烈な一ファンから…) ゼミ参加者はゼミ担当教官から必然的に多かれ少なかれ影響を受けます。 では宮台先生のご執筆の終章と本第7章との共通点は何か? ずばり、言います。 タイトルはいかにも将来展望を暗示しながら、近づくと蜃気楼のように それが消失していることです。 さぁこれから、肝心の筆者が描く青写真だぁ、と期待したところで ふっつりと終っていることです。 盛り沢山なインターネットの事実確認的出来事や歴史が紹介されております。 これまであまり興味の無かった方には参考になります。お奨めです。 しかし、それだけなんです。 トーヴァルスが出る、レッシングも出る、ストールマンも出る。あら 懐かしの東浩紀先生も登場します。 が、それだけ。 結論らしきものはインタネット、IT全体の「設計思想」が重要だぁ? 当たり前です。レッシングもそう言っております。 プログラマーの倫理教育が重要だ。これも当たり前です。 このAranskでさえ「Programming for Beginners'」でその構造性と 必然性を説明しております。 本文P229より抜粋: さらに重要なのは、そのアーキテクチャーを享受する我々自身の「選択」 の問題である。 ここで筆者は「楽」で「便利」だと言う価値を選択してアーキテクチャーに 寄り掛かっていては、価値を選び直すこと自体が不可能になりますよと警告して おられる。 しかしながらインターネット以外の技術でも「楽」で「便利」だの価値観で アーキテクチャーは進歩しており、それが一つの駆動力になっていることを 否定する人間は誰もいないであろう。 では、インターネットの世界ではどんな価値観を選択せよと筆者は 仰りたいのか?「楽」で「便利だ」と「倫理性」は必ずしも対立する 概念ではないように思うが…。 それと一点、 本文P222より 重要なのは匿名の存在となってもその匿名性にタダ乗りせず、 責任のとれる主体として振舞うことだ。 とあります。 社会学とはそもそも他者視線中の自己として個々の構成員が振舞うことを 前提として成立する学問ではなかったか。 インターネット社会でも同様です。匿名存在は存在しない。 社会行為である限り真の意味での匿名はあり得ない。 何故なら倫理性そのものが他者視線中で社会的に生成され、 機能するものであるが故に。 charlieさん如何でしょうか? 目次へ

どうも本学ではプログラミング言語関連トピックよりも上記宮台ゼミ批判の方が 圧倒的に支持されてしまい、不本意ながらこの路線でしばらく論を進めざる 得ない状況となってしまった。 さて、今月号の「新潮」でデリダ追悼特集が組まれていた。 以下はパラパラと本屋で立ち読みをしただけでの感想である。 懐に余裕のある読者の皆さんは是非購入の上、内容の確認をお願いしたい。 内容を簡単にブリーフィングすると、デリダに関して縁浅からぬ柄谷先生、 鵜飼先生、浅田先生が出席され、それぞれの立場から追悼の意を込めた 座談会形式の記録が第一部である。(2004年末) さらに1980年代にデリダが来日した折に柄谷先生と浅田先生がデリダを 囲んでの座談会の記録が第二部の構成となっている。 未だ新潮を見ていない読者の方には、まず第二部を読むことを奨めたい。 実は筆者もデリダの生の声に触れたいと考え、まず第二部を読んでから ついでに第一部を読んだ次第である。 哲学に関しては門外漢に過ぎない筆者のこれからの論評における切り口と 意図を予め明らかにしておく。 1.第二部と第一部共通の出席者である、柄谷先生と浅田先生の発言に   焦点を絞り、この20年間におけるお二人の成長度を測る。   従って鵜飼先生ファンには申し訳ないが先生の発言内容については   割愛する。 2.筆者もデリダ追悼の意味を込めて柄谷先生と浅田先生をデリダが   どう視てどう感じたのかを推測することにより両先生の発言内容   を吟味することにする。特に浅田先生の発言には注目すべきところ   が多かった。 (先生、先生と連呼するのも大学研究室や国会議員会館を連想するので 以後敬称は略させて頂く。) 第二部1980年座談会より 当時デリダは既に後期創作段階・政治活動段階に入っており、往年の哲学的 論理明証性と統合性を失いつつある時期である。その本質的哲学能力の 衰えを政治活動という思考概念的には極めて粗い行動主義で埋め合わせる ことで辛うじて行動する哲学者イメージを保っていたと想定される。 読まれたらお分かりの通りデリダは発言はしているが極めてその内容は 意味のないものである。しかし少なくともこの座談会から日本の気鋭と 称される哲学者から何かを吸収したいとの意欲は感じられる。 柄谷は本居宣長の漢心批判に日本流の脱構築を感じると、まさに当時から 柄谷一流の牽強付会振りを発揮していることには筆者も驚かされた。 漢心とは本来極めてプラグマティックなものであり、思想的構造性その ものは存在しない。硬直化した儀式・礼儀と思想構造を完全に取り違えた 発言ではなかったか。また本居宣長の批判も漢心の硬直した心情を目標と したものであり、本来脱構築に必要な論理性も検証も皆無である。 デリダが本居宣長を知っていたかどうかは別にして、この例から分かる通り 柄谷のいい加減な牽強付会振りには密かに気付いていたのではなかろうか。 さて、浅田が本座談会の最後辺りに発言した内容を吟味してみよう。 「自らを外に開く可能性、横断結合と異種交配の可能性いわば エピクロス的なチャンス、アトミックならざるアトムたちが クリナーメンによって遭遇するチャンス…」 これをデリダ本人に向かって発言した次第です。 デリダは「馬鹿か?こいつは」と思ったのではないでしょうか。 上記を平たく言えば「違う考えを持った人間同士が会やぁ、 ちったぁお互い良いことも思いつくかもしれねぇ。」 と言うことです。 つまり、筆者が浅田にそう言えば「馬鹿か?こいつは」と当然 考えるはずだ。上記浅田発言はデリダに対してそう言ったことに 該当するほど、小利口にデリダの思想を矮小化して纏めたことになる。 デリダはこの時期衰えた記憶力を振り絞りながら、手のひらから こぼれ落ちる流動的な何かを必死に繋ぎとめる作業に専念していた。 それは小利口な若造の独善的な解釈とは全く反対の試みでは なかったか…。 これ以降、急にデリダの発言は少なくなりふっつりと座談会は 終了している。 第一部2004年座談会より 冒頭浅田はデリダのこれまでの業績と思想的な概略を実に要領よく 纏めて紹介している。これに対して柄谷が「これほどデリダを纏めて 紹介できるのは浅田さんしか居ない…」と発言している。 柄谷の真意を推測してみよう。 1.浅田の小利口に纏める癖は20年前とちっとも変わってないなぁ。 2.ちったぁ他の出席者のことを考えろよ。これじゃぁ俺と鵜飼は   言うことが無くなっちまうだろうがぁ。 そこで柄谷は苦し紛れにド・マンの追悼用の写真にデリダが柄谷と 一緒に撮った写真を流用したことを明かした。 つまり哲学界のビッグネームであるデリダとド・マンと一緒に写真を 撮れるほど自分も著名な存在であることを示したかった訳だ。 ところがそのド・マン追悼用の写真には柄谷は写ってない。 デリダが柄谷が写っている部分をチョン切って掲載したからだ。 柄谷ではなくもし、クーンであってもデリダはチョン切っただろうか? この柄谷の「不在」にデリダの柄谷への評価と日本の哲学界に対する 世界の評価が凝縮してないだろうか。 世界で活躍し世界的評価を得る日本人は多い。柄谷は日本の哲学界では 著名でもメジャーリーグにもノーベル賞にも程遠い。これが現実である。 浅田は今回の座談会の最後でも纏めに入っている。 彼の才能はあくまで「纏め」にあって哲学的な思弁にはないのでは なかろうか? しかしながら、流石に浅田も纏め過ぎたと思ったのであろう。 明晰な語り口を身上とする彼も火だとか灰だとか極めて暗喩的で はっきり言えば意味不明なことを話して座談会を終わっている。 デリダは詩的な解釈が必要だとか、なんとか… デリダ本人はあくまで哲学者である自覚を強くもっていた。 高齢による衰えから最後は詩のようなパラフレーズしか 書けなくなっていたが、後世に期待していたのはその灰ような フレーズからの新たな哲学の再構築ではなかったか。 それを、浅田は、その灰を、詩の世界に吹き飛ばしてしまった。 「馬鹿か?こいつは」
Blogにコメントが付いたので転記します: コンドラチェフの長期景気波動は有名ですよね。 柄谷先生の60年〜120年周期の 社会状況の同一性は経済下部構造の変化に ともなう上部構造の追随であること程度は 柄谷先生も十分ご存知のはずです。にも 関わらず新潮誌上で得々として発言 されておられます。 Aranskさんもケインズを中心とする経済には 関心がおありのようなので当然お気づきで あったと推測します。 そこで質問です。 柄谷先生の牽強付会性を揶揄する例証として上記の コンドラチェフ理論を指摘しなかったのは、何故 でしょうか? 2ちゃんねるー>柄谷行人を解体する[ スレ 813発言にも指摘されているような極めて 常識的な牽強付会性を敢えて無視された 理由をお聞かせ下さい。 投稿者: Jab (January 12, 2005 03:31 PM)
2ちゃんねるの該当発言者に 真意を確認中です。 しばらくお待ち下さい。 投稿者: Aransk (January 12, 2005 03:33 PM)
Aransk先生! ご回答をお待ちしておりますが 一向にご返事がありません。 風邪でも引かれて寝込んでおられる のでしょうか? それはあり得ない、とは思いますが 念の為。 投稿者: Jab (January 15, 2005 12:55 PM)
Jabさん  >Aransk先生! >ご回答をお待ちしておりますが >一向にご返事がありません。 >風邪でも引かれて寝込んでおられる >のでしょうか? 新潮の今月号を購入しました。 貴方の質問にお応えするためだけに…。 950円の請求書を送付しますので貴方経費にて 処理願います、と言いたい。 そもそも、ポストイットとカラーペンを使いながら たかが月刊雑誌の記事ごときを構造化分析し、関連資料を 調査し、座談会における発言の信憑性を検証する作業って…。 Who pay for it! 新潮は保坂さんのまずまずの評論もあったので まあ良しとします。 さりながら、柄谷先生の発言に関しては: 「世界資本主義の景気循環から考えていたのです。」 とあるのでコンドラチェフの理論は頭にありながら 「だんだん否定的になりました。」と言うことです。 問題はA)60年説の否定根拠、B)120年説の肯定根拠、および C)それ以前の120年循環における状況、等々それぞれの 段階における思想史、文化史、経済史との比較検証、 及びその地域有効性の範囲が当然問題になることは お分かりですよね。 浅田先生のように「歴史的な反復の問題は非常に 面白い。」レベルじゃ意味がないのです。 また検証事例が恣意的にならないようにどのような 統計的配慮をするのか? 申し訳ないが、とても無償で作業をする範囲を逸脱 しております。 ただ、牽強付会性は哲学者としての一つの資質であること また小賢しく理論を纏める作業も必要な資質であること です。本来は両方の資質を併せ持つのが理想ですが 柄谷先生は前者に浅田先生は後者により精通しておら れるのではないでしょうか。 さらに言えば両方の資質とも本質的なものではなく、 ある程度哲学者個人の戦略性に従うツール的な側面が あることです。 つまり柄谷先生がコンドラチェフ理論ではなく 倍の120年説を選択したことは、先生個人の経済構造と その推移に対する認識の少なさ(上部構造の下部構造への 追随性も含む)によるものなのか、それとも思想的な 環境一致がたまたま倍にしたら多く発見されたのか 客観的な判断は困難であることです。 個人的には上記で述べたA)〜C)段階での科学的な調査を 期待したいところです。 最後に、 >極めて常識的な牽強付会性を敢えて無視された >理由をお聞かせ下さい。 これに関しては、あまりの粗雑な議論に敢えて取り上げる 必要も感じなかったとお応えしておきます。 本当を言えば、本屋で立ち読み中の記憶にも 残らなかったのが正解です。 投稿者: Aransk (January 15, 2005 06:33 PM)
あれ?回答頂いていたんですねぇ。 一言、連絡さえもらえればすぐ反応したのに。 さて、Aranskさんは 巧みに論点をずらそうと画策されましたね? 柄谷先生の 「デリダはマルクスが死んでからほぼ120年後に 死んだということです。」 には貴方もワラったはずです。例え「立ち読み」でも。 勿論座談会に同席された他の先生も内心では、 この粗忽発言に驚かれたのではないでしょうか。 哲学はいつから星占術になったのでしょうか? 心理学と錬金術との接近はユング以来有名では ありますが…。 さらに、 「マルクスが1848年に対してもった距離や関係は、 サイードやデリダが1968年に対してもつ距離や関係と ほぼ同じなのではなかったか」 これには空いた口が塞がりません。 歴史に対する距離や関係から思想家が成立するので あり、年号が距離や関係を生み出す訳がない。 人間の細胞はご承知の通り3年間で脳細胞も含め全て 入れ替わります。120年で人類共有記憶のような ものが再帰的に同じ状況でも生み出すとお考えなんで しょうか柄谷先生は? さりながら、Aranskさんにおかれては明らかにこの 話題を避けようとなさっておられる。 Why not? 投稿者: Jab (January 19, 2005 04:18 PM)
お待たせして申し訳ない。実は2ちゃんねるの 哲学板ー柄谷スレで "一般常識的にはちょっと?と思う柄谷先生の考えでも 浅田先生は「今言われた歴史的な反復問題は 非常に面白いですね。」と賛意を表されています。 また、同席の鵜飼先生から疑義も出されておりません。 言外に一般人には分からない「何か哲学的な概念」が 含意されているのか?それを教えて頂きたいのです。 新潮の雑誌に掲載された記事です。 最低限出席者の先生方の著者検稿は通って いるはずですよね?「かりにも」デリダの 追悼特集です。酒を飲みながらの新春放談会 とは訳が違うと思うのですが…。 浅田先生ファンの方も是非一緒に考えてみて 下さい。" と聞いてみました。浅田先生のファンから、 新潮の掲示内容については後で追加された もので、浅田先生は一切関係ないとの見解も 示された。 しかし、 "浅田 今言われた歴史的な反復の問題は非常に面白いですね。 無論、それを予言的に誤用すると、オウム真理教のように アポカリプスに向けて自らを駆り立てるといった 悲喜劇も起こりかねない。しかし、その種の反復を 考えることによって歴史の認識 が深まり、悪しき反復を回避する可能性もあるでしょう。 ・・・繰り返しますが、 予言のためではなく、現代史の趨勢を立体的に把握するために、 こうした反復的な構造の分析は非常に重要だと思いますね。・・・・" と明確に同意しておられます。(例え後で 追加されたものであっても…) そこでJabさん、我々は哲学を専攻するものでは ない。アマチュアだ。プロはやはりカントのいう 統覚的直感のようなものがあってアマチュアには 及び難いものがあるからプロなんじゃないだろうか? 哲学とはひとりひとりの前にそびえ立つ門に 入るためにするものだ。 論考のレベルが自ずと読者の水準を選ぶようになる。 従って入れない人々も存在する。 と誰か?忘れたが言っていた。 論理や実証性を超えた哲学独特の不可侵域が 存在するんじゃないだろうか? 投稿者: Aransk (February 2, 2005 09:15 PM)
どうなんでしょう。問題は歴史的な思想の回帰があるのか どうか、循環的な哲学の流れがあるかどうかではない ような気が最近しております。我々は問い自体を立て直す必要 があるのではないでしょうか? 「何故 哲学者達は一定の年齢に達すると歴史主義や超越論、 または政治活動等に向かって逃避しようとするのか?」 ワタクシとしてはこの場で哲学者の年齢による論理能力 の衰えと政治活動との関係をデリダの政治的関与と 柄谷先生のNAM運動を中心として論評しようと考えて いたのは事実です。 それはチョムスキーの言語学的な発言における「緻密さ」と 政治的発言における「粗雑さ」からヒントを得たものです。 デリダ:中期論文<−>政治的発言 柄谷:「隠喩としての建築」時代<−>NAM運動 この関係をチョムスキー的な言語学的分析と政治的言動 をベースとしたマトリックス的な視座を設定することにより、 人間の論理思考と政治志向の根源的な因果関係を垣間見る ことは出来ないのか? ずばり、申し上げれば一定時期における論理思考の実績が ハロー効果となって後期思想の内容(衰えた論理統合能力 による断章的なテキスト群や仮説)さらには、脈絡に欠けた 計画性の無い粗雑な政治行動を解釈する我々に影響を及ぼし てはいないのか? しかしながら、これはAranskさんの仰る通り哲学のど素人が 土足で踏み込む領域ではないと考えます。 政治行動や歴史主義に走らざる得ない想いを共有する哲学者達が 彼等自身の遺骨とも言うべきものをひとつひとつ、いと惜しむように 「喪」の気持ちを込めて拾い集めるような儀式的な作業であると 思うのです。 投稿者: Jab (February 18, 2005 10:44 PM) まあそのころ、あんたをよく見かけたという だけだが、理系のあんたらがどうして社会学に 興味を持つ? 投稿者: kurosiro (March 30, 2005 08:06 PM) プログラミング言語はコード化することに よりシステムを形成する。 一方、法は自然言語を使用した社会(システム) を規制するコードである。 これをさらに、物理コードと法・規範を媒介として、 物理システムと社会を融合する視座を確立する、 プログラミング言語でその視座をモデル化する、 ことは出来ないか。 自然言語もしょせん、世界を分節化する手法で あるならば、プログラミング言語も世界を写像 する手段である。 語れることはプログラム化が可能であり、 語れないものは沈黙せざるを得ない… 投稿者: Aransk (March 30, 2005 09:40 PM) 目次へ

最近保坂先生の掲示版に書き込みをしています。 http://bbs.nazca.co.jp/cgi-bin/bbs-c/bbs.cgi?id=gabun 保坂先生の√2理論を読んで、うちのメンバーであるJab氏と ともに意見を発表しております。(東先生のBlogと違い「まだ」削除されて おりません。…) 保坂先生の原文です。 [2958] 腑に落ちないこと  投稿者:保坂和志  投稿日:2005/02/02(水) 18:51:15 [返信] √2(ルート2と読んでください)って、1.4142135・・・と無限に 続いていく無理数で、現実には関係ないと思っているんだけど、一辺が1センチ の正方形を正確に描いたら、対角線の長さは1.4142135・・・になるわ けです。というか、正方形を描けば一辺が何センチでも√2がついてまわるわけ です。 ということは、現実に目で見えている「ここにある線分」の長さが、正確に測っ たら1.4142135・・・という風に、際限なく長さを確定できない、 とい うことなわけで、、、、 無理数じゃなくても、「3分の1」というのも、0.333333・・・・なん だから、10センチの線を正確に三等分したら、3.333333・・・・に な ってしまうわけで、これもいつまでも長さを確定できない。。。。。 現に目で見えている線が長さを確定できない、というか、物指しの目盛りを ずう っとずうっと拡大していくと、線もずうっとずうっとピッタリと目盛りに 合うと ころにこない。 現に目で見えている線の長さが2プラス√2センチであったりする可能性がある わけで、目では「これだけ」と簡単にわかるのに、数字で表わそうとすると際限 なくつづいてしまう。。。。 思考の罠にはまっているんだろうとは思うんだけど、どうしても腑に落ちなくて 。。。。 わたしのこの「腑に落ちなさ」わかります? なんか、全然伝えられていないような気がするんだけど。。。。。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Re: 腑に落ちないこと 投稿者:Aransk  投稿日:2005/02/09(水) 16:04:27 [HOME] 「腑に落ちないこと」を読んでたら、 ふと、問題が浮かびました。 A−Bを底辺(=4cm)とする三角形です。 B−Cは5cmでA−Cは3cmです。 頂点Cを通って底辺A−Bに平行な線を引きます。 A->B方向にどこまでも…。どこまでも…。 42.195km!先までいったところで、そこを 新たな頂点New Cとして底辺A−Bとの長大な 三角形が形成されたとします。 さて、その三角形の面積は? -------------------------------------------------------------------------------- Re:ユリイカ! 投稿者:Jab  投稿日:2005/02/10(木) 18:08:18 [HOME] Aranskさんの問題を見てふと、問題が 浮かびました。 底辺(AーB)4cmでその他の辺B-CとA-Cの 2辺が限りなく42.195kmに近い三角形の 面積ですよね? Aranskさんは最初の頂点Cを通って 底辺に平行に線を引かれましたが、 底辺と垂直方向に線を引いて 42.195km先を新たな頂点とする三角形でも 底辺(AーB)4cmでその他の辺B-CとA-Cの 2辺が限りなく42.195kmに近い三角形の 面積ですよね? 3辺の長さが等しい三角形は同一のはずです。 しかし平行な方向に進んだ頂点を 持つ三角形と垂直に進んだ頂点を持つ 三角形と面積は全然違いますよね? 不思議ですよね? 従って、これからはAranskさんが仰る「底辺に平行な 思考」が要請されているのではないでしょうか? -------------------------------------------------------------------------------- Re:視覚イメージの本来性 投稿者:Aransk  投稿日:2005/02/11(金) 18:29:15 [HOME] 上記のJabさんとのやり取りだけでは十分説明しきれて 無い部分について補足します。思考の筋のような ものをうまくご理解頂けるか自信はありませんが、 少なくとも以下の解説は「私はこういう面白いことを 考え付く人間だ」という自己PRではありません。 (新潮2月号P230ご参照) 保坂先生の√2理論を読んだとき、同じ三平方の定理を 使って視覚と数理の錯覚をうまく説明する方法はないか? と考えました。 底辺A-B=4cm、B-C=5cm、A-C=3cmのCを頂点とする 三角形はA角が直角の三角形です。 (4の2乗+3の2乗=5の2乗ですから) 従って高さ=3cmですからこの直角三角形の面積は 6平方cmです。(底辺*高さ/2) 頂点Cを通って底辺と平行な線は引くことは 高さ3cmを限定する行為です。グニョーンと三角形が どこまで伸びても、例え42.195km先でも底辺と高さは 同じですから面積はたったの6平方cmにしかなりません。 視覚イメージと数理のパラドックス的関係が成立します。 (視覚イメージでグニョーンと42.195km伸びた三角形の 面積を6平方cmと認識出来る人を除き…) そこでJabさんが三角形の3辺の長さが等しい三角形は 同一である理論をもとに垂直にC点を伸ばしてみる ことをご提案されたのです。 すると底辺は4cmで変わりませんが、高さは 42.195km+3cmに変わり面積は増大します。 ほぼ同じ底辺4cmと限りなく42.195kmに近い2辺で 形成される三角形でも面積は桁違いになります。 これがパラドックスの二つ目です。 さて、視覚イメージの発生原点に遡って考えてみましょう。 「底辺A-B=4cm、B-C=5cm、A-C=3cmのCを頂点とする 三角形はA角が直角の三角形です。」と視覚イメージで 分かるには「3,4,5(ミヨコ)ちゃん」の直角三角形 と覚えている人でないと難しい。 普通はぼんやり三角形が浮かびます。そして頂点が グニョーンと横か縦に伸びて行くイメージではないでしょうか。 この三角形が浮かびグニョーンと頂点が動くダイナミズムは 三角形自体が「本来」もっているのではないでしょうか。 「本来」数理と矛盾を含んで成立しているのではないか。 その本来性はどこから来るのか? 不思議ですよね。 -------------------------------------------------------------------------------- Re:視覚イメージの本来性 投稿者:Jab  投稿日:2005/02/12(土) 18:38:00 [HOME] 折角の機会ですので同じゼミの人間として3点追加 させて頂きます。(蛇足とは知りつつ…) まず一点目です。 >三角形はA角が直角の三角形です。」と視覚イメージで >分かるには「3,4,5(ミヨコ)ちゃん」の直角三角形 >と覚えている人でないと難しい。 イメージ形成の本来性にはこの、「3,4,5(ミヨコ) ちゃん」の直角三角形という「数理」イメージも含まれる ことです。 本来性とは太古から現在までの人間生活における 三角形という抽象化、汎化されたイメージにさらに 学習されたものも付加した総体を指します。 二点目は: この三角形における平行、垂直関係には永遠性を含みます。 前者はどこまで行っても同じ面積であり、後者の面積は 増大の一途を辿ります。そしてこのイメージ形成は 不可逆です。言わばグニョーンと伸びた三角形は縮まない。 上書きされるだけです。 三点目は: >従って、これからはAranskさんが仰る「底辺に平行な >思考」が要請されているのではないでしょうか? これについてはAranskさんの解説では一切触れて おられません。 何故か? 思考の跳躍があるからです。 これまでは保坂先生の√2理論から一切逸脱無しに、その 延長線上にて議論が展開されております。 一点の不自然な部分もありません。(逆に言えば極めて 在り来たり か?…) 世界を分節化する行為には新たな解釈性を含みます。 この底辺が固定された三角形、頂点がグニョーン、 グニョ〜ンとダイナミックに動く三角形に皆さんは 何をイメージされるでしょうか? 頂点が平行や垂直だけではなく様々な方向に動くと すればスーパーストリング(超ひも理論)を考えた方も おられるでしょう。 当ゼミにおいてはこれを人間の思考様式モデルと捉えて みました。 底辺は世界と密着した身体性です。 頂点の動きを思考のダイナミズムとします。 これまでは人間の身体性から解離方向に思考が進歩して 来ました。 これからは身体性に近い平行的な思考が重要ではないか との意味です。 それは自然環境に対して人間の占める面積を少なくする =生活環境の影響を少なくするという願いも含意して おります。 また高層的な、仰視的な組織生活から水平的な地域に おける生活そのものを重視したい。 そういったY世代の希望をも込めて書いてみました。 以上です。 (このような機会を設けて頂いた保坂先生 どうも有難う御座いました。) --------------------------------------------------------------------- 保坂先生の当初の疑問は有名なゼノンのアキレスと亀のパラドックスのように 無限に続くような数理が現実には確定的である不思議ですよね。 これを「微妙に外しながら」視覚からのイメージと数理のアンバランスを 接木してみました。 結論も保坂先生流にかなり「こじつけ気味」に味付けしたものです。 でもあまり不自然さは無いでしょう? これがロラン・バルトの言うエクリチュールの不思議? じゃ、ないでしょうかねぇ。 -------------------------------------------------------------------------- 目次へ

下記IDEに対する断章はそれぞれ独立しているけれど 基底を流れるものは一貫しています。
昨年Ownerが電話回線をADSLに変更すると言い出して その際パソコンも新しいのに買い換えました。 (Windowsの98からいっきにXPになりました。) それまで年賀状作成ソフトは筆まめを使用しており ましたが、これにともない筆王に変わりました。 年に一回しか使用しないソフトであり、機能的には 何の遜色もないソフトです。住所録も以前のものを インポートしたにも関わらず時間はほぼ倍かかりました。 慣れって恐ろしいものですねぇ。 最近はIDE(Integrated Development Environment)に 色んな機能が追加されて随分使い易くなっています。 コーディングの生産性は言語だけではなくIDEや プラグインツールに拠るところが大きくなっているので はないでしょうか。 筆者は経験ありませんがEmacs仕様とVi仕様の「指」がある そうです。(UNIX上で古くから使用されている エディターです。って言うかEmacsはLispでカストマイズ 出来るIDEのようなものです。) イチローのバットほどではないにしても完全に身体の一部と 化しているようです。言語も大脳側頭部言語野を形成します から厳密に言えば身体化している訳です。 Javaではデファクトスタンダード化しつつあるEclipseという IDEも無償ソフトですが実に良く出来ております。 使えば使うほど身体そのものに馴染んできます。 以前外資系銀行の為替やスワップのディーリングルームを 見たことがあります。ジェット機のコックピット形式でした。 全員がヘッドフォンとマイクを装着しています。 少人数で大量の判断業務をこなす形としてはコックピット形式が 適しているのでしょう。 現在でもパソコンを2〜3台使用してプログラミング作業を 行うことがありますが、究極的にはコックピット形式に なるように思います。大脳側頭部言語野と身体反射神経が 直結した形での新たな身体動作がプログラミングコック ピット内で行われるのではないでしょうか。 将来量子コンピューターが実現すればそのプログラミング 作業はコードを書いているイメージではなく、モデルや フレームワークを操縦しているような身体感覚に変化すると 思われます。 果たして人間の認知能力がこのような身体感覚をコントロール することが可能か? という問題は残りますが…。
コメント >将来量子コンピューターが実現すればそのプログラミング >作業はコードを書いているイメージではなく、モデルや >フレームワークを操縦しているような身体感覚に変化すると 量子コンピューターにはプログラムを書くほどの設計の自由度はありません。 たぶん、脳内ワールドと現実がだいぶ離れちゃってるみたいです。 現実を直視しましょう。 投稿者: t (January 15, 2005 07:25 PM) >量子コンピューターにはプログラムを書く >ほどの設計の自由度はありません。 量子コンピューターは人間の介在なしに プログラムされているのでしょうか? >現実を直視しましょう。 投稿者: Aransk (January 28, 2005 03:48 PM)
IDEのEとは環境のことです。 一般的にプログラマーはIDEに対する細かい技術的要素に 注目しがちで、生態系的環境認識が薄いように感じます。 視点がコーディングサポート機能やリファクタリング機能 及びモデリングやコードジェネレイションなど実用性に 眼が奪われ、環境自体が人間に与える影響やその身体性認識 を検証しようとはしない。プログラミング言語も言語である にも関わらずプラグマティックな観点からしかその言語を 分析しない。 このような習癖にはプログラマーに限らず理工系の人々が 概して陥りやすい傾向にあります。 また人文系においても数理経済学などのマニアックな分野 (木を見て森を見ない傾向のある分野)でも往々にして 散見されます。ケインズのモラルサイエンス的な認識が 稀薄なんです。専門性にアディクト(耽溺)して基本的な 人間としての認識論や存在論から切り離された部分で議論が 展開されるからではないかと考えております。 これは詳細な技術論を軽視しての主張ではありません。 精緻な観察と推論に基づく科学的な調査は必要不可欠です。 プログラミングのメリットはその物理的痕跡性です。さらに 文章などと違って他人の解釈を経由しない明証性にあります。 (語彙/文章と意味/動作が一致します。) しかしながらそのスコラ的な技術性や専門性に埋没して しまうことを注意深く避ける必要があると申し上げたいのです。 人間の思考や社会に対する影響を常に認識する責任から 回避してはいけないのであります。 斯学においては超越論でもなく唯物論でもない生態系的認識論が ほぼ主流となって学際的研究が進んでおります。 コンピュータ言語やIDE、またそれから生み出されるソフト自体 の人為性が、人間の生態系的な認識、存在を返って浮き彫りに してくれる好材料であり、かつ現代においては生態系的環境その ものを構成している訳です。 原始的自然が人間の種としての生環境ではもはやあり得ないのと 同時に人工的なバーチャルワールドをも含んだ人為環境が生環境 では無いことは自明であります。 人間の種としての生環境は如何にあるべきか? この生環境からの問いが欠如した学問や産業は 21世紀においては、もはや不要と言わざるを得ません。 人類は既にこの問いに応える時期に到達しており、また 応える力も十分有しております。 この視点からの問い直しと解体、再構築の作業が それぞれの現場で要請されているのではないでしょうか。
コメント 科学者が持つ基礎能力の一つに次のようなものがある。 「自分が思い込んでいる妄想と 科学的事実を区別する能力」 通常、人間が主張する命題の多くは、自分が正しいと思うことである。 そして、 自分が正しいと思っていることは、科学的事実と妄想に分類される。 一般の人にとって、自分が正しいと思い込んでいることが「なぜ正しいか?」 を 分析することは困難である。 自分が思い込んでいる妄想には証明は不要であり、 科学的事実だと述べる場合には、公理と証明が必要である。 公理と証明の欠落した命題は妄想に過ぎない。 科学者の使う言葉には定義があり、 一般人の使う言葉には定義がない。 一般人は定義のない曖昧な言葉で真実を説明して わかったつもりになりたがる。 「神」がいい例だろう。実体のない言葉を 用いればなんだかわかったような気になってくる。 これは、哲学でよく用いられる手法である。 説明しているようで、何も説明していない。 でもわかった気分にさせてくれる。 例えば、心の病、精神の病。 結局のところ原因は不明なわけだ。 そして、経験的な方法でしか治せない。 でも、経験的に治るからそれでいいや、 という投げやりな解釈である。 一般人は結局のところ、言葉の定義もできないし、 命題に公理と証明を添えることもできない。 だから、フレーム問題にはまり込んで 無意味な妄想を繰り返してしまう。 無知と無駄は表裏一体である。 投稿者: t (January 15, 2005 07:13 PM) tさん はじめまして。 コメントが付くとメールで連絡が入るはず なんですが…。返事が遅くなって済みません。 >無知と無駄は表裏一体である。 これは仰るとおりです。 至極最もなご意見です。 但し、これはワタクシの 発言に対して言っておられるのか? それとも、 貴方自身のコメントに対して言っておられるのか? 限りなく後者に近いような…。 投稿者: Aransk (January 28, 2005 03:36 PM) 目次へ

「コンピューターの構成と設計」日経BP社 の下巻P698にコンピュータ技術に 関する緩やかな進化と抜本的な変革という概念が説明されている。 学問的には抜本的な変革は注目を浴びやすいが、ユーザーコストから判断すると、 新しいプログラミング言語、計算モデル、データ構造、アルゴリズムなどが 一変するような事態は非常にハードルが高いものになる。 緩やかな進化は耳目を集めることは少ないかもしれないが実質的に世の中に 与える広汎な影響を発生させる可能性を秘めている。 まさにEclipseがその好例ではなかろうか? 使用されている技術自体に目新しいものはない。しかしその安定性、拡張性、 柔軟性には、その他の技術を集約する実質的なプラットフォームの役割を 果たす能力がある。システム業界の開発用IDEのデファクトスタンダードと なりつつある。 それが無償で提供されること。 さらに無償で様々な技術が重層的に構築されていることに関して専門家の意見を 聞いてみた。 以下は著名なネット掲示板である「2ちゃんねる」プログラム板ーEclipseスレ での会話の一部である。従来このスレはEclipseの操作に関するFAQを中心に 議論がなされていた。 スレを立てた目的は、本人しか分からない…。 推測は可能である。 これはあくまでAranskの推量であることをお含みおき 願いたい。 1.Eclipseの操作を一般プログラマーに周知させることになんらかの   利益が得られる立場ー>IBM系のプログラマー?がスレを立てて   口コミベースの宣伝を行っている。 2.スレで集めたFAQ情報を出版することで「電車男」の著者の「柳の下の   二匹目の泥鰌」を掴まんと欲している。 3.純粋なEclipseヲタの共同体ー>まったりとした安定的なFAQ技術論に   嵌る集団を組織したい。 と、3点ほど考えられるが、最も可能性の高いのは上記3であることが 下記の会話で明らかにされる。 また、下記掲載の会話中で漏れているのは、まさにFAQ的技術論である。 もし、上記2が目的の場合に知的所有権侵害を提訴されることを 筆者は恐れ、一切記載しなかった。(FAQ的技術論を軽視している訳では 決してないことを理解願いたい。あまり興味がないとも言えるが…) ある程度質の良い発言に絞ることも一時は考慮した。 が、誰が質の良し悪しを判断するのか? それは「このHPの読者」であると考え、原文のまま(漏れがあっても 決して意図的ではない範囲の)掲載することにする。 筆者が「2ちゃんねる」に惹かれるのはその猥雑感である。 玉石混交、いや石々混交の意見のぶつかり合いである。 まさに原始時代のジェラシックパークである。 ジュラシックではないことに注目頂きたい。 「2ちゃんねる」において排斥されないような意見を言う価値はない。 2ちゃんねらーに「基地外」と識別されない意見に見るべきものはない。 何故か? それ以外の意見は2ちゃんねらーと同じかもしくは以下のレベルであるから。 而してジェラシックパークは維持されているのである。 プログラム板はそれでも知的水準において他の板を圧倒している。 何故か? ネット社会はそもそもプログラマー達が築き、彼らの文化が浸透したもので ある。 が、本当を言えば、一定水準の知的レベル以上の人間で2ちゃんねるに 書き込みをするような暇人はプログラマー以外に考えられないからである。 さはさりながらそれでも視野が狭い。 これは学歴と関係がある。 試験は常に正解が存在する。 それが彼らをして正解を求める行動に駆り立てさせる 要因である。FAQとはまさに問題に対する解答である。 解答を与え得る快感から抜け出せないのである。 自ら問題を設定し解答無き世界への旅立ちを躊躇させる大きな足枷と なっていないだろうか。 「基地外」的行為から逃げ、安定した解答ある世界にまったりとはまりたい 欲求はないのだろうか。 プラグラマティズムは畢竟、現在の制度文化的価値観を基準として 「何の役に立つのか?」を求める。 技術を扱うものとして、もうそれでは済まされない時代に我々は 生きているんだ。

クローン技術を始めとする先端技術の発展にともない工業倫理学の 重要性が叫ばれて久しい。斯学においてもシステムが文化制度の 基盤を形成するものから制度そのものに変質する流れをうけて プログラマーが現場で直面しているアポリア(決定不能的矛盾) に関するレポートが急増している。 システムは法律、制度を補完する機能を従来でも果たしてきた。 ところがシステムの急速な社会への汎用的浸透にともない法律、 制度を具現化するため人々に直接働きかける「もの」に変容しつつ あるのは周知の事実である。 A)一見システムは法制度を超えた機能を発揮出来ないように思える。 しかしながら法制度の文章解釈はコンピュータ言語よりはるかに 密度の粗いものである。が故に、システム構築者および運用者の 裁量が入る余地は非常に大きい。 B)さらに立法の趣旨とシステム機能の詳細なギャップについては その専門性からシステム構築者と運用者にしか分からない状況を 生み出していると言えよう。(彼らも分からないバグもあるが…) この2点からプログラマーが現場で直面するモラルハザードの性格と 構造が帰結されるのである。A)からは自らの裁量性隠蔽と法制度 (仕様)への責任転嫁、B)からは黒子としての隠微な恣意性が プログラマーのモラルを腐敗させる可能性を秘めている。 一方プログラマー以外の人文系圧力がプログラマーをモラルハザードに 追い込む可能性も無視出来ない。 例えばエンロンなどに見られる不正経理の問題である。 一般的に人文系学生の卒業生の優秀層はその職業的な専門性が ない故に組織内の権力構造に組み込まれる傾向が高い。 これは必ずしも悪いと主張している訳ではない。 必然的な結果である。 極所最適、部分最適志向が強いほど組織内で権力を得てゆくこと、 これ自体は組織を維持発展するためには不可欠な要素である。 この組織維持機能が一方では不正経理を生み出す温床となっている。 さて、エンロンの不正経理はシステム関係者の関与なしに可能で あったであろうか。不正経理が行われた情報と痕跡を業務上 知りつつも、報告義務は意図的に怠ったのではないだろうか。 市民としての告発義務「不作為」には問われるべき状況にあったと 推測される。 C)この組織維持圧力は社内からも客先からも、極端に言えば自らの 属する開発組織や保守組織からもプログラマーに集中する。 これまで「これはおかしい?」と思いながら仕事をしなかった プログラマーは存在しない。ほど、常態化しているのではなかろうか。 つまりプログラマーは現場で自らの手を汚すか、汚れた状態知りながら 放置するか、モラリティーを問われない場面が無かったはずは あり得ない。それ程既に社会の情報化は進捗しておりシステムが 制度・組織維持に不可欠な存在となっている。 システム環境はプログラマー達の棲息基盤ともなっていることから 上記に述べた通り自己の所属組織の維持圧力を受けることは他の職業 に従事しているものと変わりはない。 ただプログラマーの場合、一方では純粋に物理系の作業でありながら 片方では情報という極めて人間的利害そのものに絡むものを扱う職業で ある。理科系的専門性と人文系的政治性の接点に位置する。 手の汚し方が言った言わないではなく、解釈性の余地のない 厳密な物理的痕跡を残す形で行わざるを得ないし、不作為もログ等から 明白になりやすい。 さらに不正行為や動作には職業的に敏感でないとプログラマーは 勤まらない。エラートラップやバグに鈍感では商売になるわけがない。 物理的明証性と不正に敏感なプログラマーにとってそれに反する 行為は生産性にも影響する死活問題となる。 組織保護と政治性がメインテーマである管理職となったプログラマーが 現場ではもはや使いものにならなくなるのはこういった事情も影響して いるのではなかろうか。 プログラマーのメンタルヘルスの問題が論議されるているようだが、 このような多方面からのモラル・コンプレッションやディレンマも メンタルヘルスの悪化要因の一つを推定される。 プログラミングは本来精緻で論理的な作業である。 モラルの維持が何より求められる職場環境でなければならない。 社会の文化制度全体の信頼を支えるために業界の通念・常識自体も 含めてプログラマーのコンプライアンス判断を高める対策が急がれる。
コメント 評論みたいなことをしたい気分なのはわかるけど、 まともな日本語と論考を書くためのアドバイス。 1.論理構造を図に書いてみる。 あるステートメントの根拠になっているステートメントを線で結ぶ。 君の論述は断片化が激しすぎるので、論理構造が汚い(そもそも論理的 じゃない)。論理的じゃないことは説得力がない。 論理構造が汚いと、理解しづらい。(シンプルな数学を理解するのに あれだけ苦労するわけで) 2.正しい専門用語を心がける 専門用語はその分野によってしっかり定義されている。 表面的な理解だけで使ってると、素人にはわからないだろうし、 その分野の人間にとっても、その意味を 推測しながら読まな きゃいけない。結局のところ、言いたいことが伝わらない (ごまかしたいなら、それでもいいけど) 現代人に向かって古語でしゃべっても意味ないし、 日本人に向かって英語でしゃべっても意味がない。 まあ、人間ってのはけっこう合理的で 意図とは裏腹に精神を反映する。 自信のないことはごまかそうとして、 無意識にわけわからない言葉を使ってみたりするのは 誰にでもよくあることだから。 文章の場合は自分でチェックできるんだから、 そういう部分は無くした方がいいよね。 知のエキスパートを目指すことはいいことなんだけど 地に足がついてないのを見て、かわいそうになった。 都合の悪いことを全て脳内フィルターで見なかったこと にするんじゃなくて、欠点を全部直すように努力するといいかもね。 がんばれ。 投稿者: t (January 15, 2005 07:41 PM) 世の中には同じことを指す単語がたくさんある。 いや、そもそも単語の意味が何で決まるかを考える 事から始めた方がいいかもしれない。 「あ」という単語があったとすると、 「あ」が表す意味はいったいなんだろうか? 人間はコモンセンスを持っている。常識という意味じゃなく、 共通の感覚という意味だ。 でも、どっからかずれが生じる。 ずれが生じたら、伝わるものも伝わらなくなっていく。 社会的な人間はコモンセンスがどんなものかを知っている。 そして、相手をみるとその人のセンスがわかる。 センスがわかると言葉を選ぶという行為ができるようになる。 でも、頭の悪い人は 自分の思考過程をそのまま記号化する。 上記の文字列は以下のプログラムによって生成された。 new CommonSense(Aransk).replace( myThinking.toSymbolSequece() ).toString() 投稿者: t (January 26, 2005 01:52 AM) >>でも、頭の悪い人は 自分の思考過程をそのまま記号化する。 上記の文字列は以下のプログラムによって生成された。 new CommonSense(Aransk).replace( myThinking.toSymbolSequece() ).toString() >> 悪い。 早速バグを見つけちゃった。 「Sequece」! わざとだよね?分かる。よ〜く分かる。 こんな初歩的なミスをtさんとも あろうプログラマーがするはずは ないからね…。 投稿者: Aransk (January 28, 2005 03:59 PM) あまりふざけたことばかりコメントしては 失礼なので、少し真面目に回答します。 当初の弊HPをご覧になったことはありませんか? それはひどいものでした。 全文プリントアウトして読んだメンバーが 吐き気を催した程、酷かった。 まさにノロウィルス的HPであったのです。 ここまで酷いといくらなんでも、見る人に 不快感を与えるということで メンバー全員が手分けして全面書き直しました。 その改正方針は「2ちゃんねる」レベルの 維持です。 学位論文やレポートのように書いてしまったら 「猥雑さ」を失います。 出来るだけ個々のメンバーの個性を失わずして 「猥雑さ」を保つ努力をしております。 多様性は必然的に猥雑さを含意します。 Aranskとしては当面この偏執、もとい、 編集方針を維持して、皆様に楽しんで 頂けるHPやBlogを作ってまいる 所存であります。 応援よろしく お願い致します。 投稿者: Aransk (January 28, 2005 05:14 PM) tさん、yさんも付けた方が良いのか? 思い過ごしかも…。もう少し補足します。 >でも、頭の悪い人は >自分の思考過程をそのまま記号化する。 無修正の一筆書きのような文章を書きたいと 大それたことは考えております。 逸脱や迂回を含んだ思考過程をありのままの姿 で提示したい。 後で見直しの入った文章はすっきりと論理的で 誤りが少ない。(はず、ですが…) だけれど、勢いがない。 画面を見ながら文章を打ち込む、紡ぎだす、 その瞬間の思考が見えない。 単語の辞書的な意味、コモンセンス よりも、そのときに脳裏に浮かんだ単語をその ままコンテキストに埋め込みたい。 勿論売るためのテキストであれば(売るつもり は無いし、そもそも売れる訳がないが…) 校正は不可欠です。 論文やレポートでも。(これは文句言われるし …そもそも採点に響くから…) しかしながら、BlogやHPに関しては極めて Personalな部分が強く出てしかるべきであり、 また自らのために、自ら思考しながら書いて いる要素が多いですよね? 最近どんなものでも分かる人は分かるし、 分からない人は分からないってことって すごく大切な事かもしれない、と考えています。 レベルと波長じゃないでしょうか? (脳波の…??笑) 本来こんなことは文章の達人が書くことであって ワタクシごときが軽々に言えることでは ありません。が、取あえずは今のスタイルで やって行こうと思っています。 色々とご忠告有難う御座いました。 非力な中で分かり易い文章を心掛けるように します。では、再見! 投稿者: Aransk (January 31, 2005 09:23 PM)
プログラマーの置かれている状況をもう少し綿密に検証してみよう。 上記のA)、B)の環境ではシステムユーザーからはプログラマーの 作業が見えない、専門性とソフト著作権の壁により保護されている。 それ故に「お前さえ黙っていれば誰も分からない」とC)圧力が 周囲の組織からも自らの組織からもかかることになる。 ところがシステム側からプログラマーの作業は細かい部分まで把握する ことが可能になりつつある。誤魔化しの出来ない仕組みが着々と構築されて いるのである。 いわば観客の見えない舞台裏での作業を丸裸で後ろからスポットライトを 浴びながらこなしていると考えてもらいたい。覗いている者が覗かれている。 知らなかったこと、分からなかったことにしようじゃないか、が通じない。 一見ハードディスク上のデータは簡単に削除できる。 しかしながら物理的に破壊しない限りその痕跡を復元する方法はシステム側 からはいくらでも存在するのである。 プログラマーは人間利害と物質に挟まれた存在である。 減損会計の章で透明性と公正性は国際的に不可逆な流れと書いたのは 人間系の倫理意識の向上や投資判断のためによるものだけではなく システム側の要請もある。システムは根源的に曖昧性を排し明証性と透明性 を要求する。これまでのコンピュータ言語の解説でも分かるとおり一義性を 基本原則としている。このようなシステム特性は当然人間の生環境として 人間の思考や行動を規制する「もの」となる。上記でも述べた「もの」とは 指向性を持った実体の謂いである。人間は己の利便性から道具を生み出すが 自らの身体延長性をも含んだ生環境としてその道具から影響を受ける存在である。 システムから最も影響を受けるのはその製作者であるプログラマーであること は論を待たない。優秀なプログラマーほど明証性と透明性に敏感になる。 (これは無能なプログラマーほど管理者になり易いことを意味してはいない。 が、優秀なプログラマーほど管理業務、特にどろどろした政治性を嫌う例は多い。) 従来組織内における内部告発は反体制、反組織的心理から行われるのが 通例であり、余程のことがないと自らの組織を告発することはあり得なかった。 組織は一部のメンバーにのみ注意を払っておけば、反組織的動きは防ぐことが 出来たのである。昨今組織紐帯の弛緩もあり、ごく一般普通の組織人が内部告発 する例が頻発している。自らの組織内地位の保全より、不正に加担することや 不正を見逃すことによる自らの精神的ストレスに耐えられなくなってきている。 不潔さを曖昧さを排除したい願望の方が沈黙を守ることによる自己保全を 凌駕しつつあるのではなかろうか。 システムが生環境として人間の生活に入り込めば込むほどこのシステム的欲求は 強まっている。既にシステム思考の浸透度はある閾値を超えている可能性がある。 まさにプログラマーは内部告発者化され易い存在と言えよう。 内部告発者を保護するための「公益通報者保護法」も立法化されたことでも あり、リーガルコンプライアンスがシステム側から維持、監視出来る ことは良い事じゃないか。 このような建前がすんなり通るなら政治家や管理職、事務屋は不要である。 人間系の脂ぎったどろどろした部分こそ組織においては不可欠な駆動要因と なっていることを忘れてはならない。 またルール・反則ぎりぎりの部分に収益が生まれるのではなかったか。 他との差異化要因が生成されるのではないのか。 リーガルリスク管理とはあくまでコンプライアンスの様相を装いながらリーガル ニッチを探る営為である。 網の目のように張り巡らされたリーガルネットを如何に組織ダイナミズムを 失うことなくマヌーバーするのか。これが現実には問われている。 リーガルセーフティのみではリターンが望み得ないところまで企業の ダイナミズムや収益性は追い詰められているのではなかろうか。 このような組織全体の浮沈に関わる切迫した状況とアポリアを踏まえた上での 報告確認義務がプログラマー達に要求されていると考える。 目次へ