第4章
右脳不在のパラドックス
(C) Sumio Baba 1992
★★★ 思考実験 ★★★
ここでは、
[A]
脳の各部分の機能は、その「初期状態」と「周囲からの局所的相互
作用」の2つだけで決定する(脳は【還元的システム】である)。
[B]
「心」は脳の機能である(【心・脳同一説】)。
の2つを仮定するだけで、
「心」すなわち《主観的面》のすべては錯覚である。
を導いてみよう。本質的には、第2章・第3章と同じ問題点を、別の角度から指
摘するものである。
***
一般に、左腕の感覚領域は右脳の中に、そして言語中枢は左脳の中に存在する
らしい。自分の左腕に針を刺すと、この刺激は痛覚神経を伝わって右脳の中にあ
る左腕の感覚領域を興奮させる。すると「自分の心」に、左腕の痛みが感じられ
る。その情報は、脳梁を通って左脳にも伝わる。だからこそ自分は、「左腕が痛
い!」と言葉で表現できる。
ここで、脳梁を切断したとしよう。そして右脳を取り出して捨ててしまう。左
腕に針を刺しても、左脳の中の「自分の心」は、左腕の痛みを感じなくなる。そ
して「左腕は痛くない」と言葉で表現できる。ここまでは当然である。実際に、
右脳を失った人が左半身の感覚を失うのは、よく知られた事実である。
そこで、奇妙な操作を考える。右脳を捨て去る前、左腕に針を刺すと、右脳の
中にある左腕の感覚領域が興奮し、その情報が脳梁を通って左脳にも伝えられて
いた。今や右脳は存在しないが、かつて右脳が左腕の痛みを感じ、その情報を左
脳に送っていた時と全く同じニセ情報を、人工的な装置を使い、脳梁の切り口か
ら左脳へと流し込んだらどうだろう?
左脳の立場に立つと、
右脳が存在して実際に左腕の痛みを感じ、その情報を送って来てい
る
のか、それとも、
右脳など存在せず、ただ、いかにも右脳が左腕の痛みを訴えている
かのようなニセ情報を、人工的に送り込まれているだけ
なのかを識別できない。そして、前者の場合だけでなく後者の場合も、「左腕が
痛い!」と言葉で表現してしまうだろう。本当は、もはや右脳など存在していな
いのに、である。
現在の科学者たちは、人間の精神現象を《客観的面》(すなわち、第三者の立
場から見た脳を中心とする身体の物質現象)としてばかり捉え、そこに随伴して
いる《主観的面》(「心」「意識」「自我」「クオリア」「主観的体験」)について
考えることを、ひたすら避けて来た。だから、ここに大きな矛盾が存在すること
を、見逃してしまうのである。この左脳の中の「自分の心」という主観的な視点
に立ってみると、何とも奇妙なのに気付くだろう。果して自分は、左腕の痛みを
感じているのだろうか?、いないのだろうか?
***
左腕の感覚領域を持つ右脳はもはや存在していない、という事実から考えれば、
「自分の心」は左腕の痛みなど感じるはずが無い。それならばなぜ、「左腕が痛
い!」などと言うのか?
左脳の中の「自分の心」は、本当は左腕の痛みなど感じていないの
だが、いかにも感じているかのように錯覚するだけだ ...(1)
と解釈するしかないだろう。
しかしこの「錯覚」は、何ともリアルな錯覚である。一言で「左腕の痛み」と
言っても、腕のどの部分なのか、また、刺すような痛みなのか鈍い痛みなのか、
といった様々な種類がある。右脳が接続されていた時は、右脳から送られて来る
情報の微妙な差で、左脳はこれらの痛みの違いを識別し、言葉で表現できた。だ
としたら、脳梁から人工的に送られて来るニセ情報の場合でも、この微妙な差を
左脳は識別できるはずだから、原理的に右脳が接続されていた時と同じ精度で、
痛みの種類を区別できるのである。これが果して「錯覚」だろうか?
それに「心の私秘性」と呼ばれる性質が有る。ある人が「自分は痛みを感じて
いる」と主張した場合、それが嘘であることを他人が証明することは決してでき
ない、という性質である。身体に何も異常が無いので、この人は嘘をついている
のではないか?、あるいは、痛みを感じているかのように錯覚しているだけでは
ないのか?、と推測することはできても、それを実証することはできない。他人
の心の中を、みんなで覗き込むことはできないから。もしそれが嘘である事を知
り得る誰かがいるとしたら、それはその人が意識的に嘘をついている場合の、そ
の人本人だけである。ところが今の場合、自分本人も嘘をついているとは思って
いない。心の底から「自分は左腕が痛い!」と信じているのである。自分が信じ
ているのなら、それは「錯覚」などではなく、「痛み」そのものではないだろう
か?
だからといって、
左脳の中の「自分の心」は、左腕の痛みを感じている ...(2)
と考えるのも、明らかに間違いだろう。左腕の感覚領域を持つ右脳を捨て去った
今、左脳には左腕の痛みを感じる機能など存在しないのであるから。
以上の論法を、【右脳不在のパラドックス】と名付ける。
★★★ 自分は心を持つという錯覚 ★★★
脳Bを2つの部分B1とB2に分け(B=B1+B2)、B2の方を切り取っ
て捨ててしまう、と考えよう。今の話では、B1=左脳,B2=右脳 であった
が、分け方は任意で構わない。正常な脳Bに随伴する「心」をM、B1に随伴す
る「心」をM1、B2に随伴する「心」をM2とする。B2を切り捨てた上で、
B1には、今でも正常なBを構成しているかのような「初期状態」と「周囲から
の局所的相互作用」を与えてやる。つまりB1とB2の切断面からB1に、今で
もB2が接続されているかのような、ニセの人工的作用を与える。すると[A]
の仮定からB1の機能は、正常なBを構成している時と全く同じになる。そして
[B]仮定から、B1に随伴する「心」M1は、自分がM2の機能を失っている
事実に気付けず、自分を、正常なBに随伴する正常な「心」Mであると錯覚する
ことになる。
ここで B2→B,B1→0 の極限を考える。B1をBの1/2ではなく、も
っと小さく、1/10,1/100,・・・ ,1個のニューロン,1個の電子とし
ても良い。もちろんB1に随伴する「心」M1は、M1→0、すなわち「心」と
しては「0(無)」になるだろう。こうして、次の結論に到達する。
「心」すなわち《主観的面》のすべては、本当は存在しないのに、
存在するかのように「錯覚」するだけだ ...(3)
自分は五体満足なので、両手、両足、それに頭を持ち、どの部分に針を刺して
も、その部分の痛みを実感できる。いや、実感できると信じている。しかし、も
しかすると左腕の痛みなど本当は感じておらず、ただ、感じているかのように錯
覚するだけなのかもしれない。さらに、両手、両足、頭の痛みさえ、錯覚でない
という保証は何も無い。
五体の感覚だけでなく、思考力、感情、美意識、欲望、意志、・・・ その他の機
能でさえ、「自分の心」が本当に実感しているのか、それとも実感しているよう
に錯覚しているだけなのか、絶対的な確信は持てなくなってくるのである。
自分の脳は現在、左右両半球が脳梁で接続された、正常な構造を持っている、
と信じている。ところが頭蓋骨を開いてみたら、実は正常な脳の1/100しか
無く、そばに、残りの99/100が存在するかのよう錯覚させる装置がつなが
れていた、ということさえ有り得るかもしれない。
R・デカルトによって、「これだけは絶対に疑いようの無いもの」と主張され
た「自分の心」の存在さえ、実は錯覚かもしれないのである。
★★★ 自由意志は錯覚か? ★★★
哲学でよく議論される問題に、「自由意志は存在するか?」という難問が有る。
例えば今日、自分は昼食に何を食べようかと随分迷い、寿司屋、ラーメン屋、ソ
バ屋、パン屋、・・・ の前を30分も行ったり来たりし、やっと決心してラーメン
を食べたとしよう。この場合、「自分は、誰にも強要されることなく、自分の意
志でたまたまラーメンを選んだが、あの時自分には、寿司、ソバ、パン、・・・ な
どを食べる自由も有った」と実感する。ところが、古典物理学的決定論の立場に
立つと、「自由意志」なるものはすべて錯覚となる。なぜなら、宇宙には無数の
素粒子(物質粒子や光子)が存在し、人体(もちろん脳を含む)もまたそれらの
集合体であるが、それらの反射運動に関する物理法則は、「1つの原因」から確
実に「1つの結果」を導くものだから。
よく例えられる例が「ビリヤード」である。もし、玉と台の間に摩擦が無く、
しかも、玉と玉、玉と壁の間の反射運動が完全弾性衝突であるなら、台の上の多
数(n個)の玉は、永久に止まること無く、単純な物理法則に則って、反射運動
を続ける。しかも初期状態として、時刻t=0におけるn個の玉の「位置座標」
と「運動量」(=「質量」×「速度」)が与えられれば、任意の時刻t(t>0
だけでなく、t<0の領域をも含めた−∞<t<+∞)におけるn個の玉の「位
置座標」と「運動量」の値が、すべて物理法則に則った計算だけで求められる。
すなわちt=0における状態だけから、すべての−∞<t<+∞における状態が
決定してしまう。
ビリヤードの台は2次元平面であるのに対し、宇宙空間は3次元空間である。
ビリヤードの玉の個数はせいぜい多くても数十個であるのに対し、宇宙に存在す
る全素粒子の数は10の80〜90乗個である。そういった違いは有るものの、
考え方は全く同様で良いので、時刻t=0における宇宙内の全素粒子の「位置座
標」と「運動量」が判れば、任意の時刻−∞<t<+∞における宇宙内の全素粒
子の「位置座標」と「運動量」を、物理法則に則った計算で求められることにな
る。
実際に、時刻t=0における宇宙内の全素粒子の「位置座標」と「運動量」を
知ることはできないから、実際に、任意の時刻tにおけるそれらを計算すること
も不可能であること言うまでもない。しかし時刻t=0において、それらが少な
くとも一定の値に定まって存在しているとする限り、任意の時刻−∞<t<+∞
における宇宙内の全素粒子の「位置座標」と「運動量」も決定している、という
ことは言える。たとえ人間はそれを知り得なくても、すべてが決定してしまって
いるというだけでも、とんでもない事である。これが「物理法則」のものすごさ
であり、「古典物理学的決定論」と呼ばれる考え方である。ラプラスという人が
初めてこういうことを考えたと言われている。宇宙内の全素粒子の「位置座標」
と「運動量」とを知り、すべてを計算して宇宙の過去から未来まで知り尽くして
いる「神」のような存在を、仮想的に「ラプラスの悪魔」と呼ぶ。
この考え方でいくと、次の驚くべき結論が下される。
今日の昼食に自分がラーメン以外のモノを食べる自由は無かった。
何を食べようかと30分迷った挙げ句、結局ラーメンを食べるとい
うことが、宇宙創世の時点ですでに決定していた。 ...(4)
「ラプラスの悪魔」は、100億年も昔から、今日の昼食にこの自分がラーメン
を食べることを知っていた、という訳である。これもまた[A]と[B]を暗黙
の前提とした話である。
現実には、量子力学の出現により、
「1つの原因」から、必ず「1つの結果」が生じる
とは言えないことが判った。
「1つの原因」から「多数の結果」が生じる可能性が有り、どれが
生じるかは、確率的にしか予想できない
というのが正しい。しかも何を観測するかによって、観測できる物理量と観測で
きないまま終わってしまう物理量が出て来てしまう。
とは言うものの、多数の状態の重ね合わせから、観測によってその中の1つの
状態だけに決定する時、それは純粋に確率の法則に従うのであって、「自由意志」
が好きなものを選べる、という訳ではない。それができれば「超能力」になり得
るが、今の量子力学では、波動関数の収縮は「自由意志」の影響を受けない。そ
れゆえ、なぜ我々は「自由意志」を持つように実感するのか?、「自由意志」は
本当に存在するのか?、それとも錯覚か?、という問題は、今でも未解決のまま
である。
★★★ 心の統一性の謎 ★★★
この【右脳不在のパラドックス】が、なぜ奇妙なパラドックスに感じられるの
かを考えてみよう。
脳Bの機能は、左脳B1と右脳B2とがそれぞれ異なった機能を持ち、分業方
式を取っている。相手の状態を知るには、光速の限界を伴う「局所的相互作用」
を用いて、互いに情報を伝え合わねばならない。だから、脳梁から全く同じ情報
が入って来れば、それが右脳からのものなのか、それとも人工的なニセ情報なの
かを、左脳は識別できない。従って、左腕の痛みを感じる右脳など実在していな
くても、左脳はそれが存在するかのように錯覚し、「左腕が痛い!」と発音して
しまうだろうことも、容易に理解できる。
ところが「心」の方は、部分による分業方式を取っていない。言わば、1個の
不可分な素粒子のような「心」が、右脳・左脳両方からの影響を同時に体験する。
それゆえ、
本当は左腕の痛みなど感じていないのに、いかにも感じているかの
ように錯覚している「心」
という内部矛盾した状態が、どうしても想像できないのである。ライプニッツは、
人間の「心」を、様々な機能を持ちながらも部分が無く、1個の素粒子のように
分割不可能な固まりであるという意味で、「モナド(単子)」という言葉を用いた。
まさにその通り、と言える。
「左腕の痛みを感じる心」と「左腕の痛みを言葉で表現する心」とが独立して
いれば、何も奇妙ではない。例えば、自分が左腕に痛みを感じているかどうかを
書面で友人に郵送し、書面に書かれている内容を友人が朗読するものとしよう。
自分は左腕の痛みを感じていないので、書面には「左腕は痛くない」と書いて郵
送した。ところが、郵便配達人がイタズラをし、「左腕が痛い!」と書いた書面
とすり替えて、友人に渡したとする。友人は、この自分が左腕に痛みを感じてい
るものと推測し、「左腕が痛い!」と朗読する。この場合、左腕の痛みなど感じ
ていない「自分の心」も、この自分が左腕の痛みを感じているものと思い込んで
いる「友人の心」も、何ら不自然なものではない。両者が独立していれば、この
ような誤解はよくある。「1つの心」の内部で「痛みを感じていないのに、感じ
ていると錯覚している心」という矛盾した状態が、非常に奇妙に感じられるので
ある。
***
「脳」を構成する物質の特徴は、次の性質である。
「物理法則」自体が「局所的」である。
すなわち「脳」Bは物質であり、その任意の微小部分B1の機能は、
B1の「初期状態」と「周囲からの局所的相互作用」だけで決定し、
残りの部分B2(=B−B1)が本当に存在するかどうかにさえ依
存しない。 ...(5)
もし仮に、「心」の持つ法則(「心理法則」と呼ぼう)もまた「物理法則」と
同様「局所的」であったとすると、「心」Mの任意の微小部分M1の状態が、残
りの部分M2の存在・不在と無関係に独立して決まることになり、Mはどこまで
も小さく分裂し、消滅してしまう。それを示したのが、【右脳不在のパラドック
ス】に他ならない。だから、「心」すなわち《主観的面》の存在を「錯覚だ!」
と無視して、その科学的解明を放棄してしまうのでなければ、「心理法則」の方
は必然的に「非局所的」であると認め、「非局所的相互作用」で脳Bを結び付け
ている何物かの存在を、真剣に考える必要が有る。