は じ め に


  ★★★ 精神現象の《客観的面》と《主観的面》 ★★★

 人間の「心」「意識」「自我」と呼ばれるものが「脳」の複雑・精巧な物理的
メカニズムによる高度な情報処理機能に他ならないと考えるのは、現代科学の常
識である(【心・脳同一説】【随伴現象説】)。今さら「心は脳で作れない」と
主張しようものなら「非科学的だ!」「バカバカしい!」「聞く耳持たぬ!」と
拒絶されるかもしれない。しかし、現在のような「脳」の研究がそのまま「心」
の本質の解明につながる可能性はゼロであるばかりか、どうやって「心」を解明
すべきかの方法さえ見い出されていないのが現状である。
 「心の謎」と言う時、次の2つの謎が混同され勝ちである。

  脳の複雑・精巧な物質構造はどのような物理的メカニズムを持って
  いるか?                      ...(1)

  客観的な物質が「脳」という形態を取ると、なぜそこに「心」とい
  うその人自身にしか認識できない主観的内面世界を随伴(発生)さ
  せるのか?                     ...(2)

これまでの科学者たちが研究して来たのは(1)だけである。そして(1)さえ
完全解明できれば、その時は(2)をも解明した事になるかのように、ごまかし
続けて来た。しかし(1)と(2)は全く別の謎なのであって、たとえ(1)を
完全解明できたとしても(2)の方は何の解明にもなっていない。しかも「心」
の謎の本質は、(1)ではなく(2)の方なのである。

                 ***

 「精神現象」という言葉に、《客観的面》と《主観的面》の2つの側面が有る
ことを、見逃してはならない。

              《客観的面》
  脳を中心とする身体の物理的メカニズムにより、いかにも「心」を
  持つかのように振る舞い、会話し、行動する機能。他人の立場から
  五感で観察できる側面。K・ポパーの言う「世界1」に属する。

              《主観的面》
  「心」そのもののことで、自分自身にしか認識できない私的な思考
  空間。デカルトの言う「コギト」。心理学で言う「内観」。哲学で
  言う「クオリア」。他人の立場から、五感で観察できない側面。
  K・ポパーの言う「世界2」に属する。

《客観的面》は、精神現象の物質的側面であるから、そのメカニズムがどんなに
複雑であろうと、必ず物質科学の範囲内で完全解明できる可能性を持っている。
しかし、たとえ《客観的面》の物理的メカニズムが完全解明できたとしても、

  なぜそこに、《主観的面》が随伴するのか?

という疑問には、何も答えていない。この点が重要なのである。《客観的面》の
メカニズムを仮に完全に記述して見せたとしても、それだけでは、そこに《主観
的面》が随伴(発生)しているのかどうかに関し、一言言及したことにすらなら
ない。たとえ《客観的面》に関する限り、人間と同等かまたはそれ以上の機能を
持つアンドロイドが完成したとしても、それが《主観的面》の方をも持つのかど
うかは、誰にも答えられない。例えば幾何学的論理で「△ABCは二等辺三角形
である」を証明できたとしても、「なぜ△ABCは赤く塗られているのか?」に
は、何も答えていないのと同じである。「色」は「形」と違って、幾何学の研究
対象ではない。同様に、《客観的面》は物質科学の研究対象であるが、《主観的
面》の方は本質的に、物質科学を越えたところにある何かなのである。

                 ***

 科学者は、この《客観的面》と《主観的面》とを、故意に混同する傾向が有る。
例えば、よく次のように言う人がいる。

  確かに「心」とは、不思議なものだ。しかし、脳の研究が究極まで
  進歩すれば、必ず「心」の謎も、完全解明できるに違いない!

「心」という言葉が2回使われているが、両者は全く異なる意味で用いられてい
るのに、気付かれたであろうか? 前者の「心」は、おそらく正しい意味での心、
すなわち《主観的面》を意味している。それに対し、後者の「心」は、明らかに
《客観的面》の意味ですり替えられている。両者は全く異なる概念であるのに、
同じ「心」という言葉で混同することによって、物質科学の持つ限界が隠蔽され
てしまっているのである。
 【行動主義】と呼ばれる立場は、心理学でありながら《主観的面》を完全に無
視し、「心を持つかのような行動」すなわち《客観的面》だけを研究対象にする
という、的外れな方向に向かってしまった。科学者たちは、無意識的に《主観的
面》の謎には手が届かないことを薄々感じ取り、それゆえに《主観的面》の謎を
真剣に議論する哲学上の最大難問「心・身問題」を、タブー視して避けて来たよ
うに見える。
 認知科学はこれを批判し、単なる表面的な行動だけでなく、脳の中でどのよう
な情報処理が行われているかにも、注意を向けようとした。特にコンピュータに
よる人工知能AIをモデルとし、「脳の中での情報処理過程」に注目した点は、
【行動主義】よりも大きな進歩となった。しかし、脳であろうとコンピュータで
あろうと、結果的に同等の情報処理機能が実現できれば、それ(つまり、コンピ
ュータのソフトウェア)を「心」と見做してしまおうという【機能主義】に陥っ
てしまう。結局のところ【機能主義】も、《客観的面》の情報処理過程を「心」
と見做してしまうことで、《主観的面》の謎をますます隠蔽してしまったようで
ある。

                 ***

 著者は学生時代から、もう20年以上も、科学者たちのこの隠蔽に我慢がなら
ず、あちこちの学会に入会するだびに、

  「心」とは《主観的面》を言うのであって、これを《客観的面》で
  すり替えてはならない!
  物質科学で解明できるのは(1)だけであって、(2)には手が届
  かない!

と力説して来たのだが、故大森荘蔵先生(元東京大学教養学部長)以外は誰も真
剣に耳を貸してくれず、殆ど諦めかけていたものであった。
 もちろん本論で用いる「心」という言葉は、どれも《主観的面》を意味してお
り、これを《客観的面》の意味ですり替えないように、注意しておく。



      ★★★ 易しい問題と難しい問題 ★★★

 ところが最近になってやっと「意識科学」と呼ばれる分野が、世界中で真剣に
議論されるようになって来た。中でもD・チャルマースという人が、著者と全く
同じ主張をしているのを知り、驚かされてしまった。彼は、(1)を「易しい問
題」、(2)を「難しい問題」と呼び、両者を混同しないように力説しているの
である。
 もう一度「脳の物理的メカニズムの研究だけで、心を解明できるか?」という
質問を考えよう。科学者たちは現代科学の限界を隠蔽するため、この質問に「イ
エス」と答える傾向が有るが、彼らはこの時、(1)すなわち「易しい問題」を
考えているだけなのである。一方、哲学者たちは、この質問に「ノー」と答える
傾向を持つが、彼らはこの時、(2)すなわち「難しい問題」について考えてい
るのである。だから、科学者と哲学者の間では、いつも議論が食い違って来た。
正しくは、こう言うべきだろう。

  脳の物理的メカニズムは極めて複雑・精巧であるため、それを完全
  解明することは極めて困難だろうけれども、科学技術の進歩により、
  物質科学の範囲内で、いつかは完全解明される可能性が有る。
  ただし、その時に解明されるのは、(1)すなわち「易しい問題」
  (《客観的面》はどのような物理的メカニズムを持つか?)だけで
  あって、(2)すなわち「難しい問題」(なぜそこに《主観的面》
  が随伴(発生)するのか?)の方は何一つ解明され得ない。

 ではなぜ、物質科学では《主観的面》の謎が解明できないのだろうか? それ
は物理法則なるものが、本質的に《客観的面》の因果関係だけを説明するもので
あり、《主観的面》の存在や性質は何一つ扱えないからだ、と言えよう。物理法
則をX→Yという形で表現する時、「原因」Xも「結果」Yも、ともに《客観的
面》を表すだけである。このような物理法則を何度も使用し、

  X→X→X→ ・・・ →X

と因果関係の連鎖を作ったとしても、X が《客観的面》である限りX はど
こまでいっても《客観的面》であって、《主観的面》の存在や状態は何一つ導け
ない。《客観的面》の状態から《主観的面》の存在や状態を導くためには、「原
因」Xは《客観的面》の状態を、「結果」Yは《主観的面》の状態を表すような、
「キメラ法則」を定式する以外に方法は無い。
 K・ポパーは、両者が本質的に異なることを強調し、両者をはっきり区別する
ため、客観的物質世界(我々全員に対して1つだけ存在する)を「世界1」、我
々一人一人の主観的な「心」の世界(人間の数だけ存在する)を「世界2」と名
付けた。もう1つ、人間だけが認識できる文化の世界(我々全員に対して1つだ
け存在する)を「世界3」と呼んでいるが、これはプラトンの「イデア」の概念
に近いものである。

  

        ★★★ 心の謎の本質とは ★★★

 このような理由から著者は、この20年余り、

  「心」は脳機能を越えているのではないか?

という方向から、いくつかの問題を発見して来た。現在の物質科学で議論できる
のは、精神現象の《客観的面》のメカニズムだけであって、《主観的面》の存在
や状態は何も扱えない、というのは事実である。しかし、そこから直ちに「物質
で《主観的面》は作り出せない」と断言することはできない。もしかすると、物
質の中に《主観的面》を産み出す性質が秘められているのに、現在の物質科学は
まだそれを発見していないだけ、ということも考えられる。
 冷静に判断するなら、「心」が脳の機能に過ぎないのか、それとも「霊魂」と
呼ばれる何かが存在するのか、どちらの可能性もまだ半々で存在していると考え、
両方から可能性を追求した方が良い。もちろん「心は脳で作れない」と主張する
ためには、現在の心理学が発見している「心」の性質と、現在の物理学が発見し
ている「物質」の性質とを十分に考慮し、

  物質が○○○という性質を持つ限り、□□□という性質を持つ「心」
  を作り出すことは不可能だ


という理論的説明をすべきだろう。

                 ***

 ただしその場合、1つだけ入り込みたくない分野が有る。それは「超心理学」
と呼ばれる分野である。といって著者は、いわゆる「超常現象」(超能力や心霊
現象)と呼ばれるものに、決して否定的ではなく、かつ、肯定的でもない。自分
で研究したことが無いので、肯定的立場も否定的立場も取れない、というのが現
状である。ただ、超心理学と呼ばれる分野が、超常現象の存在を実証しようとす
る試みを100年以上続けていながら、未だにはっきりした成果を挙げられずに
いるのも事実である。つまり、「超常現象が存在するから、心は脳機能を超越し
ているのだ」という論法は、100年以上もドロヌマに陥って、身動き取れぬ状
況に思えてならない。「超常現象が存在する」と仮定した上で「心は脳機能を超
越している」と訴えても、結局のところ、「超常現象が存在する」という仮定を
実証できなければ、話にならないだろう。信じる人は信じても、信じない人は信
じず、科学的証明としては失敗になってしまう。
 それから、「なぜ心は不思議なのか?」という質問に対して「超常現象が存在
するからだ!」と答える人が多いのに、大変失望してしまう。「では、超常現象
が存在しなければ、心は不思議ではないのか?」と問い詰めたくなる。「心の謎」
の最も本質的な部分は、

  客観的な脳(物質)に、なぜ主観的な「心」が随伴するのか?

すなわち、先程の(2)(チャルマースの言う「難しい問題」)であり、哲学で
言う「心・身問題」である。超常現象も不思議ではあるし、その研究価値を否定
するつもりは無いが、もっと日常的な「心」の存在そのものが、理解に苦しむほ
ど不思議であることを理解して欲しい。

                 ***

 実は「心」が「脳」の機能だと仮定すると、いろいろな矛盾が生じ、脳以外に
何かが実在しているのではないか?という疑問が示せるのである。「霊魂」とい
う言葉を使うと、いかにも「非科学的だ!」と拒絶されそうで、あまり好きな言
葉ではない。しかし、新しい用語を作るのも返ってごまかしに思われるため、敢
えてここは「霊魂」という言葉を用いることにする。もちろん宗教の信仰とは全
く無関係で、あくまで「脳で心が作り出せるか?」という自然科学の問題に、お
もに理論物理学的な考察から、疑問を投げ掛けることになる。そのため、敢えて
「霊魂は実在する!」と断言はせず、「脳以外に霊魂が実在することを示唆して
いないか?」と、問題提起するだけに留めておこう。
 ここでは、【心・脳同一説】に疑問を投げ掛ける論法をいくつか展開するが、
中でも重要な論点は、次の主張である。

  すべての物理的相互作用は、光速以下で空間を伝わり距離ゼロまで
  接近して初めて及ぼし合う「局所的相互作用」による、とする限り、
  脳で作り出せるのは《客観的面》だけであり、《主観的面》の方は
  作り出せない。脳(物質)以外に何かが存在するのではないか?


 「局所的相互作用」という言葉を説明しておこう。相対性理論は、すべての物
理的相互作用が光速以下で空間を伝わり、距離ゼロまで接近して初めて及ぼし合
える「局所的相互作用」であることを要求する。かつては「遠隔作用」かと思わ
れていた電磁気力や重力も、今では光速でしか伝わらない「局所的相互作用」で
あると確信されている。もし、空間的距離を超越して(跳び越えて)作用し、超
光速で情報伝達できる「非局所的相互作用」なるものが存在すると、因果律が破
壊され、すべての物理法則が無意味となってしまう恐れが出て来る。だから物理
学者たちは、理論の中に「非局所的相互作用」だけは絶対取り入れられない、と
確信しているのが現状である。
 量子力学で用いる波動関数には、いわゆる「非局所性」と呼ばれる性質が有る
が、これは相対性理論に反する「非局所的相互作用」とは異なる。量子電磁力学
などは、相対性理論と量子力学とを見事に融合させた「場の量子論」であるが、
もちろん「非局所性」は有るものの「非局所的相互作用」の方は取り入れずに大
変うまくいっており、実験値と理論値とが驚くべき精度で一致している。物質や
光に「非局所的相互作用」が含まれていないことは、ほぼ実証されたと考えて良
いだろう。
 重力だけは、まだ量子化に成功していないので、断定することはムリかもしれ
ない。しかし相対性理論は、特殊相対性理論だけでなく一般相対性理論の方も、
これまで正しい事が示されることは有っても、誤りであるという証拠は何一つ見
付かっていない。特に、水星の近日点移動の問題は劇的であった。重力を「遠隔
作用(非局所的相互作用の一種)」だと見做すニュートン力学はうまく説明でき
なかったのに対し、重力もまた「光速でしか伝わらない近接作用(局所的相互作
用)」だと見做す一般相対性理論は、見事にそれを説明した。重力にも「非局所
的相互作用」は含まれていないようである。
 しかも、脳の機能を議論する時、重力は完全に無視して良いと思われる立派な
理由が有る。それは、脳の機能を支配している電磁気力に比べ、重力は40桁ほ
ども微弱な力でしかない、という点である。地球くらい大きな物体になれば、確
かに重力も無視できない。しかし、無重力空間内でも、宇宙飛行士の脳機能が停
止する訳ではない。脳内部のニューロンを流れるインパルス電流を考える時には、
電磁気力だけを考えれば十分であり、ニューロンとニューロン、分子と分子の間
の重力が主役の座を占めているとは、とても考えられない。
 物質(および光など)の相互作用が、すべて光速の限界を伴う「局所的相互作
用」である限り、「心」すなわち《主観的面》は作り出せない、という論証が、
本論の中心問題である。と同時に、「心」には物理法則を超越できる「非局所的
相互作用」が含まれているのではないか?という示唆をすることになる。

 

   ★★★ 思考実験を用いた心・脳同一説批判 ★★★

 本論では、超常現象に頼ることなしに、「心は脳機能を越えているのではない
か?」という問題提起をいくつか試みる。ただしその際、「脳をn(n≧2)個
の部分に分割する時、心もn個に分割されるだろうか?」とか、「脳を左右2つ
の半球から3つの半球に拡張したとする時、心も2から3へと拡張されるだろう
か?」などの、理論的考察が必要になる。いわゆる「思考実験」というものであ
る。
 仮に脳以外に「霊魂」と呼ばれる何かが実在していると仮定してみよう。そう
すると、「たとえ脳をn個に分割しても、霊魂がつながっていれば心は1つのま
ま」だろうし、「たとえn個の部分脳を再び接続しても、n個の霊魂が独立した
ままなら心はn個のまま」かもしれない。また、「たとえ脳半球を2から3へと
拡張しても、霊魂が2のままなら心も2のまま」だろうし、「霊魂も3に拡張さ
れるならば心も3になる」などが予想される。脳の物理状態は全く同じなのに、
「心」の方は異なる状態が考えられ、その違いこそ「霊魂」の違いなのではない
か?と主張することになる。

                 ***

 「思考実験」についてぜひ理解しておくべきことは、頭の中だけで理想的な状
況設定を思い浮べるだけで十分であり、それをそのまま「実現する必要は無い」
という点である。
 例えば、幾何学を考えよう。2つの三角形の間で、「2辺とそのはさむ角が等
しい」という条件が満たされる時、果たして2つの三角形は合同だろうか? こ
れに対し、「完全に合同な三角形など、絶対に書けるものか!」「黒板や紙の上
に書こうとしても、必ず誤差が生じて合同にはならない!」と反論されると、確
かにその通りである。しかし、そこでつまづいてしまったら、幾何学は学問とし
て成立しない。幾何学は実現可能性を論じる学問ではなく、いわばプラトンの言
う「イデア」の世界で議論するものであり、実現は不可能でも、2辺とその挟む
角が等しい2つの三角形を、自由に考えて良いのである。ユークリッド幾何学で
あれば、2辺とその挟む角が等しい2つの三角形は合同であると断言して良い。
もし合同でなければ、非ユークリッド幾何学であることになる。
 幾何学だけでなく、数学全般がこういう性質を持っており、理論科学はみな数
学的に、プラトンの「イデア」の世界で論じるものだから、物理法則に反してい
ない限り、実現不可能でも自由に考えて良いのである。

                 ***

 東京タワーのてっぺんから1枚の紙切れを落とす実験を、何度も繰り返したと
しよう。実際にこれを行なうと、毎回毎回、紙切れの落ち方と落ちる場所は異な
ると思われる。では、「紙切れの落ち方と落ちる場所に、法則は無い」で終だろ
うか? そうでない事を見抜いたのが、ニュートンやデカルトやラプラスなどの
天才たちであった。紙切れは毎回毎回、全く同じ物理法則に従って落ちていく。
ただ、「初期状態」(東京タワーのてっぺんで、手から離れる時の紙切れの物理
状態)と「周囲からの局所的相互作用」(落ちる途中、空気の分子から受ける力
や、地球から受ける重力など)が毎回毎回異なるため、紙切れの落ち方と落ちる
場所は異なってしまうのである。そこで「思考実験」として、こう考えてみる。

  もし、紙切れの「初期状態」と「周囲からの局所的相互作用」を全
  く同じにして、この紙切れを落とす実験を繰り返したら、何回繰り
  返しても、紙切れの落ち方と落ちる場所は、いつも全く同じになる
  だろうか?

 量子力学を含まない「古典物理学」の立場に立てば、この答は「イエス」であ
る。もちろん、空気分子の衝突まで1個も異ならないような実験を再現すること
など、絶対に実現は不可能であることくらい、百も承知の上である。現在の科学
技術で実現不可能なのは言うまでもないし、やがて実現できるのではないか?と
主張しているのでもない。未来永劫、実現は不可能だろうけれども、理論的には
今すぐ議論すべき大問題なのである。
 それゆえ、もしこの答が「ノー」であれば、それはそれで大問題になる。

  「初期状態」および「周囲からの局所的相互作用」を完全に定めて
  も、物理法則は紙切れの運動を完全に決定できない

のか、それとも、

  「非局所的相互作用」が紙切れに影響を及ぼしている

かのどちらかである。実際、量子力学が絡むと、紙切れの落ち方と落ちる場所は、
確率的にしか予言できないことが明らかになった。

                 ***

 もう1つの例として、ガリレオの「思考実験」を挙げよう。当時は「重いモノ
ほど速く落ちる」と信じられていた。確かに、鉄と綿とを比較すると、鉄の方が
速く落ちるように見える。しかし、ガリレオはそうでない事を見抜いた。綿のよ
うに密度の小さい物体は、空気の抵抗で減速され易いため、鉄よりゆっくり落ち
る。それゆえ、

  もし、空気の無い真空中でならば、綿も鉄も、同じ高さから落とす
  と同時に床に到達するだろう。

これが、当時の科学技術では実現不可能な「思考実験」になっているのである。
 しかも、これが正しいことを示す見事な「思考実験」までが示されているのに
は、感動的である。仮に「重いモノほど速く落ちる」と仮定してみよう。10g
の物体よりも20gの物体の方が、速く落ちることになる。では、10gの物体
と20gの物体とをヒモで結び付けて落とすとどうなるだろう? 20gの物体
は速く落ちようとして、10gの物体を下に引っ張り加速する。10gの物体は
ゆっくり落ちようとして、20gの物体を上に引っ張り減速する。その結果、こ
れらの物体は、20gの物体単独の場合よりはゆっくりと、10gの物体単独の
場合よりは速く、その中間の速さで落ちることになる。ところが、この物体を全
体としてみると、これは30gの物体であるから、20gの物体以上に速く落ち
ることになってしまい、矛盾である。すなわち、「重いモノほど速く落ちる」と
いう仮定が間違っていたことを示している。

                 ***

 「思考実験」が大切な理由は、現実のこの世の中があまりにも複雑で、様々な
要因が絡み合っているからである。理論を作る時には、1つの要因だけについて
議論したいから、それ以外の要因は取り敢えず無視したい。そのためには、1つ
の要因以外は完全に同じ状態にしたと考えて、その違いが無視できるようにする。
高等学校の物理学でよく出てくる仮定、「空気の抵抗は無いものとする」「摩擦
は無いものとする」「重力はどの場所でも一定とする」なども、もちろん実現は
不可能であるが、こう仮定することで問題が極めて単純になり、個々の要因の中
の1つだけに集中して議論することが可能になる。
 それから一般に、特定の理論が正しいかどうかは、実験により検証しなければ
ならない、と信じている人が多い。確かに「ニュートン力学」と「相対性理論」、
「ニュートン力学」と「量子力学」のように、どちらも矛盾を含まない理論の場
合には、どちらが我々の宇宙を正しく表現したものであるかを、実験・観察によ
り、決定する必要がある。しかし、理論の内部に矛盾が含まれているような場合
には、「思考実験」を用いてその矛盾を暴いて見せるだけで、その理論の誤りを
証明したことになる。実験で検証するまでもなく、である。「重いモノほど速く
落ちる」という理論(仮説)には、実験で検証するまでもなく、矛盾が含まれて
いたのであった。だからこそ、「超常現象」のような、実験的に再現の難しいも
のを使用せず、「思考実験」だけで【心・脳同一説】の矛盾を示した方が、はる
かに説得力の有る問題提起が可能なのである。

                 ***

 ここでは、「思考実験」を用いた【心・脳同一説】(心は脳の機能である)へ
の反論、あるいは「【霊魂説】の方が正しいのではないか?」と示唆する論法を
5つ紹介する。思考実験だけで「心は脳で作れない?」との疑問を投げ掛ける、
世界初の試みであると思う。これらを【脳と心のパラドックス】または【馬場の
逆理】と名付ける。
 どの論法の中でも「霊魂」という言葉を多用することになるが、だからといっ
て、「非科学的だ!!」「宗教的だ!!」と拒絶しないで欲しい。あくまで【心
・脳同一説】の立場に立つとこういう解釈になり、【霊魂説】の立場だとこうい
う解釈になる、という説明をするだけである。果してどちらを正しいと考えるか
は、ぜひ読者の諸賢に判断を期待したい。