お わ り に
★★★ 科学学会の現状 ★★★
第二次世界大戦が終わって以来、日本は民主国家として生まれ変わり、この数
十年で大変住み易い社会を築くことに成功した。戦時中を思い出してみると良い。
「この戦争は日本が悪い!」とか「今すぐ日本は戦争をやめるべきだ!」などと
批判しようものなら、直ちに「非国民め!」と逮捕され、刑務所送りであった。
それが今は、国民一人一人が堂々と総理大臣の批判をすることができ、「日本が
過去に犯した過ちを素直に認め、謝罪しよう!」という意見も、大声で叫べる時
代になった。これは大変素晴らしいことであると思う。
ところがそんな中、今だに自分の本心を言ってはいけない世界が有る。いつも
周囲を見回し、人々が右と言うなら右、左と言うなら左、と意見を合わせておか
ないと、自分一人だけが村八分にされ、社会的に抹殺されてしまう社会、それが
「科学の学会(学界)」である。
トーマス・クーンが言う通り、科学の世界には、その時代に特有の常識的枠組
である「パラダイム」と呼ばれるものが有り、科学者たちは、その枠組の中でし
かモノを考えることができなく(許されなく)なっている。現代の科学における
具体例を挙げると、
・ 「心」は脳の機能であって、「霊魂」など実在しない。
・ エネルギー保存則は絶対的法則であって、破れることは無い。
・ 反重力は絶対に不可能だ。
・ タイムマシンは絶対に作れない。
・ 超能力は、すべてトリックでありイカサマだ。
・ 心霊現象は、すべて錯覚かトリックか思い違いである。
等々。これらの常識に反する主張をした論文は、査読の段階で直ちに拒絶され、
発表すら許されないのが現状である。
G・ブルーノやG・ガリレイを思い出そう。彼らは「天動説」ではなく「地動
説」の方が正しいという真理を見抜いた、「地球の頭脳」とでも呼ぶべき、知の
指導者であった。それなのに、当時のキリスト教的世界観に反するという理由で
拒絶され、ブルーノは火刑に処され、ガリレイは幽閉されるという扱いを受けた。
現代では、火刑に処されることは無くなったものの、論文の発表できない科学者
は、学者生命を断たれたのと同じであろう。科学の学界にはまだ「言論の自由」
が無いのである。
しかも、科学における新発見は、それが科学史に残る大発見であればあるほど、
それまでの常識を大きく覆す訳であるから、常識に反するものを拒絶していたら、
いつまでたっても古い枠組を抜け出せない、という困った事態が生じてしまう。
★★★ 査読の問題点 ★★★
著者自身の体験をお話しよう。本論で説明した「心は脳で作れない?」との疑
問を投げ掛ける論文を、認知科学会に3度、理論心理学会に2度、超心理学会に
2度投稿したものの、すべて査読で拒絶されてしまった。
そもそもこの査読の方法自体が、全くもって「民主主義」からかけ離れたもの
であり、査読者の「独裁制」に陥っている点に注意して欲しい。「裁判」にたと
えるなら、論文の投稿者が「被告」であるのに対し、査読者が「原告」兼「裁判
官」のようなものである。本来「裁判官」とは、「原告」と「被告」のどちらに
もひいきせず、公正な立場から判決を下すのが役目である。それなのに「原告」
が「裁判官」まで兼任してしまったら、「被告」に勝ち目は無い。投稿された論
文がどんなに重要な論文であろうと、査読者の気に入らなかったら、直ちに拒絶
になってしまう。たとえ投稿者からのクレームが付いても、投稿者と査読者のど
ちらの主張が正しいかを最終的に判断する権利は、査読者が握っているのだから、
投稿者は泣き寝入りするしか無い。
しかも、日本の学会はモラルの欠片も無い、というのが外国人たちの感想であ
る。外国の学会では、会員だけでなく非会員でさえ、論文投稿を認めている学会
が多い。しかも査読のコメントに納得がいかなければ、投稿者は異議を申し立て
ることができるし、査読者が自分の誤りを後で認めた、という話も聞く。
日本の学会には、そういう民主的な対応は全く無い。タテマエとしては、会員
なら誰でも論文を投稿できることになっているが、実際に論文を発表できるのは、
査読者の友人であるか、学会理事の立場にある者だけだ、という話も有る。学会
で権力を持っていない会員の論文など、初めから発表させるつもりは無い、とい
う事だ。さらに、査読者が一度「1足す1は3だ」と間違った事を言ったら、そ
れを間違いだったと後で認めることも絶対に無い。査読者が間違ったコメントを
書いたとなると、学会全体の恥だということで、学会ぐるみで「査読者のコメン
トが正しい。間違っているのは論文の方だ!!」と決め付けられてしまう。こう
いう時の悔しさは、自分が経験してみないと解らないだろう。
かつて戦時中、敵国の国民であるというだけの理由で無実の罪をでっちあげら
れ、自己弁護も許されぬまま死刑に処された人々がいたのである。学会の論文査
読は、現在でもこれと全く同じことをやっているのに、それが当然のこととして
まかり通ってしまい、批判する人すらいないという点に、問題の深刻さが有る。
大学教授のような社会的地位を持つ人は、それを保つためには、確実に論文を
発表する必要が有る。発表できなくなったら、職を失うから。そうすると、いか
にして査読者に気に入られる論文を書くか、の達人になってしまう。すべての大
学教授がそうだと断定するつもりは無いが、そのコツは次のようなものであろう。
・ すでに欧米諸国で受け入れられている分野だけに着手すること
(そうすれば査読者も落とせない)。独創性を持って新しい分
野を開拓しようなどという野心的な試みは、査読者の反感を買
うだけだから、絶対に避けること。
・ タブー領域には一切関与しないこと。
・ タブー領域に関与して村八分にされている人を見ても、同情し
たりせず、あくまで無視すること。
超常現象や心霊現象と呼ばれるものにも、同じ事が言える。著者はこれらの現
象を、安易に肯定もしなければ否定もしない。最終的結論がどちらに出るかは不
明だが、どちらにしろ、存在するのかどうかをじっくり調べてみることは、極め
て重要だと思う。それなのに正統派の学会では、論文の発表自体が認められない、
という現実が有る。つまり、調べてみる前に「そういうものは存在しない」「調
べてみる価値も無い」と決め付けている訳で、こういう態度は科学者として失格
ではないだろうか。
もっと驚くことには、医学者の過半数は、本心では「霊魂」の実在を信じてい
る、という統計結果も有るらしい。ただそれを、決して学会などで公言してはい
けないのだという。このような状況は、童話「裸の王様」にそっくりである。正
統派学会の会員たちは、自分一人が村八分にされるのを恐れ、「王様の服は美し
い!!」と言い続けることを義務付けられている状況なのだ。著者は、どうして
もそういう態度は取れず、「王様は裸じゃないか!!」と叫んで、学会を脱会す
る方を選んだのである。
***
認知科学会の査読者のコメントは、
間違いだらけの論文で、発表させる訳にはいかない!
という感情的な罵倒であった。もちろん納得が行かず、どこがどう間違いなのか
を質問し、
不備な点が有ればいくらでも書き直すし、致命的な欠点が見つかれ
ば、自主的に誤りを認めて投稿を取り下げるから、公正な審査をし
て欲しい。
との手紙を書いたが、一切返事は貰えなかった。
認知科学とは、「心」をコンピュータのソフトウェアのように解釈する【機能
主義】の立場に立つものである。つまり、コンピュータが人間と同等な《客観的
面》の機能を持ち得たら(いわゆる「チューリング・テスト」に合格できたなら)、
その時点で、
コンピュータが心を持った!!
と思い込もうとする立場である。それに対し、著者の論法は、次の主張をするも
のである。
たとえコンピュータが人間と同等の《客観的面》の機能を持ち得た
としても、《主観的面》の方は持ち得ない。そして、本当の意味で
の「心」とは、《客観的面》ではなく《主観的面》の方を意味する
のだから、コンピュータは「心」を持ち得ない。
だから査読者は、著者の論文を読み、認知科学すなわち自分たちの研究そのもの
の価値を否定されたように感じ、怒り狂ったのだろう。
しかし、【機能主義】に忠誠を誓う論文だけしか発表できないとなると、認知
科学会はもはや科学の学会ではなく、「AI教団」とでも呼ぶべき宗教団体のよ
うに見えてしまう。
***
理論心理学会の査読者のコメントには参った。
脳を分割していながら、それを元通りに機能させることなど、でき
るはずがない。
という内容であった。論文の中に「思考実験は実現できなくて良い」と説明して
いるにも拘らず、この査読者は「思考実験」という概念そのものを知らず、また
理解もできなかったようである。
この査読者のコメントに納得が行かず、理論心理学会の会員名簿を見て何人か
と連絡を取ったりもした。そんな中、2人だけ、好意的に意見を聞かせて下さる
方が現われた。須賀哲夫先生(日本女子大学教授)は、著者の第2章の論法に対
し、「論理的な間違いは見つからない」と私見を述べて下さり、学会機関誌の編
集委員会にまで、「発表だけはさせてあげたらどうか?」と提案して下さったが、
機関誌掲載は実現しなかった。實川幹朗先生(姫路独協大学教授)には、著者の
第1章の内容に対して「これだけ見事に書かれると、感動してしまう!」と称賛
の言葉を頂いた。自信を失いかけていた著者だったが、「やはり解る人には解る
のだ!」と、自信回復につながったものである。
殆どの日本人は、海外の学者の研究のマネしかできず、独創性を何一つ持たな
いし、たまに独創性の有る研究を発表する人が現われると、嫉妬のためののしる
ばかりで、その価値を認めようとしない。そんな中、この2人の先生方は、大変
民主的で、好感の持てる人物であった。
***
超心理学会の査読者のコメントにも驚いた。
「相対性理論では、4次元時空内の2個の点P,Qの位置関係(距
離)が空間的(space-like)な場合には、超光速の情報伝達が出来
ない限り、因果関係を持てない」という記述が、全くもって意味不
明である。
というのが、論文を不採用と判断した直接の理由になっているようだったからで
ある。どこが意味不明なのだろう?
特殊相対性理論では、ベクトルPQの4次元成分を(t,x,y,z)[tが
時間成分;x,y,zが空間成分]とする時、PQ間の4次元距離sの2乗s2
は、s2=t2−x2−y2−z2=t2−(x2+y2+z2)=t2−r2 で
表されるが、s2>0の時に「時間的(time-like)」、s2=0の時に「光錐的
(light-like)」、s2<0の時に「空間的(space-like)」と呼ぶ。Pを原点Oに
取って光円錐を書くと、Qはそれぞれ光円錐の、「内部」、「表面上」、「外部」に
来る。そして、PQ間の4次元距離が「空間的」な場合というのは、例えば、P
とQの時間間隔はt=10年、空間間隔はr=(x2+y2+z2)1/2 =20
光年離れているような状況であり、この場合、光の2倍以上の速度で情報伝達で
きない限り、PとQは因果関係を持てない。このくらい、現代物理学(特殊相対
性理論)の基礎の基礎である。
さらに査読者のコメントの中に、驚くべき記述が有った。
量子力学では、「非局所的相互作用」が存在するのは常識だ。
これもまた、本論で説明した通り、量子力学の誤解である。「非局所性」は有っ
ても「非局所的相互作用」は取り入れていないのが、現在の量子力学のはず。
量子力学に「非局所的相互作用」が含まれているのかどうかも知らず、「非局
所的相互作用」が有ると因果律の破壊という問題が生じることも知らないという
のでは、著者の論文を査読して貰うのを、こちらから遠慮したい。
著者個人の意見ではあるが、超心理学という学問は、「理論物理学」と「実験
物理学」を2本の柱とする「意識科学」の立場から、超常現象を解明すべき学問
であると思う。そして、現代物理学を越えねばならないのだから、会員たちは、
物理学を極め尽くした科学者たちのはずである。ところが実際には、理科系より
も文科系の会員が多いのだという。査読者が物理学を知らないのだから、会員の
中に物理学を知る人は1人もいないのではないだろうか? 100年以上の歴史
を持ちながら、今だに超常現象の「有る・無し論争」の段階から一歩も前進でき
ずにいる原因も、このへんに有るような気がする。
萩尾重樹先生(鹿児島国際大学教授)だけが「面白い!」と言って下さり、編
集委員会に「何とか掲載してやれないものか?」と手紙まで書いて下さったが、
こちらも機関誌掲載は実現しなかった。
***
実際日本の学会の機関誌に掲載されている論文には、「独創性」なるものが完
璧なまでに欠落している。欧米諸国の学会では、「独創性」こそが一流の証であ
り、他人のマネしかできない学者は二流・三流という扱いになる。ところが日本
の学会では、欧米諸国のマネこそが一流であり、「独創性」は直ちに拒絶されて
しまう有様である。海外で高い評価を受けた外国人論文の和訳であるか、または、
その忠実な模倣であることが、日本の学会誌に掲載されるために絶対必要な条件
のようだ。「独創性」の有る論文を投稿する人は皆無であるし、仮に投稿しても
必ず査読で落とされるし、万一掲載されたとしても、誰も意見を言えないまま埋
もれてしまう。世界の一流学者から見れば、日本の学会など、三流以下の「ママ
ゴト学会」に見えるだろう。情けないけれども、それが現実である。
★★★ 科学の世界に民主主義を!! ★★★
このように、「査読」という制度が有るばっかりに、正統派科学者の科学者は、
独創性を自ら捨て去り、画期的な大論文が書けなくなっているのが現状である。
そこで、科学哲学者ファイヤアーベントは、科学の進歩に最も理想的なのは「知
のアナーキズム(無政府主義)」だ、と主張した。つまり査読など行わず、どん
なに常識外れで荒唐無稽に思われる論文も、平等に発表させる場を与えるべきだ、
というのである。
しかし、それには大きな欠点も有る。査読なしにすべての研究者の投稿論文を
発表させるのであるから、当然その中には、初歩的な誤りを犯している論文や、
データの捏造をしている論文などが、大量に紛れ込んで来るだろう。どれが本物
でどれが偽物かの判断が困難になり、「エセ科学」の温床になってしまう危険性
が出て来ると思われる。
現在の超常科学や心霊科学が、この典型であるように見える。中には、本当に
科学のレベルで、厳密な研究をしている人もいるが、大半は、物理学の「ぶ」の
字もしらないエセ科学者であり、やれ「異次元の知的生命体」だの「宇宙生命エ
ネルギー」だの「宇宙の波動に共鳴する」だのといった、意味不明の、聞いてい
る方が恥ずかしくなるようなエセ科学用語を振り回し、正統派の科学よりも自分
の方が進んでいるかのように、装っているだけである。
おまけに、超能力セミナーの会長だとか、超能力グッズの販売を商売としてい
る人などもいて、論文を書く前に講演会や実演会を開き、名前を売ろうとしてい
る場合もある。これでは「科学」ではなく、ただの「エンターテインメント」に
過ぎない。さらに金儲けが絡むと、新興宗教のいわゆる「霊感商法」にも似たイ
ンチキや詐欺が横行しているようである。このような行為は、超常科学や心霊科
学の進歩にマイナスにはなっても、プラスにはなり得ない。今だに正統派の科学
者たちから受け入れられない原因は、正統派の科学者たちの頭の硬さだけではな
い。超常科学や心霊科学自身の中に、エセ科学的要素が多く含まれていることに
も原因が有る。
「誰のどんな論文にも、発表の場だけは与えるべきだ」という意見には大いに
賛成であるけれども、やはり「アナーキズム」では混乱に陥るだけだろう。そこ
で著者が求めるのが、「科学の民主主義」である。つまり、「政府」に相当する
論文の「審査機構」を作ることは必要だが、特定の査読者の独断や偏見で判断す
るのではなく、「直接民主制」を取る。そして、審査に参加したい人々全員が参
加し、自分の意見を自由に述べることができ、論文の著者と十分に議論して、そ
れが正しいのかどうかを見極める、というものである。
★★★ 科学論争上のルールとモラルとマナー ★★★
日本人は議論がヘタだ、とよく言われる。議論を始めると、すぐ感情的なケン
カになってしまうし、それだったら初めから議論などせず、自分の意見をはっき
り言わないのが「美徳」であるかのように考える人さえいる。しかし科学の論争
では、自分の意見をはっきり言わないのは、単なる「無能」であって、何一つ進
歩は得られない。言うべき時には、しっかりと自分の意見を言う必要がある。
そこで、実りの有る科学論争をするために、新説の「肯定派」と「否定派」の
両方が満たしておかねばならない、最低限のルール・モラル・マナーといったも
のを示しておこう。これを満たしていない人が科学論争に参加すると、全く不毛
な感情的ののしり合いに終わってしまう恐れがある。
(1) 新説の「肯定派」(論文の著者)は、新説の科学的根拠を
正しく理解して貰えるよう、全力を尽くして説明せねばな
らない。
新説の内容を正しく理解して貰うのは、それが難解な理論であればある程、大
変困難な作業であるが、「肯定派」はそれを行う義務が有る。その場合、新説の
根拠とは、誰もが客観的に認め得る事実でなければならない。「神の啓示です」
とか、「自分は超能力者なので、宇宙人にテレパシーで聞きました」などといっ
たものは、科学的根拠としては受け入れられない。それが間違いだと断定もでき
ないが、そういう論法は「宗教的信仰」には成り得ても、「科学的実証」とは見
做せないからである。
(2) 「否定派」は、新説を誤解なく理解するよう、好意的に努
力せねばならない。
この点の認識に欠けている人が多い。「否定派」は、いざ論争が始まれば、お
もに新説の欠点や疑問点を指摘する側に回るけれども、反論する前にまず新説の
論文をよく読み、不明確なところは著者に質問して、完全に理解せねばならない。
ここまでは、両者の協力が必要である。理解して初めて反論する資格を得るので
あって、理解する前に反論するのはルール違反である。
相対性理論などの例で解る通り、新説が矛盾を含んでいるのかどうか、どこか
に誤りが有るのかどうかは、極めて慎重に検討しないと、正しい判断は下せない。
あっさり矛盾や間違いを見付けたように思っても、実は誤解で、論文の著者の方
がもっとはるかに深い真理を見抜いている場合も有り得る。
超常現象の「有る・無し論争」では、いつもこの点で議論がつまづいている。
「肯定派」の主張をよく理解もせずに「否定派」が反論し、「肯定派」が説明し
ても「否定派」は真剣に聞こうともせず、故意にねじ曲げて誤解して見せたりす
る。これでは単なる嫌がらせなのであって、正々堂々と議論することを拒絶して
いるに過ぎない。理解する意志が無いのなら、初めから論争には参加しないこと
だ。
(3) 「否定派」は、挙げ足取りの反論をしてはならない。
科学の論文は、できるだけ曖昧な点が無いよう、厳密に書かれるべきであるが、
人間の書く文章である以上、そして日常言語を使用している以上、あら探しをす
れば必ずどこかに不備な点が見つかる。そういう点ばかりをねじ曲げて解釈し、
挙げ足取りの反論をされると、「肯定派」としては不愉快であるばかりか、一日
の大半の時間をつぶしたり、最悪の場合には何ヵ月、何年も議論がストップした
ままになってしまう。
もし「否定派」が論文の中に曖昧な点を発見したら、それを好意的に解釈しつ
つ、「肯定派」に確認の質問をするのがベストであろう。「この点が少々曖昧に
思えたのですが、こういう意味に解釈して良いのでしょうか?」。そうすれば、
「肯定派」も気持ち良く答えられる。「その通りです。曖昧な点が有って、申し
訳有りません」。たったこれだけで、1つの曖昧な点がクリアーできるのである。
それに、たとえ相手の誤りを発見できたと確信できても、相手の確認を得ない
限り、「あなたは間違っている!」と断定してはいけない。間違っているかどう
かを、両者の議論によって見極めようとしているのであるから。もし、逆に自分
の誤解だったりすると、相手に失礼であるばかりか、自分も気まずくなってしま
うだろう。従って、反論する時は必ず、「あなたの論文のこの点に疑問を感じて
いるのですが、どうお考えなのでしょう?」という、疑問形式を取るのがマナー
である。
学会の査読者が、投稿論文に間違いを発見したと思った場合も、「これは間違
いだ!」と独断で結論を出さず、論文の著者に一言確認すべきである。査読者も
人間であるから、間違いは有り得るし、有っても構わない。その代わり、間違い
が有った時は、素直に認めねばならない。そして、どちらが間違っているのかは、
議論してみないと判らないはず。査読者は「神様」ではないのだから。
科学の論争とは、新説が正しいのかどうかを「肯定派」と「否定派」とが協力
し合って見極めようとする、神聖な行為である。「勝ち」「負け」を争い、互い
に相手を拒絶し合い、ののしり合う場ではない。挙げ足取りの反論を連発し、時
間切れに持ち込めれば自分の勝ち!!と考えているようなモラルの欠けた人は、
科学論争に参加する資格すら無い、と言うべきであろう。
(4) 「肯定派」「否定派」とも、自分の主張が誤りだと解った
時には、素直にそれを認めねばならない。
これは、詳しく説明するまでもない常識である。人間誰でも、間違いや誤解は
有るのだから、自分の誤りに気付いた時は、素直にそれを認める必要が有る。そ
れも、できるだけ早いうちに認めれば、面倒なことにならずに済む。いつまでも
認めない場合、相手は執拗にその点を攻撃して来るだろう。後になればなるほど、
誤りを認めるのが辛くなるし、後味の悪いものにしてしまう。
自分の間違いを納得できたら、いつでもそれを認められるだけの人間的寛容さ
を、ぜひ備えておきたいものである。また相手の方も、勝ち誇って自慢するので
はなく、この人の謙虚な態度に敬意を払えるだけの仁徳を身に付けていたい。
(5) 誰かが新説を発表した場合、周囲の科学者たちはできるだ
け好意的に、その真偽を問う論争に参加すべきである。
もしすべての科学者が、自分の研究だけに熱中し、他人の論文を一切読まず、
互いに評価し合わなくなったとしたら、「科学」そのものが成立し得ない。なぜ
なら「科学」とは、多くの専門家たちが真偽を検討し、その上で正しいと判断さ
れたものだけが、「原理」や「法則」であるとして、公的に認められるのである
から。
ところが日本人は、嫉妬心から、自分以外の日本人の研究を素直に評価したが
らない、という悪い癖が有る。それも、素晴らしい論文であればあるほど、「興
味が無い」とウソをつき、知らぬふりをしてしまう。実際、日本人でノーベル賞
を受賞するほどの大論文を発表した科学者たちはみな、日本人からは全く評価し
て貰えなかった、と告白している。そのうちに外国で、全く同様の論文が発表さ
れ、こちらは全世界に高く評価される。その時、日本にも同じ内容の論文を書い
ていた人がいたと判り、ついでに賞を貰う、といったパターンである。せっかく
世界の単独トップを走っていながら、周囲の人間の非協力により、外国人に追い
付かれるのを、指をくわえて待っていなければならないというのは、何とも情け
ない。
たとえ相手が自分のライバルであろうと、あるいは、自分が解けなかった問題
を自分より若い人が解いてしまった場合であろうと、「良いものは良い」と素直
に評価できる人間になりたいものである。
★★★ 反論大歓迎!! ★★★
要するに「科学論争」とは、一種の「格闘技」、あるいは「将棋」や「囲碁」
の対局のようなものだと言えるだろう。戦っている時は敵と味方でも、試合が終
わって一礼すれば、友人に戻れるようでなければならない。負けた方は、自分か
ら進んで負けを認め、勝った方も勝ち誇らず、相手の健闘を讃え合う。論争中は、
なかなか思うように話が通じず、誤解が続いてイライラすることも有るが、その
場合も、
誤解を憎んで、人を憎まず
でなければならない。互いに、相手に対する尊敬と感謝の気持ちを忘れなければ、
実り有る「科学論争」が実現できるはずである。
そして学会は、特定の査読者が個人的な選り好みで論文発表の許可・不許可を
決めてしまう「独裁制」をやめ、あらゆる人々が自分の論文を発表でき、あらゆ
る人々がそれに意見を言えるような「民主主義」を実現すべきである。そうすれ
ば、これまでタブー領域だとして科学者たちが無視して来た数多くの分野が、画
期的な進歩を遂げるだろう。二十一世紀こそ、「科学の民主主義」が実現するこ
とを、期待したいものである。
***
(1)〜(5)のルール・モラル・マナーを満たした上で、本論に関する論争
を起こしたいと考えております。自分こそは!!と自信をお持ちの方、ぜひ急所
を付いたご意見、ご質問、ご反論をお送りください。