2003.10.18 馬場純雄
(C) SumioBaba
2003
[SB004]
伝言ゲーム140億
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1個のニューロンの気持ち(?)を理解するため、「伝言ゲーム」なるもの
を考えてみます。
5人の人間A,B,C,D,Eが左から右へ、1m間隔くらいで一直線上に並ん
でいます。人と人との間には壁が有り、5人とも自分以外の人間を見る
ことはできません。ただし、4つの壁には糸電話が取り付けてあり、隣り
合う二人だけが会話できるようになっています。
まずAが、1つのキーワード、例えば「クオリア」という言葉を、糸電話で
Bに伝えます。Bはそれが聞き取れたら「OK」と返事をし、それをCに伝え
ます。以下同様、A→B→C→D→Eとキーワードを伝えるものとします。
私はCであるとしましょう。Bからの糸電話で「クオリア」という言葉が聞
こえて来るので、「OK」と答えます。そしてDへの糸電話で「クオリア」と伝
えます。すると、「OK」というDの返事が聞こえてきます。私Cのやること
は、それだけです。これを「伝言ゲーム5」と名付けます。
さて私Cは、「伝言ゲーム5」を行うと教えられていましたので、それをや
り終えたつもりでした。ところが本当は、AとEは存在せず、実際に行った
のは、B→C→Dだけの「伝言ゲーム3」だったとしましょう。私Cはそれに
気付けるでしょうか? もちろん、気付けません。AやEが存在するかどう
か、私Cには知る術が無いからです。
BとDだけは、確かに存在すると信じています。なぜなら、BとDの声を
聞いているのですから。しかし、もしかすると、BとDの声は録音テープだ
ったかもしれません。本当は私Cだけが左右2枚の壁に挟まれているだ
けで、壁の外側にテープレコーダーが置いてあるだけだった、ということ
も考えられます。これを「伝言ゲーム1」と呼びましょう。
逆も考えられます。本当は、Aの前にもEの後にもたくさんの人間が連
なっており、しかも直線上ではなく網目状に140億人が絡み合った「伝言
ゲーム140億」だったとしても、もちろん私Cにはそれを知ることはできま
せん。
第三者の立場から客観的に見ている人は、私Cが「伝言ゲーム5」「伝
言ゲーム3」「伝言ゲーム1」「伝言ゲーム140億」のどれをやっているのか
を識別することができます。「伝言ゲーム1」はもはや「伝言ゲーム」では
ない、と判断できるでしょうし、「伝言ゲーム140億」の場合には、全体の
中に複雑高度な情報処理機能が構成されていることも、有り得るでしょ
う。しかし、私Cは、自分がどれを行っているのか、決して判断できない
のです。
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これが、正常な人間の脳Bを構成している1個のニューロンB1の視点で
す。B1もまた、私Cと全く同様、自分が「伝言ゲーム1」をやっている(B1だ
け取り出され、電気刺激を与える人工的装置D1に接続されている)のか、
それとも「伝言ゲーム140億」をやっている(正常な脳Bを構成している)の
か、自分では知る術が有りません。「伝言ゲーム1」をやっているものと思
っていたら、本当は「伝言ゲーム140億」をやっていた、逆に、「伝言ゲー
ム140億」をやっているものと思っていたら、本当は「伝言ゲーム1」をやっ
ていた、ということが有り得ます。
「伝言ゲーム1」をやっている時も、「伝言ゲーム140億」をやっている時
も、私Cの心の状態は、私Cの身体(特に脳)の状態だけで決定します。
「伝言ゲーム140億」をやっているからといって、140億人の心が融合して
しまうということは無く、140億人の心はそれぞれ独立したままです。140
億個ニューロンをB1-Bnとしましょう(n=140億)。個々のB1-Bnに随伴する
心M1-Mnもまた、「伝言ゲーム1」をやっている時だけでなく、「伝言ゲーム
140億」をやっている時も、互いに独立したままであり、個々のM1-Mnは、
自分以外のニューロンや自分以外の心が存在しているのかどうかさえ判
らない状態にあるのです。
個々のニューロンB1-Bnに敬意を表して、形式的に心M1-Mnと書きまし
たが、1個のニューロンに「心」(クオリア)が随伴しているとは、まず考えら
れません。また、必要があれば、脳Bを10の27乗個ほどの分子・原子・素
粒子の集合体であると解釈し、私Cが1個の分子・原子・素粒子の視点に
立ってみた場合にも、似たようなことが言えます。個々の分子・原子・素
粒子は、自分が正常な脳Bを構成しているのか、それとも自分1個だけ取
り出されているのか、自分では知りようが無いからです。
結局、1個のニューロン、1個の分子・原子・素粒子に「心」(クオリア)が
何も随伴しないのなら、それらを多数用いて正常な脳Bを構成したとして
も、「心」(クオリア)は何も作り出せない、との結論になります(現代物理学
が認めていない「非局所的相互作用」(俗に言う「テレパシー」?)を導入す
るか、それとも、脳以外の非物質的実体(ホムンクルス,霊魂)の存在でも
認めない限り)。
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私が「脳・心問題」に魅了された理由は、そこに何とも奇妙なパラドック
ス、あるいはジレンマと呼ぶべきものの存在を感じたからです。
1つの主張として、こういう言い方ができます。
(1) 個々のニューロン、個々の分子・原子・素粒子には「心」など無い。し
たがって、それらをどんなに多数、どんなに複雑に配置して脳Bを形成した
からといって、そこに「心」など発生するはずが無い。
もっともな主張です。ところがもう1つの主張が有ります。
(2) 個々のニューロン、個々の分子・原子・素粒子には「心」など無くても、
それらを複雑に配置することで、全体の中に高度な情報処理機能としての
「心」を構成できるのだ。
これもまた、もっともな主張です。両者はともに正しいようですが、矛盾して
いるように見えます。どこに問題が有るのでしょうか?
これに対する私の答はこうです。(1)も(2)も、主張していることは正しいの
ですが、「心」の意味が違うのです。(1)で言う「心」は、「主観的面」としての
「心」すなわち「クオリア」を意味しています。ところが(2)で言う「心」は、第
三者の立場から見て、いかにも「心」を持つかのような機能を持っているよ
うに見えるという、「客観的面」としての「心」なのです(私はこれを「イミテー
ション心」と呼びたい!!)。つまり、多数のニューロン、多数の分子・原子・素
粒子を複雑に配置して脳Bを構成することで、第三者から見ると、「客観的
面」としていかにも心を持つかのような機能を構成することはできるけれど
も、「主観的面」としての「心」すなわち「クオリア」の方は、何も作り出せてい
ないということです。私はこう考えるのですが、いかがでしょうか。
これは、D・チャルマースが「易しい問題」と「難しい問題」という言葉で区
別しようとした事、あるいは、J・サールが「統語論」と「意味論」とを区別し
ようとした事と、共通しています。
以上