2003.12.03 馬場純雄
(C) SumioBaba
2003
[SB013]
・・・ →「自分の心」→「自分'の心」→「自分''の心」→ ・・・
と変質しているのに、それに気付けないのではないか?
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原子1-Pの身体の中の「自分の心」は、時間が経過しても、「自分の心」
という同一性を保存しているように感じています。しかし、実は錯覚で、本
当は一瞬一瞬、
・・・ →「自分の心」→「自分'の心」→「自分''の心」→ ・・・
と変質しているのに、記憶の連続性からそれに気付けない、ということは
考えられないでしょうか?
この反論は、論駁できないのではないかと思われます(脳と心の関係が
劇的に解明され、時間経過における心の同一性保存が、特別に証明され
ない限り)。従って、もしかすると正しいかもしれません。しかし逆に、正しい
という証明もできません。哲学ではよく、こういう問題が登場します。有名な
例を挙げると、「B・ラッセルの懐疑」は「過去」の実在性に疑問を投げかけ
ます。
我々は「過去」が実在したと確信しているが、もしかするとその
ようなものは実在せず、ただ、「いかにも過去が実在したかの
ような記憶を持っているところの現在」が実在するだけかもしれ
ない。
全く型破りな哲学的懐疑ですが、これもまた論駁できないと思われます。
正しいとも正しくないとも証明できない「形而上学」である以上、問題は、
自然科学を論じる上で、どういう世界観を前提した方が、より有
意義か?
の選択ということになります。そして自然科学では、時間の経過に伴い物
質世界がどのように変化していくかを、重大なテーマにしています。それゆ
え、自然科学を論じる時には、「過去→現在→未来」の実在を前提する必
要が有り、「B・ラッセルの懐疑」は無視しておくのが賢明と言えます。
では、「自分の心」の時間的同一性はどうでしょうか?
コピー人間「自分'」など、「自分」に秘密でこっそり作られたとしたら、
そんな人間の存在に「自分」は気づきもしない。そんな「自分'」は、
「自分」にとってあくまで他人であって、身代わりに死んでも良いとは
思わない。
これは誰もか認めるでしょう。では、次のように考える人がいるでしょうか?
現在の「自分」にとって、1分後の自分はすでに「自分'」であり、他
人なのであるから、1分後にそれが殺されようと、他人事で知った
事ではない。
本気でこう考える人は、一人もいないでしょう。つまり「自分の心」は、一瞬
一瞬で、
・・・ →「自分の心」→「自分'の心」→「自分''の心」→ ・・・
と変質していくのではなく、時間が経過しても「自分の心」という同一性を保
存していると、誰もが実感しているのであり、そう考えないと「心」の同一性
について、常識外れな議論になってしまうのです。
ゆえにここは、人々の素直な実感に従い、「自分の心」の時間的同一性
保存を、素直に認めるべきだと判断します。「錯覚だ!!」という反論は、哲学
的には成立し得ますが、自然科学では無視すべきだ、という意味です。物
理学を議論する時に、「B・ラッセルの懐疑」を無視すべきであるのと、全く
同じ理由です。
以上