2003.12.04 馬場純雄
(C) SumioBaba 2003
[SB014]
原子1-Pの身体から原子1'-P'の身体へ移し入れられたのは
「自分の心」という名前だけか?
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身体の物質の新陳代謝の結果、「自分の心」が原子1-Pの身体から
原子1'-P'の身体へと移し入れられるように感じるのは事実だとしても、
あくまでそれは一種の錯覚だ、とは考えられないでしょうか? なぜなら、
新陳代謝で身体の物質は入れ代わっても、「生物個体としての同一性」
や「記憶の連続性」は保たれているし、自分の身体が新陳代謝してい
るという事実は、自分では実感すらできないからです。
あるいは、原子1-Pの身体から原子1'-P'の身体へと移し入れられる
のは、非物質的実体「霊魂」などではなく、どちらを本来の「自分の心」
と呼ぶかという名前だけだ、と考えることはできないでしょうか?
そこで、次のような定義を考えてみます。
原子1-Pの身体に存在する心を常に「自分の心」、原子1'-P'
の身体に存在する心を常に「自分'の心」と呼ぶ。 ・・・[定義1]
そうすれば、「自分の心」を原子1'-P'の身体に移し入れるなどというこ
とは、原理的に有り得なくなり、非物質的実体「霊魂」の存在を考える
必要も無くなるではないか?という意味です。
確かに[定義1]に従う限り、本来の「自分の心」は必ず原子1-Pの身
体の方に存在することになります。では、[SB008]の[質問B]に対し、ど
う答えるのでしょう? 本心では、「原子1'-P'に変わってしまった身体の
方を生かし続けて欲しい」と感じていながら、しぶしぶ「原子1-Pの身体
の方を生かし続けて欲しい」と、逆に答えるとでもいうのでしょうか? こ
う考えると、[定義1]は明らかに的外れであることが実感できます。
コピーを作る前の本来の自分(原子1-P)から見て、「絶対に
こちらを生かし続けて欲しい!!」と予め頼んでおきたい方の身
体に存在する心を、本来の「自分の心」と呼ぶ。 ・・・[定義2]
これこそ誰もが納得する定義でしょう。そしてこれに従えば、[質問B]の
場合、「自分の心」は確かに原子1'-P'の身体へと、移し入れられてい
るのです。
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こういう例を挙げてみましょう。我が家と隣の家で、全く同じ型のテレ
ビを一台ずつ買ったとします。「うちのテレビ」を構成する原子を1-P、
「隣のテレビ」を構成する原子を1'-P'としましょう。その後、子供たちが
イタズラをし、二台のテレビの部品を一個ずつひそかに交換し続けて
いき、ついにすべての部品が交換されたとします。今や我が家にある
テレビは、原子1'-P'に入れ代わっています。しかし、その事実を知ら
ない自分は、今でもこれを「うちのテレビ」と呼び続けます。
この場合、原子1-Pのテレビから原子1'-P'のテレビへと移し入れら
れたのは、「うちのテレビ」という名前だけであって、非物質的実体「霊
魂」などではありません。その証拠に、隣の人が子供のイタズラに気
付き、テレビを交換するよう要求して来たとすれば、言われるままに交
換して良いでしょう。すると我が家には、再び原子1-Pのテレビが戻り、
これを「うちのテレビ」と呼ぶことになります。テレビに「霊魂」は宿って
いないと思われるので、「うちのテレビ」の「霊魂」が原子1-Pのテレビ
から原子1'-P'のテレビへ移ってしまわなかったかどうかを、心配する
必要は有りません。
ところが、[質問B]の場合は事情が異なります。[定義1]に従い、一年
後も、原子1-Pの身体の心を「自分の心」、原子1'-P'の身体の心を「自
分'の心」と呼ぶとしましょう。しかし、それによって[質問B]に対する答が
逆転する訳ではなく、「原子1'-P'に変わってしまっている身体の方を生
かし続けて欲しい」のままでした。つまり、「自分の心」という名前だけな
ら、原子1-Pの身体の方に譲ってやっても構いませんが、「こちらを生
かし続けて欲しい!!」と予め頼んでおきたい性質が、原子1'-P'に変わっ
てしまった身体の方に存続している事実だけは、譲りようが無いので
す。ここがテレビの同一性と、本質的に異なる点です。
それでもなお「錯覚だ!!」と反論する人がいるかもしれません。しかし、
そもそも「経験科学」において、経験そのものを「錯覚だ!!」と言い出した
ら、あらゆるものが不可知に陥ってしまうでしょう。
論理学と数学は、明らかに「経験科学」ではなく、特定の「公理」と「変
形規則」が定められれば、あとは機械的な作業で「定理」が証明されて
いきます。それが、我々の宇宙の性質を正しく表現しているかどうかに
は一切関係無く、です。一方「経験科学」の方は、論理的整合性は必要
ではあっても十分ではなく、それが本当に、我々の宇宙(および我々の
心)の性質を正しく表現しているか否かの判断が必要です。では、どう
やって判断するのかというと、これは論理学や数学ではなく、我々人間
の「経験」すなわち「感覚」に頼るしか有りません。
例えば、誰もが実在を信じて疑わないこの「物質世界(時間・空間・物
質)」でさえ、それが錯覚でない事を、論理学や数学で証明することは
できません。実際に哲学では、これらを疑う「観念論」や「独我論」とい
う世界観も成立し得ます。しかし、誰もが実在すると感じる以上、その
実在を仮定して研究してみるのは重要であり、それこそが「経験科学」
の哲学的基礎だと言えるでしょう。
「心(クオリア)」の存在や性質も同じで、それが錯覚でない事の証明は
できません。しかし、誰もが「自分の心」の実在を感じ、原子1-Pの身体
から原子1'-P'の身体へと「自分の心」が移し入れられるように実感しま
す。だとしたら、「心とはそのような何かだ」と仮定した上で、「そのような
心とは何なのか?」を研究するのが、自然科学の立場なのです。
以上