2003.12.06 馬場純雄
              (C) SumioBaba 2003

                  [SB016]
        「自分」にとって「自分」と「自分'」とは非対称

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 [ソフトウェア説]を支持する人の中には、自説の矛盾を隠すため、自分
の本心を偽って、

   「自分」はコピー人間「自分'」の身代わりに死んでも良い

とか、

   どちらを殺されても同じことだ

と答える人がいます。しかしこの答をする時、明らかにオリジナルの「自
分」の視点を離れ、オリジナルでもコピーでもない第三者の視点に立って
おり、質問の意味を曲解しているように見えます。なぜなら、オリジナル
の「自分」とコピーの「自分'」とを対称な関係に見ることができるのは、
「自分」でも「自分'」でもない第三者だけであり、「自分」の視点に立つと、
「自分」と「自分'」とは必然的に非対称だからです。

   あなたは、自分のコピーの身代わりに、死んでも良いと感じるか?

という質問に対する答は、その人の好みやものの考え方で変わるような
ものではありません。私が提出するこの質問の意味を正しく理解した人
であれば、誰でも必然的に、

   「自分'」を殺し、「自分」の方を生かし続けて欲しい

という答になることを説明しましょう。

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 デカルトが言うように、「自分の心」にとって「自分の心」は、絶対に疑
いようの無い[実在]です。一方、「他人の心」の存在は、決して知覚・認
識できません(他我認識の不可能性)。他人が「心を持つかのように行動
する機能」を持つことは、五感で知覚可能ですが、本当はそのように振る
舞う「自動機械」で、「心(クオリア)」など持たないかもしれません。あるい
は、時間・空間を含む物質世界のすべてが「自分の心」の中の幻かもし
れない、と疑う「独我論」すら成立します。「自分の心」にとって「他人の
心」の存在は、あくまで一種の仮定に過ぎず、これを[仮在]と呼んでおき
ましょう。

 では、「自分」のコピー「自分'」を作ったとする時、その中に発生したと
仮定される「自分'の心」はというと、もちろんこれも「自分の心」にとって
は、あくまで[仮在]です。つまり、「他人の心」と同じ部類に属します。こ
ういう意味で、「自分の心」にとって「自分の心」と[自分'の心」は、原理
的に非対称だと言えます。

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 オリジナルの「自分」の視点を強調するために、「自分の心」をテレビ画
面に例えてみましょう。画面の中には、数多くの他人の姿が映っていま
す。コピー人間「自分'」もまた、それら多くの他人の中の一人として、画
面の中に映っているだけです。
 もし「自分'」の方を殺すなら、画面の中の人間が一人消滅するだけで、
テレビそのものは安泰です。もし「自分」の方が殺されるのなら、テレビ
そのものが破壊され、消滅します。どちらを殺すかで、テレビ画面(すな
わち「自分の心」)は、全く異なる変化をします。どちらを殺すかは、「自
分」にとって、まさに「生きるか、死ぬか」の違いです。

   画面に映っている内容はどんなに変わっても良いから、テレビ
   そのものを安全に保つことに、全力を尽くすものとする。(他人を
   犠牲にしても良いから、自分が生き続けることに、全力を尽くす
   ものとする。)

という利己的判断基準を定めれば、必然的に「自分」は、「自分'」の方を
殺し、「自分」が生き続ける方を選ぶことになります。「コピー人間の身代
わりに死んでも良い」とか、「どちらが殺されても同じ」という答は、有り得
ないのです。

 「自分」でも「自分'」でもない第三者の視点に立ち、この人の心をテレビ
画面に例えると、「自分」も「自分'」も、テレビの中に映っているよく似た
二人の人間に過ぎません。そういう意味で、「自分」と「自分'」とは対称
です。どちらを殺すにしろ、テレビそのものは安泰ですから、「どちらを殺し
ても良い」という答になり得ます。しかし、これは私の質問の意味を曲解し
ていますから、議論の対象外です。

 なお、この答、

   オリジナルの「自分」は、コピー人間「自分'」の身代わりに死にた
   くない

は、[ソフトウェア説]と[霊魂説]のどちらも仮定しない、中立の立場から導
いた点に注意して下さい。我々人間の素直な本心は、[霊魂説]の方が
正しい事を支持しているのが解ります。

以上