2004.02.01 馬場純雄
              (C) SumioBaba 2004

                  [SB024]
             右脳不在のパラドックス

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 ホームページ「心は脳で作れない?」
http://homepage3.nifty.com/BABASUMIO/
の第四章に書いている「右脳不在のパラドックス」について説明します。

 まず、[論法1]で説明した通り、現代科学で常識とされる次の2つを仮
定します。

[A] 脳の物理的メカニズムは、すべて光速の限界を伴う「局所的相互
作用」によるものであり、空間的距離を飛び越えて及ぼし合う「非局所
的相互作用」など存在しない。

[B] 心は脳の機能であり(心・脳同一説)、非物質的実体「霊魂(ホムン
クルス)」など存在しない。

そうすると、

   心(クオリア)はすべて錯覚である

が導かれてしまうことを示します。

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 一般に、左腕の感覚領域は右脳の中に、そして言語中枢は左脳の中
に存在すると言われています(例外あり)。自分の左腕に針を刺すと、こ
の刺激は神経を伝わって、右脳の中にある左腕の感覚領域を興奮させ
ます。すると「自分の心」に、左腕の痛みが感じられます。その情報は脳
梁を通って左脳にも伝わります。だからこそ自分は、「左腕が痛い」と言
葉で表現できます。
 ここで、脳梁を切断したとします。そして、右脳を取り出して捨ててしま
います。すると、左腕に針を刺しても、左脳の中の「自分の心」は、左腕
の痛みを感じなくなります。そして、「左腕は痛くない」と言葉で表現できま
す。実際に、右脳を失った人が左半身の感覚を失うのは、よく知られた
事実です。

 そこで奇妙な操作を考えます。右脳を捨て去る前、左腕に針を刺すと、
右脳の中にある左腕の感覚領域が興奮し、その情報が脳梁を通って、
左脳にも伝えられていました。今や右脳は存在しませんが、かつて右脳
が左腕の痛みを感じ、その情報を左脳に送っていた時と全く同じニセ情
報を、人工的装置を用い、脳梁の切り口から左脳へと流し込んだとした
らどうでしょう?
 左脳の立場に立つと、

    右脳が存在して実際に左腕の痛みを感じ、その情報を送っ
    て来ている

のか、それとも、

    右脳など存在せず、ただ、いかにも右脳が左腕の痛みを訴
    えているかのようなニセ情報を、人工的に流し込まれている
    だけ

なのかを、識別できません。そして、前者の場合だけでなく後者の場合
も、「左腕が痛い」と言葉で表現するはずです。本当は、もはや右脳など
存在していないのに、です。果たしてこの時、「自分の心」は左腕の痛み
を感じているのでしょうか、いないのでしょうか?

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 左腕の感覚領域を持つ右脳がもはや存在していない、という事実から
考えれば、「自分の心」は左腕の痛みなど感じるはずが有りません。それ
ならなぜ、「左腕が痛い」などと言うのでしょう?

    左脳の中の「自分の心」は、本当は左腕の痛みなど感じてい
    ないのだが、いかにも感じているかのように錯覚するだけだ

と解釈するしかないでしょう。
 しかしこの「錯覚」は、極めてリアルな錯覚です。一言で「左腕の痛み」と
言っても、腕のどの部分なのか、刺すような痛みなのか鈍い痛みなのか、
といった様々な種類が有ります。右脳が接続されていた時は、右脳から
送られて来る情報の微妙な差で、左脳はこれらの痛みの違いを識別し、
言葉で表現できました。だとしたら、脳梁から人工的に送られて来るニセ
情報の場合でも、この微妙な差を左脳は識別できるはずですから、原理
的に右脳が接続されていた時と同じ精度で、痛みの種類を区別できるこ
とになります。これが果たして「錯覚」でしょうか?
 さらに、「心の私秘性」と呼ばれる性質が有ります。ある人が「自分は痛
みを感じている」と主張した場合、それが嘘であることを他人が証明する
ことは決してできない、という性質です。身体に何も異常が無いので、こ
の人は嘘を言っているのでは?、とか、痛みを感じているかのように錯覚
しているだけなのでは?、と推測することはできても、それを実証すること
はできません。他人の心の中を、みんなで覗き込むことはできないからで
す。もしそれが嘘である事を知り得る誰かがいるとしたら、その人が意識
的に嘘をついている場合の、その人本人だけです。ところが今の場合、
自分本人も嘘をついているとは思っていません。心の底から「自分は左
腕が痛い」と信じているのです。自分が信じているのなら、それは「錯覚」
ではなく、「痛み」そのものではないでしょうか?
 だからといって、

    左脳の中の「自分の心」は、左腕の痛みを感じている

と考えるのも奇妙です。右脳を捨て去った今、左脳には左腕の痛みを感
じる機能など存在しないのですから。
 以上の論法を[右脳不在のパラドックス]と名付けます。

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 脳Bを2つの部分B1とB2に分け(B=B1+B2)、B2の方を切り取って捨てて
しまう、と考えましょう。今の話では、B1=左脳、B2=右脳、でしたが、分け
方は任意で構いません。正常な脳Bに随伴する心をM、B1に随伴する心
をM1、B2に随伴する心をM2としましょう。B2を切り捨てた上で、B1には、
今でも正常なBを構成しているかのような「初期状態」と「周囲からの局所
的相互作用」を、人工的に与えてやります。すると[A]の仮定により、B1の
機能は正常なBを構成していた時と全く同じになるし、[B]の仮定により、
B1に随伴する心M1も、Bを構成していた時と全く同じ状態になるはずです。
そしてM1は、自分がM2の機能を失っている事実に気付けず、自分を、正
常なBに随伴する心Mだと錯覚することになります。
 ここで、B2→B, B1→0 の極限を考えます。B1をBの1/2でなく、もっと小
さく、1/10, 1/100, 1/1000, ・・・ , 1個のニューロン、1個の電子、としても
良いでしょう。もちろん、B1に随伴する心M1は、M1→0、すなわち、心とし
ては「無」になるはずです。そして、次の結論に達します。

    「主観的面」としての心、すなわちクオリアのすべては、本当
    は存在しないのに、存在するかのように錯覚しているだけだ。

R・デカルトによって、「これだけは絶対に疑いようの無いもの」と主張され
た「自分の心」の存在さえ、実は錯覚かもしれない、という訳です。

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 この[右脳不在のパラドックス]が、なぜ奇妙なパラドックスに感じられる
のかを考えてみます。
 脳Bの機能は、左脳B1と右脳B2とがそれぞれ異なった機能を持ち、分
業方式を取っています。相手の存在や状態を知るためには、光速の限界
を伴う「局所的相互作用」を用いて、互いに情報を伝え合わねばなりませ
ん。だから、脳梁から全く同じ情報が入って来れば、それが右脳からのも
のなのか、それとも人工的なニセ情報なのかを、左脳は識別できません。
従って、左腕の痛みを感じる右脳など実在していなくても、左脳はそれが
存在するかのように錯覚し、「左手が痛い」と発音してしまうだろうことも、
容易に理解できます。
 ところが心の方は、部分による分業方式を取っていません。いわば、1
個の不可分な素粒子のような心が、右脳・左脳両方からの影響を、同時
に体験します。それゆえ、

    本当は左腕の痛みなど感じていないのに、いかにも感じてい
    るかのように錯覚している心

という内部矛盾した状態が、どうしても想像できないのです。
 「左腕の痛みを感じる心」と「左腕の痛みを言葉で表現する心」とが独立
していれば、何も奇妙ではありません。例えば、自分が左腕に痛みを感じ
ているかどうかを書面で友人に郵送し、書面に書かれている内容を、友人
が朗読する場合を考えましょう。自分は左腕に痛みを感じていないので、
「左腕は痛くない」と書いて郵送しました。ところが、郵便配達人がイタズラ
をし、「左腕が痛い」と書いた書面とすり替えて、友人に渡したとします。友
人は、この私が左腕に痛みを感じているものと推測し、「左腕が痛い」と朗
読します。この場合、左腕の痛みを感じていない「自分の心」も、この私が
左腕に痛みを感じていると思いこんでいる「友人の心」も、何ら不思議では
ありません。両者が独立していれば、このような誤解はよく有ることです。
「1つの心」の内部で、「痛みを感じていないのに、感じていると錯覚してい
る心」という矛盾した状態が、非常に奇妙に感じられるのです。

 もちろんこのパラドックスは、[A]と[B]の仮定に原因が有ると思われます。
「心(クオリア)などすべて錯覚だ」という結論を避けるためには、[A]と[B]の
少なくとも一方は間違いだと、疑わねばなりません。
 
以上