2004.03.31 馬場純雄
(C) SumioBaba
2004
[SB029]
物理的に検出不可能な「非局所的相互作用」や「霊魂」は、
実証科学としては無意味
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仮に「非局所的相互作用」または「霊魂」の存在を考える時、それが
物理法則と干渉的か?非干渉的か?(別表現をすれば、物理的に検出可
能か?検出不可能か?)という問題について考えてみます。結論を先に書
くと、
物理法則と非干渉的(物理的に検出不可能)な「非局所的相互
作用」や「霊魂」の存在を考えても、経験科学・実証科学として
は全くムダになるのでは?
との結論に到達します。
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[論法1]([SB001],[SB002],[SB018])の内容です。
[A] 脳の物理的メカニズムはすべて「局所的相互作用」によるもので
あり、「非局所的相互作用」は存在しない。
[B] 心は脳の機能であり(心・脳同一説)、非物質的実体「霊魂」は存在
しない。
の2つを仮定すると、「主観的面」としての心(クオリア)は発生し得ない、
と主張しました。だからこそ「心(クオリア)は存在しないのだ」というのも
1つの結論です。逆に心(クオリア)の存在を認めるなら、[A]と[B]のどち
らかは間違い、と言えます。つまり、以下の3つのうちどれかを選択せね
ばならない、ということです。
(1)
「主観的面」としての心(クオリア)は錯覚であり存在しない。
(2)
脳を構成する物質や光の中に、現在の物理学では認めら
れていない「非局所的相互作用」が存在し、それが脳のマ
クロな領域を結び付けることで、心(クオリア)が発生する。
(3)
脳に非物質的実体「霊魂」が随伴し、脳全体の機能に対応
した心(クオリア)を産み出している。
(2)の「非局所的相互作用」および、(3)の「霊魂」について、それが物理
法則と干渉的な場合、非干渉的な場合の両方を考えてみます。
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まず、解り易い(3)の方を考えてみます。[霊魂説]のうち、「霊魂」が物
質と相互作用できると考えるものを[相互作用説]、「霊魂」が物質に相互
作用を及ぼせないと考えるものを[並行説]と呼びます。
[相互作用説]の方は、「霊魂」が物質と相互作用できるので、「霊魂」
の存否を物理的に検出可能ですし、ある人の脳に「霊魂」が宿っている
時には心(クオリア)も随伴するだろうが、「霊魂」が宿っていなければ心
(クオリア)も随伴しないだろう、と判断することができます。脳状態は全く
同じでも、「霊魂」と脳の相互作用が異なれば、心(クオリア)の状態も異
なるし、その違いを言葉で表現することも可能でしょう。「霊魂」が脳およ
び身体を操縦する訳です。
一方[並行説]の場合、脳は脳だけで厳密な物理法則に従います。「霊
魂」が宿っているか否かに影響は受けません。つまり、私の脳Bの任意
の一部であるB1の機能(B1の物理状態の時間発展)は、B1の「初期状
態」および、B1が受ける「周囲からの局所的相互作用」の2つだけで決定
します。
もし私の「霊魂」がB全体に随伴していれば、B全体の機能に対応した
私の心Mが発生するでしょう。もし私の「霊魂」が、Bの一部であるB1だけ
に随伴していれば、B1の機能だけに対応した私の心M1が発生するでし
ょう。しかしどちらの場合も、Bの「初期状態」およびBが受ける「周囲から
の局所的相互作用」が全く同じなら、Bの機能も全く同じです。つまり、自
分の心がMの場合もM1の場合も、私の脳機能や身体の言動は全く同じ
ものになり、私自身、自分の心がMなのかM1なのかを判断できない、と
いうことです。B1→0を考えると、M1→無になるはずです。
自分の心がMなのかM1なのか無なのかを、自分自身で判断できない
とすると、そんなものについて議論するのは無意味でしょう。他人の心
(クオリア)がどういうものであるかを知る方法が無いというだけでも、心
(クオリア)を科学の研究対象にする時の大きな妨げであるのに、自分の
心(クオリア)の状態さえ知り得ないとなると、致命的です。オッカムの剃
刀により、そんなものは錯覚だとして、考えないのが賢明です。つまり、
(3)の立場をとって「霊魂」の存在を考えてみても、それが物理法則と非
干渉的(物理的に検出不可能)であるとすると、「霊魂」の存在そのもの
が実証不可能になるばかりでなく、心(クオリア)の存在さえ錯覚というこ
とになり、結局(1)に戻ってしまうという訳です。
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(2)の方もよく似ています。(3)の「霊魂」のところを「非局所的相互作用」
で置き換えれば、全く同じ話になります。
もし「非局所的相互作用」が物理法則と干渉的(物理的に検出可能)で
あるならば、その存否を物理的に検出できますし、ある人の脳に「非局
所的相互作用」が認められるなら心(クオリア)が随伴するだろうが、「非
局所的相互作用」が検出できなければ心(クオリア)も随伴していないだろ
う、と判断できます。「非局所的相互作用」が脳B全体を結び付けていれ
ば、B全体に心Mが随伴するだろうし、「非局所的相互作用」がBの一部
B1だけを結び付けているなら、B1の部分だけに心M1が随伴するのだろ
う、と推測することもできます。
さらに、脳Bの「初期状態」および「周囲からの局所的相互作用」は全く
同じであっても、「非局所的相互作用」の結び付ける領域がBかB1かとい
う違いが有れば、脳Bの機能も違ったものになります。だから、自分の心
がMなのかM1なのかを自分で知り、それを言葉で表現することも可能に
なります。
ところがもし、「非局所的相互作用」が物理法則と非干渉的(物理的に
検出不可能)だとすると、私の脳B全体を「非局所的相互作用」が結び付
けて、B全体に私の心Mが随伴しているのか、私の脳Bの一部B1だけを
「非局所的相互作用」が結び付けて、B1だけに私の心M1が随伴してい
るのかを、自分でも判断できなくなります。
私の心はMであって、M1でもなければ、無でもない!!
と叫んでも、こう反論されてしまうでしょう。
仮にキミの心がMではなく、M1だったとしても、無であったとし
ても、同じくキミは物理法則的必然性で、「私の心はMであっ
て、M1でもなければ、無でもない!!」と叫ぶことになる。
だから、私にはもちろん、キミ自身にさえ、キミの心がMなのか
M1なのかそれとも無なのかを、知る術は無いのだよ。
やはり(3)の場合と同じです。たとえ「非局所的相互作用」の存在を認め
ても、それが物理法則と非干渉的(物理的に検出不可能)であれば、この
場合も心(クオリア)は錯覚ということになり、(1)に戻ってしまうのではない
でしょうか。
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まとめ
仮に(2)や(3)を正しいと考える場合、(2)で言う「非局所的相互
作用」や(3)で言う「霊魂」が、実証科学・経験科学として意味
を持つためには、それらが物理法則と干渉的(物理的に検証
可能)でなければならない。
たとえ(2)や(3)の立場を取っても、「非局所的相互作用」や「霊
魂」が物理法則と非干渉的(物理的に検出不可能)であれば、
哲学的解釈としては成立し得ても、実証科学・経験科学として
は無意味であり、その存在を実証不可能であるばかりでなく、
心(クオリア)の存在も錯覚ということになり、(1)に戻ってしまう。
現在の私は、(1)(2)(3)のどれが正しいのかを判断できません。仮に(2)
や(3)が正しかった場合、「非局所的相互作用」や「霊魂」が物理法則と干
渉的なのか?非干渉的なのか?(物理的に検出可能なのか?検出不可能な
のか?)も判りません。
ただし、自分の心(クオリア)は無ではなく、自分なりにはっきりその状態
を知り得る何かであると実感し、(1)はそれに反しています。この事実こそ、
(2)と(3)のどちらかが正しい事を示唆しているのでは?と考える次第です。
そして、(2)や(3)が(1)に陥るのを防ぎ、心(クオリア)を実証科学・経験科学
の研究対象とするために、(2)の「非局所的相互作用」や(3)の「霊魂」が、
物理法則と干渉的(物理的に検出可能)だと信じたい!!といったところでし
ょうか。もちろん、単なる願望に過ぎませんが。
以上