2005.05.03 馬場純雄
              (C) SumioBaba 2005

                  [SB039]
            [並行説]にメリットは有るか?

                  ******

 [SB029][SB030][SB038]の内容に続き、[並行説]について一言。

 [霊魂説]は大きく2つに分けられます。1つは、非物質的実体「霊魂」
が脳や身体という物質と、何らかの物理的相互作用をすると考える[相
互作用説]。もう1つは、「霊魂」が脳や身体の物理状態に対応した心理
状態を体験するものの、「霊魂」から脳や身体への物理的相互作用は
無いと考える[並行説]です。

    相互作用も無いのに、身体(脳)と「霊魂」がばらばらに独立
    してしまわず、対応関係を保ったまま一生を送るのはなぜ?

という疑問に、

    神が宇宙を創造した時点で、両者がうまく対応した状態を
    保ち続けるように、予定調和させたため[予定調和説]

という、とても苦しい説明がなされたりします。この点だけを見ても、あま
り科学的な説明になっていないのを感じます。このような苦しい説明を
使ってまで、[並行説]を正しいと考えてみることに、何かメリット(利点)は
有るのでしょうか?


                    (1)
     << [並行説]の「霊魂」は、物理的に検出できない >>

 まず[並行説]の「霊魂」は、物質と相互作用しないというのですから、
その存在を物理的に検出するという方法で実証することは、原理的に
できません。特に他人の場合、そこに「霊魂」が宿ってその人の心(クオ
リア)を発生させているのか、それとも「霊魂」は宿っておらず、その人
は心(クオリア)を持たない自動機械なのか、決して判断ができなくなり
ます。もちろん、私が心(クオリア)を持つという事実を、他人に対して客
観的に実証することもできません。

    客観的に実証することもできないものの存在を仮定してみて、
    何かメリットは有るのだろうか?

という疑問が生じます。


                    (2)
     << [並行説]の「霊魂」は、脳機能の説明には不要 >>

 さらに、他人や自分の脳機能および身体の物理的メカニズムを説明し
ようとする時、[並行説]の「霊魂」は、何の役にも立ちません。脳や身体
に何の影響も及ぼしていないのが、[並行説]の「霊魂」なのですから。
 例えば、他人がこう言ったとします。

    私はもちろん心(クオリア)を持つし、それは私の「霊魂」が、
    私の脳状態に対応した心理状態を産み出しているからだ。

こう発言している人の脳機能も、すべては脳の物理状態だけで説明で
き、「霊魂」の影響は考えなくて良いと主張しているのが、他ならぬ[並
行説]そのものです。だからこそ、他人がこういう発言をしたからといって、
そこに「霊魂」が随伴していることの証拠にはならないし、その人が心
(クオリア)を持つのかどうかも、私には判断できません。

    脳機能や言動を説明するのに何の役にも立たない「霊魂」、
    脳機能や言動に何の影響も及ぼせない「霊魂」の存在など
    仮定してみたところで、何のメリットが有るのだ?

ますます疑問が強くなります。


                    (3)
    << [並行説]の「霊魂」は、私自身、存否を知り得ない? >>

 このように、(1)も(2)も、[並行説]の「霊魂」など、存在を仮定してみるこ
と自体が無意味であることを示しているように見えます。にも拘わらず、
[並行説]の「霊魂」を考えてみたくなる唯一の理由が有ります。

    私の心(クオリア)の存在を、他人に客観的に証明することは
    できないけれども、私自身だけはその存在と状態をはっきり
    知ることができ、その由来・原因を理解するだけでも、[並行
    説]は役に立つ。

おそらくこれが、[並行説]の唯一のメリットかと思われます。ところが、
実はこれも、よく考えると間違っているようなのです。

 私の脳をB、その一部をB1としましょう。もし私の「霊魂」がB全体に
宿っていれば、私の心はB全体に随伴するMです。もし私の「霊魂」が
B1だけに宿っていれば、私の心はB1だけに随伴するM1です。もし私の
「霊魂」がBのどこにも宿っていなければ、私の心は無でしょう。脳Bの
機能は全く同じでも、私の「霊魂」の宿っている領域が、B全体か、B1
だけか、どこにも宿っていないか、という違いで、私の心の状態は、M
か、M1か、それとも無か、という違いを生じます。しかし、どの場合も、
私の脳Bの機能が全く同じだとしたら、私の言動も同じことになり、私自
身、自分の心が、Mなのか、M1なのか、それとも無なのかを、判断でき
ないことになってしまいます。
 つまり[並行説]の「霊魂」だと、他人にそれが随伴して心(クオリア)を
発生させているのかどうかが不明であるのと同様、自分の場合にも、
それが随伴して心(クオリア)を発生させているのかどうか、自分自身、
判断ができなくなるのです。

 この点に関し、次のように反論する人がいるかもしれません。

    [並行説]の「霊魂」は、脳Bの機能が定まると、どの部分に
    随伴するかが一意的に決まり、同一の脳Bの機能なのに、
    B全体に宿ったり、B1だけに宿ったり、どこにも宿らなかっ
    たり、という選択はできないのだ。

しかし、これもうまくいきません。

 [右脳不在のパラドックス]([SB024])を思い出しましょう。左腕の感覚
領域を持つ右脳B2を切り捨て、言語機能を持つ左脳B1だけにします。
ただし、人工的装置D1を用いて、いかにも右脳B2が左腕の痛みを訴え
ているかのようなニセ情報を、左脳B1に流し込んでやります。すると左
脳B1は、右脳B2の不在に気付けず、「左腕が痛い」と言語表現するこ
とになりました。
 [並行説]の「霊魂」が、B1だけに随伴するにしろ、B1+D1全体に随伴
するにしろ、左脳B1に物理的相互作用を及ぼせない限り、左脳B1は、
「左腕が痛い」と言語表現することになります。つまり、自分の心が、

    M: B=B1+B2全体に随伴し、左腕の痛みを感じて、それを
      言語表現している心

なのか、それとも、

    M1: B1だけ、または、B1+D1全体に随伴し、左腕の痛みな
      ど感じていないのに、感じていると錯覚し、それを言語
      表現している心

なのかを、私自身、判断できないことになります。
 このパラドックスを解消するためには、B2からB1へ及ぼされる「非局
所的相互作用」の存在を考えるか、または、[並行説]ではなく[相互作
用説]の「霊魂」の存在を考えることが、必要なのでした([SB038])。

                  ******

 以上、(1)(2)(3)どれを考えても、[並行説]の「霊魂」の存在を考えてみ
ることに、メリットは何も無いように思えます。実証も反証もできない「形
而上学」的解釈として、1つの可能性を考えてみる事は許されても、「実
証科学」においては、いわゆる「思考経済の法則(オッカムの剃刀)」に
より、無視すべきかもしれません。

以上