2005.08.04 馬場純雄
(C) SumioBaba
2005
[SB046]
心の最大の謎は
多数の事物の存在と関係を認識できること
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4次元時空内の異なる2つの点を、点P、点Qとします(4次元時空内
に広がりを持つ、領域P、領域Qでも良い)。点Pと点Qの物理状態は、
一般に独立した自由度を持っています。すなわち、点Pの物理状態を、
ある状態Paであってそれ以外の状態Pbではない、と定めても、点Qの
物理状態は、ある状態Qaなのかそれとも別の状態Qbなのかが、定ま
りません。従って点Pは、自分の物理状態がPaであることは知り得て
も、点Qの物理状態がQaなのかQbなのかを知り得ません。逆に点Q
は、自分の物理状態がQaであることは知り得ても、点Pの物理状態が
PaなのかPbなのかを知り得ません。
ところが、物質世界の情報なるものは、4次元時空内のどこか一点に
詰め込まれている訳ではなく、多数の点(領域)の物理状態の関係性の
中に蓄えられています。従って、点Pの物理状態と点Qの物理状態との
関係性の中に蓄えられている情報を読みとるためには、点Pの物理状
態と点Qの物理状態の両方を知り、その関係を認識できる第三者の視
点が必要になります。もしそのような第三者が存在しなければ、点Pの
物理状態と点Qの物理状態との関係性の中にどういう情報が蓄えられ
ているのかは、誰も認識できないまま、終わりです。
例えば、ダ・ビンチの名画「モナリザ」を、ヨコ10000Xタテ10000の画素
に分解したと考えると、一個の画素だけ見ても、それが何の絵なのか判
りません。多数の画素による色の配置の関係性を認識した時に初めて、
それが「モナリザ」だと判るのです。
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コンピュータのような高度な情報処理装置は、多数の事物の存在と
関係性を、「認識」できるかのように見えるかもしれません。しかし、そ
の場合の「認識」は、コンピュータ自身が「主観的面」としての心(クオ
リア)で「認識」しているのではありません。コンピュータの個々の部分
の間に、「客観的面」としていかにも「認識」しているかのように振る舞う
機能が構成されている事を、第三者の立場から見ている人間が、「主
観的面」としての心(クオリア)で「認識」しているだけです。コンピュータ
は、「客観的面」として「認識」する機能は持っていても、「主観的面」の
方は持ちません(→[SB041])。
その理由は、単純明快でした。第三者はコンピュータ全体、すなわち
コンピュータのあらゆる部分の物理状態とそれらの関係性を知覚し、個
々の部分には無い高度な情報処理機能が、コンピュータ全体に構成
(創発)されているのを認識できるので、「客観的面」としての機能の存
在を認識できます。ところが、コンピュータの任意の一部を点P、それ以
外の一部を点Qとすると、点Pは、自分以外の点Qの物理状態を知り得
ず、自分がコンピュータという高度な情報処理装置を構成している事実
など、知りようが無いのですから、「主観的面」の方は発生しようが無い
のです。
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これは、私の脳Bの中の、異なる2つの領域B1とB2についても言える
ことです。
私の左脳をB1、右脳をB2とします。私の左腕に針を刺すと、私の脳B
=B1+B2に随伴する私の心Mは、右脳B2で左腕の痛みを感じ、左脳B1
で「左腕が痛い」と言語表現できます。この時、私の心Mは、こう実感し
ています。
私は、左腕が痛いから「左腕が痛い」と言うのだ。
左腕が痛くなければ、「左腕は痛くない」と言える。
つまり私の心Mは、「右脳B2が、左腕の痛みを感じる状態になっている
こと」と「左脳B1が、「左腕が痛い」と言語表現している状態であること」
の両方を知っている、と感じています。これが実は、とんでもない奇妙な
事なのです。
その証拠に、[SB024]で[右脳不在のパラドックス]なるものを考えまし
た。
まず、現代科学の常識である[A](すべての物理的相互作用は、光速
以下で空間を伝わり、距離ゼロまで接近して初めて及ぼし合える「局所
的相互作用」である)、[B](心は脳の機能なのであって、非物質的実体
「霊魂」など実在しない)、の2つを仮定します。
次に、右脳B2を切り捨て、左脳B1に人工的装置D1を接続し、いかに
も右脳B2が左腕の痛みを訴えているかのようなニセ情報を、D1からB1
に流し込んでやります。すると、私の左脳B1は、右脳B2の不在に気付
けず、「左腕が痛い」と言語表現するはずです。左腕の感覚領域を持つ
右脳B2は、もはや存在していないのに、です。
左脳B1は、自分が右脳B2と接続された正常な脳B=B1+B2
の状態なのか、それとも右脳B2を人工的装置D1で置き換
えたB1+D1の状態なのかを、知り得ない。
逆に、左脳B1を切り捨てた場合にも、右脳B2に人工的装置D2を接続し、
いかにも左脳B1が接続されているかのように騙せば、同じ事が言えるで
しょう。
右脳B2は、自分が左脳B1と接続された正常な脳B=B1+B2
の状態なのか、それとも左脳B1を人工的装置D2で置き換
えたD2+B2の状態なのかを、知り得ない。
にも拘わらず、私の心Mは、これを超越しています。
私の心Mは、現在の状態が、B1+D1でもなければ、D2+B2
でもなく、正常な脳B=B1+B2の状態であること、すなわち、
B2が存在して「左腕の痛みを感じる状態」にあり、かつ、B1
が存在して「「左腕が痛い」と言語表現している状態」である
こと、の両方を知っている。
なのですから。
いかにも私の心Mは、左脳B1でも右脳B2でもない第三者(霊魂、ホム
ンクルス)の視点に立っているのが解るでしょう。
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空間の広がりや時間の経過を認識できるのも、この「多数の事物の
存在と関係の認識」が原因です。
4次元時空内の1つの点Pだけしか認識できなければ、空間の広がり
も、時間の経過も、認識できないでしょう。4次元時空内の多数の点P、
Q、R、S、・・・の存在と状態、およびそれらの関係性を認識できるから
こそ、3次元空間内に様々な物体が存在し、その物理状態が時間の
経過とともに変化していく事を認識できるのです。
しかもこの場合、2つ以上の点の存在と状態を、「同時に」認識してい
る、という点が奇妙です。「一度に1つずつ」ではダメなのです。「点Pを
知覚している時には、点Qは知覚できない」「点Qを知覚している時には、
点Pは知覚できない」というのでは、両者の関係性は、決して認識でき
なくなるのですから。
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[SB031]で触れた通り、心のこの奇妙な性質は、量子力学の観測問
題にも密接な関係が有るように感じます。
いわゆる「シュレディンガーの猫」の思考実験で強調される通り、我々
は日常生活において、同一の猫の「生きた状態」と「死んだ状態」とを
重ね合わせのまま知覚することは有りません。
しかしそもそも、猫の「生きた状態」と「死んだ状態」との見分けが付く
事自体が、非常に奇妙です。もし私が、猫を構成している一個の粒子
(分子・原子・素粒子)だけしか知覚できなければ、それが「生きた状態」
なのか「死んだ状態」なのかを、判断することはできません。「生きた状
態」なのか「死んだ状態」なのか、という情報もまた、猫を構成している
一個の粒子の中に詰め込まれているのではなく、猫を構成している多
数の粒子の位置関係の中から、読み取らねばならないものです。それ
を読み取れる心の奇妙な性質こそが、波動関数収縮の原因ではない
のでしょうか。
猫を見て、それが「生きた状態」なのか「死んだ状態」なのかを判断
する時、私の脳Bの中では、複雑な情報処理が行われているのでしょう。
しかし、その情報処理もまた、一個の粒子B1だけで行っている訳では
ありません。脳Bを構成している多数の粒子B1-Bnの複雑な関係性の
中に、その機能は構成されているのです。しかも個々のB1-Bnは、自分
の事だけは知り得ても、自分以外のn-1個の存在など知りもしないし、
自分が脳Bの高度な情報処理機能を構成している事実も知り得ません。
ここでもまた、私の心Mは、B1-Bnのどれでもない第三者の視点から、
B1-Bnの存在と関係性を知り、脳B全体に構成された高度な機能の存
在を認識しています。そしてその高度な機能が、「生きた猫を知覚する
機能」なのか「死んだ猫を知覚する機能」なのかを識別し、その違いに
応じて、「生きた猫」または「死んだ猫」を知覚します。
「多数の事物の存在と関係を認識できる」という性質は、心の持つ最も
神秘的な性質であり、現在の物理学や脳科学では、説明できないもの
だと思います。
以上