2005.08.05 馬場純雄
(C) SumioBaba
2005
[SB047]
心の最大の謎は
多数の事物の存在と関係を認識できること(2)
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私の心は、いわゆる「五感」と呼ばれる「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」
「触覚」を感じることができます。さらに、言葉の「意味」なるものも、心
の中にイメージすることができます。このような、人間個人個人の心の
中の主観的な感覚を、哲学では「クオリア(qualia=感覚質)」と呼びます。
クオリアの認識が成立するためにも、必ず2つ以上のクオリアの存在、
および、その関係性(同じか、異なるか)の認識が必要であるように思
われます。
例えば、「赤」という色のクオリアを認識するためには、「赤」以外の
色も、最低1つは認識できなければならないのではないでしょうか?
もし私が、外界の物体すべての色を「赤」に見え、「赤」以外の色を知
覚する事が無かったとしたら、私は、自分がいつも「赤」を見ている、と
いう意識さえ生じないでしょう。もちろん、「なぜ私は、赤ばかりを見て、
青を見ることはないのだろう?」という疑問も、生じるはずは有りません。
「青」などという色は知らないのですから。
つまり、もし私が「赤」一色しか知覚できないとしたら、私は「赤」とい
うクオリアを意識できないだけでなく、「色」という概念さえ認識できなく
なるはずなのです。
仮に、
自分は「赤」だけは認識できるが、「赤」以外の色は見た
ことも無い。
と主張する人が現れたとしましょう。「赤」以外の色を見たことが無い
というのですから、この人の言う「赤」が、本当に「赤」なのか、それと
も「青」や「黄」なのか、あるいは「無色」なのか、この人自身、判断で
きていない事を示しています。そんなものは「赤」ではないでしょう。
さらに、「赤」「青」「黄」・・・等の違いを識別する能力こそが、「色」の
認識力です。それらの違いをも認識できないこの人は、「色」という概
念自体も、認識できていないことになります。
「色」という概念を認識するためには、まず、2つ以上の色を知覚し、
その違いを認識できる事が必要です。そうするとそこに、「色空間」と
でも呼ぶべき空間の広がりが発生します。「色空間」内の特定の一点
(およびそれにごく近い領域)を「赤」、それ以外の領域を「非赤」に対
応するとしましょう。
私がある色Xを見て、それが「赤」だと認識するためには、まず「赤」
と「非赤」の違いを識別できることが前提であり、さらに、
X=「赤」、X≠「非赤」
という関係の成立を認識できること、すなわち、Xと「赤」、Xと「非赤」
との比較をする機能を、私の心が持っていることが必要です。当然、
2つの色Xと色Yとを比較するためには、私の心が色Xと色Yとを「同時
に」知覚できることが必要です。
色Xを知覚している時には、色Yは忘れてしまう。
色Yを思い出している時は、色Xを知覚できない。
というのでは、色Xと色Yの比較はできません。
こういう言い方もできると思います。「赤である」という意識は、「非
赤ではない」という意識でもあります。「赤である」を「表意識」、「非
赤ではない」の方を「裏意識」と呼びましょう。両者は一枚の紙の表
裏と同様、分離不可能なものです。
「赤である」という「表意識」が無意味でないためには、「非赤ではな
い」という「裏意識」もまた無意味でない事が必要です。つまり、「赤」
という意識の有無が無意味でないためには、「非赤」という意識の有
無もまた、無意味でない事が必要です。すなわち私が「赤」という意
識を持ち得るためには、「非赤」という意識をも持てることが必要です。
「非赤」が認識できなければ、「赤」も認識できないことになります。
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言葉の「意味」も同様だと思います。ある言葉、例えば「政治」のよ
うな抽象的な言葉の「意味」でさえ、我々は自分なりに、心の中でイ
メージすることができます。そのためには、やはり言葉X以外の言葉Y
の「意味」をも、認識できる事が要求されます。
多数の異なる言葉の「意味」によって構成された「意味空間」なるも
のの存在が前提であり、「政治」という言葉の「意味」が、「意味空間」
の中でどのへんに位置しているのかを認識することが、「政治」という
言葉の「意味」を理解することなのですから。
他の言葉を知らないとすると、「意味空間」そのものが認識できない
ことになります。そうすると、「意味空間」の中で「政治」という言葉の
「意味」がどのへんに位置するのかも不明という訳ですから、「政治」
という言葉の「意味」も理解できないことになるでしょう。
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さてこのように、「クオリア」や「意味」の認識には、必ず2つ以上の
「クオリア」、2つ以上の「意味」の関係を認識できることが前提になっ
ていると思われるのですが、これが非常に奇妙な事なのです。この
問題の裏返しとして、「他人のクオリアは覗き込めない」という事実を
考えましょう。
有名な「逆転クオリア」の思考実験が有ります。
私の知覚する「赤(私)」、「青(私)」が、友人の知覚する
「赤(彼)」、「青(彼)」と同じものかどうかを、私も友人も、
確かめることはできない。
仮に両者が逆転して、
「赤(私)」=「青(彼)」、「青(私)」=「赤(彼)」
という関係であったとしても、誰もそれを知る事ができない。
というものです。
私の心をM1、友人の心をM2としましょう。「赤(私)」と「青(私)」は、ど
ちらも私の心M1という同じ土俵の中に存在するので、両者の比較が
可能です。「赤(彼)」と「青(彼)」もまた、どちらも友人の心M2という同じ
土俵の中に存在するので、両者の比較は可能です。一方、「赤(私)」
と「赤(彼)」の比較、「青(私)」と「青(彼)」の比較となると、前者は私の
心M1の中に、後者は友人の心M2の中に存在し、同じ土俵の中の存
在ではないため、比較のしようが無いのです。
私の心M1が知覚する「赤(私)」、「青(私)」、「黄(私)」、・・・によって
構成される色空間を、「色空間(私)」と名付けます。友人の心M2が知
覚する「赤(彼)」、「青(彼)」、「黄(彼)」、・・・によって構成される色空間
を、「色空間(彼)」と名付けます。私の心M1は、「色空間(私)」内部の
様々な色を比較でき、友人の心M2は、「色空間(彼)」内部の様々な
色を比較できます。ところが、「色空間(私)」と「色空間(彼)」とを両方
同時に知覚し、両者が同じものかどうかを比較できる視点は、どこに
も存在していないのです。
もし私の心M1と友人の心M2とが融合し、統合された「1つの心」M
に成り得たとすれば、Mは「色空間(私)」と「色空間(彼)」の両方を同
時に認識し、両者が同じものかどうかの比較が可能になるでしょう。
そうすれば、「赤(私)」「青(私)」「赤(彼)」「青(彼)」という4つの色も、
みな比較可能になるでしょう。
私の心の中で、同時に2つのクオリア「赤(私)」「青(私)」
の存在と関係を認識できることの不思議さは、
私の心と友人の心とがテレパシーで融合し、私の知覚
する「赤(私)」と、友人の知覚する「赤(彼)」とが同じもの
かどうかを比較できるようになるのと、
原理的に同じ不思議さである。
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念のために書いておきますが、私の脳B1と友人の脳B2とを、人工
神経などを用いてどんなに親密に相互作用させたとしても、それが
「局所的相互作用」である限り、私の心M1と友人の心M2とを、統合
された「1つの心」Mに融合することはできません([SB001][SB002])。
B=B1+B2全体に「1つの心」Mが随伴し、Mが、B1だけに随伴する
心M1でもなければ、B2だけに随伴する心M2でもなく、そのようなM1
とM2の独立した和でもない、という状態になるためには、B=B1+B2
全体を「非局所的相互作用」で結び付けることが必要です。
以上