2008.6.7改訂     

ホウ素系木材保存剤と環境問題

平成16年年312発行の週刊朝日に温泉廃業騒動の記事が掲載されました。同年7月から排水中のホウ素濃度が10ppmに規制されるため、全国の温泉の6割が営業できなくなるというものです。この7月危機は、結局、環境庁が排水規制の厳密な施行を3年間延期したことで回避されましたが、問題そのものが解決したわけではありません。



1.ホウ素とホウ酸塩

ホウ素は原子番号5の元素です。天然には酸素と結合したホウ酸塩の形で存在します。ホウ酸塩は、地下の鉱脈から掘り出され、簡単な精製工程を経て、ホウ酸、ホウ砂などの商品に加工後販売されます。ホウ酸塩の主要産地は米国とトルコで、日本は殆ど100%輸入に頼っています。

ホウ酸塩の最大の用途はガラス原料で、総需要の50パーセントを占めます。次に洗剤、肥料、セルロース断熱材用難燃剤、釉(うわぐすり)と続きます。このほか、半導体やセラミックス、原子炉事故の際の中性子吸収剤のような特殊な用途があります。身近な用途では、目薬、化粧品の防腐剤、食品保存剤としても使われています。

動植物の生育にもホウ素は不可欠です。果物や野菜の栽培にホウ酸塩は欠かせません。土壌中のホウ酸塩は、雨で流され、作物に吸収されて年々減少します。これを補うためのホウ素肥料は、世界の食糧危機を防ぐ上で不可欠です。日本でも年間20003000トンのホウ砂が肥料として消費されています。ホウ素は、動物にとっても必須の元素で、人間は一日あたり1〜3mgのホウ素が必要です。



2.ホウ素の毒性

ホウ素は動植物が生きていくための必須元素ですが、過剰に摂取すると有害です。ダニ、シロアリ、ゴキブリ等の下等動物が過剰のホウ酸塩を摂取すると、細胞中のホウ酸塩濃度が上昇します。ホウ酸塩は、細胞内で、代謝反応に関係する補酵素と強固なキレート結合を形成する性質があります。このため、細胞内のホウ酸塩濃度が限界値を越えると、代謝は完全にストップし、死は免れません。市販のゴキブリ駆除剤の多くは、ゴキブリの好きな餌にホウ酸塩を混入したものです。

ヒト、イヌ、ネコなどの哺乳動物では事情が異なります。哺乳動物では過剰に摂取したホウ酸塩は腎臓で濾過後、尿として排出され、細胞内のホウ酸塩濃度は安全な水準に保持されます。このため、哺乳動物に対するホウ酸塩の毒性は微弱で、急性毒性は食塩と同等です。



3.事業所排水中のホウ素濃度を規制する理由

ホウ酸塩の哺乳動物に対する毒性は微弱ですが、長期間にわたる過剰摂取は危険です。世界保健機構(WHO)は、飲料水中のホウ素は、1リットルあたり1mgを超えないよう指導しています。1mgという数値は、動物実験からの結論です。

Priceらの実験では、ラットに6ホウ酸を含む食餌を長期間与えたところ、ホウ酸塩濃度が750ppmを超えると、胎児の体重が20%ほど低下することを確認しました。この750ppmという数値とラットの体重から計算すると、ラットの胎児に異常が起こらない限界は、体重1kgあたり、ホウ素9.6mg/日となります。

ラットの実験結果をヒトに当てはめる場合は、安全性を考え、100分の1を限度とする約束があります。これから、ヒトに対するホウ素の許容摂取量は、0.096mgkg/日となります。体重50kgの人は、1日あたり4.8mgが限度になります。このうち、60%を食事から、40%を飲料水から摂取すると仮定すれば、飲料水からのホウ素許容摂取量は1.92mgとなります。人は毎日約2リットルの水を飲みますので、飲料水のホウ素濃度は0.96mg/リットル以下に抑える必要があります。飲料水の許容ホウ素濃度は、このようにして1mg/リットルと決定されたのです。

さて、10年ほど前から日本の湖沼で、ホウ素濃度が急速に上昇し始め、リットルあたり1mgを超える例も出現しました。このため、環境庁は、事業所廃水中のホウ素濃度規制に踏み切ったのです。環境科学では、廃水は、河川に流れ込んで10倍に希釈されると想定します。これから、排水中のホウ素濃度の許容限界は、10mg/リットルと決定したわけです。

廃水規制は、飲料水の品質確保のため必要な措置といえます。結果として、日本は、事業所廃水中のホウ素濃度を規制する世界最初の国となりました。有難くない記録です。




4.10mg/リットルは正しい値か?

日本のホウ素濃度規制は、客観的に見て厳しすぎて現実にそぐわない点があります。その理由は、恐らく、ラットからヒトに換算する場合の安全係数100にあると思われます。

上述の週刊朝日の記事では、日本の温泉は、平均すると4050mg/リットルのメタホウ酸を含むそうです。コップ1杯を飲むと1日分のホウ素を摂取することになります。しかし、現実には、温泉のお湯を毎日飲んで、病気になったという話は聞きません。

また温泉ラーメンが人気を博しています。清浄な温泉水でスープを作ると美味しいラーメンが楽しめるようです。ラーメンのどんぶりには、スープが0.5リットル以上入るので、ラーメン1杯で2−3日分のホウ素を摂取することになります。

外国にも、似た例が報告されています。かつてトルコのホウ酸塩鉱山の労働者は、生活用水に地下水を使っていました。あとで分かったのですが、飲料水から毎日、ひとり当たり50mgのホウ素を摂取していたようです。健康に害はなかったそうです。

米国での調査では、職業上絶えずホウ酸塩を処理している場合、一日当たり30mgのホウ素を吸い込む/飲み込む危険性が指摘されています。このような労働条件で作業する男性別、女性別の統計的な検討では、生殖能力に一般人との差は認められなかった、と報告されています。余談ですが、動物実験から類推すると、ホウ素を過剰摂取した場合の最初の障害は、男性の生殖機能に起こると考えられています。

以前、ホウ酸は消毒薬として病院で盛んに使われていました。日本でも広く読まれたスポック博士の育児書では、乳腺炎を予防するため、授乳後に乳首を2−3%のホウ酸水で洗うように奨めています。赤ちゃんは、授乳のたびに少量のホウ酸を飲み込むわけですが、これが健康障害を起こす例はなかったようです。ただし、数十年前、新生児がホウ酸の急性中毒で死亡する例がアメリカで多発したことがあります。原因は、粉ミルクとホウ酸を間違えたためでした。最近では、病院の消毒には、即効性に優れた抗生物質などが使用されるため、ホウ酸は姿を消し、新生児の事故も報告されていません。

このように考えると、排水中のホウ素濃度を10ppmに制限するのは行き過ぎのようです。

ただし、これを実施しなければ、河川や湖沼の水が無制限にホウ酸で汚染される危険性があります。規制なしでは、企業は不要のホウ素を垂れ流しにするのは必至です。飲料水を採取する河川と廃水を流す下水とが明確に区分され、企業のモラルが向上するまで、厳しい廃水規制はある程度やむをえないことかもしれません。




5.温泉から出るホウ酸塩

環境省のデータによりますと、平成18年度には全国で毎分2780トンの温泉が湧出しています。また、中央温泉研究所の甘露寺所長によりますと日本の温泉は、平均4050ppmのメタホウ酸を含んでいます。これから計算すると、温泉が生み出すホウ酸塩は、ホウ酸換算で年間86,000100,000トンになります。このホウ酸塩は、すべて河川に放流されると考えてよいでしょう。

日本では、378,000km2の国土に、年間平均1,700mmの雨が降ります。この雨水に温泉から出るホウ酸が溶解すると、平均濃度はホウ酸換算で0.15ppm、ホウ素換算では0.03ppmとなります。世界的には淡水は、0.01ppmのホウ素を含むとされています。日本の0.03ppmという値は、温泉大国の実力でしょうか。

最近の研究によりますと、地球上のホウ素の循環は次のようになります。




地球上のホウ素の循環(*)

地球上でのホウ素の流れ B Ton/年
海中から大気中へ 130〜450万
土壌中のホウ素が雨で抽出され、地下水や地上水へ移る 43〜130万
ホウ酸塩の採掘 40万
火山の噴火に伴うホウ素の噴出 30万
  * PAugust, Biological Trace Element Research, Vol.66, 131-140 (1998)



地球上では、毎年500600万トンのホウ素が循環しています。海水のしぶきが低気圧で空に運ばれ、雨となって降ります。雨は土壌中のホウ酸塩を溶解し、海に運びます。土壌中のホウ素不足を補うため、日本では3000トンのホウ砂が肥料として畑に撒かれます。

人為的なホウ素の循環(40万トン/年)は、自然循環よりはるかに小さい量ですが、濃縮された形での放出事故に注意する必要があります。




6.木材のホウ酸塩処理と廃水問題

わが国では、ホウ酸塩Timborが、平成202月に加圧注入用防腐/防蟻剤として認定されましたが、実は、日本でも以前、ホウ酸塩は木材防虫処理に大量に使用されていました。最盛期は、1980年代の半ばで、年間40万立米のラワン材がホウ酸塩処理されています。JASでは、防虫処理濃度をホウ酸換算で1.2kg/立米と規定しています。これから、年間のホウ酸塩消費量は480トンと推定されます。今後、ホウ素系木材保存剤が普及すると、年間500トンのホウ酸塩が消費されることもあり得るでしょう。

ここで、500ンという数量を他の産業と比較してみます。まず、農業ですが、年間3000トンのホウ砂が肥料として果樹園や野菜畑に散布されます。このうち、かなりの部分は雨で洗われ河川に流入するものと考えられます。

前述しましたように、温泉排水中のホウ素量は膨大で、年間ホウ酸換算で10万トン近いホウ酸塩が、河川に放流されています。このほか、化学会社はトップ10社だけで年間300トンのホウ酸塩を河川に放出し、ガラス繊維メーカーは年間100トン近いホウ酸を大気中に蒸散しています。

このように考えると、木材保存に使用されるホウ素は微々たるもので、しかも、その大部分は木材中に残存します。従って、ホウ素系木材保存剤を環境問題に結びつけて非難するのは不公平の感があります。しかし、いかに少量でも、廃水基準は遵守しなければなりません。廃水中のホウ素はキレート樹脂により効果的に分離・回収できますが、かなりの設備投資とランニングコストが必要です。利益の少ない、小規模な木材保存処理工場では、廃水中のホウ酸塩を回収することは不可能に近いでしょう。

好都合なことには、木材保存処理ではホウ酸塩を単品で使用するのが一般的です。この場合、ホウ酸塩が沈殿を生成しない性質を利用し、処理液を濾過して何回でも再利用するクローズドシステムが可能です。

右の写真は、ハワイのホウ酸塩加圧注入処理工場の例です。製材や合板は、直径2メートル、長さ50メートルの加圧注入缶6基をフル操業して処理されています。処理された木材は、下の写真のように濡れたまま水切り場(Drip Pad)に積まれ、処理液のしたたりが止まるまで放置されます。雨の日もカバーは掛けません。溶脱量が問題ないことを分析で確認しているそうです。

したたり落ちた処理液は、雨で洗われて排水溝に集まり、濾過後タンクに回収され、処理液の調整に再使用されます。大雨の時に備えて、200立方メートルの雨水を保存できる予備タンクも用意してあります。

ホウ酸塩処理木材の廃材は、焼却しても有害ガスを発生せず、ホウ酸塩はガラス状の個体として焼却灰中に残ります。灰は肥料として散布してもよく、ホウ酸塩を抽出、再利用することもできます。また、廃材をチップ化し防腐・防蟻ボードの原料とすることも可能です。

このように考えれば、木材のホウ酸塩処理では、廃水に責任を持つことは当然ですが、廃水問題に過度に神経質なることはありません。

                                                             







 


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