三塁ベースに一人の男が立っている。
その男には、意地があった。
今日はこの球団にとって、今シーズンの最終戦。
そして、この男にとっても、25年になんなんとするプロ野球生活の最後の日で
もあるのだ。
男はその脚で、実に25年にわたって球団を支えてきた。
彼の母校は、野球部員がたったの9人しかいない山の分校。もちろん「甲子園」
などは夢物語でしかない、どこにでもあるような弱小チームだった。
そんな彼に、当時、その球団のスカウトにいた男が目をつけた。
「私はね、きみのその脚に惚れ込んだんだよ。
どうかね、プロでやってみないか?」
その言葉にひかれ、男はテスト生の資格で球団の門をくぐったのである。
「私はね、きみのその脚に惚れ込んだんだよ……」
その言葉に応えるかのように、男はひたすら走りつづけた。
たとえ打球が当たり損ねの内野ゴロであろうとも、その男にかかれば、それが
内野安打に変わる。
塁に出れば貪欲に次の塁を狙い、積極果敢に盗塁を仕掛け……。
そして守備では、いかなる打球でもすばやく反応して味方のピンチをたびたび
救い……。
「必殺仕事人」
ファンはいつしか、彼にこんなあだ名をつけた。
もっとも最近は、若手の台頭もあって、男は「代走」や「守備固め」といった
形での起用が増えていたが、彼はグチ一つこぼさず、長い経験と持ち前の闘志を
生かして、与えられた仕事を着実にこなしていた。
「生涯現役」
「俺の死に場所はここ――グラウンドにしかない」
ことあるごとに、彼はこんな言葉を発するようになっていた。
……しかし、いくら強がってみても、寄る年波には勝てない。
いつの頃からか、自分のイメージした通りに走り、球を捕ることができなくなりつつあった。
それまでは少なからずあった「代走」や「守備固め」にも声がかかることが少なくなり、
二軍落ちさえ経験した。
二軍でも、男は徹底的に自分をいじめ抜いた。
いつの日か、もう一度一軍に声のかかる日を思いつつ……。
だが、往年の力を取り戻すには、男はあまりにも年を取りすぎていた。
二軍でさえ試合に出られず、自分がルーキーだった時代に産まれたような若手選手たちの中で、一人浮き上がったような日々を過ごす中で、男はいつからか、「前に進む闘志」を失いつつある自分を感じていた。
そんな折、球団からかかったこのひと声――
「来季はコーチとしてやってみないか?」
男に選択肢はなかった。
そして同時に、その決断は、「スポーツ選手」としての男の人生に幕を引くことになるのである…
男は一塁側の自軍ベンチとバッテリーを交互に見やり、慎重に、慎重に次の塁
――本塁の方向へ足を動かす。
捕手の方を向いたとき、偶然、そいつと視線が合ったような気がした。まずい!
長年の経験で培われた判断力が脳に危険信号を発信させ、男は慌ててもといた塁へ滑り込む。
次の瞬間、案の定、投手からの牽制球がやってきた。
「セーフ!」
塁審の声。
立ち上がった男は一塁側の観客席に頭を巡らし、そこにいるはずの家族――妻
と娘に、一瞬想いを巡らせた。
その男にとって、妻と娘――「若菜」「さくら」というのが彼女たちの名前で
あった――は、普通の男性であり、父親である者が感じる以上に「貴重な存在」
であった。
なぜならば、男は妻となった女性――若菜に出会うまで、「家族の愛情」をほ
とんど知らずに過ごしてきたからである。
男の本当の両親は、彼が2歳のときに亡くなり、その後は祖父母が引き取って
育てていたが、その祖父母も12歳のときに亡くなってしまい、それ以後――高校
を卒業してプロ入りするまでは――祖父母が住んでいた村の村長が引き取って育
てていた。
祖父母や村長夫婦が彼に注いでくれた「愛情」は、はたから見れば不足がない
ようにも見えたが、やはり心のどこかで、幾分遠慮をしながら過ごして来た日々
……。
男にとってのプロ野球とは、そうした過去からの脱却であり、また、自分の真
の「居場所」を見つける手段でもあったのだ。
若菜に出会ったのは、男がプロ入りしてから三年目の時であった。
当時の男は、まだ一軍と二軍を行ったり来たりのユーティリティ・プレイヤー。
そして、若菜はまだ17歳の女子高生であった。
都合4年にわたる大恋愛の末の結婚、そして生まれた愛娘・さくら……。
彼女たちは、男が自分の手でようやくつかんだ「真の居場所」であったのだ…。
(若菜……さくら……。
いまからの俺のプレーを、おまえたちの目にしっかり焼き付けておいてほしい
……。
この俺の「意地」を……。いまから、見せてやるからな……)
男は観客席にいるはずの彼女たちに、心の中でそう語りかけると、再び本塁の
方に鋭い視線を向ける。
もちろん、さっきと同じようにリードは保ったまま。
投手の投球。打者の手前で短くはねる。
捕手が後ろに逸らしてしまい、球はバックネット方向へ転がる。
今だ!
男は利き足で地面を蹴り、本塁へ向かって全力で駆け出す。
満員の観客席からは、歓声とも悲鳴ともつかない声が上がるが、男には聞こえ
ない。
本塁のベースが、手を伸ばせば届きそうに見えるところまで近づいてきた。
男は前傾姿勢を保ったまま、獣のようなおめき声を上げ、そこへ飛びこまんと
ばかりに滑り込む。
ようやく捕手から球を受け取った投手が、こちらへ倒れ込まんとばかりに覆い
被さって来る。
投手が覆い被さってきたことでブレーキがかかり、二人はもつれ合ったまま本
塁ベース上で停止。
この瞬間を見届けた審判の手が動く。
そして……。
その男には、意地があった………。
【Fin】