モロッコ

サハラは、何もない褐色の世界である
サハラ砂漠へ行った。

サハラは、アラビア語のサーラに由来する。
荒れ果てた、不毛の、という意味だという。

サハラ砂漠は、西サハラ、モーリタニアの大西洋岸から
東はエジプト、スーダンの紅海まで東西5000キロ、
北は地中海岸近くから、
南はセネガル、ニジェールあたりまで南北1500キロの
世界最大の砂漠である。
(何と日本の国土が30以上入ってしまう)

わたしが行ったサハラ砂漠は、
モロッコとアルジェリアにまたがる
メルズーカの大砂丘である。

はじめて砂漠を見たとき、何より驚いたのは、
一望の砂が赤い色をしていることだった。



カスバ街道のエルラシディアという町からバスで南下していくうちに
赤茶色の乾燥した大地が現れて来て、
サハラ砂漠に近づきつつあることがわかった。

メルズーカに到るまでに、いくつかの小さな、
土色の埃っぽい村とオアシスの緑を目にしたが
それらは一様にサハラの不気味な力に支配されていた。

赤茶色の町とナツメヤシの緑色が美しいエルフードの町から
ランドローバーに乗り換えて約30キロ走ると
メルズーガの大砂丘に入った。

ところで、砂漠といっても、砂丘が果てしなく続くのではなく、
低い木々がところどころ生えている土漠や
一面が礫ばかりの岩漠の方がむしろ一般的な風景である。

サハラの砂丘が連なる砂漠は、全体の一割強であるといわれる。



メルズーカの大砂丘は、褐色の、無の世界だった。
その底知れぬ「沈黙」は、不気味で、威圧されるようだった。

砂漠に見入っていると、
箱を抱えた少年がやって来て
声をかけてきた。

アンモナイトの化石を売ろうとしているようだった。
「ヤ・ス・イ  ヤ・ス・イ」と繰り返していた。
結局、ここも観光地なのだと思うと
急に砂漠の不気味さが失せていくようだった。

わたしは、そこから逃げるように、大砂丘に向かって歩いた。
靴の中に砂が入ってくるが、そんなことにはかまわず
風紋が残る砂の上をどんどん歩いていった。



ひとりになって歩いていると、
何かささやくような、かすかな音に気づいた。
立ち止まって、耳を澄ます。

砂だ。
砂が流れている。
乾燥しきった砂は、ただ流れ、
わたしのつけた足跡を、
丹念にひとつずつ消してゆく。

わたしはさらに歩き続けた。
砂の海を歩き続けることに感動していた。

砂漠の何よりの魅力は、
そこに何もないということだ。
あるものは、天と、砂と、自分だけ。
モロッコの大地を走るバスの旅
マラケシュからカスバ街道を通って、フェズまでバス旅行した。
マラケシュから高アトラス山脈に向かって南東に進んで行くと、
まわりはすぐに埃っぽい砂礫になり
やがてバスは険しい山道をどんどん登って行く。


  砂漠にはオアシスがあり、生活がある

高アトラス山脈を越える山道は、
岩だらけのくねくねした道で防護柵などないので、
ちょっとハンドルを切り損なうとたちまち谷底に転落してしまうだろう。

2度ほど、谷の急斜面の中ほどに、転がり落ちた車の残骸を見かけた。
こうした光景を目にしてしまうと、
対向車や、人や大きな荷物を載せたロバなどとすれちがうときに
山側の道ならのんびり眺めていられるが、
谷側の道の時は思わず緊張してしまう。



      高アトラス山脈の雪景色

モロッコは、砂漠気候と地中海性気候に大別できるが
モロッコの気候に変化を与えているのが
4000メートルを越すアトラス山脈だといわれる。

アトラス山脈の最高峰のトゥブカル山は標高4176メートル。
冬には雪が降る。



    広大な荒地にも人は住んでいる

高アトラス山脈を越えると、
なつめやしやオリ−ブの木のほかは広大な荒地になる。
この広大な荒地のなかの一本道を、バスはどこまでも走って行く。

カスバ街道の交通の要衝になっているエルラシディアという町から
南へ向かう道は圧巻である。
何処までも続くかに見えた平らな土砂漠が急変するのだった。
最初は窪みのように見えるのだが、やがて谷底がはるか下に見えて来て
なつめやしの緑が美しいオアシスがあるのだった。
川の流れも目についた。

バスが南の方へ走るにつれて、赤茶色の乾燥した世界が現れてくる。
サハラ砂漠の気配がひときわ現実味を帯びて来る。
この光景は、写真ではわからないし、
ましてや言葉ではなおさら言い表されない。

サハラは、5000年くらい前から、
徐々に乾燥して砂漠になったといわれるが
バスでこの道を走っていると、その様子をまざまざと目にすることとなる。
それはあたかも、5000年の時間を旅しているようだった。
マラケシュの死者たちの広場
モロッコのほぼ中央にあるマラケシュは、
すべての建物が赤い色をしているので
マラケシュ(赤い町)と呼ばれるようになった。

マラケシュは11世紀後半、
ベルベル人の最初のイスラム国家ムラビト朝によって開かれた。



マラケシュの中心にあるジャマ・エル・フナ広場は、
アラビア語で「死者たちの広場」で
かつてマラケシュを支配していた王たちが
この広場で公開処刑を行なっていたといわれる。



ジャマ・エル・フナ広場は、とにかくにぎやかだ。
雑沓する市、曲芸師や蛇使い、踊る人などのあらゆる大道芸人、
太鼓の音、笛の音、掛け声、見物人の笑い声、鼻をつく香辛料の匂い。

広場は、周辺の山岳地や砂漠からやって来た人々が
思い思いの商売や大道芸を繰り広げる大野外劇場である。



ジャマ・エル・フナ広場で一番魅了されたのは、
激しい回転運動を見せる踊りと太鼓と
ケルカバの哀調を帯びた音楽だった。

その激しいリズムの繰り返しに身を任せていると、
やがてそのリズムが私自身の心臓の脈動のように
体にしみわたってくるようだった。



彼らはグナワ族というそうだが、
グナワ族という部族は西アフリカの黒人のことで、
サトウキビ栽培のための労働力としての黒人奴隷として、
西アフリカからモロッコに売買されてきた部族の子孫だという。

この歌や踊りの根底には、
黒人奴隷としてマラケシュの地に連れて来られた
グナワ族の魂の物語が語られているのかもしれないと感じた。



わたしはジャマ・エル・フナ広場の一角にあるレストランの屋上で、
このモロッコ最大の野外劇場をいつまでも見下ろしていた。

いつの間にか夕日が広場を赤く染めていたが、
この広場を埋め尽くしてひしめく群集の中から発せられる叫び声や
太鼓やタンバリンや笛などの楽器が交じり合い、
広場全体がひとつの大きな心臓のように脈動しているようだった。

ジャマ・エル・フナ広場から夕日が退いていくにつれて、
群集はますます混沌とした熱気を発散させてきて、
そのとどろくような響きはひとつの歌となってわたしの内部に響いた。

マラケシュに行けばモロッコのすべてを見たことになる、といわれるが
その言葉の通り、わたしはすっかりマラケシュに魅せられていた。
                   
迷路に閉じ込められているもの
モロッコの多くの都市には、
城壁に囲まれた旧市街とその外に広がる新市街があり
旧市街は、メディナと呼ばれる。



メディナは、7世紀にアラブ人が北アフリカへ侵入してから建てられた。
城壁に囲まれ、住居やありとあらゆる店がびっしり立ち並び
道は狭く、複雑に入り組んで、そこは、まるで迷路のようだ。

狭い道の両側には、金銀細工、革製品、衣類、日用雑貨、肉食製品など
さまざまな小さな店がびっしりと並んでいる。
たいていの場合、衣類の店ごと、金銀細工の店ごとと
同業者が固まっているので(スークという)
通りごとに光景を独特なものにしている。



古都フェズは、808年にイドリス2世によって建設された。
世界でいちばん複雑といわれるフェズのメディナは、
古いフェズ・ル・バリと新しいフェズ・ル・ジェディドの2地区ある。

フェズ・ル・バリはフェズ川のほとりに造られ、
西岸には大臣や軍人が住み、東岸にはベルベル族が住みついたという。
フェズ・ル・ジェディドは、フェズがもっとも繁栄していた13世紀に
マリーン朝によって建てられたメディナで、王宮はここにある。



フェズ・ル・ジェディドの黄金色の門を持つ王宮から
道を隔てた反対側にメラー地区という一角がある。
14世紀末、スペイン全土で起こったユダヤ人に対する大迫害を逃れて、
多くのユダヤ人がフェズにも移住して来た。

そして、略奪で幾たびか生活を破壊されながらも、
スペインのユダヤ人街を手本にして
「メラー」と呼ばれるユダヤ人街を建設した。
モロッコに新しい技術やヨーロッパ文化、国際貿易などを広めて行ったのは、
この虐げられたスペイン系ユダヤ人であったといわれている。

15世紀末、今度はモロッコでユダヤ人に対する大迫害が起き、
メラー地区の住民はほとんど根絶やしにされたといわれている。

ユダヤ人に対する迫害は20世紀になっても変わらず、
1967年の第三次中東戦争時におけるポグロムでは、
ユダヤ人の人口は20万人から3万人に激減したといわれる。




フェズのメディナは、
道は狭く、右へ左へ曲がったりしていて、まったくの迷路だ。
砦のように固めた集落の中に、
無数の細い迷路が張りめぐらされている。複雑にいりくみ、
トンネルのように建物の中をくぐっている見通しのきかない通路は、
メディナがもともと敵の侵入に備えて造られているのだから、
外来者にとっては、迷路であっても当然だろう。


メディナでは、平日の昼間だというのに多くの子供たちを見かけた。
モロッコではどの都市でもそうでしたが、子供たちはわたしたちを見ると
「シノワ、シノワ」とはやしたて、空手のポーズをとるのだった。
「ノン、ヌ・ソン・ジャポネ」と応えると、今度は「ジュドー」と囃したてる。
こうした子供たちの姿は、実に子供らしい。

しかし、仕事をしている時の子供たちは、
(旅行中いたるところで子供の働く姿を見かけた。)
いわゆる子供のお手伝いというのではなく、大人のように働いている。
その時の子供たちの姿は、もはや子供のあどけなさはなく、
大人と仕事を分担しているという自信と誇りに満ちているようだった。
       


わたしはメディナの少年たちを見ているうちに、
彼らこそ日常生活のなかで生きる喜びを見出している人のように思われた。

この砦のようにかためた集落の中で生活している人々に比べて
おそらく、わたしははるかに多くの国を訪れているだろうが
そのことがいったいどれだけの人間としての価値を主張できるだろう?

わたしは、ガイド・ブックの案内や写真のとおりのものを、
自分の目でなぞったことに満足して、その旅を終える・・・
そして、また次の旅のことを考えているのだ。
モロッコ鉄道の旅
アフリカの西北端のモロッコを鉄道で旅をした。

長距離バスに比べると路線網は少ないが、
主要都市間にはかなり本数のある
鉄道が走っているので便利は良い。
              

     タンジェの鉄道駅は、港の傍

タンジェは、ヨーロッパへのモロッコの玄関口である。
8世紀には、タンジェを治めていた知事ターリクが、
ここからスペインに攻め入った。

因みに、ジブラルタル(アラビア語で、ターリクの山)とは
この知事の名に由来する。
タンジェから約二時間船に乗れば、ジブラルタルの岩山が見え、
そこはもうヨーロッパである。

    7:22           11:49       12:50
タンジェ・・・・・・・・・・・・・・・・・ラバト・・・・・・・・・・・・・・・カサブランカ

   港の入り口にあるカサブランカ・ポール駅

カサブランカは、人口250万人のモロッコ最大の都市。
古くはアンファと呼ばれていたが、
19世紀にスペイン商人らが住みつくようになり
スペイン語で「白い家」を意味するカサブランカと呼ばれるようになった。

       7:54      11:31
カサブランカ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マラケシュ

          マラケシュの駅


マラケシュはカサブランカの南約230キロにある。

マラケシュの街は、すべての建物が赤い色をしていて、
町を取り囲むようにオリーブやなつめやしの緑があり、
南には遠く高アトラス山脈(最高峰のトゥブカル山は4167メートル)
の白い雪山がある、美しいオアシスである。



    フェズの鉄道駅は新市街の北のはずれ


モロッコの古都フェズへは、
タンジェから列車で行くと途中駅で乗り換えが必要。
フェズ〜マラケシュ間は、鉄道ではカサブランカ経由で遠回りになるので
1日2本ある直通バスの方が便利、カスバ街道のバス旅も楽しめる。



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