◎『日本人のための宗教原論』議論用

最終更新日 2010/03/07

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◎『日本人のための宗教原論』用語事典

『日本人のための宗教原論』議論 過去ログその1

『日本人のための宗教原論』議論 過去ログその2

『日本人のための宗教原論』議論 過去ログその3

『日本人のための宗教原論』議論 過去ログその4


第7章日本人と宗教

☆小室直樹の意見

「仏教というのは、釈迦が定めたもうた「戒」を守る。それが仏教の根本ともいえる。唐招提寺を建立した鑑真和上(678〜763)が、千辛万苦をものともせず日本に渡来したのも、正しい戒を教えるためであった。それぐらい規範は仏教にとって大切である。ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。それこそが日本である。そのとんでもない犯人は誰か。それは誰あろう。伝教大師最澄(767〜822)である。しかも彼が作った比叡山、日本仏教の総本山の中の総本山のようになったが、その元祖開山が形式的な天台の円戒に、置き換えて、実質的に規範を全廃してしまったのだ。」 P359〜P360

ポイント 

@ 仏教において釈迦が定めた戒律を守るのは根本ともいえる。

A 日本はその大切な戒律を全廃してしまった国である。

B その犯人といえるのは伝教大師最澄である。彼の作った日本仏教の総本山、比叡山は今までの戒律を実質的に全廃してしまった。

☆おおくぼの意見(1)

提示の前に、古賀さんの質問に答えます。

1 「最澄が戒律を実質的に全廃した」という主張に対して「そうではない」という意見なのですか?

「そうではない」と思っています。
小室さんの主張も間違いとは言えないのですが、強引かつ単純化されすぎています。

 

2「最澄が戒律を実質的に全廃した」のを日本の特殊性と考えるのに反対なのですか?

反対です。
最澄が小室さん言うような日本的な人物には思えません。
簡略した戒律を作った=日本的な人物・・という主張には同意できません。
この小室さんの主張は論理的です。

ポイント

@ 最澄は戒律を実質的に全廃していない。

A 「最澄が戒律を実質的に全廃した」のを日本の特殊性と考えるのに反対である。

☆古賀の意見(1)

【おおくぼの意見(1)の@に対する反論】

私は最澄の
1 「具足戒」の「円戒」への置き換え
2 授戒の儀式の簡素化
は戒律の実質的撤廃だけど、日本の仏教全体に対する影響はこの時点ではまだ限定的だろうという意見なのですが。

おおくぼさんも「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律の実質的撤廃と考えているということでよろしいのですか?

ポイント

@ 最澄の行った1 「具足戒」の「円戒」への置き換え 2 授戒の儀式の簡素化は、戒律の実質的撤廃といえる。

☆おおくぼの意見(2)

【古賀の意見(1)に対する反論】

まず、小室直樹さんが「実質的撤廃」を、どういう意味でつかっているかが大事です。

私は、古賀さんと小室さんの「実質的撤廃」の意味が違うことを指摘した上で、小室さんの意味では同意できないとしました。

その論拠は、古賀さんが説得力を感じるかどうか別として、提示しました。

もう一度書くと・・・

最澄は、最澄は、(東大寺と比べて)簡略化した公務員試験を延暦寺に作っただけ。

そして小室さんの「実質的撤廃」=「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」

・・なので。

ゆえに最澄は、「仏教を否定」していないし、「釈迦の教えを否定」していない。

ポイント

@ 小室と古賀では「実質的撤廃」の意味が違う。小室は「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」の意味で使っている。

(おおくぼによる補足)

「小室と古賀では「実質的撤廃」の意味が違う」ということは、完全に違うということではなく、小室さんの方が広い意味で使っていることであり、古賀さんの「実質的撤廃」の意味も含んでいます。古賀さんは、「実質的撤廃」に「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」という意味を含めていないと思います。
また小室さんの主張で大事な点は、「最澄が仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」だと私は解釈しています。

A 最澄は、(東大寺と比べて)簡略化した公務員試験を延暦寺に作っただけである。

☆古賀の意見(2)

【おおくぼの意見(2)に対する反論】

小室先生は「戒律を撤廃する行為」が「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」という意見を持っているのであって、「実質的撤廃」を「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」という意味で使っているのではありません。
この2つは大きく違います。

あくまで「実質的撤廃」は「戒律を撤廃するのに等しい行為」の意味で使っています。

くり返しますが「実質的撤廃」と「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」はイコールでありません。私はそれを分けて考えていますし、分けて論じるべきです。

だからおおくぼさんの意見は最澄のやったことが「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」についての反論であって、「実質的撤廃」であることについての反論ではありません。「実質的撤廃」でありながら「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」ではないこともありえます。

もう1度質問をくり返します。小室先生は「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと考えています。私もそう考えます。おおくぼさんは「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと思いますか?

ポイント

@ 小室と古賀は双方とも「実質的撤廃」を「戒律を撤廃するのに等しい行為」の意味で使っている。「戒律の実質的撤廃」と「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」は分けて考えるべきである。この2つは繋がりがあるが完全にイコールではない。

A      小室と古賀は双方とも「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は「実質的撤廃」だと考えている。

☆おおくぼの意見(3)

【古賀の意見(2)に対する反論】

古賀さんの質問に答える以前に、私には古賀さんの質問の意味がよくわかりません。

>この2つは大きく違います。
あくまで「実質的撤廃」は「戒律を撤廃するのに等しい行為」の意味で使っています。

違いが、よくわかりません。

>くり返しますが「実質的撤廃」と「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」はイコールでありません。私はそれを分けて考えていますし、分けて論じるべきです。

私の解釈では、小室さんはイコールで使っていると思います。
これは三段論法です。
A=B
B=C
ゆえにA=C

>もう1度質問をくり返します。小室先生は「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと考えています。

では、何故、「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が、「戒律を撤廃するのに等しい行為」なのでしょうか?

ここを明快にする必要があります。
従来のルールを変更したからと言って、そのことを「戒律を撤廃するのに等しい行為」と断言するには根拠が必要です。

例えば、最澄は東大寺の戒律は小乗戒で、自分の大乗戒だと主張しています。
これは、日本には大乗の受戒制度がないから、延暦寺に作る必要があるという主張です。

そして延暦寺の受戒制度は、中国では認めてもらえませんでした。
だから、当時の中国に留学する僧は、東大寺で受戒したということにして、留学したのです。
だから延暦寺の受戒制度と東大寺の受戒制度は、併存したのです。

また天台宗の密教僧は、三井寺(園城寺)で修行しましたが、受戒は延暦寺ではなく、東大寺でするのが慣例でした。

ポイント

@ 小室は「実質的撤廃」と「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」をイコールで使っている。

A 「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が「戒律を撤廃するのに等しい行為」と断言するには根拠が必要である。

☆古賀の意見(3)

【おおくぼの意見(3)に対する反論】

(1)

>この2つは大きく違います。
あくまで「実質的撤廃」は「戒律を撤廃するのに等しい行為」の意味で使っています。

違いが、よくわかりません。

「違いが,よくわかりません」というのが,何と何の違いがわからないのかわかりません。きちんと説明をお願いします。

 

(2)

>くり返しますが「実質的撤廃」と「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」はイコールでありません。私はそれを分けて考えていますし、分けて論じるべきです。

私の解釈では、小室さんはイコールで使っていると思います。
これは三段論法です。
A=B
B=C
ゆえにA=C

そうですか。それでは三段論法で説明してください。
あたり前ですがいくら三段論法になってもAやBの定義が正しいのかという問題が残ります。
三段論法の形にしてから,AやBの定義が正しいことをきちんと説明してください。

 

(3)

>もう1度質問をくり返します。小室先生は「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと考えています。

では、何故、「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が、「戒律を撤廃するのに等しい行為」なのでしょうか?

ここを明快にする必要があります。
従来のルールを変更したからと言って、そのことを「戒律を撤廃するのに等しい行為」と断言するには根拠が必要です。

おおくぼさんの答をお聞きしているのです。
こちらの質問と「では、何故、「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が、「戒律を撤廃するのに等しい行為」なのでしょうか?」という質問との関係がわかりません。こちらが根拠を提示しなければおおくぼさんは答えられないという趣旨ですか?

私は現時点でのお互いの意見の一致点を明らかにするために確認しているのです。「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が、「戒律を撤廃するのに等しい行為」と断言しているわけではありません。一致しているのならとりあえずそれを前提に議論をすすめられるからです。

答えられないのなら答えられないでかまいませんから,なぜ答えられないかについてきちんと説明をお願いします。

 

(4)


例えば、最澄は東大寺の戒律は小乗戒で、自分の大乗戒だと主張しています。
これは、日本には大乗の受戒制度がないから、延暦寺に作る必要があるという主張です。

そして延暦寺の受戒制度は、中国では認めてもらえませんでした。
だから、当時の中国に留学する僧は、東大寺で受戒したということにして、留学したのです。
だから延暦寺の受戒制度と東大寺の受戒制度は、併存したのです。

また天台宗の密教僧は、三井寺(園城寺)で修行しましたが、受戒は延暦寺ではなく、東大寺でするのが慣例でした。

「例えば」というからには、これは単に断言するのには根拠が必要な例として書かれているのですか?何かの主張に対する根拠なのか違うのか良くわかりません。きちんと説明をお願いします。

ポイント

@ 小室にとって「実質的撤廃」と「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」がイコールだというのならきちんと証明してほしい。

A 「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が「戒律を撤廃するのに等しい行為」かどうかについて根拠なく断言しているのではない。これは意見が一致するどうか確認する趣旨の質問である。意見が一致するどうか確認したいので答えてもらいたい。

☆おおくぼの意見(4)

【古賀の意見(3)に対する反論】

>もう1度質問をくり返します。小室先生は「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと考えています。私もそう考えます。おおくぼさんは「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと思いますか?

私は、そうは思いません。
また私の解釈では、小室さんにとって、「最澄が新しい受戒制度を作ったこと」は、「最澄が戒律を廃止したこと」の一例として明示していると思います。
だから、小室さんは受戒制度に限定はしてはいないと思います。

私が何故、そう思わないかを説明します。
最澄は、新しい戒律を作っただけです。

最澄は、戒律を10にしています。
これは五戒よりも多いです。

受戒の立会人は、10人から1人に減らしています。
これは小室さんから見れば、簡素化です。
でも、私には簡素化とは思えません。
有名無実な10人の僧侶よりも、実のある僧侶一人の方がいいという考えです。

具足戒の250の戒律ですが、これは円戒では無視されています。
その代わり最澄は、受戒が終わった後に比叡山で12年間の修行を命じています。
最澄は、修行のための細かいルールをたくさん作っています。

親鸞は戒律を廃止しましたが、最澄は新しい戒律を作ったのです。
だから戒律に関しては、親鸞と最澄は逆なのです。

ちなみに禅宗も戒律を変更して、清規と呼んでいます。
最澄は、中国の禅宗を真似したと考えることもできます。

ポイント

@ 「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が「戒律を撤廃するのに等しい行為」だと思わない。最澄は新しい戒律を作ったのであって、親鸞のように戒律を廃止したのではない。

☆古賀の意見(4)

【おおくぼの意見(4)に対する反論】

↑の「☆小室直樹の意見」を読んでいただければわかるとおり小室先生は「釈迦が定めたもうた」という点を強調しています。小室先生の意見ではたとえ戒律があっても修行の規則が厳しくても「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化してしまえば「実質的撤廃」と考えるのだと思われます。
だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?

ポイント

@      小室の考えでは「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化してしまえばたとえ戒律があっても「実質的撤廃」といえる。

☆おおくぼの意見(5)

【古賀の意見(4)に対する反論】

>だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?

この点は小室さんの矛盾だと思っています。
小室さんは「本来の仏教」の定義をしていません。
なのに、この場合は、法顕が出てくるので、「釈迦が定めたもうた戒律」とは「原始仏教」だと思うのです。
法顕は、原始仏教の復興を目指しました。

『日本人のための宗教原論』の第七章、「日本人と宗教」は・・・


日本で仏教がなぜ栄えたかのかというと、日本教に変化して戒律をみんな取り払ってしまったからであろう。
儒教も、日本に入ってきたら戒律をみんな取り払われてしまった。
351
ページ

・・・と書いてあります。
そして儒教の例が説明してあります。


「私のお袋は私の足を洗っているときに最大の幸福を感じているのです。
だから足を洗わせるのが親孝行でございます。」
これと同じ主旨の話が落語になって残っている。
お前は親のいうことを聴かないで心配ばかりかけているのは親不孝じゃないかといったら、そうじゃありません。
適当に心配かけないと、親は安心して死んでしまいます。
こんな屁理屈が通るのも、規範、基準がなければこその話なのである。
352
ページ

第三章の「神の命令のみに生きる【キリスト教】」に、どうしてキリスト教に規範(戒律、倫理道徳)ないかの説明があります。


ここでいう規範とは、守ったか破ったかが一目でわかる規範のことである。
内面的行動は守ったか破ったが全く明らかではない。
外面的行動についての正確なルールがはっきりしており、守ったのか破ったのかが一義的に決まらないと、規範としては困るのだ。
114
ページ


だから、小室直樹さんの定義では、「戒律の廃止」は、「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」なのです。

そうすると、最澄と親鸞は、この定義には入りません。
東大寺で、10人の有資格僧の前で、250の戒律を守ると誓った出家僧が、戒律を建て前でしか守らないことに、最澄は不満だったので、新しい未来の日本を担う僧のために、新しい戒律を作ったのです。

そして親鸞は戒律を重視していたからこそ、戒律を廃止すると宣言したのです。

最澄の行為は、「日本教」に対する反発なのあり、親鸞の行為は、親鸞が「日本教」の信者でない証拠なのです。

ポイント

@ 小室の主張には矛盾がある。

A 小室の定義では、「戒律の廃止」は、「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」であり、最澄と親鸞は、この定義に入らない。

B 最澄の行為は、「日本教」に対する反発であり、親鸞の行為は、親鸞が「日本教」の信者でない証拠である。

☆古賀の意見(5)

【おおくぼの意見(5)に対する反論】


だから、小室直樹さんの定義では、「戒律の廃止」は、「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」なのです。

ここまでは賛同するかどうかはともかくとして理解できますが。


そうすると、最澄と親鸞は、この定義には入りません。
東大寺で、10人の有資格僧の前で、250の戒律を守ると誓った出家僧が、戒律を建て前でしか守らないことに、最澄は不満だったので、新しい未来の日本を担う僧のために、新しい戒律を作ったのです。

そして親鸞は戒律を重視していたからこそ、戒律を廃止すると宣言したのです。

おおくぼさんの論理はいつも自分だけが理解できる前提によっておしすすめられています。なぜそういう結論になるのか私にはさっぱりわかりません。もっときちんと説明をお願いします。

おおくぼさんからの補足説明を待ってコメントしたいと思います。


最澄の行為は、「日本教」に対する反発なのあり、親鸞の行為は、親鸞が「日本教」の信者でない証拠なのです。

「日本教」について、まだ我々は前提を共有していません。おおくぼさんにここで「日本教」を持ち出されてもそれがどんなものかこちらにはわからないので賛成も反対もできません。もちろん私は「日本教」についての考えはもっていますが、それがおおくぼさんと一致しているとは限りません。

現時点ではこの主張は無意味な断定だと思われます。

ポイント

@ 「日本教」についてまだ我々は前提を共有していないので、最澄の行為が「日本教」に対する反発で、親鸞の行為が「日本教」の信者でない証拠なのか賛成も反対もできない。

☆古賀の意見(6)

【おおくぼの意見(5)に対する反論】


>だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?

この点は小室さんの矛盾だと思っています。
小室さんは「本来の仏教」の定義をしていません。
なのに、この場合は、法顕が出てくるので、「釈迦が定めたもうた戒律」とは「原始仏教」だと思うのです。

この部分を小室先生が小乗仏教(原始仏教含む)と大乗仏教をごっちゃにして論じていることを指摘しているのかと思いましたが、おおくぼさんが言われているのはどうもそういう意味ではないようです。

はっきり言ってこの文章も意味不明です。

(1)
矛盾というからには『日本人のための宗教原論』の中での小室先生のAという主張とBという主張が一致しないからおかしいという趣旨なのではないかと思われます。Aが何でBが何なのかきちんと説明をお願いします。

(2)
またそれが「だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?」という私の質問にどうかかわってくるのかきちんと説明をお願いします。

前のコメント欄での質問ももっとわかりやすくこちらにまとめておきます。

(3)
なぜ「戒律の廃止」が「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」になるのかきちんと説明をお願いします。

(4)
なぜ最澄と親鸞は、この定義には入らないのかきちんと説明をお願いします。

(5)
「親鸞は戒律を重視していたからこそ、戒律を廃止すると宣言した」という論理が良くわかりません。説明をお願いします。

以上5点について説明よろしくお願いします。

ポイント

@      おおくぼの意見(5)について補足説明をしてほしい。

☆おおくぼの意見(6)

【古賀の意見(5)(6)に対する反論】

1番目と2番目の質問に対する説明は、後日コメントします。



(3)
なぜ「戒律の廃止」が「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」になるのかきちんと説明をお願いします。

3番目の質問に関しては、「小室直樹の定義する日本教」と「小室直樹の定義する戒律」の意味を共有しないと、すれ違いになると思うのです。

>(4)
なぜ最澄と親鸞は、この定義には入らないのかきちんと説明をお願いします。

・・・の「最澄が定義に入らない理由の説明」は、3番目と同じく、「小室直樹の定義する日本教」と「小室直樹の定義する戒律」の意味を共有しないと、すれ違いになると思います。

ポイント

@ 古賀の質問(3)と(4)については「小室直樹の定義する日本教」と「小室直樹の定義する戒律」の意味を共有しないとすれ違いになる

☆おおくぼの意見(7)

【古賀の意見(5)(6)に対する反論】

私の理解する「小室直樹の仏教説」をまとめてみました。

http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/9160943.html#more

重要なポイントは、仏教とは「科学に近い」です。


(1)
矛盾というからには『日本人のための宗教原論』の中での小室先生のAという主張とBという主張が一致しないからおかしいという趣旨なのではないかと思われます。Aが何でBが何なのかきちんと説明をお願いします。


主張Aが「仏教は科学に近い」で、主張Bが「原始仏教が絶対」です。
詳しい説明は、(2)の回答を読んで下さい。


(2)
またそれが「だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?」という私の質問にどうかかわってくるのかきちんと説明をお願いします。

私の理解する小室説は・・・
1
 仏教は科学に近い。
2
 戒律は、悟りを開くための手段である。

だから、古賀さんの言う<「釈迦が定めた戒律」から大きく変化していること>の意味が重要です。

戒律が「悟りを開くための手段」でなくなれば、「私の理解する小室説の戒律」ではなくなります。

「私の理解する小室説の戒律」では、戒律は絶対ではなく、変更可能です。
重要な点は、「悟りを開くための手段」なのです。
仏教は、「悟りを開くための手段」を、科学のように研究して、発明しているのです。
「釈迦の決めた戒律」よりも、効率よく「悟りを開ける手段」を発明できることは、仏教にとってはいいことなのです。
だから、釈迦の決めた戒律と違ってもいいのです。

注:(2)の回答の主張は、あくまで、「私の理解する小室説」です。

 

ポイント

@ 古賀の質問(1)について。小室の「仏教は科学に近い」という主張と「原始仏教が絶対」という主張は矛盾する。

A 古賀の質問(2)について。<「釈迦が定めた戒律」から大きく変化していること>の意味が重要になる。小室説によれば、「戒律」は「悟りを開くための手段」なので絶対ではなく、変更可能である。

☆古賀の意見(7)

【おおくぼの意見(6)(7)に対する反論】



(1)
矛盾というからには『日本人のための宗教原論』の中での小室先生のAという主張とBという主張が一致しないからおかしいという趣旨なのではないかと思われます。Aが何でBが何なのかきちんと説明をお願いします。

主張Aが「仏教は科学に近い」で、主張Bが「原始仏教が絶対」です。

これは小室先生の主張のどことどこが矛盾しているかという意味ですので、AとBにあたるのが具体的に著作のどこの部分なのかをあげていただけますでしょうか。

ポイント

@      小室の主張A「仏教は科学に近い」と主張B「原始仏教が絶対」は、具体的に著作のどこの部分にあたるのか。

☆おおくぼの意見(8)

【古賀の意見(7)に対する反論】

小室直樹さんは「原始仏教が絶対」という表現はしていません。
けれど、そのように解釈できる部分があります。


何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。

『日本人のためのイスラム原論』
91
ページ

「仏教は科学に近い」は・・・

>読者の大多数は、仏教のことを「釈迦の教え」であると考えているだろう。
しかし、これは大きな誤解である。
たしかに仏教は釈迦をもって創始者とする。
しかし、仏教の教えは釈迦が考案したものではない。
ここが理解のポイントである。
では、仏教とはいったい誰の教えなのか。
【答え】誰の教えでもない。
仏教は思想ではない。
それはむしろ科学に近い。

『日本人のためのイスラム原論』
77
ページ

ポイント

@ 小室は「原始仏教が絶対」という表現はしていないが、そのように解釈できる部分はある。

☆古賀の意見(8)

【おおくぼの意見(8)に対する反論】

そしてもう1つ

(a)仏教は思想ではない。
それはむしろ科学に近い。

(A)「仏教は科学に近い」
の根拠にするのは理解できますが

(b)何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。

(B)「原始仏教が絶対」
の根拠にするのは無理がありすぎるでしょう。

小室先生のもともとの主張
(a)しかし、仏教の教えは釈迦が考案したものではない。仏教は思想ではない。それはむしろ科学に近い。

(b)何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。
の(a)と(b)自体は特に矛盾していないと思われます。

(b)と(B)をつなぐロジックが不十分すぎます。

ポイント

@ 記述(b)「何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ」と主張(B)「原始仏教が絶対」は直接にはつながらない。小室がそういう主張をしているというなら、(b)と(B)をつなぐロジックをもっと明確にするべき。

☆おおくぼの意見(9)

【古賀の意見(8)に対する反論】

>(b)と(B)をつなぐロジックが不十分すぎます。

そうですね。

具足戒は、釈迦が示したものです。
けれど、悟りを開く正しい方法は、それだけには限定されていません。

比較 1

何度も言うように、仏教において戒律とは単なるルールではない。
悟りを開く修行の一環として戒律は存在する。
その戒律を無視して悟りを得ることは望めない。
しかも、戒を定めたのは釈迦に他ならない。
ところが、その戒律を最澄は、改定するどころか、実質的に廃止してしまったのだ。
これは仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為である。
『日本人のためのイスラム原論』94ページ


釈迦の定めた戒律を「小室さんの意味で)廃止」すると、「仏教を否定し」、「釈迦の教えを否定する」に等しい行為になるといことは・・・
小室さんは、釈迦の定めた戒律を、悟りのための絶対条件にしていると思います。

けれど、前に議論した維摩居士の箇所は・・


比較 2

日本では、南無阿弥陀と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならないように、イスラム教徒が経典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
『日本人のための宗教原論』200ページ

・・・と書いてあります。

「小室さんの最澄の戒律廃止」の意味には、二つの意味があると思います。

1 最澄が、釈迦の定めた戒律を変更したこと

2 最澄が、外面的行動に関する規範を無くしたこと

☆古賀の意見(9)

【おおくぼの意見(9)に対する反論】

まず1つ
私は
(b)何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。

(B)「原始仏教が絶対」
の根拠にするのは無理がありすぎるように思えるので、補足説明をしてくださいと言っているのです。

不必要かつ無駄な饒舌はいりません。簡潔かつ明瞭にきちんと整理して説明してください。
私にはおおくぼさんの主張が混乱していてまとまりがないために、きちんと説明ができていないように思えます。

もう1度言います。
なぜ(b)「戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。」という小室先生の主張が、(B)「原始仏教が絶対」と主張したことになるのか。この2つは全く別のものです。

誤魔化しではなく(b)からこうすれば(B)という結論を導き出せるという説明をお願いします。

ポイント

@      基本的には☆古賀の意見(8)の繰り返し。(b)「何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ」という記述から(B)「原始仏教が絶対」という主張が導き出せるというなら、簡潔かつ明瞭にきちんと整理して説明してほしい。

☆おおくぼの意見(10)

【古賀の意見(9)に対する反論】

比較1

>仏教というのは、釈迦が定めたもうた「戒」を守る。
それが、仏教の根本ともいえる。
『日本人のための宗教原論』359ページ

比較 2

日本では、南無阿弥陀と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならないように、イスラム教徒が経典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
『日本人のための宗教原論』200ページ

1の記述の方の「守る」を絶対と考えれば、矛盾です。

ポイント

@ 『日本人のための宗教原論』359ページに書かれた「仏教というのは、釈迦が定めたもうた「戒」を守る。」の「守る」を絶対と考えれば、小室の主張は矛盾している。

☆おおくぼの意見(11)

【古賀の意見(9)に対する反論】

>もう1度言います。
なぜ(b)「戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。」という小室先生の主張が、(B)「原始仏教が絶対」と主張したことになるのか。この2つは全く別のものです。
誤魔化しではなく(b)からこうすれば(B)という結論を導き出せるという説明をお願いします。

前のコメントでは、「原始仏教が絶対」という表現を小室さんが使っていないと断った上で、引用しています。
私の「原始仏教が絶対」を別の表現にすれば、「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」になります。
引用した「「戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。」の後の文章は・・・


戒律を守るというのは、釈迦の教えに従うことに他ならない。
したがって、この受戒の儀式を行って戒律を守ることを近っていなければ、それはインチキ坊主であり、正式の修行者とは認められないのである。

・・・と続きます。

ポイント

@ (B)「原始仏教が絶対」を別の表現にすれば、「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」になる。

☆おおくぼの意見(12)

【古賀の意見(9)に対する反論】

古賀さんのコメント ↓

>小室先生の意見ではたとえ戒律があっても修行の規則が厳しくても「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化してしまえば「実質的撤廃」と考えるのだと思われます。
だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?


第七章の天台本覚論についての記述に関しては、その解釈に同意します。

小室さん文章 ↓

>仏教の根本には、悟りをひらくためには迷いを絶たなければならない、という考えがある。
それが仏教的な考えであり、そのために仏教の坊主というのは苦心惨憺する。
ところで天台本覚論というのはどういう教えかというと、迷ったままで成仏できる、という、本来の仏教とはかけ離れたものだった。

(小室さんの考える)仏教の根本 → 「迷いを絶たなければならない」

(小室さんの考える)天台本覚論 → 「迷ったままで成仏できる」

ゆえに、「迷ったままで成仏できる」という思想の成立を「「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化した」と考えることができます。

この場合は、最澄の「円戒の置き換え」には、該当しないと思います。
最澄の「円戒の置き換え」は、天台本覚論を生み出す原因になったかもしれませんが、「迷ったまま成仏できる」という思想には該当しません。

また「法然、法然、日蓮」についても、該当するかどうか不明です。

だから、小室直樹さんが何を基準に「「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化した」と判断しているかが重要です。

(追加)

上のコメントを一部訂正します。

>この場合は、最澄の「円戒の置き換え」には、該当しないと思います。

   ↓

>この場合は、最澄の「円戒の置き換え」には、該当するかどうか不明です。

ポイント

@ 天台本覚論の「迷ったままで成仏できる」という思想の成立を「「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化した」と考えることができる。

☆古賀の意見(10)

【おおくぼの意見(10)(11)(12)に対する反論】

そしてもう1つ


私の「原始仏教が絶対」を別の表現にすれば、「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」になります。

それでは
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「原始仏教が絶対」
ではなく
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」
の2つが矛盾するということでよろしいのですか?

矛盾するということは(A)と(B)の2つが両立する場合があるのなら、おおくぼさんの主張はおかしいということですよ。

そしてもう1つ


1
の記述の方の「守る」を絶対と考えれば、矛盾です。

比較1は(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」と同じ主張と考えられますが、比較2は(A)「仏教は科学に近い」と異なるように思えます。

比較2は新たな主張(C)「仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。」で、それが(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」と矛盾するということでよろしいですか?
それとも比較2は(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)「仏教は科学に近い」と(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の間ということですか?

最後にもう1つ


古賀さんのコメント ↓
>小室先生の意見ではたとえ戒律があっても修行の規則が厳しくても「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化してしまえば「実質的撤廃」と考えるのだと思われます。
だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?

第七章の天台本覚論についての記述に関しては、その解釈に同意します。

天台本覚論は「迷ったままで成仏できる」という「教え」であって「戒律」ではありません。

戒律が変化しても教えが変化しないこともありうるし、その逆もありえます。おおくぼさんは「戒律」と「教え」を明確に分けていないように感じますが、それは「戒律」と「教え」を明確に分ける必要はないという考えからでしょうか。それとも小室先生が「戒律」と「教え」を明確に分けていないと考えているからでしょうか。

ポイント

@      小室の主張の矛盾とは、(A)「仏教は科学に近い」と(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の2つの主張の矛盾ということでいいのか?

A      ☆おおくぼの意見(10)比較2の説明は、新たな主張(C)「仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。」と(B)の主張「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の2つが矛盾するということなのか。それとも(C)はあくまで(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)と(B)の間なのか?

B      天台本覚論は「迷ったままで成仏できる」という「教え」であって「戒律」ではないのではないか。おおくぼが「戒律」と「教え」を明確に分けていないのは、おおくぼ自身が「戒律」と「教え」を明確に分ける必要はないと考えているからなのか。それとも小室が「戒律」と「教え」を明確に分けていないと考えているからなのか。

☆おおくぼの意見(13)

【古賀の意見(10)に対する反論】


戒律が変化しても教えが変化しないこともありうるし、その逆もありえます。おおくぼさんは「戒律」と「教え」を明確に分けていないように感じますが、それは「戒律」と「教え」を明確に分ける必要はないという考えからでしょうか。それとも小室先生が「戒律」と「教え」を明確に分けていないと考えているからでしょうか。

この場合は、小室さんが「規範全廃の思想」として、セットで考えていると判断したからです。

小室さんの文章 ↓

>最澄が始めた規範全廃の思想を完成させたのが、実は、法然、親鸞、また別なところで日蓮といった仏教革命者たちであった。

だから・・

1 最澄が「形式的な天台の円戒に置き換え」

2 「比叡山延暦寺でこの天台本学論というものが発達した」

3 専修念仏だけで十分

・・・・の3つが1セットと解釈しました。

3に関しては・・・

>まず、異端だというのはどういうことかというと、本来の仏教では大変な修行を要求する。
そのうえ、善行、善果の積み上げをやりなさいともいう。
それから学問も重要ですよ、とこういうことをいっている。

ゆえに、3は、2とは別の理由で、「(小室説)の本来の仏教」ではありません。

そして1は、どういう理由で、「(小室説)の本来の仏教」ではないかが明確ではありません。

360ページの

>ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。
それこそが日本である。
その、とんでもない犯人は誰か。
それは誰であろう、伝教大師最澄である。
しかも彼が作った比叡山、日本仏教の総本山の中の総本山のようになったが、その元祖開山が形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまったのだ。

最後の文章の「形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまった」は、複数の解釈ができると思うのです。

補足資料として『日本人のためのイスラム原論』に目を向ければ、「天台の円戒に置き換え」についての詳しい記述があります。
けれど、『日本人のためのイスラム原論』の記述は、複数の意味で説明をしています。
そうすると、「形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまった」についての正しい解釈は、複数あることになります。

ポイント

@    小室が「規範全廃の思想」として、天台本覚論と戒律をセットで考えていると判断した。

A    「形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまった」についての正しい解釈は、複数ある。

☆古賀の意見(11)

【おおくぼの意見(13)に対する反論】


この場合は、小室さんが「規範全廃の思想」として、セットで考えていると判断したからです。

小室先生が「戒律」と「教え」を明確に分けていないと考えているということでよろしいですね。

あとは


それでは
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「原始仏教が絶対」
ではなく
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」
の2つが矛盾するということでよろしいのですか?


比較2は新たな主張(C)「仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。」で、それが(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」と矛盾するということでよろしいですか?
それとも比較2は(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)「仏教は科学に近い」と(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の間ということですか?

に回答お願いします。

ポイント

@ ☆おおくぼの意見(10)比較2の説明は、新たな主張(C)「仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。」と(B)の主張「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の2つが矛盾するということなのか。それとも(C)はあくまで(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)と(B)の間なのか?

(注:@は☆古賀の意見(10)の質問の繰り返し)

☆おおくぼの意見(14)

【古賀の意見(11)に対する反論】

小室さんの「本来の仏教」の矛盾とは・・・・

A 釈迦の決めた戒律は変えてはいけない。

B 釈迦の決めた戒律を変えていい。

でも私にとって小室さんの最澄の記述に関しての、この小室さんの矛盾は、二次的な矛盾であり、重要な矛盾ではありません。
無視して構わない矛盾です。

私にとって無視できない矛盾とは、親鸞は「(私の解釈する)小室さんの定義の戒律廃止」をしていないということなのです。

ややこしいのですが、親鸞は戒律を本当に廃止することによって、「小室さんの定義の戒律廃止」をしなかったということが、私の主張です。

A 最澄は、「小室さんの定義する戒律廃止」をした。

B 親鸞は、「小室さんの定義する戒律廃止」はしていなかった。

だから、最澄と親鸞の両方共に戒律を廃止したと主張するのは矛盾。

ポイント

@      小室の「本来の仏教」の矛盾とは、(A 釈迦の決めた戒律は変えてはいけない。)と(B 釈迦の決めた戒律を変えていい。)の両説の矛盾である。

この両説の矛盾は、二次的な矛盾であり、重要な矛盾ではない。

A (A 最澄は、「小室の定義する戒律廃止」をした。)と(B 親鸞は、「小室の定義する戒律廃止」はしていなかった。)の両説も矛盾する。

この両説の矛盾は、無視できない矛盾である。

☆古賀の意見(12)

【おおくぼの意見(14)に対する反論】


小室さんの「本来の仏教」の矛盾とは・・・・

A 釈迦の決めた戒律は変えてはいけない。

B 釈迦の決めた戒律を変えていい。

でも私にとって小室さんの最澄の記述に関しての、この小室さんの矛盾は、二次的な矛盾であり、重要な矛盾ではありません。
無視して構わない矛盾です。

私にとって無視できない矛盾とは、親鸞は「(私の解釈する)小室さんの定義の戒律廃止」をしていないということなのです。

ややこしいのですが、親鸞は戒律を本当に廃止することによって、「小室さんの定義の戒律廃止」をしなかったということが、私の主張です。

A 最澄は、「小室さんの定義する戒律廃止」をした。

B 親鸞は、「小室さんの定義する戒律廃止」はしていなかった。

だから、最澄と親鸞の両方共に戒律を廃止したと主張するのは矛盾。

第7章における小室先生の矛盾する主張を(A)と(B)という形で明確にしてほしいと言っているのですよ。この場合のABは矛盾しているわけではありませんね。

しかもこれは



それでは
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「原始仏教が絶対」
ではなく
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」
の2つが矛盾するということでよろしいのですか?



比較2は新たな主張(C)「仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。」で、それが(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」と矛盾するということでよろしいですか?
それとも比較2は(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)「仏教は科学に近い」と(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の間ということですか?

という私の質問に答えたものにもなっていません。このようにその時その時で適切な回答や反論をせず、自分が言いたいことばかり言うから議論が混乱するのです。

なぜ議論の前提となるべき「小室先生の(A)という主張と(B)という主張が矛盾している」というおおくぼさんの説明がこれほどまでに混乱していて明確でないのか不思議です。おおくぼさんが言い出したことですよ?

自分の主張(この場合は「小室先生の(A)という主張と(B)という主張の矛盾」)を明確にすることは議論のイロハのイです。そんな単純なこともできないのに、どうしてきちんとした議論ができるでしょう。前提から間違ってます。

再度私の質問にきちんと答え、(A)と(B)を明確にするよう求めます。

ポイント

@ (A 最澄は、「小室の定義する戒律廃止」をした。)と(B 親鸞は、「小室の定義する戒律廃止」はしていなかった。)の2つの説は矛盾するわけではない。

A ☆おおくぼの意見(10)比較2の説明は、新たな主張(C)「仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。」と(B)の主張「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の2つが矛盾するということなのか。それとも(C)はあくまで(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)と(B)の間なのか?

(注:Aは☆古賀の意見(10)の質問の繰り返し)

B 「小室の主張((A)と(B))が矛盾している」というのはおおくぼが(注:☆おおくぼの意見(5)+☆おおくぼの意見(6))言い出したことである。議論の前提となることなので明確にしてほしい。

☆おおくぼの意見(15)

【古賀の意見(12)に対する反論】

私が小室さんの矛盾だと考えているのは・・

A 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。

B 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです。

ABは矛盾です。
小室さんの公理は、仏教は「法前仏後」であり、法に沿っていれば、戒律は変更してもいいということです。
仏教に正典がないのも、その理由からです。
仏教が「科学に近い」という主張も、「法前仏後」だからです。
これは、あくまで私の解釈する小室説の仏教です。

ポイント

@ 小室の主張する(A 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。)と(B 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです。)は矛盾する。

A 仏教は「法前仏後」であり、法に沿っていれば、戒律は変更してもいいと解釈している。

☆古賀の意見(13)

【おおくぼの意見(15)に対する反論】


私が小室さんの矛盾だと考えているのは・・

A 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。

B 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです。

具体的にAの主張とBの主張は『日本人のための宗教原論』のどこに書かれているのですか?


小室さんの公理は、仏教は「法前仏後」であり、法に沿っていれば、戒律は変更してもいいということです。
仏教に正典がないのも、その理由からです。
仏教が「科学に近い」という主張も、「法前仏後」だからです。
これは、あくまで私の解釈する小室説の仏教です。

このへんの説明は現時点では不必要です。(A)と(B)が明確になってからでないと議論が混乱します。すでにここでのおおくぼさんの主張にはおかしな点がありますが今は深入りしません。まず主張を明確にすることが先決です。

その時点での議論の進行に合わない主張はいくらおおくぼさんが言ったつもりになっていても私はスルーします。ちゃんと段階をおって提出してください。

ポイント

@      小室が矛盾する2つの説(A 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。)と(B 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです。)を主張しているというなら、AとBの根拠となる記述は『日本人のための宗教原論』のどこに書かれているのか明らかにしてほしい。

A 「仏教は「法前仏後」であり、法に沿っていれば、戒律は変更してもいい」と小室が主張していると解釈できるかについての議論は、AとBを明確にしてからでないとできない。まず主張を明確にしてから提出すべき。

☆おおくぼの意見(16)

【古賀の意見(13)に対する反論】

私が小室さんの矛盾だと考えているのは・・

A 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。

B 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです。

ABは矛盾です。
小室さんの公理は、仏教は「法前仏後」であり、法に沿っていれば、戒律は変更してもいいということです。
仏教に正典がないのも、その理由からです。
仏教が「科学に近い」という主張も、「法前仏後」だからです。
これは、あくまで私の解釈する小室説の仏教です。

小室さんの文章 ↓


仏教では、初めに「如是我聞(私は、このように釈迦から聞いた)との一句さえつければ、誰でも、いつでも、自由にお経をつくることができた。
仏教の正典が決められてないない理由はいくつもあるが、1つには、釈迦の真説であると証明されたものは何1つもないことである。
それらの多くは、後世の創作らしいのである。

このようにいえば、必ず疑問がでよう。
どこの誰ともわからないような者が創作したようなものが、お経として通用するのか。
立派に通用するのである。

法華教はじめ、維摩経、般若経など、所謂大乗仏典は、みんな後世の創作であることが、いまでは、わかっている。
しかも、大切なお経として通っているのである。
その理由は、これらのお経が、釈迦の真説として立派に通ることが書いてあるからである。
インドには、超一流の哲学者や宗教家がワンサといる。
中国とでさえ比較にならない。
これらの哲学者、宗教家が目を通してみて、これはお経にふさわしい、これは駄目だなどと判定する。
お経にふさわしくないと判定された創作は、相手にされたくなくなる。
十分にお経にふさわしくしいと判断されたものだけが、お経として流布してゆくのである。
このように選別されて、大乗仏典は成立したのであった。
それらは、インドの超大学者、超大宗教家の厳しい篩(ふるい)にかけられているから釈迦の真意として信用できるのである。

このような解釈に納得できない人は、儒教の例がわかりやすいかもしれない。
例えば朱子(南宋の政治家、儒学者)である。
朱子は、古典の解釈に終始していた儒教に初めて哲学的方法を導入し、古典の研究方法を革新した。
              略

孔子が本当に述べたことだけを孔子の真説だとする立場からすれば、この批判は当然であろう。が、宗教において大切なのは歴史的考証だけではない。
哲学的洞察のほうがより重要なこともある。
朱子は、哲学的洞察力において、先代の諸学者を遥かに凌駕している自信があったのであろう。
朱子が1600年も後に孔子の真意を洞察しえたとすれば、釈迦没後千数百年後に、その真意が伝わったとしても不思議ではあるまい。

大乗仏教の諸経典は、このようにして成立した。
いきおい、それは厖大なものとなった。
それらが中国へ伝来したとき、位置付けが最大の問題となった。
こんなにたくさんのお教があるが、どれがどれほど釈迦の真意を伝えているのであろうか。
そこで、中国では、教相判釈(教判)が問題となった。
教判とは、お経のランク付けである。
このような有様であるから、仏教では正典の確定は問題となりえない。
いや、正典という考え方さえない。
ここまでがお経であり、ここから先はお経ではないという境界がない仏教には、正典という概念はないのである。

『日本人のための宗教原論』
172
174ページ

ポイント

@ 小室の主張する(A 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。)と(B 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです。)は矛盾する。(ほぼ☆おおくぼの意見(15)の単なる繰り返し)

A 小室説によれば、仏教は「法前仏後」であり、法に沿っていれば、戒律は変更してもいい。(ほぼ☆おおくぼの意見(15)の単なる繰り返し)

(注:前回、古賀が「具体的にAの主張とBの主張は『日本人のための宗教原論』のどこに書かれているのですか?」と質問しているにもかかわらず、おおくぼは明確に答えていない)

☆古賀の意見(14)

【おおくぼの意見(16)に対する反論】


A
「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。
の根拠は小室さんの文章a
B
「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです
の根拠は小室さんの文章b
という風に書いてください。

あいかわらずだらだらとわかりにくく書いてますが、要するにaについては「仏教は科学である」と書いてある文章と「法前仏後」と書いてある文章の部分を抜き出して書けばいいのだと思います。違いますか?

なぜ要点だけを簡潔に明確に書けないのかわかりません。
毎回おおくぼさんが簡潔に明確に主張をまとめれば議論はスイスイと進むのに、それができないから議論が停滞するのです。

ポイント

@ A 「釈迦が定めたもうた戒律を変更してはいけない。」の根拠となる小室の文章a
B 「釈迦が定めたもうた戒律を変更してもいい。」の根拠となる小室の文章b
を具体的に指摘してほしい。(注:前回、古賀が「具体的にAの主張とBの主張は『日本人のための宗教原論』のどこに書かれているのですか?」と質問しているにもかかわらず、おおくぼは明確に答えていない)