◎『日本人のための宗教原論』議論 過去ログその4
最終更新日 2010/02/14
>おおくぼさん
『日本人のための宗教原論』第7章についての議論の経過を要約しました。
http://homepage3.nifty.com/DOCUMENT/giron001.htm
この要約に問題がなければこれに基づいて反論を行います。追完すべき点や変更すべき点があればご指摘ください。私が議論のこの段階では特に必要ないと思った箇所や無駄だと思った箇所は省いていますので。
投稿: 古賀 | 2010年1月26日 (火) 21時52分
>追完すべき点や変更すべき点があればご指摘ください。
了解しました。
要約の引用 ↓
>
@ 小室と古賀では「実質的撤廃」の意味が違う。小室は「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」
の意味で使っている。
>
補足 ↓
「小室と古賀では「実質的撤廃」の意味が違う」ということは、完全に違うということではなく、小室さんの方が広い意味で使っていることであり、古賀さんの「実質的撤廃」の意味も含んでいます。
古賀さんは、「実質的撤廃」に「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」という意味を含めていないと思います。
また小室さんの主張で大事な点は、「最澄が仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」だと私は解釈しています。
★
★
>おおくぼさんが「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」と言っているのは、どう考えてもそれを放棄しているとしか思えません。だからそれはおかしいと言っているのです。
>
私の全部の解釈を盲信であり、変わることがないと言っているわけではありません。
これは、以前の私のコメントを丁寧に読んでもらえばわかります。
盲信に自覚的であり、変えることができる部分と変えることができない部分を意識することがあるというです。
私にとって、盲信とは「公理なのに、公理を絶対的事実と勘違いすること」です。
これは誰にもあることだからこそ、自覚が大事なのです。
議論は、定義や公理が必要なのですが、議論のための約束ということを忘れ、絶対的事実と勘違いすれば、議論の平行状態が起こりやすくなり、その原因に気づかないのです。
例で言えば、小室さんの「本来の仏教」は定義がされていません。
投稿: おおくぼ |
2010年1月27日 (水) 11時16分
追完すべき点は他にもありますが、一度に書くのはやめて、順を追って、ゆっくりと追完コメントを書きます。
投稿: おおくぼ |
2010年1月27日 (水) 12時27分
議論とは関係ないのですが、要約の文中に古賀さんのケアレスミスを発見しましたので、指摘します。
>B その犯人といえるのは伝教大師最澄である。彼は彼の作った日本仏教の総本山、比叡山の戒律を実質的に全廃してしまった。
「彼の作った日本仏教の総本山、比叡山の戒律」・・・だと意味がおかしくなります。
「東大寺の戒律(受戒制度)」あるいは「鑑真が伝えた戒律(受戒制度)」の方がいいと思います。
投稿: おおくぼ |
2010年1月27日 (水) 15時30分
>おおくぼさん
>
補足 ↓
「小室と古賀では「実質的撤廃」の意味が違う」ということは、完全に違うということではなく、小室さんの方が広い意味で使っていることであり、古賀さんの「実質的撤廃」の意味も含んでいます。
古賀さんは、「実質的撤廃」に「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」という意味を含めていないと思います。
また小室さんの主張で大事な点は、「最澄が仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」だと私は解釈しています。
>
わかりました。そこは変更しておきます。
>
私の全部の解釈を盲信であり、変わることがないと言っているわけではありません。
これは、以前の私のコメントを丁寧に読んでもらえばわかります。
盲信に自覚的であり、変えることができる部分と変えることができない部分を意識することがあるというです。
私にとって、盲信とは「公理なのに、公理を絶対的事実と勘違いすること」です。
これは誰にもあることだからこそ、自覚が大事なのです。
>
少なくとも「もちろん、私は自分の解釈が正しいと盲信しているので、議論を何度続けても、変わることはありません。」という表現からはその趣旨は読みとれません。「これは、以前の私のコメントを丁寧に読んでもらえばわかります。」というのも無理な相談だと思います。
だからこそ私は「撤回しないのか?」「本気なのか?」と何度も確認したのです。それに対する返答からおおくぼさんのそのような意向を汲み取るのは無理だと思います。
現在においてはそういう考えなのだと受け取っておきます。
>
「彼の作った日本仏教の総本山、比叡山の戒律」・・・だと意味がおかしくなります。
>
わかりました。「彼の作った日本仏教の総本山、比叡山は今までの戒律を実質的に全廃してしまった。」ではどうでしょう。
投稿: 古賀 | 2010年1月27日 (水) 21時23分
>「彼の作った日本仏教の総本山、比叡山は今までの戒律を実質的に全廃してしまった。」ではどうでしょう。
それでいいと思います。
★
★
追完
『日本人のための宗教原論』の中で、「最澄の戒律廃止」は、どういう位置づけにあるかが重要だと思います。
ただ、『日本人のための宗教原論』と、その後に書かれた『日本人のためのイスラム原論』を比較すると、『イスラム原論』の方が論理が整理されて、かつ丁寧な記述になっていると思います。
小室直樹さんは、日本人にとってのイスラム教とキリスト教の違いを比較して、「最澄と親鸞」にキリスト教と同じパターンが見いだせるとしていることが、小室理論の展開としては、重要だと思えます。
そして、この点を無視して、議論しても意味がないと思います。
引用 ↓
>
ありがたいアッラーの教えをムスリムたちがどんなに熱心に説いて聞かせても、世界中で日本人だけは最初からそれを受け付けようともしなかった。
だからこそ、日本にはイスラム教徒が少ないのである。
では、いったいイスラムの教えのどこが、日本人にとって駄目だったのか。
その答えを知るには、キリスト教とイスラム教を比較してみるのが一番である。
ご承知のとおり、キリスト教もイスラム教も、ともに唯一にして絶対の神を信仰する一神教である。
略
このように共通点が多い二つの宗教だが、決定的に違うところが一つある。
その答えは、規範(ノルム)の存在である。
規範とは、分かりやすく言ってしまえば、「これをしろ」「あれをするな」という命令(禁止)である。
キリスト教には、この規範がまったく存在しない。
これに対してイスラム教ではない。
この大きな違いにこそ、我々は注目しなくてはならない。
『日本人のためのイスラム原論』
39ページ〜40ページ
>
行いによって人は救われるのではない。
心のうちにある信仰だけが重要なのである。
この教えゆえにキリスト教は、まことに特異な宗教になった。
異常とも言ってもいい。
ところが、たいていの日本人はこの異常さに気が付かない。
その理由は、本書をここまで読んできた読者にはもうお分かりのはずである。
答えは「日本の仏教も戒律を廃止してしまっているから」である。
最澄による円戒の採用と、天台本覚論によって日本の仏教からは戒律が完全に消え去った。
この結果、日本では「形より心」、つまり「戒律よりも信仰」という観念が常識になってしまった。
『日本人のためのイスラム原論』
141ページ
投稿: おおくぼ |
2010年1月28日 (木) 00時23分
>おおくぼさん
>
小室直樹さんは、日本人にとってのイスラム教とキリスト教の違いを比較して、「最澄と親鸞」にキリスト教と同じパターンが見いだせるとしていることが、小室理論の展開としては、重要だと思えます。
そして、この点を無視して、議論しても意味がないと思います。
>
そもそも小室先生が「日本人にとってのイスラム教とキリスト教の違いを比較して、「最澄と親鸞」にキリスト教と同じパターンが見いだせるとしている」かどうかについて私たちの間で明示的に意見が一致していません。また「議論をしても意味がない」かどうかについても意見が一致していません。議論の流れを考えれば、現時点でそのことについて意見を一致させる作業をすることに特にメリットは感じません。
私の意見では、議論の流れからすれば現時点でそれを前提とすることはむしろ議論を混乱させる元になると思います。
【本論についての反論】
小室先生は「戒律を撤廃する行為」が「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」という意見を持っているのであって、「実質的撤廃」を「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」という意味で使っているのではありません。
この2つは大きく違います。
あくまで「実質的撤廃」は「戒律を撤廃するのに等しい行為」の意味で使っています。
くり返しますが「実質的撤廃」と「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」はイコールでありません。私はそれを分けて考えていますし、分けて論じるべきです。
だからおおくぼさんの意見は最澄のやったことが「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」についての反論であって、「実質的撤廃」であることについての反論ではありません。「実質的撤廃」でありながら「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」ではないこともありえます。
もう1度質問をくり返します。小室先生は「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと考えています。私もそう考えます。おおくぼさんは「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと思いますか?
投稿: 古賀 | 2010年1月28日 (木) 07時58分
本をある部分に注目して、独立して考えれば、複数の解釈が生じて、どの解釈が正しいを判断するのが困難になると思います。
だから、本全体の論理の展開に注目することが重要だと思います。
★
★
古賀さんの質問に答える以前に、私には古賀さんの質問の意味がよくわかりません。
>この2つは大きく違います。
あくまで「実質的撤廃」は「戒律を撤廃するのに等しい行為」の意味で使っています。
>
違いが、よくわかりません。
>くり返しますが「実質的撤廃」と「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」はイコールでありません。私はそれを分けて考えていますし、分けて論じるべきです。
>
私の解釈では、小室さんはイコールで使っていると思います。
これは三段論法です。
A=B
B=C
ゆえにA=C
>もう1度質問をくり返します。小室先生は「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと考えています。
>
では、何故、「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が、「戒律を撤廃するのに等しい行為」なのでしょうか?
ここを明快にする必要があります。
従来のルールを変更したからと言って、そのことを「戒律を撤廃するのに等しい行為」と断言するには根拠が必要です。
例えば、最澄は東大寺の戒律は小乗戒で、自分の大乗戒だと主張しています。
これは、日本には大乗の受戒制度がないから、延暦寺に作る必要があるという主張です。
そして延暦寺の受戒制度は、中国では認めてもらえませんでした。
だから、当時の中国に留学する僧は、東大寺で受戒したということにして、留学したのです。
だから延暦寺の受戒制度と東大寺の受戒制度は、併存したのです。
また天台宗の密教僧は、三井寺(園城寺)で修行しましたが、受戒は延暦寺ではなく、東大寺でするのが慣例でした。
投稿: おおくぼ |
2010年1月28日 (木) 10時26分
補足
私は小室さんの本を「日本教についての原因分析書」だと思って読みました。
だから、小室さんの「最澄が戒律を廃止した」という主張も、「日本教の原因分析」として、理解しています。
投稿: おおくぼ |
2010年1月28日 (木) 10時39分
>おおくぼさん
(おまけ1)
▼
本をある部分に注目して、独立して考えれば、複数の解釈が生じて、どの解釈が正しいを判断するのが困難になると思います。
だから、本全体の論理の展開に注目することが重要だと思います。
▲
本全体の論理の展開に注目しても,複数の解釈は生じます。独立して考えれば、複数の解釈が生じ,本全体の論理の展開に注目すれば生じないなどということはありません。
むしろお互いに言いっぱなしの平行線になる可能性が高いでしょう。
(1)
▼
>この2つは大きく違います。
あくまで「実質的撤廃」は「戒律を撤廃するのに等しい行為」の意味で使っています。
>
違いが、よくわかりません。
▲
「違いが,よくわかりません」というのが,何と何の違いがわからないのかわかりません。きちんと説明をお願いします。
(2)
▼
>くり返しますが「実質的撤廃」と「仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為」はイコールでありません。私はそれを分けて考えていますし、分けて論じるべきです。
>
私の解釈では、小室さんはイコールで使っていると思います。
これは三段論法です。
A=B
B=C
ゆえにA=C
▲
そうですか。それでは三段論法で説明してください。
あたり前ですがいくら三段論法になってもAやBの定義が正しいのかという問題が残ります。
三段論法の形にしてから,AやBの定義が正しいことをきちんと説明してください。
(3)
▼
>もう1度質問をくり返します。小室先生は「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと考えています。
>
では、何故、「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が、「戒律を撤廃するのに等しい行為」なのでしょうか?
ここを明快にする必要があります。
従来のルールを変更したからと言って、そのことを「戒律を撤廃するのに等しい行為」と断言するには根拠が必要です。
▲
おおくぼさんの答をお聞きしているのです。
こちらの質問と「では、何故、「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が、「戒律を撤廃するのに等しい行為」なのでしょうか?」という質問との関係がわかりません。こちらが根拠を提示しなければおおくぼさんは答えられないという趣旨ですか?
私は現時点でのお互いの意見の一致点を明らかにするために確認しているのです。「円戒」への置き換えや授戒の簡素化が、「戒律を撤廃するのに等しい行為」と断言しているわけではありません。一致しているのならとりあえずそれを前提に議論をすすめられるからです。
答えられないのなら答えられないでかまいませんから,なぜ答えられないかについてきちんと説明をお願いします。
(4)
▼
例えば、最澄は東大寺の戒律は小乗戒で、自分の大乗戒だと主張しています。
これは、日本には大乗の受戒制度がないから、延暦寺に作る必要があるという主張です。
そして延暦寺の受戒制度は、中国では認めてもらえませんでした。
だから、当時の中国に留学する僧は、東大寺で受戒したということにして、留学したのです。
だから延暦寺の受戒制度と東大寺の受戒制度は、併存したのです。
また天台宗の密教僧は、三井寺(園城寺)で修行しましたが、受戒は延暦寺ではなく、東大寺でするのが慣例でした。
▲
「例えば」というからには、これは単に断言するのには根拠が必要な例として書かれているのですか?何かの主張に対する根拠なのか違うのか良くわかりません。きちんと説明をお願いします。
(おまけ2)
▼
私は小室さんの本を「日本教についての原因分析書」だと思って読みました。
だから、小室さんの「最澄が戒律を廃止した」という主張も、「日本教の原因分析」として、理解しています。
▲
現時点での私の意見では小室先生にとって「最澄が戒律を廃止した」のは日本教の「原因」ではなく「結果」です。
(おまけ1)(おまけ2)については本論の流れとあまり関係ないと判断し現在特に深入りするつもりはありません。ご理解ください。
投稿: 古賀 | 2010年1月29日 (金) 06時54分
>もう1度質問をくり返します。小室先生は「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと考えています。私もそう考えます。おおくぼさんは「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律を撤廃するのに等しい行為だと思いますか?
私は、そうは思いません。
また私の解釈では、小室さんにとって、「最澄が新しい受戒制度を作ったこと」は、「最澄が戒律を廃止したこと」の一例として明示していると思います。
だから、小室さんは受戒制度に限定はしてはいないと思います。
私が何故、そう思わないかを説明します。
最澄は、新しい戒律を作っただけです。
最澄は、戒律を10にしています。
これは五戒よりも多いです。
受戒の立会人は、10人から1人に減らしています。
これは小室さんから見れば、簡素化です。
でも、私には簡素化とは思えません。
有名無実な10人の僧侶よりも、実のある僧侶一人の方がいいという考えです。
具足戒の250の戒律ですが、これは円戒では無視されています。
その代わり最澄は、受戒が終わった後に比叡山で12年間の修行を命じています。
最澄は、修行のための細かいルールをたくさん作っています。
親鸞は戒律を廃止しましたが、最澄は新しい戒律を作ったのです。
だから戒律に関しては、親鸞と最澄は逆なのです。
ちなみに禅宗も戒律を変更して、清規と呼んでいます。
最澄は、中国の禅宗を真似したと考えることもできます。
★
>(おまけ1)(おまけ2)については本論の流れとあまり関係ないと判断し現在特に深入りするつもりはありません。ご理解ください。
>
(おまけ)について返信した方がよろしいでしょうか?
議論が混乱するなら、自分のブログの方に返信記事を書きますが・・・。
投稿: おおくぼ |
2010年1月29日 (金) 22時03分
>おおくぼさん
今回のおおくぼさんの意見でかなり相違点が明確になりました。
http://homepage3.nifty.com/DOCUMENT/giron001.htm
↑の「☆小室直樹の意見」を読んでいただければわかるとおり小室先生は「釈迦が定めたもうた」という点を強調しています。小室先生の意見ではたとえ戒律があっても修行の規則が厳しくても「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化してしまえば「実質的撤廃」と考えるのだと思われます。
だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?
>
(おまけ)について返信した方がよろしいでしょうか?
>
(おまけ1)(おまけ2)のどれについての返信か明確にしていただければ結構です。
投稿: 古賀 | 2010年1月30日 (土) 09時55分
>(おまけ1)(おまけ2)のどれについての返信か明確にしていただければ結構です。
了解しました。
ただ、返信すると長文になり、別の議論に突入してしまうことを危惧しています。
★
★
>だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?
>
この点は小室さんの矛盾だと思っています。
小室さんは「本来の仏教」の定義をしていません。
なのに、この場合は、法顕が出てくるので、「釈迦が定めたもうた戒律」とは「原始仏教」だと思うのです。
法顕は、原始仏教の復興を目指しました。
『日本人のための宗教原論』の第七章、「日本人と宗教」は・・・
>
日本で仏教がなぜ栄えたかのかというと、日本教に変化して戒律をみんな取り払ってしまったからであろう。
儒教も、日本に入ってきたら戒律をみんな取り払われてしまった。
351ページ
>
・・・と書いてあります。
そして儒教の例が説明してあります。
>
「私のお袋は私の足を洗っているときに最大の幸福を感じているのです。
だから足を洗わせるのが親孝行でございます。」
これと同じ主旨の話が落語になって残っている。
お前は親のいうことを聴かないで心配ばかりかけているのは親不孝じゃないかといったら、そうじゃありません。
適当に心配かけないと、親は安心して死んでしまいます。
こんな屁理屈が通るのも、規範、基準がなければこその話なのである。
352ページ
>
第三章の「神の命令のみに生きる【キリスト教】」に、どうしてキリスト教に規範(戒律、倫理道徳)ないかの説明があります。
>
ここでいう規範とは、守ったか破ったかが一目でわかる規範のことである。
内面的行動は守ったか破ったが全く明らかではない。
外面的行動についての正確なルールがはっきりしており、守ったのか破ったのかが一義的に決まらないと、規範としては困るのだ。
114ページ
>
だから、小室直樹さんの定義では、「戒律の廃止」は、「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」なのです。
そうすると、最澄と親鸞は、この定義には入りません。
東大寺で、10人の有資格僧の前で、250の戒律を守ると誓った出家僧が、戒律を建て前でしか守らないことに、最澄は不満だったので、新しい未来の日本を担う僧のために、新しい戒律を作ったのです。
そして親鸞は戒律を重視していたからこそ、戒律を廃止すると宣言したのです。
最澄の行為は、「日本教」に対する反発なのあり、親鸞の行為は、親鸞が「日本教」の信者でない証拠なのです。
投稿: おおくぼ |
2010年1月31日 (日) 13時59分
>おおくぼさん
とりあえず前半部分だけ
>
この点は小室さんの矛盾だと思っています。
小室さんは「本来の仏教」の定義をしていません。
なのに、この場合は、法顕が出てくるので、「釈迦が定めたもうた戒律」とは「原始仏教」だと思うのです。
>
小室先生が仏教を論じるとき、小乗仏教(原始仏教含む)と大乗仏教をごっちゃにして論じているため混乱が生じているのはわかっています。
大乗仏教は必ずしも「釈迦が定めたもうた戒律」を重視しないと私は考えています。ただこれは段階をおって慎重に論じていくつもりです。
コメントの続きは後ほど。
投稿: 古賀 | 2010年1月31日 (日) 15時05分
>おおくぼさん
コメントの続きは後ほどと思っていましたが。
>
だから、小室直樹さんの定義では、「戒律の廃止」は、「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」なのです。
>
ここまでは賛同するかどうかはともかくとして理解できますが。
>
そうすると、最澄と親鸞は、この定義には入りません。
東大寺で、10人の有資格僧の前で、250の戒律を守ると誓った出家僧が、戒律を建て前でしか守らないことに、最澄は不満だったので、新しい未来の日本を担う僧のために、新しい戒律を作ったのです。
そして親鸞は戒律を重視していたからこそ、戒律を廃止すると宣言したのです。
>
おおくぼさんの論理はいつも自分だけが理解できる前提によっておしすすめられています。なぜそういう結論になるのか私にはさっぱりわかりません。もっときちんと説明をお願いします。
おおくぼさんからの補足説明を待ってコメントしたいと思います。
>
最澄の行為は、「日本教」に対する反発なのあり、親鸞の行為は、親鸞が「日本教」の信者でない証拠なのです。
>
「日本教」について、まだ我々は前提を共有していません。おおくぼさんにここで「日本教」を持ち出されてもそれがどんなものかこちらにはわからないので賛成も反対もできません。もちろん私は「日本教」についての考えはもっていますが、それがおおくぼさんと一致しているとは限りません。
現時点ではこの主張は無意味な断定だと思われます。
投稿: 古賀 | 2010年1月31日 (日) 15時28分
>おおくぼさん
▼
>だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?
>
この点は小室さんの矛盾だと思っています。
小室さんは「本来の仏教」の定義をしていません。
なのに、この場合は、法顕が出てくるので、「釈迦が定めたもうた戒律」とは「原始仏教」だと思うのです。
▲
この部分を小室先生が小乗仏教(原始仏教含む)と大乗仏教をごっちゃにして論じていることを指摘しているのかと思いましたが、おおくぼさんが言われているのはどうもそういう意味ではないようです。
はっきり言ってこの文章も意味不明です。
(1)
矛盾というからには『日本人のための宗教原論』の中での小室先生のAという主張とBという主張が一致しないからおかしいという趣旨なのではないかと思われます。Aが何でBが何なのかきちんと説明をお願いします。
(2)
またそれが「だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?」という私の質問にどうかかわってくるのかきちんと説明をお願いします。
前のコメント欄での質問ももっとわかりやすくこちらにまとめておきます。
(3)
なぜ「戒律の廃止」が「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」になるのかきちんと説明をお願いします。
(4)
なぜ最澄と親鸞は、この定義には入らないのかきちんと説明をお願いします。
(5)
「親鸞は戒律を重視していたからこそ、戒律を廃止すると宣言した」という論理が良くわかりません。説明をお願いします。
以上5点について説明よろしくお願いします。
投稿: 古賀 | 2010年2月 1日 (月) 21時12分
>以上5点について説明よろしくお願いします。
了解しました。
まず、前の自分のコメントの補足しながら、古賀さんの質問にお答えします。
小室さんの文章 ↓
>
日本で仏教がなぜ栄えたかのかというと、日本教に変化して戒律をみんな取り払ってしまったからであろう。
儒教も、日本に入ってきたら戒律をみんな取り払われてしまった。
351ページ
>
第七章を理解するには、「日本教」と「戒律」を小室直樹さんがどのように定義しているか理解する必要があります。
どうでしょうか?
古賀さんのコメント ↓
>
「日本教」について、まだ我々は前提を共有していません。おおくぼさんにここで「日本教」を持ち出されてもそれがどんなものかこちらにはわからないので賛成も反対もできません。もちろん私は「日本教」についての考えはもっていますが、それがおおくぼさんと一致しているとは限りません。
現時点ではこの主張は無意味な断定だと思われます。
>
私としては、「小室直樹の定義する日本教」と「小室直樹の定義する戒律」の意味を共有すべきだと思うのです。
★
「戒律を取り払うこと」の定義・・・ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること
そうすると・・親鸞は妻帯を宣言した。
これは、「僧侶が妻帯を禁止されているというルール」を破ったことが明らかです。
「戒律を守ったか破ったかを明らかじゃない状態にすること」が、「戒律を取り払うこと」なら、戒律を破ったことを明言することは定義上、「戒律を取り払うこと」にはなりません。
>(4)
なぜ最澄と親鸞は、この定義には入らないのかきちんと説明をお願いします。
>
これが、親鸞が「この定義」に入らない理由です。
最澄については、別の説明が必要です。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 1日 (月) 22時26分
>
5)
「親鸞は戒律を重視していたからこそ、戒律を廃止すると宣言した」という論理が良くわかりません。説明をお願いします。
>
親鸞は、どうしても妻帯をしたかった。
でも、妻帯は僧侶の戒律では禁止されている。
ここで、戒律を重視しない僧で、妻帯したい僧侶は、建て前では、戒律を守っていることにします。
実質は妻帯しているのに、建て前では妻帯をしてないことにしてしまうのです。
親鸞は、建て前と実質の分離が許せなかったのです。
私の理解では、「建て前と実質の分離」が、小室さんの定義する「日本教」であり、「戒律を取り払うこと」です。
小室さんの文章 ↓
>
ところで、その天台宗の元祖たる最澄は、比叡山を開くにあたって従来の戒を廃止し、形式的な「円戒」なるものを創設した。
ここで円戒の中身について詳しくは触れるゆとりはないが、最澄が定めた戒とは、要するに内面の信仰を問うものばかりで、外面的行動に関する規範は入ってないのである。
ということは、僧侶はどんなことをしてもよいのだということに他ならない。
事実、その後の比叡山では、僧侶が妾を持ち、子どもをなすことが当たり前になってしまった。
後年、信長が比叡山を焼き討ちしたとき(1571年)には、全山に多数の女子が住み着いていたという話は、ご承知のことと思う。
これもまた円戒がもたらした結果と言っていい。
『日本人のためのイスラム原論』92ページ〜93ページ
>
天台宗では、信長の比叡山焼き討ちの時代では、妻帯は禁止でした。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 1日 (月) 22時51分
1番目と2番目の質問に対する説明は、後日コメントします。
★
>
(3)
なぜ「戒律の廃止」が「ルールを守ったのか破ったのかが明らかにならない状態にすること」になるのかきちんと説明をお願いします。
>
3番目の質問に関しては、「小室直樹の定義する日本教」と「小室直樹の定義する戒律」の意味を共有しないと、すれ違いになると思うのです。
>(4)
なぜ最澄と親鸞は、この定義には入らないのかきちんと説明をお願いします。
>
・・・の「最澄が定義に入らない理由の説明」は、3番目と同じく、「小室直樹の定義する日本教」と「小室直樹の定義する戒律」の意味を共有しないと、すれ違いになると思います。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 1日 (月) 23時03分
参考
全て小室直樹さんの文章です。
小室さんが、「戒律」に関して、どう考えているかに注目して、引用しました。
>
「私のお袋は私の足を洗っているときに最大の幸福を感じているのです。
だから足を洗わせるのが親孝行でございます。」
これと同じ主旨の話が落語になって残っている。
お前は親のいうことを聴かないで心配ばかりかけているのは親不孝じゃないかといったら、そうじゃありません。
適当に心配かけないと、親は安心して死んでしまいます。
こんな屁理屈が通るのも、規範、基準がなければこその話なのである。
『日本人のための宗教原論』352ページ
>
>
ここで円戒の中身について詳しくは触れるゆとりはないが、最澄が定めた戒とは、要するに内面の信仰を問うものばかりで、外面的行動に関する規範は入ってないのである。
ということは、僧侶はどんなことをしてもよいのだということに他ならない。
事実、その後の比叡山では、僧侶が妾を持ち、子どもをなすことが当たり前になってしまった。
後年、信長が比叡山を焼き討ちしたとき(1571年)には、全山に多数の女子が住み着いていたという話は、ご承知のことと思う。
これもまた円戒がもたらした結果と言っていい。
『日本人のためのイスラム原論』92ページ〜93ページ
>
>
ありがたいアッラーの教えをムスリムたちがどんなに熱心に説いて聞かせても、世界中で日本人だけは最初からそれを受け付けようともしなかった。
だからこそ、日本にはイスラム教徒が少ないのである。
では、いったいイスラムの教えのどこが、日本人にとって駄目だったのか。
その答えを知るには、キリスト教とイスラム教を比較してみるのが一番である。
ご承知のとおり、キリスト教もイスラム教も、ともに唯一にして絶対の神を信仰する一神教である。
略
このように共通点が多い二つの宗教だが、決定的に違うところが一つある。
その答えは、規範(ノルム)の存在である。
規範とは、分かりやすく言ってしまえば、「これをしろ」「あれをするな」という命令(禁止)である。
キリスト教には、この規範がまったく存在しない。
これに対してイスラム教ではない。
この大きな違いにこそ、我々は注目しなくてはならない。
『日本人のためのイスラム原論』
39ページ〜40ページ
>
行いによって人は救われるのではない。
心のうちにある信仰だけが重要なのである。
この教えゆえにキリスト教は、まことに特異な宗教になった。
異常とも言ってもいい。
ところが、たいていの日本人はこの異常さに気が付かない。
その理由は、本書をここまで読んできた読者にはもうお分かりのはずである。
答えは「日本の仏教も戒律を廃止してしまっているから」である。
最澄による円戒の採用と、天台本覚論によって日本の仏教からは戒律が完全に消え去った。
この結果、日本では「形より心」、つまり「戒律よりも信仰」という観念が常識になってしまった。
『日本人のためのイスラム原論』
141ページ
>
すでに述べたように、天台仏教は戒律を全廃し、鎌倉期に現れた親鸞や日蓮は自力救済の可能性を否定した。
その結果、日本仏教はキリスト教にきわめて相似したものになった。
だとすれば、キリスト教ほど日本人にとってありがたい教えはない。
『日本人のためのイスラム原論』
125ページ
>
>
無規範である点では、キリスト教ほど日本教と共通した宗教はまずあるまい。
それなのに、どうしても普及が進まないのは、この問題が大きく関係しているというわけである。
さて、ここまで来れば、イスラム教が日本に入ってこなかった理由は、明々白々というものであろう。
『日本人のためのイスラム原論』
134ページ
>
投稿: おおくぼ |
2010年2月 1日 (月) 23時34分
参考 その2
こちらの小室さんの記述は明快だと思います。
二つの記述を比較して見てください。
>
規範とは前に記したように、外面的行動を対象にする。
なぜ、外面的行動が問われるのかといえば、それは規範を破ったか破っていないかが明確に判定できるからである。
言うなれば、あるのは白と黒だけであって、グレーゾーンは存在しない。
ここが肝心なのところである。
『日本人のためのイスラム原論』
46ページ
>
>
最澄が定めた戒とは、要するに内面の信仰を問うものばかりで、外面的行動に関する規範は入ってないのである。
ということは、僧侶はどんなことをしてもよいのだということに他ならない。
『日本人のためのイスラム原論』
92ページ〜93ページ
>
これが、小室直樹さんが「最澄が戒律を全廃した」と考えている理由です。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 2日 (火) 00時01分
1と2の質問に対する簡単な説明
説明の前に訂正します。
『日本人のための宗教原論』を読み直したら、小室さんが、「本来の仏教」の定義をしていることを確認できました。
★
矛盾とは、小室さんの「本来の仏教」の定義が原始仏教ではないのに、最澄の作った戒律を否定するために原始仏教を持ってきているからです。
後で詳述しますので、「1と2の質問に対する説明コメント」への返信は、その後にお願いします。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 2日 (火) 10時31分
>おおくぼさん
質問(1)(2)についての説明をお待ちする間に一言だけ。
私はまず(1)小室先生の見解を批判するおおくぼさんの主張をできるだけわかりやすく明確にすること(2)おおくぼさんの主張に対する私の意見をできるだけわかりやすく明確にすること(3)私とおおくぼさん双方の意見の一致する部分をできるだけわかりやすく明確にすることが先決だと考えています。そのために(1)(2)(3)についてどこまで明確にできたか議論の進行状況をすぐ確認できるように↓に表にして残しています。
http://homepage3.nifty.com/DOCUMENT/giron001.htm
現時点で「日本教」の定義について論議することは,むしろ意見の平行状態を生み混乱をまねくだけなので後回しにしたいと考えています。
投稿: 古賀 | 2010年2月 2日 (火) 17時31分
私の理解する「小室直樹の仏教説」をまとめてみました。
http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/9160943.html#more
重要なポイントは、仏教とは「科学に近い」です。
★
>
(1)
矛盾というからには『日本人のための宗教原論』の中での小室先生のAという主張とBという主張が一致しないからおかしいという趣旨なのではないかと思われます。Aが何でBが何なのかきちんと説明をお願いします。
>
主張Aが「仏教は科学に近い」で、主張Bが「原始仏教が絶対」です。
詳しい説明は、(2)の回答を読んで下さい。
>
(2)
またそれが「だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?」という私の質問にどうかかわってくるのかきちんと説明をお願いします。
>
私の理解する小室説は・・・
1 仏教は科学に近い。
2 戒律は、悟りを開くための手段である。
だから、古賀さんの言う<「釈迦が定めた戒律」から大きく変化していること>の意味が重要です。
戒律が「悟りを開くための手段」でなくなれば、「私の理解する小室説の戒律」ではなくなります。
「私の理解する小室説の戒律」では、戒律は絶対ではなく、変更可能です。
重要な点は、「悟りを開くための手段」なのです。
仏教は、「悟りを開くための手段」を、科学のように研究して、発明しているのです。
「釈迦の決めた戒律」よりも、効率よく「悟りを開ける手段」を発明できることは、仏教にとってはいいことなのです。
だから、釈迦の決めた戒律と違ってもいいのです。
注:(2)の回答の主張は、あくまで、「私の理解する小室説」です。
投稿: おおくぼ | 2010年2月 3日 (水) 02時57分
>私はまず(1)小室先生の見解を批判するおおくぼさんの主張をできるだけわかりやすく明確にすること
(2)おおくぼさんの主張に対する私の意見をできるだけわかりやすく明確にすること
(3)私とおおくぼさん双方の意見の一致する部分をできるだけわかりやすく明確にすることが先決だと考えています。
>
(1)に関しては、「私の理解する小室説」と「古賀さんの理解する小室説」の共通する部分と、違う部分を明確にしなければ、困難だと思います。
そうしなければ、「私の小室説批判」を、古賀さんが誤解してしまうでしょう。
★
例えば、「規範のなくす」に対する、私と古賀さんの理解の違いです。
1 建て前と実質の分離させること。
2 ルールを変更すること。
またルールを変更には、2種類あります。
1 外面的に判断できるルールの変更すること。
(例えば、野球で、三振でワンアウトを四振に変更する)。
外面的に判断しにくいルールの変更すること。
(例えば、狐が食べれなかった葡萄を酸っぱいに違いないと決めつけること。)
以上のように、理解が違っていれば、誤解が生じます。
小室さんの文章は、理解の違いを生みやすい文章だと思います。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 3日 (水) 03時12分
補足
親鸞は戒律は廃止したのですが、「私の理解する小室説の戒律をなくすこと」という意味には該当しないのです。
「私の理解する小室説の戒律をなくすこと」は、「規範を破ったか破っていないかが明確に判定できるない状態」にルールを変更することです。
>
最澄が定めた戒とは、要するに内面の信仰を問うものばかりで、外面的行動に関する規範は入ってないのである。
ということは、僧侶はどんなことをしてもよいのだということに他ならない。
『日本人のためのイスラム原論』
92ページ〜93ページ
>
最澄の場合は、「私の理解する小室説」だと、新しい戒律が、「規範を破ったか破っていないかが明確に判定できるない状態」だから、「戒律の実質的な廃止」なのです。
私の主張が、古賀さんを混乱させている原因は・・・。
1 小室説の理解が違うから。
2 小室説に私は同意していないから。
だと推測できます。
2に関しては・・・
私独自の主張(私独自というのは、小室さんと違う主張という意味です)
1 最澄は戒律を廃止したのではなく、新しい戒律を作っただけ(最澄個人の中では、東大寺の戒律は小乗戒として否定されています)。
2 親鸞は戒律を廃止した。
そうすると、「私の理解する小室さんの戒律の廃止」と「私の主張する戒律の廃止」では、「戒律の廃止」の意味が違ってしまうのです。
結論としては、私は、「小室さんの戒律の定義」を理解した上で、「小室さんの戒律の定義」を最澄と親鸞に当てはめて、批判することに反対なのです。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 3日 (水) 13時02分
補足 その2
親鸞の場合は、「私の理解する小室説の戒律の廃止」でも該当しません。
それに対し、最澄の場合は、「私の理解する小室説の戒律の廃止」には該当します。
その理由は・・
親鸞の場合は、「規範を破ったか破っていないかが明確に判定できるない状態にルールを変更」していないからです。
それに対し、最澄の場合は、「規範を破ったか破っていないかが明確に判定できるない状態にルールを変更している」からです。
★
私が、「小室さんの戒律の廃止の定義」に同意できない理由は・・・・
>
最澄が定めた戒とは、要するに内面の信仰を問うものばかりで、外面的行動に関する規範は入ってないのである。
ということは、僧侶はどんなことをしてもよいのだということに他ならない。
『日本人のためのイスラム原論』
92ページ〜93ページ
>
・・・という記述にあるのです。
前半部分の「最澄が定めた戒とは、要するに内面の信仰を問うものばかりで、外面的行動に関する規範は入ってないのである」というのは、全面的に賛成とは言えないですが、最澄の作った戒律は内面重視だと私も思います。
だから、この記述を誇張だと考えれば、同意できます。
でも後半部分の「ということは、僧侶はどんなことをしてもよいのだということに他ならない。」というのは、論理の飛躍だと思うのです。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 3日 (水) 13時18分
>
(4)
なぜ最澄と親鸞は、この定義には入らないのかきちんと説明をお願いします。
>
親鸞は、この定義には入らないのですが、最澄は入ります。
訂正します。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 3日 (水) 15時05分
>おおくぼさん
▼
>
(1)
矛盾というからには『日本人のための宗教原論』の中での小室先生のAという主張とBという主張が一致しないからおかしいという趣旨なのではないかと思われます。Aが何でBが何なのかきちんと説明をお願いします。
>
主張Aが「仏教は科学に近い」で、主張Bが「原始仏教が絶対」です。
▲
これは小室先生の主張のどことどこが矛盾しているかという意味ですので、AとBにあたるのが具体的に著作のどこの部分なのかをあげていただけますでしょうか。
投稿: 古賀 | 2010年2月 4日 (木) 06時51分
小室直樹さんは「原始仏教が絶対」という表現はしていません。
けれど、そのように解釈できる部分があります。
>
何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。
『日本人のためのイスラム原論』
91ページ
>
★
「仏教は科学に近い」は・・・
>読者の大多数は、仏教のことを「釈迦の教え」であると考えているだろう。
しかし、これは大きな誤解である。
たしかに仏教は釈迦をもって創始者とする。
しかし、仏教の教えは釈迦が考案したものではない。
ここが理解のポイントである。
では、仏教とはいったい誰の教えなのか。
【答え】誰の教えでもない。
仏教は思想ではない。
それはむしろ科学に近い。
『日本人のためのイスラム原論』
77ページ
>
投稿: おおくぼ |
2010年2月 4日 (木) 19時57分
>おおくぼさん
まず1つ 『日本人のための宗教原論』について議論しているのだから、基本的には『日本人のためのイスラム原論』ではなくそちらの方を典拠にすべきでしょう。『日本人のためのイスラム原論』には記述があるが、『日本人のための宗教原論』の方には記述がない場合を除いては。
混乱をまねきます。
そしてもう1つ
(a)仏教は思想ではない。
それはむしろ科学に近い。
を
(A)「仏教は科学に近い」
の根拠にするのは理解できますが
(b)何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。
は
(B)「原始仏教が絶対」
の根拠にするのは無理がありすぎるでしょう。
小室先生のもともとの主張
(a)しかし、仏教の教えは釈迦が考案したものではない。仏教は思想ではない。それはむしろ科学に近い。
と
(b)何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。
の(a)と(b)自体は特に矛盾していないと思われます。
(b)と(B)をつなぐロジックが不十分すぎます。
投稿: 古賀 | 2010年2月 4日 (木) 22時08分
>(b)と(B)をつなぐロジックが不十分すぎます。
そうですね。
具足戒は、釈迦が示したものです。
けれど、悟りを開く正しい方法は、それだけには限定されていません。
比較 1
>
何度も言うように、仏教において戒律とは単なるルールではない。
悟りを開く修行の一環として戒律は存在する。
その戒律を無視して悟りを得ることは望めない。
しかも、戒を定めたのは釈迦に他ならない。
ところが、その戒律を最澄は、改定するどころか、実質的に廃止してしまったのだ。
これは仏教を否定し、釈迦の教えを否定するに等しい行為である。
『日本人のためのイスラム原論』94ページ
>
釈迦の定めた戒律を「小室さんの意味で)廃止」すると、「仏教を否定し」、「釈迦の教えを否定する」に等しい行為になるといことは・・・
小室さんは、釈迦の定めた戒律を、悟りのための絶対条件にしていると思います。
けれど、前に議論した維摩居士の箇所は・・
比較 2
>
日本では、南無阿弥陀と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならないように、イスラム教徒が経典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
『日本人のための宗教原論』200ページ
>
・・・と書いてあります。
★
「小室さんの最澄の戒律廃止」の意味には、二つの意味があると思います。
1 最澄が、釈迦の定めた戒律を変更したこと
2 最澄が、外面的行動に関する規範を無くしたこと
投稿: おおくぼ |
2010年2月 5日 (金) 00時09分
>
まず1つ 『日本人のための宗教原論』について議論しているのだから、基本的には『日本人のためのイスラム原論』ではなくそちらの方を典拠にすべきでしょう。『日本人のためのイスラム原論』には記述があるが、『日本人のための宗教原論』の方には記述がない場合を除いては。
混乱をまねきます。
>
たしかに混乱の元です。
ただ、『日本人のための宗教原論』の記述は、少なすぎます。
例えば古賀さんの・・・
>
だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?
>
・・・という質問に関しても該当箇所が少なすぎます。
『日本人のための宗教原論』に関する最澄の記述は、2ページ未満です。
仏教の戒律に関する説明は、第四章の最初の4ページぐらいです。
それに対し、『日本人のためのイスラム原論』は、詳しく説明しています。
あともう一冊、『数学を使わない数学の講義』は、『日本人のための宗教原論』と同じ内容を、明快に説明しています。
特に仏教の戒律の説明は、『数学を使わない数学の講義』が一番、明快です。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 5日 (金) 00時26分
定義が必要な議論は後回しにして、定義のいらない歴史的事実の検証を先にしませんか?
例えば・・・
1 比叡山は、日本仏教の総本山にいつなったか?
「日本仏教の総本山」とは何かということを定義せず、比叡山の歴史を調べれば、すぐわかります。
2 中国の仏教に対する弾圧の理由は?
3 韓退之の仏教批判の内容は?
投稿: おおくぼ |
2010年2月 5日 (金) 00時52分
小室さんの本を読むと、250の戒律を最澄以前の僧侶は守っていたという前提で書いてあると思うんですが、実際は授戒式で、「守る」と誓うだけで、形式的だったと思うんです。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 5日 (金) 09時24分
>おおくぼさん
まず1つ
私は
(b)何しろ戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。
は
(B)「原始仏教が絶対」
の根拠にするのは無理がありすぎるように思えるので、補足説明をしてくださいと言っているのです。
不必要かつ無駄な饒舌はいりません。簡潔かつ明瞭にきちんと整理して説明してください。
私にはおおくぼさんの主張が混乱していてまとまりがないために、きちんと説明ができていないように思えます。
もう1度言います。
なぜ(b)「戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。」という小室先生の主張が、(B)「原始仏教が絶対」と主張したことになるのか。この2つは全く別のものです。
誤魔化しではなく(b)からこうすれば(B)という結論を導き出せるという説明をお願いします。
そしてもう1つ
>
たしかに混乱の元です。
ただ、『日本人のための宗教原論』の記述は、少なすぎます。
>
『日本人のための宗教原論』の記述の論理的整合性を問題にするなら、そもそも他の著作を持ち出す必要がありません。「Aという箇所とBという箇所が論理的に矛盾する」と指摘すれば事足ります。
『日本人のための宗教原論』の記述の学問的間違いを問題にするなら、「ここが学問的に間違っている」という指摘を元にきちんとした宗教的文献等を参考にして検証すればいいだけの話です。
『日本人のための宗教原論』と小室先生の他の著作との論理的整合性を問題にするのは、議論の元の趣旨からはかなりはずれてきます。原理的には小室先生の著作全般が対象になるからです。
投稿: 古賀 | 2010年2月 5日 (金) 23時02分
『日本人のための宗教原論』の第七章だけだと、理解が難しいです。
小室さんは、いろんな主張を詰め込みすぎです。
例えば・・・
>
しかも彼が作った比叡山、日本仏教の総本山の中の総本山のようになったが、その元祖開山が形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまったのだ。
360ページ 3行目〜4行目
>
ここで疑問は・・
疑問 いつ、比叡山は「日本仏教の総本山の中の総本山」のようになったのか?
疑問 「形式的な天台の円戒に置き換え」が、なぜ「実質的に規範を全廃」なのか?
「形式的な」と「実質的に」は対の表現です。
戒律が「形式的になること」が、「実質的な廃止」という意味なのか?
また「廃止」というのは、「元からあるもの」が「無くなること」です。
「置き換え」ると、「全廃」になるというのは、辞書的な意味で変です。
だから「実質的に全廃」とは、「外的な規範や基準が消えたこと」であって、「形式的になる」という意味と解釈できます。
★
>
それから後の人はどうしたのかというと、やっぱり大先生がそうだったら跡継ぎの中先生、小先生も、これに倣わなくてはしようがない。
それを裏付ける思想が、天台本覚論である。
360ページ 5行目〜7行目
>
疑問 「それを裏付ける」とは、どういう意味か?
たぶん、これは「規範全廃の思想を徹底した」という意味だと思います。
でも「徹底する」と「裏付ける」では、辞書的な意味で、かなり違います。
★
>
総本山のそのまた総本山である比叡山延暦寺でこの天台本覚論というのが発達したというのが、日本仏教の秘密を解く最大の鍵である。
360ページ 16行目〜17行目
>
疑問 日本仏教の秘密とは?
★
>
最澄が始めた規範全廃の思想を完成させたのが、実は、法然、親鸞、また別のところで日蓮といった仏教革命者たちであった。
361ページ 1行目〜2行目
>
疑問 何を基準に、「規範全廃の思想」の完成とみなすのか?
最澄→天台本覚論→法然&親鸞&日蓮で、セットになって、「規範全廃の思想が完成」したのなら、日本の一部しか、「規範全廃の思想が完成」してないことになるのでは?
完成したのは、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗だけになります。
この理屈だと、天台宗と禅宗は未完成状態です(禅宗は天台本覚論の流れです)。
また東大寺などの奈良の宗派や、真言宗は「規範全般の思想」とは、この理屈上では、関係ありません。
★
>
かくして、日本の仏教は戒律を全部取り払った。
このことは本来の仏教では絶対に考えられないことであるが、その点をとらえると、キリスト教の布教の形式と大変によく似ていることに気づくであろう。
362ページ 13行目〜15行目
>
疑問 どうして「キリスト教の布教の形式と大変よく似ている」と気づくのか?
投稿: おおくぼ |
2010年2月 5日 (金) 23時25分
上のコメントは、古賀さんの最新コメントを読む前に書いたものです。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 5日 (金) 23時30分
>『日本人のための宗教原論』と小室先生の他の著作との論理的整合性を問題にするのは、議論の元の趣旨からはかなりはずれてきます。原理的には小室先生の著作全般が対象になるからです。
私は、『日本人のための宗教原論』を中心にして、他の小室さんの著作を補足資料として使っているつもりです。
『日本人のための宗教原論』だけでは、小室さんの主張を理解するのは無理です。
★
比較1
>仏教というのは、釈迦が定めたもうた「戒」を守る。
それが、仏教の根本ともいえる。
『日本人のための宗教原論』359ページ
比較 2
>
日本では、南無阿弥陀と唱えればいい、もしくは南無妙法蓮華経と唱えればいいという形になっていった仏教だが、本来の仏教の姿というのは、キリスト教徒が聖書を信じなければならないように、イスラム教徒が経典の言葉に従った行動をとらなければいけないように、仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。
『日本人のための宗教原論』200ページ
1の記述の方の「守る」を絶対と考えれば、矛盾です。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 5日 (金) 23時41分
>もう1度言います。
なぜ(b)「戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。」という小室先生の主張が、(B)「原始仏教が絶対」と主張したことになるのか。この2つは全く別のものです。
誤魔化しではなく(b)からこうすれば(B)という結論を導き出せるという説明をお願いします。
>
前のコメントでは、「原始仏教が絶対」という表現を小室さんが使っていないと断った上で、引用しています。
私の「原始仏教が絶対」を別の表現にすれば、「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」になります。
引用した「「戒律とは、悟りを開くために正しい方法として釈迦が示したものだ。」の後の文章は・・・
>
戒律を守るというのは、釈迦の教えに従うことに他ならない。
したがって、この受戒の儀式を行って戒律を守ることを近っていなければ、それはインチキ坊主であり、正式の修行者とは認められないのである。
>
・・・と続きます。
★
この返信コメントの内容は、上のコメントと内容が重なりますし、引用部分も『日本人のためのイスラム原論』なので、無視してかまいません。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 6日 (土) 00時00分
>『日本人のための宗教原論』の記述の論理的整合性を問題にするなら、そもそも他の著作を持ち出す必要がありません。
小室さんの著作は、単独で100%の理解できるなら、他の著作を持ち出す必要はないと思います。
「100%の理解」というのは誇張ですが、『日本人のための宗教原論』は、私には飛躍が多く思えます。
比較すれば、『日本人のためのイスラム原論』や『数学を使わない数学の講義』方が、論理の飛躍は少ないです。
だから、論理的整合性を問うにも、『日本人のためのイスラム原論』や『数学を使わない数学の講義』は、補足資料して必要だと思います。
★
ただ、私は、小室直樹さんの論理的整合性を問うのは、優先順位では一番ではありません。
小室さんの歴史解釈の検証が、優先順位では一番です。
だから、論理的整合性はあくまで二義的で、深入りしたくはありません。
私は、議論になると熱くなる体質なので、深入りしていますが、できるだけ歴史解釈の検証の方を優先したいと思っています。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 6日 (土) 00時17分
古賀さんのコメント ↓
>小室先生の意見ではたとえ戒律があっても修行の規則が厳しくても「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化してしまえば「実質的撤廃」と考えるのだと思われます。
だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?
>
第七章の天台本覚論についての記述に関しては、その解釈に同意します。
小室さん文章 ↓
>仏教の根本には、悟りをひらくためには迷いを絶たなければならない、という考えがある。
それが仏教的な考えであり、そのために仏教の坊主というのは苦心惨憺する。
ところで天台本覚論というのはどういう教えかというと、迷ったままで成仏できる、という、本来の仏教とはかけ離れたものだった。
>
(小室さんの考える)仏教の根本 → 「迷いを絶たなければならない」
(小室さんの考える)天台本覚論 → 「迷ったままで成仏できる」
ゆえに、「迷ったままで成仏できる」という思想の成立を「「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化した」と考えることができます。
この場合は、最澄の「円戒の置き換え」には、該当しないと思います。
最澄の「円戒の置き換え」は、天台本覚論を生み出す原因になったかもしれませんが、「迷ったまま成仏できる」という思想には該当しません。
また「法然、法然、日蓮」についても、該当するかどうか不明です。
だから、小室直樹さんが何を基準に「「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化した」と判断しているかが重要です。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 6日 (土) 12時57分
上のコメントを一部訂正します。
>この場合は、最澄の「円戒の置き換え」には、該当しないと思います。
↓
>この場合は、最澄の「円戒の置き換え」には、該当するかどうか不明です。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 6日 (土) 13時02分
自分のブログに、私の小室説解釈と疑問点を要約してみました。
http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/9170132.html
投稿: おおくぼ |
2010年2月 6日 (土) 15時29分
>おおくぼさん
どんどんコメントをつけ加えたからと言って議論が早くすすむものでもありません。控えてください。
投稿: 古賀 | 2010年2月 6日 (土) 19時17分
>おおくぼさん
まず1つ
>
『日本人のための宗教原論』の第七章だけだと、理解が難しいです。
>
『日本人のための宗教原論』と他の著作とでは多少説明が異なっている可能性があります。まず『日本人のための宗教原論』を基本にしないと議論が混乱するおそれがあるでしょう。
もし必要ならどんな資料も使っていいという理屈なら私は『天皇の原理』を推奨します。「戒律不在」と「法の不在」が密接に関連していることを論じています。
そしてもう1つ
>
『日本人のための宗教原論』だけでは、小室さんの主張を理解するのは無理です。
>
おおくぼさんは『日本人のための宗教原論』に書いてある小室先生の主張がおかしいといわれているのだから、少なくともそのおかしい部分がどうしておかしいのかについては『日本人のための宗教原論』だけで説明できるはずです。
補足説明として他の著作も必要というなら理解できますが、「『日本人のための宗教原論』だけでは、小室さんの主張を理解するのは無理」というのなら、おおくぼさんの最初の主張は一体なんだろうということになります。
単に小室先生の著作を理解するのが目的ではなく、「『日本人のための宗教原論』における小室先生の主張がおかしい」とおおくぼさんが言われたのが議論の前提になっているのを忘れずに。
そしてもう1つ
>
私の「原始仏教が絶対」を別の表現にすれば、「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」になります。
>
それでは
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「原始仏教が絶対」
ではなく
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」
の2つが矛盾するということでよろしいのですか?
矛盾するということは(A)と(B)の2つが両立する場合があるのなら、おおくぼさんの主張はおかしいということですよ。
そしてもう1つ
>
1の記述の方の「守る」を絶対と考えれば、矛盾です。
>
比較1は(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」と同じ主張と考えられますが、比較2は(A)「仏教は科学に近い」と異なるように思えます。
比較2は新たな主張(C)「仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。」で、それが(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」と矛盾するということでよろしいですか?
それとも比較2は(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)「仏教は科学に近い」と(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の間ということですか?
最後にもう1つ
▼
古賀さんのコメント ↓
>小室先生の意見ではたとえ戒律があっても修行の規則が厳しくても「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化してしまえば「実質的撤廃」と考えるのだと思われます。
だから問題は「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化したか否かにあると考えますが、その点はどうですか?
>
第七章の天台本覚論についての記述に関しては、その解釈に同意します。
▲
天台本覚論は「迷ったままで成仏できる」という「教え」であって「戒律」ではありません。
戒律が変化しても教えが変化しないこともありうるし、その逆もありえます。おおくぼさんは「戒律」と「教え」を明確に分けていないように感じますが、それは「戒律」と「教え」を明確に分ける必要はないという考えからでしょうか。それとも小室先生が「戒律」と「教え」を明確に分けていないと考えているからでしょうか。
投稿: 古賀 | 2010年2月 8日 (月) 07時12分
追記
もし『日本人のための宗教原論』以外で参考資料とするなら、必要十分条件は『数学嫌いな人のための数学』に、日本教は『論理の方法』にわりと詳しい。
投稿: 古賀 | 2010年2月 8日 (月) 22時38分
小室直樹さんの中国仏教についての検証記事を自分のブログにアップしました。
http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/9177496.html
投稿: おおくぼ |
2010年2月 9日 (火) 01時55分
>どんどんコメントをつけ加えたからと言って議論が早くすすむものでもありません。控えてください。
わかりました。
コメントの頻度を減らします。
>おおくぼさんは『日本人のための宗教原論』に書いてある小室先生の主張がおかしいといわれているのだから、少なくともそのおかしい部分がどうしておかしいのかについては『日本人のための宗教原論』だけで説明できるはずです。
『日本人のための宗教原論』を読んで、私は小室直樹さんの主張がおかしいと思いました。
ただ、古賀さんに反論を出された時に、『日本人のための宗教原論』にのみを典拠すると、記述量が少ないため、私の解釈の説得力が弱いと感じたのです。
私は自分の解釈が正しいと思っていますが、「自分の解釈は正しい」と言い張っても、平行線のままです。
対策として、同じ作者の他の著作の詳しい記述を参考にすることを採用したのです。
だから、議論すべきメインの記述は、あくまで『日本人のための宗教原論』であって、他の著作は補足資料として扱うという方針でいます。
★
『論理の方法』は持っていませんが、買おうと思っています。
『天皇の原理』は、中古でしか販売していませんし、高価なので購入予定はありません。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 9日 (火) 02時11分
>
戒律が変化しても教えが変化しないこともありうるし、その逆もありえます。おおくぼさんは「戒律」と「教え」を明確に分けていないように感じますが、それは「戒律」と「教え」を明確に分ける必要はないという考えからでしょうか。それとも小室先生が「戒律」と「教え」を明確に分けていないと考えているからでしょうか。
>
この場合は、小室さんが「規範全廃の思想」として、セットで考えていると判断したからです。
小室さんの文章 ↓
>最澄が始めた規範全廃の思想を完成させたのが、実は、法然、親鸞、また別なところで日蓮といった仏教革命者たちであった。
>
だから・・
1 最澄が「形式的な天台の円戒に置き換え」
2 「比叡山延暦寺でこの天台本学論というものが発達した」
3 専修念仏だけで十分
・・・・の3つが1セットと解釈しました。
3に関しては・・・
>まず、異端だというのはどういうことかというと、本来の仏教では大変な修行を要求する。
そのうえ、善行、善果の積み上げをやりなさいともいう。
それから学問も重要ですよ、とこういうことをいっている。
>
ゆえに、3は、2とは別の理由で、「(小室説)の本来の仏教」ではありません。
そして1は、どういう理由で、「(小室説)の本来の仏教」ではないかが明確ではありません。
★
360ページの
>ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。
それこそが日本である。
その、とんでもない犯人は誰か。
それは誰であろう、伝教大師最澄である。
しかも彼が作った比叡山、日本仏教の総本山の中の総本山のようになったが、その元祖開山が形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまったのだ。
>
最後の文章の「形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまった」は、複数の解釈ができると思うのです。
補足資料として『日本人のためのイスラム原論』に目を向ければ、「天台の円戒に置き換え」についての詳しい記述があります。
けれど、『日本人のためのイスラム原論』の記述は、複数の意味で説明をしています。
そうすると、「形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまった」についての正しい解釈は、複数あることになります。
投稿: おおくぼ |
2010年2月 9日 (火) 11時09分
>おおくぼさん
>
『日本人のための宗教原論』を読んで、私は小室直樹さんの主張がおかしいと思いました。
ただ、古賀さんに反論を出された時に、『日本人のための宗教原論』にのみを典拠すると、記述量が少ないため、私の解釈の説得力が弱いと感じたのです。
私は自分の解釈が正しいと思っていますが、「自分の解釈は正しい」と言い張っても、平行線のままです。
>
主張を明確にするのと解釈を争うのとは違います。少なくとも前者(小室先生の主張のどこがどう間違っているか)については、ほぼ『日本人のための宗教原論』だけで明確にできるのではないかと言っているのです。
解釈を争う段階で他の資料が補足説明として必要になるというのはわかります。ただそれでも基本は、『日本人のための宗教原論』であるべきだとは思います。
>
この場合は、小室さんが「規範全廃の思想」として、セットで考えていると判断したからです。
>
小室先生が「戒律」と「教え」を明確に分けていないと考えているということでよろしいですね。
あとは
>
それでは
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「原始仏教が絶対」
ではなく
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」
の2つが矛盾するということでよろしいのですか?
>
と
>
比較2は新たな主張(C)「仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。」で、それが(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」と矛盾するということでよろしいですか?
それとも比較2は(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)「仏教は科学に近い」と(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の間ということですか?
>
に回答お願いします。
投稿: 古賀 | 2010年2月10日 (水) 00時13分
▼
それとも比較2は(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)「仏教は科学に近い」と(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の間ということですか?
に回答お願いします。
▲
回答は長くなるので、自分のブログに書きます。
★
>主張を明確にするのと解釈を争うのとは違います。少なくとも前者(小室先生の主張のどこがどう間違っているか)については、ほぼ『日本人のための宗教原論』だけで明確にできるのではないかと言っているのです。
>
小室さんの主張が間違っているかを判定するためには、小室さんの主張の解釈の共有が必要です。
そうしなければ、判定は噛合いません。
例えば・・・
『日本人の宗教原論』の・・・
>ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。
それこそが日本である。
その、とんでもない犯人は誰か。
それは誰であろう、伝教大師最澄である。
しかも彼が作った比叡山、日本仏教の総本山の中の総本山のようになったが、その元祖開山が形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまったのだ。
>
の解釈です。
これを「釈迦の決めた戒律を変えた」と解釈できます。
「釈迦の決めた戒律を変えた」という解釈も認めますが、それは二次的なことで、一番重要なことは、「外面的規範」から「内面的規範」に変えたということだと解釈しています。
そして、私の解釈に古賀さんが同意してもらわないと、小室さんの主張(最澄が・・・実質的に規範を全廃した)についての、真偽判定ができません。
また『日本人のための・・』における最澄の記述が少なすぎます。
私にとっては、『日本人のための・・・』の記述だけで十分だと思っていますが、今までの議論を思い出せばわかるように、私の解釈に古賀さんは説得力を感じていません。
だから小室さんの他の著作が、補足資料として必要になるのです。
投稿: おおくぼ |
2010年2月11日 (木) 14時00分
>おおくぼさん
>
回答は長くなるので、自分のブログに書きます。
>
そんな長い回答は主張を明確にするには必要ありません。
>
小室さんの主張が間違っているかを判定するためには、小室さんの主張の解釈の共有が必要です。
そうしなければ、判定は噛合いません。
>
例えば民事裁判における訴状や刑事裁判における起訴状と同じです。最初の段階では一方の主張が明確でありさえすればよいのです。解釈や争点についてはその後に議論していきます。
おおくぼさんは訴状提出の段階で訴状の内容に相手方の合意が必要と言っているようなものでナンセンスです。その段階では争いがあるのがあたりまえです。
「小室先生の主張にどこそこにこういう矛盾がある」というのは単なる議論の出発点です。しかしそこを明確にしない限りきちんとした議論はできません。
>
そして、私の解釈に古賀さんが同意してもらわないと、小室さんの主張(最澄が・・・実質的に規範を全廃した)についての、真偽判定ができません。
>
全くの勘違いです。「小室先生のここが間違っている」というおおくぼさんの最初の主張の段階で私の同意があればそもそも議論の必要がありません。争点を明確にし議論をして真偽判定をするのはその後のことです。
くりかえしますが私は議論の前提として「小室先生の主張のどこがこういう風に矛盾している」というおおくぼさんの主張をできるだけ簡潔に明確にしてほしいだけです。きちんと小室先生の主張のどことどこが矛盾しているのか、何が(A)と(B)にあたるのか説明してください。
私はまだおおくぼさんが『日本人のための宗教原論』の第7章において小室先生の主張のどことどこが矛盾していると考えているのかさえはっきりと了解していないのです。そんな状態でまともな議論ができるわけがありません。
>
私にとっては、『日本人のための・・・』の記述だけで十分だと思っていますが、今までの議論を思い出せばわかるように、私の解釈に古賀さんは説得力を感じていません。
>
繰り返しになりますがおおくぼさんは小室先生の主張のどことどこが矛盾しているのかさえまだ明確にしていません。説得力を感じる感じない以前の問題です。
投稿: 古賀 | 2010年2月11日 (木) 21時13分
>
例えば民事裁判における訴状や刑事裁判における起訴状と同じです。最初の段階では一方の主張が明確でありさえすればよいのです。解釈や争点についてはその後に議論していきます。
>
反論
反論 1 この議論は裁判ではありません。
裁判官はいません。
真偽を判定する法律もありません。
私と古賀さんの気持ち次第でどうにでも変わるのです。
私は、古賀さんが永井均さんや橋爪大三郎さん本を高評価している人と想定して議論しています。
言い換えれば、永井さんと橋爪さんの(倫理と法に関する)本の内容を基礎知識として持っていると信じて、議論しているということです。
例えば、同じ学歴で同じ世代の日本人同士て議論する場合と、そうでない場合人と議論するのでは、議論の仕方は変えないと議論は進みにくいです。
反論 2 最初の段階は過ぎていると思います。
ここで、もう一度最初の段階を振り返りましょう。
古賀さんの要約の最初の部分 ↓
▼
第7章日本人と宗教
☆小室直樹の意見
「仏教というのは、釈迦が定めたもうた「戒」を守る。それが仏教の根本ともいえる。唐招提寺を建立した鑑真和上(678〜763)が、千辛万苦をものともせず日本に渡来したのも、正しい戒を教えるためであった。それぐらい規範は仏教にとって大切である。ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。それこそが日本である。そのとんでもない犯人は誰か。それは誰あろう。伝教大師最澄(767〜822)である。しかも彼が作った比叡山、日本仏教の総本山の中の総本山のようになったが、その元祖開山が形式的な天台の円戒に、置き換えて、実質的に規範を全廃してしまったのだ。」 P359〜P360
ポイント
@ 仏教において釈迦が定めた戒律を守るのは根本ともいえる。
A 日本はその大切な戒律を全廃してしまった国である。
B その犯人といえるのは伝教大師最澄である。彼の作った日本仏教の総本山、比叡山は今までの戒律を実質的に全廃してしまった。
☆おおくぼの意見(1)
提示の前に、古賀さんの質問に答えます。
1 「最澄が戒律を実質的に全廃した」という主張に対して「そうではない」という意見なのですか?
「そうではない」と思っています。
小室さんの主張も間違いとは言えないのですが、強引かつ単純化されすぎています。
2「最澄が戒律を実質的に全廃した」のを日本の特殊性と考えるのに反対なのですか?
反対です。
最澄が小室さん言うような日本的な人物には思えません。
簡略した戒律を作った=日本的な人物・・という主張には同意できません。
この小室さんの主張は論理的です。
ポイント
@ 最澄は戒律を実質的に全廃していない。
A 「最澄が戒律を実質的に全廃した」のを日本の特殊性と考えるのに反対である。
☆古賀の意見(1)
【おおくぼの意見(1)の@に対する反論】
私は最澄の
1 「具足戒」の「円戒」への置き換え
2 授戒の儀式の簡素化
は戒律の実質的撤廃だけど、日本の仏教全体に対する影響はこの時点ではまだ限定的だろうという意見なのですが。
おおくぼさんも「円戒」への置き換えや授戒の簡素化自体は戒律の実質的撤廃と考えているということでよろしいのですか?
ポイント
@ 最澄の行った1 「具足戒」の「円戒」への置き換え 2 授戒の儀式の簡素化は、戒律の実質的撤廃といえる。
▲
議論が「議論以前の状態で混乱している」原因の多くは私にありますが、議論は相手の協力が必要なのです。
最初の主旨から外れてきているので、最初に立ち返るべきだと思います。
「おおくぼ」の前回のコメント ↓
▼
>例えば・・・
『日本人の宗教原論』の・・・
>ところが、その大切な規範を全廃してしまった国がある。
それこそが日本である。
その、とんでもない犯人は誰か。
それは誰であろう、伝教大師最澄である。
しかも彼が作った比叡山、日本仏教の総本山の中の総本山のようになったが、その元祖開山が形式的な天台の円戒に置き換えて、実質的に規範を全廃してしまったのだ。
>
の解釈です。
これを「釈迦の決めた戒律を変えた」と解釈できます。
「釈迦の決めた戒律を変えた」という解釈も認めますが、それは二次的なことで、一番重要なことは、「外面的規範」から「内面的規範」に変えたということだと解釈しています。
▲
だから解釈が問題なのです。
★
小室さんの「本来の仏教」の矛盾とは・・・・
A 釈迦の決めた戒律は変えてはいけない。
B 釈迦の決めた戒律を変えていい。
でも私にとって小室さんの最澄の記述に関しての、この小室さんの矛盾は、二次的な矛盾であり、重要な矛盾ではありません。
無視して構わない矛盾です。
私にとって無視できない矛盾とは、親鸞は「(私の解釈する)小室さんの定義の戒律廃止」をしていないということなのです。
ややこしいのですが、親鸞は戒律を本当に廃止することによって、「小室さんの定義の戒律廃止」をしなかったということが、私の主張です。
A 最澄は、「小室さんの定義する戒律廃止」をした。
B 親鸞は、「小室さんの定義する戒律廃止」はしていなかった。
だから、最澄と親鸞の両方共に戒律を廃止したと主張するのは矛盾。
投稿: おおくぼ |
2010年2月11日 (木) 22時02分
私は小室さんの矛盾を指摘しますが、一番指摘したいのは、歴史的事実に関することです。
歴史解釈の場合は、裏付ける事実が重要です。
それに対して哲学的な議論では、裏付けのための事実は重要ではありません。
「本来の仏教」を歴史解釈とみなすのか、哲学的な洞察とみなすのかで、事実の価値が変わります。
小室さんの文章 ↓
>
仏教では、初めに「如是我聞(私は、このように釈迦から聞いた)との一句さえつければ、誰でも、いつでも、自由にお経をつくることができた。
仏教の正典が決められてないない理由はいくつもあるが、1つには、釈迦の真説であると証明されたものは何1つもないことである。
それらの多くは、後世の創作らしいのである。
このようにいえば、必ず疑問がでよう。
どこの誰ともわからないような者が創作したようなものが、お経として通用するのか。
立派に通用するのである。
法華教はじめ、維摩経、般若経など、所謂大乗仏典は、みんな後世の創作であることが、いまでは、わかっている。
しかも、大切なお経として通っているのである。
その理由は、これらのお経が、釈迦の真説として立派に通ることが書いてあるからである。
インドには、超一流の哲学者や宗教家がワンサといる。
中国とでさえ比較にならない。
これらの哲学者、宗教家が目を通してみて、これはお経にふさわしい、これは駄目だなどと判定する。
お経にふさわしくないと判定された創作は、相手にされたくなくなる。
十分にお経にふさわしくしいと判断されたものだけが、お経として流布してゆくのである。
このように選別されて、大乗仏典は成立したのであった。
それらは、インドの超大学者、超大宗教家の厳しい篩(ふるい)にかけられているから釈迦の真意として信用できるのである。
このような解釈に納得できない人は、儒教の例がわかりやすいかもしれない。
例えば朱子(南宋の政治家、儒学者)である。
朱子は、古典の解釈に終始していた儒教に初めて哲学的方法を導入し、古典の研究方法を革新した。
略
孔子が本当に述べたことだけを孔子の真説だとする立場からすれば、この批判は当然であろう。が、宗教において大切なのは歴史的考証だけではない。
哲学的洞察のほうがより重要なこともある。
朱子は、哲学的洞察力において、先代の諸学者を遥かに凌駕している自信があったのであろう。
朱子が1600年も後に孔子の真意を洞察しえたとすれば、釈迦没後千数百年後に、その真意が伝わったとしても不思議ではあるまい。
大乗仏教の諸経典は、このようにして成立した。
いきおい、それは厖大なものとなった。
それらが中国へ伝来したとき、位置付けが最大の問題となった。
こんなにたくさんのお教があるが、どれがどれほど釈迦の真意を伝えているのであろうか。
そこで、中国では、教相判釈(教判)が問題となった。
教判とは、お経のランク付けである。
このような有様であるから、仏教では正典の確定は問題となりえない。
いや、正典という考え方さえない。
ここまでがお経であり、ここから先はお経ではないという境界がない仏教には、正典という概念はないのである。
『日本人のための宗教原論』
172〜174ページ
>
投稿: おおくぼ |
2010年2月11日 (木) 23時28分
>おおくぼさん
>
反論 1 この議論は裁判ではありません。
裁判官はいません。
>
勿論。
しかし裁判は議論モデルとしては適切だと思います。この場合それ以外に適切な議論モデルというのはないでしょう。
>
反論 2 最初の段階は過ぎていると思います。
>
あなたがきちんとした段階を踏まずに一方的に垂れ流しているものを私は主張として認めていません。
はっきり言ってあなたの主張は大雑把で言葉のてにをは程度で解釈が変わりかねないほどに不安定です。そんなものを元にきちんとした議論はできません。
それは小室先生の主張のどことどこが矛盾しているのかという単純な説明さえ言うたびにころころ変わり、全く明確でないことでも明らかです。
>
議論が「議論以前の状態で混乱している」原因の多くは私にありますが、議論は相手の協力が必要なのです。
最初の主旨から外れてきているので、最初に立ち返るべきだと思います。
>
そのために「小室先生の主張のどことどこが矛盾しているか明確にしてください」と言っているのです。それに対してあなたの言うことがころころ変わるのが問題なのです。
>
ここで、もう一度最初の段階を振り返りましょう。
>
こんなところでそれをする必要はありません。そのために『日本人のための宗教原論』議論用を作って議論の進行状況がわかりやすいようにしているのです。かえって混乱をまねきます。
▼
小室さんの「本来の仏教」の矛盾とは・・・・
A 釈迦の決めた戒律は変えてはいけない。
B 釈迦の決めた戒律を変えていい。
でも私にとって小室さんの最澄の記述に関しての、この小室さんの矛盾は、二次的な矛盾であり、重要な矛盾ではありません。
無視して構わない矛盾です。
私にとって無視できない矛盾とは、親鸞は「(私の解釈する)小室さんの定義の戒律廃止」をしていないということなのです。
ややこしいのですが、親鸞は戒律を本当に廃止することによって、「小室さんの定義の戒律廃止」をしなかったということが、私の主張です。
A 最澄は、「小室さんの定義する戒律廃止」をした。
B 親鸞は、「小室さんの定義する戒律廃止」はしていなかった。
だから、最澄と親鸞の両方共に戒律を廃止したと主張するのは矛盾。
▲
第7章における小室先生の矛盾する主張を(A)と(B)という形で明確にしてほしいと言っているのですよ。この場合のAとBは矛盾しているわけではありませんね。
しかもこれは
▼
>
それでは
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「原始仏教が絶対」
ではなく
(A)「仏教は科学に近い」
(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」
の2つが矛盾するということでよろしいのですか?
>
と
>
比較2は新たな主張(C)「仏教徒である限り何かこれだけ絶対に信じなければならない、やらなければならない、というものがない。」で、それが(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」と矛盾するということでよろしいですか?
それとも比較2は(A)「仏教は科学に近い」についての説明で、矛盾はあくまで(A)「仏教は科学に近い」と(B)「釈迦が定めた戒律を絶対に守る」の間ということですか?
>
▲
という私の質問に答えたものにもなっていません。このようにその時その時で適切な回答や反論をせず、自分が言いたいことばかり言うから議論が混乱するのです。
なぜ議論の前提となるべき「小室先生の(A)という主張と(B)という主張が矛盾している」というおおくぼさんの説明がこれほどまでに混乱していて明確でないのか不思議です。おおくぼさんが言い出したことですよ?
自分の主張(この場合は「小室先生の(A)という主張と(B)という主張の矛盾」)を明確にすることは議論のイロハのイです。そんな単純なこともできないのに、どうしてきちんとした議論ができるでしょう。前提から間違ってます。
再度私の質問にきちんと答え、(A)と(B)を明確にするよう求めます。
>
私は小室さんの矛盾を指摘しますが、一番指摘したいのは、歴史的事実に関することです。
>
それであれば小室先生の矛盾についての指摘がいいかげんでもいいということにはならないでしょう。
投稿: 古賀 | 2010年2月12日 (金) 07時01分
私は古賀さんの主張が全く理解できません。
暗中模索というか、ここまで噛み合わないことは珍しいです。
噛み合ったと思ったら、「どうやら誤解だった」と気づくばかりです。
私に対する批判も、的外れとしか思えません。
私の悪い点は、一回のコメントに多くのことを書きすぎることです。
古賀さんは、私のコメントを丁寧に読解しようとせず、対応関係になっていない記述を自分勝手に繋げて、批判したり、「答えになっていない」と言っているだけです。
また私には古賀さんの小室直樹さんの本をどのようなルールで読んでいるのかわかりません。
違うルールで読めば、解釈が違うのは当然です。
偶然、一致することはあっても、それはあくまで偶然です。
>あなたがきちんとした段階を踏まずに一方的に垂れ流しているものを私は主張として認めていません。
>
私も古賀さんも互いに自分の言いたいことを大声で叫んでいるだけに思えます。
そんなのは議論以前の状態であり、進展することはないでしょう。
実際、コメントが増えれば増えるほど、混乱の度合いは深まるばかりです。
私には古賀さんのいいたいことが理解できませんし、古賀さんには私の言いたいことを理解しようとする意思が感じられません。
私は議論になってない議論でも、自虐的に楽しむ性格なので、続けていますが、まだ続けますか?
投稿: おおくぼ |
2010年2月12日 (金) 11時03分
議論は、議題と議論のルールを明確にしなければいけません。
裁判とは違って、進行係も審判もいません。
小室さんの「最澄が戒律を全廃した」という主張を、どう解釈するかということがメインの議題だったはずです。
それを忘れて、別の議論に横滑りしては、混乱するだけです。
投稿: おおくぼ |
2010年2月12日 (金) 11時12分
>小室の考えでは「釈迦が定めたもうた戒律」から大きく変化してしまえばたとえ戒律があっても「実質的撤廃」といえる。
>
この古賀さんの主張には同意できませんし、古賀さんは、「釈迦が定めたもうた戒律」を「原始仏教の戒律」と解釈しているのではないでしょうか?
まず、そこがわからないと議論ができません。
★
私が小室さんの矛盾だと考えているのは・・
A 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。
B 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです。
AとBは矛盾です。
小室さんの公理は、仏教は「法前仏後」であり、法に沿っていれば、戒律は変更してもいいということです。
仏教に正典がないのも、その理由からです。
仏教が「科学に近い」という主張も、「法前仏後」だからです。
これは、あくまで私の解釈する小室説の仏教です。
投稿: おおくぼ |
2010年2月12日 (金) 11時42分
>おおくぼさん
>
私の悪い点は、一回のコメントに多くのことを書きすぎることです。
>
わかってるならやめなさい。何度もいちいち言わせない。それが議論が混乱する一番の原因です。
>
古賀さんは、私のコメントを丁寧に読解しようとせず、対応関係になっていない記述を自分勝手に繋げて、批判したり、「答えになっていない」と言っているだけです。
>
何かずっと勘違いしてるんようですが、私はおおくぼさんの主張が明確じゃないから明確にしてくれと言っているだけなんですよね。それに対しておおくぼさんは正面から返答せずに不必要なこと無駄なことばかり言うから議論が混乱するんです。
私は単に確認作業をしているのです。
>
私のコメントを丁寧に読解しようとせず、対応関係になっていない記述を自分勝手に繋げて、批判したり、「答えになっていない」と言っているだけです。
>
はっきり言って他人が自分の意見に同意してくれないために逆ギレして文句を言っているとしか思えません。そもそも支離滅裂な主張を丁寧に読解したり、きちんと対応関係をつけたりするのは無理な相談です。
私は確実に推論をすすめたいから出発点となる「小室先生の(A)という主張と(B)という主張を明確にしてくれ」と言っているだけです。言い換えればおおくぼさんの支離滅裂な主張を誰にでもわかる簡潔で明確な主張にしてくださいと言っているのです。
私の指示におおくぼさんがきちんと従ってくれてそれでも議論が混乱するなら私にも責任があると言えるでしょうが、おおくぼさんはまるで私の指示に従わず一方的に意見を垂れ流しているだけです。だから議論が混乱する責任はおおくぼさんにあります。
>
小室さんの「最澄が戒律を全廃した」という主張を、どう解釈するかということがメインの議題だったはずです。
>
メインの議題は「おおくぼさんの考える小室先生の主張のおかしな点」です。
だからおおくぼさんに「小室先生の主張がどこがおかしいか。どこが矛盾しているか」を明確にしてくださいと言っているのですよ。
私はおおくぼさんの自説なんかに大して興味はありません。「小室先生の主張がおかしい」と言うのでそこを明確にしたいから議論につきあっているだけです。
◎『日本人のための宗教原論』議論用に議論の進行状況をわざわざ残しているのは、議論の混乱の原因がどこにあるのかを明確にする意味もあります。
あなたはいくら言っても不必要なコメント無駄に長いコメントをやめませんし、こちらの質問に対してもきちんと答えません。あろうことか答え(小室先生の矛盾する主張(A)と(B))が毎回違っていたりもします。
そして最終的に「古賀さんに議論のやり方が悪い」というのもお決まりです。
あなたが自分勝手な支離滅裂な主張を一方的にくり返すだけだから議論が混乱するのです。
あなたがこちらが質問に対し無駄なことや不必要なことを言わずに簡潔かつ明確に返答していればちゃんと議論は進行するのです。あなたの主張を明確にし、議論をやりやすくするために質問しているのですから。
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私が小室さんの矛盾だと考えているのは・・
A 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。
B 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです。
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具体的にAの主張とBの主張は『日本人のための宗教原論』のどこに書かれているのですか?
>
小室さんの公理は、仏教は「法前仏後」であり、法に沿っていれば、戒律は変更してもいいということです。
仏教に正典がないのも、その理由からです。
仏教が「科学に近い」という主張も、「法前仏後」だからです。
これは、あくまで私の解釈する小室説の仏教です。
>
このへんの説明は現時点では不必要です。(A)と(B)が明確になってからでないと議論が混乱します。すでにここでのおおくぼさんの主張にはおかしな点がありますが今は深入りしません。まず主張を明確にすることが先決です。
その時点での議論の進行に合わない主張はいくらおおくぼさんが言ったつもりになっていても私はスルーします。ちゃんと段階をおって提出してください。
再度確認:現在の宿題
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私が小室さんの矛盾だと考えているのは・・
A 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してはいけない。
B 「釈迦が定めたもうた戒律」を変更してもいいです。
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具体的にAの主張とBの主張は『日本人のための宗教原論』のどこに書かれているのですか?
おおくぼさんの言う「小室先生の(A)という主張と(B)という主張が矛盾している」の(A)と(B)が明確にならない限り、私は議論を先に進めませんのでそのつもりで。
投稿: 古賀 | 2010年2月14日 (日) 08時26分
>おおくぼさん
(1)
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私に対する批判も、的外れとしか思えません。
>
私は単にあなたの主張を明確にしてほしいだけで、明確になっていないから「きちんと明確にしてください」と言っているだけです。
それは議論の進行状況を見れば明らかです。
(2)
>
また私には古賀さんの小室直樹さんの本をどのようなルールで読んでいるのかわかりません。
>
私は単にあなたの言う「小室先生の主張の矛盾点」が明確になってからそれに同意するなり反論するなりしようと考えているだけです。
(3)
>
私も古賀さんも互いに自分の言いたいことを大声で叫んでいるだけに思えます。
そんなのは議論以前の状態であり、進展することはないでしょう。
>
これは言葉を大にして言いますが「自分の言いたいことを大声で叫んでいるだけ」なのはあなたであって私ではありません。
私は単にあなたの叫びを普通の人間にもわかるように整理しようとしているだけです。
そのために私は現時点ではできるだけけ自分自身の積極的な主張は差し控えています。
(3)
>
私には古賀さんのいいたいことが理解できませんし、古賀さんには私の言いたいことを理解しようとする意思が感じられません。
>
というか私はおおくぼさんの言うことを理解するための主張の整理以外のことはほとんどやってません。良く読めばわかりますが、私はおおくぼさんの意見を理解するための補助線として意見を言っているので、私自身の意見を積極的に主張しているわけではありません。
おおくぼさんにとってはどうも自分の意見に同意しないことが即「理解しようとする意思が感じられない」ことになるようですね。
(4)
>
私は議論になってない議論でも、自虐的に楽しむ性格なので、続けていますが、まだ続けますか?
>
とりあえず議論の出発点である「小室先生の主張の矛盾点」ぐらいは明らかにしてほしいですね。
いちいち的外れな反論はしないように。私は繰り返し言っているように「おおくぼさんの考える小室先生の主張の矛盾点」を明確にしてほしいだけです。
投稿: 古賀 | 2010年2月14日 (日) 10時35分
>おおくぼさん
これ以降は『『日本人のための宗教原論』他議論用3』の方にコメントお願いします。
投稿: 古賀 | 2010年2月14日 (日) 12時06分
>おおくぼさん
これ以降は『『日本人のための宗教原論』他議論用3』の方にコメントお願いします。
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あなたには人の言っていることを理解する脳味噌がこれっぽっちもないんですか?
削除します。
もう少し人の言うことを理解する術を身につけなさい。
過去ログを整理してから『『日本人のための宗教原論』他議論用3』をあげるつもりです。
投稿: 古賀 | 2010年2月14日 (日) 12時30分