前回のままじゃあまりにあまりなので、アンチ・ミステリーの説明ぐらいしたいと思います。自信ないけど。
歴史的には昭和39年、講談社版『虚無への供物』の前書きに《アンチ・ミステリー、反推理小説》なる言葉が出てきたのが最初のようです。その後、昭和50年代の探偵小説ブーム時に『匣の中の失楽』の竹本健治、矢吹駆三部作『パイパイ、エンジェル』『サマー・アポカリブス』『薔薇の女』の笠井潔が輩出してアンチ・ミステリーの旗手と呼ばれ、さらに遡って『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』までもアンチ・ミステリーの範疇に入れられるようになりました。
十年翻訳を待たされたウンベルト・エーコ『薔薇の名前』もイタリアン・アンチ・ミステリーです。(<SR MONTHLY>251号特集・『薔薇の名前』を参照してください。本当はこれについては意見保留にしておきたかったんだけど、SRの会会員として私が沈黙を守ることは許されても、SF研OBとして何も言わないことは立場上到底許されないので、無理矢理書いた原稿です。『薔薇の名前』に関心のある方にはこのコピーを送りつけることにしています。既に蛸井君のとこへは送りました。)
これらの作品はまず量的に膨大。さらに極端な形式の偏重と内包する思想・哲学・宇宙論のために自らを崩壊させている。謎は解かれる。しかしその後により深い謎が残る。犠牲者の血は流れる。だが見えないところでより多量の暗い血が流れる。誰が犯人で誰が被害者かもわからない。探偵たる読者は黄昏の迷宮の中で途方に暮れ、天からの轟きを聞く。お前が犯人だ、と。
アンチ・ミステリーの特色はその小説としての虚構性をとことんまで追及したところにあります。一つは叙述トリックの極限化。『アクロイド殺害事件』などに見られる叙述トリックが、そこに書物があるという前提から出発して行きつくところまで過激に極められています。『ドグラ・マグラ』の循環構造、『虚無への供物』の小説内小説、『匣の中の失楽』の入れ籠構造等。もう一つは探偵小説自身の非現実性の暴露、誰もが思う素朴な疑問。そんなに考え抜かれた犯罪なんて存在するものだろうかとか、探偵役の堆理がこうも都合よく的中するのはおかしいとか。それを逆手にとったところに『虚無への供物』や『薔薇の名前』は成立しているのです。そうそう、笠井潔によると『黒死館殺人事件』もその伝だね。アンチ・ミステリーのラディカルさはひょっとするとSFをも凌ぐかもしれません。(こんなこと書くとまた怒られるかな。)
で、順番としては笠井潔のミステリー論を紹介しなけりゃいけないわけですが、これが難しい。笠井潔によると全てのミステリーはアンチ・ミステリーだそうだ。(因みに夢野久作は近代以降の全ての小説は探偵小説だと言っており、それはそれで面白いのだが、その話をしだすとただでさえわかりにくい話が余計に収拾がつかなくなるのでここでは触れない。)
ミステリーは幻想と現実を「謎−分析」の均衡、そして自己言及性とメタ・フィクション性の二重性において統一する、というのが彼の説です。「謎−分析」の均衡とは、全ての謎が解かれたのちにもなお残る過剰なもののことを示します。「モルグ街の殺人」が何故傑作なのかは、密室の謎が解かれたことにより、石壁に囲まれた部屋がもはや安全でないことを保障するからであり、『Yの悲劇』は真犯人の解明により[二字抹消]とは無害で保護されるべきものという日常生活意識を破壊しつくすという意味で傑作なのです。自己言及性とは、先行作品への言及やら見立て殺人、筋書殺人といった「ミステリーを演じるミステリー」という性格を指します。自己言及性を追及することによりミステリーは「閉じる」方向に進み、その極限において「脱する」(メタ・フィクション化する)のです。
ミステリーは、トリックとしての謎を合理的に解明することにより本来の謎をより際立たせるということ、そして徹底的に閉じることにより徹底的に脱するということの二重の自己矛盾を負っており、その意味でアンチ・ミステリーなんだそうなんです。そんなものが安定に存在するはずもなく、ミステリーは常に絶えることなく危機を強いられている稀有なジャンルだというわけです。
やっと笠井説の紹介ができたので肩の荷が降りた思い。途中経過はどうあれ、推理小説の危機が構造的なものだという結論がいいですね。その危機をのりこえる新作が期待できるということだもの。なんか元気が出てくるじゃないですか。
笠井潔氏は矢吹駆シリーズ第四弾『哲学者の密室』を<EQ>'91.3より連載の予定。評論に負けぬ筆の冴えを心待ちしています。