【3】探偵小説論の試み
<霧笛>1号、というかそれになってしまった手紙に書いたとおり、「綾辻なんて大嫌い宣言−探偵小説の稚気について」という原稿を二枚と一行書いたのですが、挫折してしまいました。その中身は全然まとまってないんですけど、その断片を書いてみたいと思います。煮つまったら<SR MONTHLY>に投稿してもいいし。
私は昔から本格探偵小説の神髄は遊び心にあると思っていました。私の好きな作家、G・K・チェスタトン、A・パークリー、J・D・カー、あるいは10年前の辻真先は、みな遊び方に長けた人々です。だが、遊び心だけではやはり大好きな日本戦前探偵小説を説明できません。その両方を統べるキーワード、それが"毒"です。探偵小説の稚気は毒を含んだ稚気なのです。
そう思うようになったきっかけは、鑑みるに笠井潔の一連の評論にあります。(「『虚無への供物』という「犯罪」」(<幻想文学>'84冬)、「日本幻想作家論・夢野久作/観念と循環する意識」(<幻文>'85秋)、「同・小栗虫太郎/物語の迷宮・迷宮の物語」(<幻文>'87春、以上三編『物語のウロポロス』(筑摩)収録) 笠井潔(そういえば蛸井潔と一字違いだな)の評論は面白いけど難しくてよくわからない。それが最大の障害になって挫折してしまったわけですが、そうこうしているうちに島田荘司『本格ミステリー宣言』(笑)に対抗して笠井潔「アンチ・ミステリー宣言」(<EQ>'90.5)が出されてしまう。<EQ>'90.9では特別対談「ミステリーのコードを破壊せよ」島田荘司×笠井潔が組まれてしまうし、さらに次号では井上夢人、綾辻行人、歌野晶午をも加えた特別座談会報告が予告されている。事態は風雲急を告げる(笑)。
さて、話をもとに戻して笠井潔の主張とは、《探偵小説は自己矛盾的な形式であり、常に危機にあることをその本質とするジャンルである》 なんのことか、わかりますか。これだけじゃわからないだろうな。説明するにしても難しいし、それより原本を読んでいただいた方が面白いはずです。う−ん、また挫折かあ。
気をとり直して。そもそも探偵小説とは、本来厳粛なものであるべき人の死を娯楽のタネにしたものだから、ある種の(ブラックユーモア的な)毒を持っているのは違いありません。だが、それよりもっと重要なこと。探偵小説が他の分野と全く異る特徴、それは、読者がポオ以来の全ての探偵小説を読んでると想定されていること。こんなジャンルが他にありますか。そのため、必然的に探偵小説は伝承の文学となります。名探偵と語り手の存在、いくつかのトリックの型など、探偵小説はポオとディケンズによって完成させられたと言っても過言ではありません。
では、後継者は何をするか。型をくずすのです。伝承と破壊の二律背反。探偵小説の稚気には宿命的に自らの存在を虚無へ化そうとする強烈な毒があるのです。実作者が本式にその矛盾と向き合うようになったのはリアリズムが要求されるようになった第二次大戦後ですが、まだのどかな黄金時代の1929年に行きつくとこまで行ってしまった恐るべき作品が一つあります。それはA・パークリーの『毒入りチョコレート事件』。一つの事件に六通りの解決を示し、自分のお抱え探偵に大失策をさせたこの作品は、要するに探偵小説が本来成立し得ないことを声を大にして言っているようなもので、中井英夫や笠井潔のニュアンスとは違うけど、やはりアンチ・ミステリーと呼べるでしょう。
というわけでまた笠井潔が出てきてしまったんだなあ。アンチ・ミステリーが何かというのも難しい問題ですが、私見として、過剰であること、寓意を持つこと、破綻があること、それに良くも悪しくも時代の産物であることの四要素を挙げておきましょう。
五年前初めて笠井潔や竹本健治の作品に親しんだとき、アンチ・ミステリーと化すことによってのみ、ミステリーは現代社会の毒に対抗できると思ったものでした。同時に島田荘司『占星術殺人事件』は確かに面白いけどいつまで続くだろうかと思いました。実際行き詰まっちゃいましたもんね。それから、私が有栖川有栖『孤島パズル』を高く評価しているのは、"開かずの密室"や"解読不能のダイイングメッセージ"のくだりにアンチ的な視線を感じるからだという話もあるんですが、すでに自分で自分が何を書いているかわからない。