本名藤田優三。関西電力勤務。『船富家の惨劇』ただ一作にて日本探偵小説史に確かな足跡を刻んだ人物。
この作品を戦前の探偵小説界が生んだ貴重な本格長編と聞きながら、私は読む前に不安を抱いていました。フィルポッツの影響を強く受けたとも聞いていたから『赤毛のレドメイン家』そっくりじゃないのかと。幸いなことにその不安は空振りでした。冒頭の殺人はかなり似ていたものの、作中の探偵南波喜市郎は五十頁程で被害者=犯人のトリックを見破ります。そしてその類似性そのものも後に真犯人の仕掛けたものであることがわかります。
しかし、そんなことより、紀州の自然描写に感心しました。現場より一歩外に出たら、或いは宿の内にいてさえも、晴天時の海の蒼さ、複雑な海岸線の絶景さ、草いきれ、かつまた暴雨風と浪の咆哮までありありと迫ってきます。私は南紀が好きなんだよお。天藤真『大誘拐』を読んで以来。パノラマ島もあの近辺だったな、そういえば。
そして、大和アルプスへ逃げ込んだ犯人二人の追跡行にて自然描写とスリルの高まりはその頂点を迎えます。誰もが感嘆するその筆の冴え。これだけでもう傑作の太鼓判を押してしまいます。
欠点もあるけど戦前を代表し、浜尾四郎『殺人鬼』と並ぶ傑作です。(両者共通の欠点は犯人がすぐわかること。困ったもんだ。)
『瀬戸内海の惨劇』と戦後の「黒潮殺人事件」も自然描写と殺人との対比が感銘を与えます。特に幕開け。孤島の岩山でトビについばまれる凄惨な死体。霧の中から出現した死人が漕ぐ釣舟。
本格的な筋立ても忘れられてはいません。でも、両方とも急ぎ過ぎ。特に前者はこんな本格物に慣れていない編集部から、まだ連載が終わらないか、もう勘弁してくれ、とせかされたそうだからしょうがないんでしょうが。それだけ書下しで世に出た『船富家』は突出した存在だったんですねえ。
『霧しぶく山』も聖地大峯山系を舞台としその描写が凄い。だけど、これは本格ではなく猟奇でした。かなり趣味が悪い。私は乱歩の趣味の悪さは結構好きなんだけど、これはなじめませんでした。
昭和五十三年、幻影城に遺作『灰色の花粉』が載りました。とにかくそういうものが読めたということは嬉しいが、傑作とはとても言えない。