筆者が大好きな探偵小説と特撮。ある日この二つがあまりにも似ているのにふと気付いた。
ミステリーは寓話だと前にも述べたことがある。ある見方からは神話とも言える。悪魔のような犯人が跳梁し無辜の民を虐殺する。それを妨げようとするのが神のしもべである名探偵。善と悪との二項対立。
特撮もそれと同じ。両者はヒーロー物との共通項でくくることが可能である。だが、それだけではいくらなんでも表面的。
ところが、ミステリーの方では、全てを見通す神の立場にある探偵というものが非常に胡散臭い種族であることがもうギョーカイの常識となっている。初期の明智小五郎は暇を持て余した高等遊民であり、「屋根裏の散歩者」郷田三郎と同族であった。後期の明智は主人公である犯罪者の解説者兼幕引き役に過ぎない。また、ブラウン神父の探偵方法は神学的な修行法を用いて犯罪者の気持ちになりきることであった。大ロンドンの盟主、シャーロック・ホームズを始め、探偵とは健全な市民生活からのはみ出し者であり、犯罪者という記号と完全に交換が可能である。
幾多の特撮ヒーローもそうである。どんな外観をしていようとも彼らは本質的に異形の者である。ウルトラマンの企画時の最初の設定は怪獣ベムラーだった。仮面ライダー本郷猛は悪の秘密組織ショッカーに改造された怪奇バッタ男である。そしてまた、ジャイアントロボ,変身忍者嵐,人造人間キカイダー,アクマイザー3,レッドバロン,大鉄人17,ロボット刑事Kと数え上げると、いかにその出自が悪に由来するヒーローが多いか、改めて驚嘆せざるを得ない。彼らが人類の味方についたのは多くが単なる行幸の産物に過ぎない。また、悪の側に取り込まれることもたびたびである。ヒーロー/怪人怪獣もやはり探偵/犯人と同じく一枚のコインの表と裏なのである。
そしてまた善と悪という概念自体も絶対的なものでは全くない。ミステリーが伝承と破壊の対立、謎と分析の均衡によりアンチ・ミステリー化していることを既に述べてきた。善悪の相対化もミステリーの解体、アンチ化に拍車を掛ける重要な要素である。例えば後期エラリー・クイーンは解明すべき謎、倒すべき悪を失いながらなおもその苦闘を続けていったのである。
特撮における善悪も実に揺らいでいる。ウルトラシリーズだけを例にとっても、「故郷は地球」(ジャミラ),「ノンマルトルの使者」(ノンマルトル,ガイロス),「怪獣使いと少年」(メイツ星人,ムルチ)等々と善悪の逆転あるいは相対化を描いた作品群が存在する。ヒーローの存在意義に刃を突きつけるようなこれらの作品があったからこそウルトラシリーズは傑作となりえたのだ。
共通点はまだある。探偵小説は近代になって初めて生み出された都市小説の一種であると言われている。さらに正確を帰して都市破壊小説と言った方がいいのかもしれない。「モルグ街の殺人」を例にとれば、当時文明の最先端で安全この上ないはずのパリのとあるアパートの一室が、一瞬のうちにボルネオのジャングルに転換してしまうのである。明るさがあればこそ闇の暗さはいよいよ深い。このように近代都市住民の価値観を崩壊させることを目的として探偵小説は生まれてきた。
一方、都市破壊と言ったらこれはゴジラしかない。初代ゴジラは米軍の想定本土上陸経路に沿って進撃し、帝都東京を灰燼に帰せしめた。怪獣映画に必要不可欠なものはやっぱり都市破壊である。人間が築いた文明と繁栄の象徴である都市、これを破壊する存在こそが怪獣なのである。だからこそ新宿の高層ビル街を道に沿ってしか歩かなかった新作ゴジラに筆者は激怒した。
ともあれ都市破壊を描くという共通の目的を持つ意味では探偵物と怪獣物は現代の黙示録だと言っても決して過言ではない。
それにしてもなぜ両者はこんなに似ているのだろうか。
未開種族の伝承あるいは子供のための御伽話に人間世界のどれほどの真実が含まれているかは想像を絶するものがある。探偵物、怪獣物といった大衆文化、低俗であろうと通俗であろうと、だからこそその混沌の中から根元的な真理が現れるのだ。
探偵物と特撮ヒーロー物、これらは悪魔と天使の間に位置する我々人間が生み出した新たなる神話なのである。
上記の稿は殆どの部分が「ゴジラv.s.モスラ」を見る前に書かれたものです。何というか、現代に怪獣映画を甦らすのは、探偵小説を復活させるのよりもずうっと難しいのかも知れない。ああ、怪獣映画の芭蕉たるものは誰ぞ。好漢大森一樹、果して芭蕉の惨苦を悩むの気魄ありや否や。ねーだろーなあ。