スペインの宗教裁判のように

スペインの宗教裁判のように

******ねたばれ注意******

 久々に友人達と洒を飲んで雑魚寝した翌朝、「モンティ・パイソン」のLDを見た。そこではスペインの宗教裁判をギャグに使っていた。登場人物が「スペインの宗教裁判のようにチンプンカンプンだ」などと口走ると、いきなり赤い衣装の三人組が現れて異端審問を始めるのである。「いつでもどこでもスペインの宗教裁判!」笑いながら思い起こした。「薔薇の名前」はイタリアの宗教裁判の話だったっけ。
 どうもピンと来なかったというのが初読以来の正直な感想である。舞台や時代背景にあまりなじみがなかつたせいではない。山上の僧院での七日間はたまらなく魅力的である。「スペインの宗教裁判のように」わけがわからないというわけでは勿論ない。だが、一先ず割り切れなかったところはさて置いて、アンチ・ミステリーとしての視点からこの物語を検討してみたいと思う。

 本邦には戦前からアンチ・ミステリーという黒い文学上の系譜が存在する。これがなぜミステリーの先進地英米で生じず、日本やイタリアのような辺境で花開いたのかも興味のあるところではある。アンチ・ミステリーにはその量的な膨大さを最低の条件とし、他にいくつかの特色がある。
 第一に過剰であること。舞台の僧院はこの世の全ての事物を含む小宇宙である。延々と神学論争は続き、皇帝派と教皇派は対立し、異端の秘蹟は語られる。七日間に詰め込まれた意匠の数々には圧倒されざるをえない。また、本書は箴言の宝庫でもある。頁のあちこちに実に魁惑的なフレーズが散見する。例えば師弟の間に交される次の会話。


 第二に寓意を持つこと。探偵小説という文学形式はその中で哲学や宇宙論を語ることができるのだ。私が探偵小説を愛する理由の一っはそれである。本書で語られているのが世の終りと反キリストの出現であることは論を待たない。
 また、最後に明かされる毒殺トリックがあまりにも古いので呆れてしまったが、どれくらい古いか思い出してみると、これは「アラビアンナイト」にあったトリックではないか。さらに冒頭、バスカヴィルのウィリアムが青毛の馬ブルネッロについて鋭い推理の一端を窺わせる場面はヴォルテールの『ザディグ』に酷似している。ポオ以前の作品の趣向を借りてきたところに作者の推理小説に対する何 らかの寓意が感じられる。
 それから、本書と同様、ヨハネ黙示録の見立て殺人と中世の異端を扱った『サマー・アポカリプス』が一年をおいて発表されたことは偶然ながら興味深い暗合である。

 第三に破綻があること。優れたミステリーがアンチ・ミステリーに反転するためには何らかの破綻がなくてはならない。それは探偵側あるいは犯人側の破綻の場合もあるし、作者の破綻のこともある。ここでは探偵役が間違った図式を追って真犯人に到達してしまったことだ。犯人がいなかったことは『虚無への供物』にも似て、ミステリーが本来成立しえないことを思わせる。これについては記号論的解釈とかいう勿体振ったものが何人かによってなされることであろう。

 第四に良くも悪しくも時代の産物であること。『ドグラ・マグラ』には来たるべき戦争への予感が垣間見えるし、『虚無への供物』は大量死の時代への抗議の叫びだった。『匣の中の失楽』では全編にモラトリアム世代の物憂さが漂っていた。『薔薇の名前』は舞台を一四世紀にとっているが、六百年後の現代イタリアが透視できるはずである。作者自身がモーロ事件に触発されてこの物語を執筆したと言明までしているのだから。ドルチーノ修道士の反乱と死のくだりは確かにそうだった。だが、肝心の犯人の動機はどうだろう。影の文書館長ホルヘ・ダ・ブルゴスが七人の修道僧を殺害してまで守り通したのは、アリストテレース『詩学 第二部』だった。この本が一般に知れ渡り、笑いが武器にまで研ぎ澄まされるとキリスト教世界の秩序を保ってきた恐怖が失われかねないからだ。これは当時においては充分迫真性のある動機である。だが現代人にとってはどうだろうか。単にそれだけではそんなに深刻なものは感じ取れない。現代にも通じる普遍的な意味が何か存在するはずである。私にはそれがわからなかった。その点が解決されない限り、私にとって本書はピンと来ない評価不能のものであり続けることだろう。

 なお、最後に本書の最大の特色は、本書が書籍と図書館についての書であることであろう。世界の横造を摸した文書館の迷宮は本書で最も魅力的な装飾物であり、文書館炎上が本書の終結となる。この文書館はボルヘス「バベルの図書館」に由来するとのことだが、黒死館の書庫にも影響を与えたグリーン家の書架が影を落としていることも間違いなかろう。

 何か「スペインの宗教裁判のような」たわごとばかり述べてきたような気もしないではないが御容赦願いたい。なお、私は映画版『薔薇の名前』をまだ見ていないのでそれがこれから漸く見られるかと思うと非常に楽しみである。



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