江戸川乱歩・101年目の総括

江戸川乱歩・101年目の総括


 江戸川乱歩(1894.10.21-1965.07.28)

 私の32年間生きてきた人生において、メンタル面で強烈な衝撃を与えた事件が二つ存在する。そのひとつは江戸川乱歩との出合いである。
 今でも忘れえない。臙脂色の布で装丁された春陽堂版江戸川乱歩全集。栃木高校の図書館の書庫に密やかに鎮座していたそれ。欧米ものばかりを読んでいた駆け出しミステリファンの高校生。たまには日本のものも読んでみるか。そんな軽い気持ちで借り出したその本たち。そして与えられた衝撃。こうもがらりと嗜好が変わったものか。
 強烈なその感覚。闇のなかを蠢くものたち。数々の悪徳。変身願望、覗き見願望、死体玩弄、同性愛趣味、レンズ愛好、人形偏愛。
 怖い、気色悪い、凄惨、グロテスク、残虐、悪趣味。だが、そのなかに感じる不思議な心地よさ、懐かしさ。
 とっても臆病で恐がりの高校生はいつしかそんな世界の虜になっていた。

 乱歩の作品はいくつかに分類できる。初期の傑作短編群、通俗長編、少年探偵団シリーズ、そして随筆評論。従来、創作の中では初期短編のみが絶賛され、通俗長編はまっとうな評価には値しないものとされてきた。だが、近年そんな通俗ものをも評価する動きが出てきている。そう、乱歩的な体臭はこちらの方がより強烈であるとも言えるのだから。そしてそんな乱歩的世界こそが実はユートピア なのではないか。

 特に乱歩体験に限ることなく、探偵小説、推理小説嗜好はある意味では精神的に負の体験である。探偵小説は成立以来一貫して人間のネガティブな面ばかりを追求してきた分野である。これは本格であれ変格であれ変わりようがない。ありとあらゆる角度から人間の盲点を突くことにしのぎを削り、より圧倒的な悪を語ることに情熱を傾き続けてきた。書く方も読む方もどんどん人が悪くなっていっ ても不思議はない。
 だが、特にその中で江戸川乱歩作品との接触が乱歩体験と称されるまで一般化されてしまっているのは、やはり乱歩という作家の特異性であろう。
 乱歩作品は懐かしい。これは単に昔の作家だからではない。乱歩の「陰獣」が<新青年>に掲載されたときに編集長横溝正史がつけた惹句が既にもう《懐かしの乱歩》だったという。江戸川乱歩という作家の作品は現役のときから懐かしさをたたえていたのだ。
 乱歩の随筆に「残虐への郷愁」というタイトルのものがある。大蘇芳年の無残絵からギリシャ悲劇や旧約聖書に至るまでを例示し、それについての思い入れを切々と語ったものだ。現実の犯行現場の写真などはただ嘔吐を催すばかりだ。だが、夢の世界に投影された残虐は不思議な懐かしさとともに享楽することができるという。乱歩作品への懐かしさ、郷愁もやはりそれと同根のものではないのか。
 乱歩作品には何か人間の存在の根源に通じるものがある。屋根裏や長持ち、椅子の中。乱歩得意の隠れ蓑願望が胎児退行に通じるのは誰もが指摘するところ。暗く暖かく居心地のよいあの空間。そしてそれだけではない。登場人物たちの犯す数々の悪徳。憑かれたような暗い情熱。それに不思議にも心誘われるのは一体なぜか。タブーを突き抜けたところで何か人間の原型を見るような感じがする。
 やはり郷愁というのが一番適切な言葉のように思える。私は、そして私ばかりでなく乱歩作品に惹かれた人たち誰もがその郷愁の虜となる。

 だが、そうした作品を書き綴った幻影の城主、江戸川乱歩とは何者だったのか。
 一昨年の夏、乱歩先生の郷里名張や青春時代を過ごした鳥羽を旅して感じたこと。江戸川乱歩、そしてその前身の平井太郎は決してその作品から印象されるような厭人癖の性格破綻者ではない。
 平井太郎青年はひとつの職に留まることがどうしてもできず、鳥羽造船所の事務員から夜鳴きそば屋まで様々な職業を転々とした。作家となった乱歩も戦前は全然人付き合いというものをせず、原稿が書けなくなるたびに出奔するなどの奇行で知られていた。昼間でも蔵に閉じ込もり蝋燭の灯で作品を執筆するとの伝説まで生まれた。
 ところが終戦後は、探偵作家クラブをつくるは、傾きかけた探偵小説誌<宝石>の編集に肩入れするは、江戸川乱歩賞で新人作家を募るは、小説こそは書かないものの、うって変わっての大活躍を始めた。
 乱歩の二面性の現れという人もいる。怪人二重面相、乱歩。だが、私は乱歩の本質は青年時代から全く変わっていなかったと信じる。人を束ねる、面倒を見る。こんな気質が元来あったからこそ鳥羽造船所時代の仲間何人もが辞職した平井青年を慕って上京もしてきた。隆子夫人とのほほえましいロマンスもある。
 極端なもの異常なものへの嗜好と、あまりにも人間的な恥じらいと。この二つを合わせもつ永遠の青年の姿が私には浮かんでくる。

 生誕100年記念の松竹映画<RAMPO>。あれの最大の不満は乱歩先生を向こう側の世界に行かせきりにしてしまったことだ。
 そうではない、と私は言いたい。乱歩先生の偉大なところは向こう側の世界に限りなく憧れながらも、なお向こう側の住人にはならずぎりぎりのところで踏みとどまったことだと。だからこそ、こちら側の住人である我々読者も乱歩作品に郷愁を感じつつ味わうことができる。

 そして乱歩体験と並ぶ私の人生でのもうひとつの衝撃に関しては、ここでは具体的には触れない。全く別の角度から自分を強烈に照射され、今まで気づかなかった自分の素晴らしさを思い知らされた体験だった。

 だが、その後しばらくは自分が二つに分裂したような気分がした。人が嫌いで不健康な話が大好きな古い自分。人が好きで人と関わり、そして多くの人を動かせる新しい自分。
 引き裂かれた自己に対する苛立ち。どれだけ突っ走ろうが、どれだけ成果をつくろうが全然自己承認ができない。まさに修羅だった。修羅のように苛立ちつつ、修羅のように突っ走った。
 だが、ようやく自己承認を身につけたときに一旦そちらにも終止符を打つことができた。

 引き裂かれた二つの自分がようやく統合しだしたのが、その後のあの紀伊半島猟奇行からだった。あそこで乱歩という人自身の二面性、そして終生それが変わらなかったことをも得心した。
 自分もそれでいいんだ。過去の自分を否定する必要は全くないんだ。今だって昔の探偵物が大好きな自分でいることは変わりがないんだから。

 でも、それだけではないはず。自分が乱歩体験に加えて、もうひとつの衝撃を受けたこと自体に何か意味があるのかも知れない。
 今は二つの聖痕を負ったことそのものが自分の使命の証しだと思えてきている。両者を体験した者だけが残せる結果を人生において残していかねばならない。
 人間としての結果もそう。仕事において、職場の人間関係において何ができるか。どんな家族関係がつくれるか。どれだけの仲間が自分と一緒にいてくれるか。

 そして芸術。
 乱歩先生の流れを汲んで、なおかつ誰もが成し遂げられなかったもの。
 人の暗部に興味を持ち、自分自身に直面しきり人と関われない体験を持つ自分。そしてもうひとつの衝撃的体験により、人間の可能性と素晴らしさを知った自分。
 肯定的、前向き、前進、暖かさ、安らぎ、大きさ、心地よさ、感動。そんなものを全て体験し、自分でも作り出せる。そしてなおかつ私は古い懐かしい残虐と流血の世界に戻っていく。

 そこで真の幻想に出会えるはず。
 幻想とは逃避ではない。幻想とは、曇りのない目で現実を直視し、生き抜くことだ。そう、それがいかに無益な行為であるとしても。
 かつて中井英夫の追悼でそう書いた。

 今、バランスという言葉になぜかふっとひっかかる。
 私はアンバランスが好きだ。
 極端なもの、激しいもの、他と違ったものを好む癖。これは自分自身がアンバランスだからであろう。探偵物が好きなのも勿論その延長上にある。

 アンバランスがすべてぶつかり合い秩序が回復する瞬間、これこそが探偵小説の謎の解明である。バランスは回復するものの、解消しきれない過剰なものが残像のように色濃く残るスペース。

 バランスは必要か、不必要か。バランスを求めるべきか。
 バランスとは球。どこもが中心。とっても頑丈。
 自分と世界は分かつことはできないという認識を持ち、すべてを受け入れる。水のような柔軟性をもつ。そのときにバランスが得られるという。

 世界はバランスか、アンバランスか。自分自身が世界に引っかきまわされればアンバランスとなる。アンバランスな世界に秩序を回復しようとしてあがき、現実から痛烈なしっぺ返しを喰らったのがあの『虚無への供物』の犯人であった。
 だが、アンバランスを極めたときにこそ真のバランスに到達できるのではないか。私にはそう思えてならない。

 私は天命を信じて自分の道を行く。二つの聖痕をしっかり抱えて。



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