『子不語の夢』

『子不語の夢』

江戸川乱歩・小酒井不木往復書簡集

 副題通りの江戸川乱歩と小酒井不木の往復書簡集。この書の企画が立ち上がるときには私も同席した。
 2002年4月、成田山書道美術館「わたしからあなたへ−書簡を中心に−」が開催され、そこで小酒井不木が所有していた江戸川乱歩の書簡三十数通が公開された。中相作氏@名張市立図書館を頭に総勢十五人の大所帯で見に行ったことを懐かしく思い出す。

 本書には、大正12(1923)年、乱歩のデビュー作「二銭銅貨」の不木の推薦文への礼状から始まり、昭和4(1929)年、不木の死に至るまでの現存する全ての書簡が収録されている。二人とも日本探偵小説黎明期における先駆者であり、彼らがどのような思いで創作に臨んでいたかに胸を打たれる。また一方で両者の力関係が微妙に変化していく様は実に興味深い。

 初期の頃は、乱歩は恩人である不木に対して敬愛の念を持ち、不木もようやく出現した大型新人の乱歩の才能を愛でる。
 大正13(1924)年11月26日、乱歩はようやく出来上がった自信作「心理試験」の原稿を同封し、これで専業作家としてやっていけるか不木に問う。不木、それに太鼓判を押す。

 大正14(1925)年1月、乱歩、大阪からの上京途中に名古屋に寄って不木宅を訪問する。これが初対面。
 3月、乱歩、不木より死体を屍蝋にする方法を聞き出す。これは「白昼夢」となる。 不木、初の大人向け創作「呪われの家」を書き、乱歩、これを批評する。
 不木は自分は通俗的な作品を書いても、乱歩には純粋で高踏的な作品を求めていた。作品を読むごとの激賞に乱歩はだんだん辟易してくる。 また、乱歩の父が喉頭癌を病んでそれにかなりの気をとられていくようにもなる。
 4月、阪神で「探偵趣味の会」発足して、乱歩と正史が初の邂逅を遂げる。不木もそれを喜びながらも病身で遠出できずもどかしく思っている。
 5月、乱歩初の単行本のために不木、春陽堂と交渉する。乱歩のために既成事実をつくって有無を言わせず承諾させてしまう。
 6月、不木、乱歩の第一著作集への序文を送る。それとともに自作に対しての甲賀三郎の批判をもっともだと思い、乱歩なら満足がいくように表現できるのにと記す。
 7月、乱歩の最初の著作である短編集『心理試験』が発行される。 本当に売れるか気がかりな乱歩。本の発行を我がこと以上に喜ぶ不木。
 9月、乱歩の父、繁男逝去。不木、乱歩へ東京移転を勧める。
 12月、平林初之輔の評論が<新青年>編集部から回って来、探偵作家を健全派と不健全派に分類する内容、及び来たるべき行き詰まりの予言に両者とも衝撃を受ける。

 大正15(1926)年1月、乱歩、一家で上京する。不木、乱歩を気遣い文通を控える。
 3月、乱歩、甲賀による不木批判への反論「病中偶感」を書き、不木、これに感謝する。
 乱歩、スランプに陥り、連載中の『闇に蠢く』の原稿をうっちゃって旅行して回るようになる。

 昭和2(1927)年1月、乱歩、自作のくだらなさにヒステリイを起こしがちと書くが、不木、安心して執筆に従事せよと励ます。
 3月、乱歩、家人に下宿屋を営ませ、当分の間休筆すると告げる。
 11月、不木、乱歩に人気作家による合作の結社、耽奇社に加わるように勧める。メンバーは二人の他に国枝史郎、長谷川伸、土師清二、そして後に平山蘆江。休筆中の乱歩の経済的苦境を心配してのものだが、これまた強引なやり方だった。さらに乱歩を手元に置きたいと執拗に名古屋移住を勧めるようになる。

 昭和3(1928)年1月、乱歩、扁桃腺の手術を受けるが経過が悪く半月も入院する。耽奇社の同人に六大都市をテーマとした競作の依頼が来るが、乱歩は原稿が書けず正史に代作させる。
 不木、乱歩を耽奇社の会合に幾度となく誘うが乱歩は応えない。
 8月から10月、乱歩、『陰獣』連載。

 昭和4(1929)年1月、乱歩、久しぶりに来名。この月より『孤島の鬼』の連載始まる。
 4月1日、不木、急性肺炎のために逝去。乱歩、遺族のために改造社版『小酒井不木全集』の刊行に尽力する。

 乱歩と不木という二人の先駆者の苦悩がありありわかることが興味深い。不木は一貫して乱歩に対して好意を寄せながらも、乱歩はそれを重荷に思ったり束縛に思ったりしてしまう。
 下世話ではあるが、国枝史郎と不木を間に挟んだ三角関係が成立するとは意外。国枝の的外れな探偵小説批判のことは知っていたが、こういう裏事情があったとは。
 乱歩の通俗的な探偵ものを書きたいという意見が既に大正14年に表明されているのがわかったのは貴重な発見であった。
 タイトルの「子不語」は不木が乱歩に送った書にある言葉。論語の「子不語怪力乱神」に基き、怪談集のタイトルにもなる言葉だという。


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