江戸川乱歩(明治二七−昭和四〇)
本名平井太郎。大正・昭和期の探偵小説作家。エドガー・アラン・ポオをもじって筆名を江戸川藍峯とするが、後に乱歩と改める。
<初期短編時代>大正一二〜
明治の御代、黒岩涙香によって初めて紹介、翻案された探偵小説は、次第にその機運を高め、ついに大正九年<新青年>が発刊される。そして創作探偵小説時代の幕開けとなった記念すべき作品は、
「二銭銅貨」
これは日本最初の暗号小説です。貧乏学生松村武は一枚の二銭銅貨の中から暗号文を発見し、それを解読、見事大金五万円を手に入れる。ところが……というお話。
この作品は「黄金虫」「踊る人形」にも決して引けをとるものではありません。特に落ちが効いています。<新青年>編集長森下雨村が狂喜したのもよくわかります。
ところでこの暗号、点字利用のものなのですが、私の読んだ版では三ヶ所の誤りがありました。おそらく出版社のミスでしょうが。
「D坂の殺人事件」
明智小五郎初登場。この当時は木綿のよれよれの兵児帯の姿だったんですがねえ。彼は心理的探偵法によって論理乱用の徒に痛棒を喰らわしています。
実はこの事件はサドマゾ殺人でした。
「心理試験」
老婆殺しの犯人蕗屋は恐るべき心理試験に対して万全の構えをとる。だが明智は僅かな事から彼の技巧を見破った。人間心理の盲点を突いた傑作。
「屋根裏の散歩者」
どんな仕事にもどんな道楽にもすぐ飽きてしまう男が、今度気を引かれたのは屋根裏の散歩だった。天井の隙間から覗き見する他人の秘密。違った角度から眺めた世界の奇妙な魅力。しかしそれにまで飽きてきた彼は次第にある着想へと引き寄せられていく……。
「人間椅子」
椅子の中に潜む男からの奇怪なラヴ・レター。
この作品に関してはただただ凄いと述べるのみです。特に結末の意外さときたら。私はこれを乱歩の短編ベストに推します。
『闇に蠢く』
最初に読んだ時は、この話、たまらなく嫌いでした。ところがあるとき読み返してみるとそんな話を非常に好きになっている自分に気がついたのです。
以前、「俺はすごく臆病なんだ!」と叫んだら失笑をかいました。昔は確かにそうだったのです。転機はこの話にあったようです。私の人格を変えた一編。
「人でなしの恋」
夫が土蔵で他の女と密会していると思い込んだ新妻が見つけたものは、なんと一体の生人形だった。彼女の嫉妬が爆発したそのとき……。
「鏡地獄」
鏡とレンズに異常な執着を持った男の話。彼が球形の鏡の内側で見たものとは……。
「押絵と旅する男」
魚津へ蜃気楼を見に出掛けた帰り道、夜汽車の中で主人公は奇妙な老人に出会う。その老人の語る世にも不思議な物語。
以上三編は作者がSF的見地から見たベスト3です。
「芋虫」
あの人非人の紀文さん(ごめんなさい)にすら気持ち悪いと言わしめた、それこそ殺人的グロ作品。減量したい方にお勧めします。読んだらしばらく飯が喉を通りません。決して低俗というわけでもないのですが。
<二編の名作>昭和三〜四
デビュー以来独創的な力作ばかりを発表してきた乱歩は、数年間のうちに書きたいものを書き尽くしてしまい、次第に通俗的で猟奇的な小説を書くようになっていった。でも、そんな時期にこの二つの名作が生まれたのです。
(21)『陰獣』
この事件の容疑者は大江春泥という謎の探偵作家です。本名平田一郎。作風は暗くネチネチして病的。作品は「一銭銅貨」「B坂の殺人」「屋根裏の遊戯」等……といったらもちろんこれは乱歩その人です。作者を作品中に引っ張りこんだ前代未聞の大トリックなのです。
というわけでこの作品は今までの作品の乱歩趣味の集大成といった形になっています。そして全編に満ちる強いサスペンス。逆転のまた逆転。これでもか、これでもかというねちっこさ。さらに秀逸なのは、結末がわざと曖昧にぼかされていることです。主人公は一生疑惑を抱いて苦しみ続けなければならないのです。
私はこの作品に90点をあげます。勿論乱歩長短通じてのベストです。
(28)『孤島の鬼』
前半本格物、後半伝奇物といった変わった構成を持つ作品です。まるで作者の状況そのままに。
恋人を殺された主人公は、ある人物に探偵を頼むが、彼も奇怪な日記を残して衆人環視の中で殺される。これより主人公と彼の同性の恋人との冒険が始まった。
孤島の鬼。それは不具者製造を生業とする老人。一寸法師をつくるために健康な幼児を箱の中で育てるなどの悪行を重ねる。彼らはいったんはこの怪老人を打ち破るが、僅かな気の緩みから地下の洞窟に閉じ込められる。暗黒の迷路の恐怖、恐怖。
緑川氏はこの作品が一番好きなんだそうです。おーい、そのうち乱歩について語り合おうよ。合宿の裏企画にどうかな。
<通俗長編時代>昭和四〜一五
昭和四年より連載の『蜘蛛男』の圧倒的好評により乱歩はひたすら通俗長編を量産することになった。多くは明智探偵と凶悪な殺人魔との闘争で、作者自らが「通俗チャンバラ物」と呼んでいる代物。だが読者の評判は大変なものであった。それが仕舞いには乱歩を自作の蒸し返しに安住させることになる。
(66)『魔術師』
奇術に見せかけて公衆の面前で殺人を犯すなど色々と奇想天外な殺人法が案出されています。犯人もすこぶる意外です。(意外すぎるような気もするが。)
語り口がうまい。面白い。結局はこれに尽きるんですよね。
この事件で凶賊魔術師の娘として文代さんが登場しました。
(49)『吸血鬼』
一人の美女の愛を勝ち取るため毒酒で決闘する二人の男。この冒頭は悪くない。しかし、その後は波乱万丈、しっちゃかめっちゃか。サービス精神が旺盛なのはわかるけどね。犯人もすぐ割れる。題名の由来ときたら作品中で犯人のことを一回「吸血鬼のような執念の悪魔」と呼んでいること、それだけ。でもラストが万感胸を打つのでまあ許す。
小林芳雄少年の初登場です。事件解決後、明智探偵と文代さんが結婚しました。
『盲獣』
この話には明智小五郎は登場しません。ただ殺人魔盲獣の跳梁するのみ。バラバラ死体の連続。作者が読み直してみて吐き気を感じ、一部抹消したという凄まじい話。こんなもの読むな!
(78)『黒蜥蜴』
華麗なる女賊黒蜥蜴対名探偵明智小五郎。それだけのお話です。根本になる謎が無いため、却ってすっきりしていました。
昔、テレビドラマで見たときに、人間の剥製というやつが出てきて幼心に強い印象を残したのですが……。原作を呼んでみるとさほどのものでもありません。残念です。
『怪人二十面相』
乱歩の通俗化による最大の利得といったら本書に端を発する少年小説の分野での功績です。
明智探偵、少年探偵団対怪人二十面相の智恵と智恵との戦い。あなたも、あなたも夢中になって読み耽ったことがあるでしょう。うむ、ノスタルジイ感覚。
<戦後の作品>
戦中の弾圧は終り、本格探偵小説の時代が来た。だが乱歩は書かなかった。戦前の粗製乱造に一番飽き飽きしていたのが彼自身であったのである。戦後は専ら書誌学的研究と後進の指導とに当たった。その合間に書かれた作品は、戦前のようなきらびやかさはないが、ある種の魅力に溢れている。
(51)『化人幻戯』
五十を過ぎた明智小五郎が久々に登場します。但し小林少年は全然年をとっていません。
この作品は明智探偵が登場する中では珍しく通俗でない理知的長編探偵小説です。とはいってもそれほど目新しいトリックが使われているわけでもなく、魅力は犯人の性格創造にあります。これほど変わった犯行動機は他にお目にかかったことはありません。
『十字路』
この作品は渡辺剣次との合作で、従来の乱歩作品には薄かった現実味が多々あります。
愛人と一緒にいるところに踏み込まれ、つい妻を殺してしまった男。男は死体を積んだ自動車を闇の中に駆る。ところが運命の悪戯で、ガード下の十字路において、男はもう一つの犯罪に巻き込まれてしまった……。
殺人を犯さざるを得なかった孤独な恋人たちの悲哀が切々と伝わってきます。小道具の使い方も巧みです。乱歩の戦後の作品中第一位の佳作でしょう。
『ペテン師と空気男』
この作品は乱歩では珍しく登場人物が皆根明です。人をからかって楽しむ町のペテン師 −プラクティカル・ジョーカーたちの生態を丹念に書き綴ったものなのですが、これが無性に面白い。本格でも倒叙でもない異色作です。
昭和四〇年七月二八日、脳溢血のため逝去。彼の残したものは、珠玉の短編群、夥しい通俗長編、不滅の輝きを誇る少年探偵団もの、そして大量の探偵小説に関する著作。享年七十歳。戒名は智勝院幻城乱歩居士。