久生十蘭

久生十蘭


 本名阿部正雄。フランスに留学し物理と演劇を学ぶ。劇作・演出の傍ら数多くの筆名を用い多岐にわたる分野の作品を書きつづった。

 十蘭の創作は、西洋種の物が多いそうです。とはいえど、翻案などというものではなく、原作とは別個の独自の価値を主張できるものに仕立て上げられているとのこと。それから、凝り性でもあります。代表作の多くは、初稿発表のあと幾度となく手を入れたものです。一度発表した原稿を改めて発表するあてもないのに半年間他の仕事を断って書き直し続けたという伝説があります。

 全集には、短編二、捕物帳二、掌編三が収録されています。*『顎十郎捕物帳』が全編読めるのは嬉しい。でも、数々の傑作が落っこてる。というわけで、まず収録されてない作品から。

 『ノンシャラン道中記』 コン吉、タヌ子、二人の日本人留学生の欧州珍道中。ニースの花馬車競技で一等を取ったり、モンテ・カロルですってんてんになったり、潜水服でモン・ブランに登ろうとしたり……。気分はもうノンシャラン!

 「黒い手帳」 十年間ルウレットの研究をし続けた六階の男とその成果の黒い手帳を狙う四階の夫婦。五階の男は夫婦が六階の住人を謀殺する顛末を冷静に観察しようとするが……。空恐ろしくなる程色濃い虚無感は何故か。

 『魔都』 一日二十四時間を一年かけて連載した大長編。安南国皇帝と秘宝帝王(ラジャー)の金剛石(ダイヤモンド)の行方を巡り、新聞記者が、愚連隊が、鬼警視が、可憐な少女が、魔都東京の暗部を徘徊する。『帝都物語』に直結する都市魔界小説です。

 「海豹島」 膃肭獣(おっとせい)の蕃殖地である、氷と海霧に閉ざされた海豹島。その越冬隊に生じた変事を調査する義務を負った話者は、一人だけの生存者と共に島に取り残される。暴風に苛まれ、いた筈のない女の気配を感じ、遂には自らが膃肭獣と化す幻想に駆られる。きわめて精緻に組み立てられた名編です。

 「地底獣国」 一九三八年、ヤロスラフスキー博士は調査隊を率い、スタノヴォイ山脈にて南樺太に通づる溶岩隧道を探していた。その裏には日本の北辺を衝こうとするソ連当局の思惑があった。調査隊に反乱が起こりヤ博士は六人の日本人抑留者と共に隧道を突き進む。追手から逃れようとする彼らの行手にはジュラ紀の、白亜紀の生物の世界が……。鮮やかに瞬転するラストシーンが魅惑的です。実際、これには眩暈に似た感覚を覚えました。

 「予言」 ある怪人物の怒りをかってしまった善良な男。結婚式から一月後の自殺に至るまでの詳細を予言される。果たして披露宴の最中、福助の幻を見てから彼の運命は狂い始める。”向こう側”を垣間見てしまった誠に不気味な短編。それにしても男と女の間には深い物があることであるなあ。

 「鈴木主水」 直木賞受賞の時代物。これはどうもピンとこなかったが、「無月物語」「うすゆき抄」(どちらも西洋種の時代小説)なんかは良かった。

 「母子像」 国際短編小説コンクール第一席。少年はサイパンで実母に殺されかかるという過去があったが、成績も優秀で操行も満点だった。その彼が非行に走った。その秘密が探偵小説的に解明されるが読後感は限りなく苦い。

 「月光と硫酸」 神経衰弱にかかった主人公は、医者の命令で日がな一日蟻を眺めたり窘(いじ)めたりして暮らしていた。そんな彼がある日庭に月が落ちているのを発見した……。とぼけた味わいがなんとも言えない。

 さて、全集に戻ります。短編は*「湖畔」と*「ハムレット」。どちらも傑作。異議なし。前者の情動の高まりには圧倒されるし、後者の残酷な運命への忍辱には粛然となる。この二つぐらいは現物にあたって頂きたい。

 *『顎十郎捕物帳』。本名仙波阿古十郎。”眼も鼻も口も、額ぎわにごたごたとひと塊になり、ぽってりと嫌味に肉のついた厖大な顎がぶらさがっている”といった顔だち。御面相も変わっていれば、性格も緩怠至極というか春風駘蕩というかとかく飄々としている。こんな異色の捕物名人の活躍する全二十四編。中でも「遠島船」はメリイ・セレスト号事件に材を取り合理的解釈を下した傑作。

 *『平賀源内捕物帳』は三編が収録。こちらも主人公が魅力的。

 掌編は*「昆虫図」*「水草」*「骨仏」の三つ。「昆虫図」は特に怖い。



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