元版は1996年11月、講談社より。
天啓シリーズの一作目。シリーズ二作目の『天啓の器』の方を先に読んでしまったが、各々独立した作品である。このシリーズはここにあるこの作品自体がどうして成立するようになったか、その作品中で自分自身に言及するメタフィクション形式のミステリーである。
『天啓の宴』は伝説的な小説である。ある文学新人賞に応募され、
読んでこの作品を受賞作に推した選考委員の作家三人が回復不能のダメージを受けたという。
ところが、賞に内定しながらも作者が辞退し原稿のコピーまで取り戻したので幻の作品と化してしまった。さらにその作品を惜しんだ編集者が作者の自宅のマンションまで押しかけたところ、作者の野々村葉子という女性は室内で首を斬られて死んでいた。
『尾を食らう蛇(ウロボロス)』でデビューしたばかりの天童直己はなかなか第二作が書けないで苦闘していた。結末において作者が消え去る小説を書こうと試みながらもなかなかそれは容易いことでなかった。そんなとき天童は古手の編集者から『天啓の宴』の話を聞きつけ強烈な興味を抱く。『天啓の宴』こそ彼が理想とする小説ではないのか。
一方、『昏い天使』でデビューしながらも第二作を破棄して失踪した宗像冬樹は、阿修羅岳の山荘にこもって回想記を書いていた。全共闘の爆弾事件に絡んで入獄した友人の野々村辰哉が四半世紀ぶりにもうすぐ出獄してくるのだ。
彼のいないうちに何が起こり、彼の妹の葉子がどうなったかを説明しなくてはいけない。
天童直己は若干若くなっているが竹本健治がモデルであり、宗像冬樹は笠井潔自身がモデルである。二人の手記が交互に置かれ、『天啓の宴』がどうして成立しえたかの事情が徐々に伝わってくる。
宗像の部では三島由紀夫事件や全共闘運動での血生臭い事件が回顧され、天童の部では新人類世代、オタク世代の物憂いさが漂う。そして最終的には時代は阪神大震災とオウム事件が起こった1995年に至る。
凝りに凝った構成は実に好みであり、読むのも、読んで騙されるのも楽しい。
四半世紀に渡る思想史が閉じ込められた構成も見事である。
だが、仕方ないことではあるが<最後の小説>『天啓の宴』が散々称揚されながらもその現物を読むことができないのはどうにももどかしい。
また、ミステリーとしての意外性に拘りすぎたためか、真犯人の人物像が希薄になってしまった。
出版されたのが年末のこともあり各種ベストから漏れたために読み逃してずっとそのままになっていた。だが、今になってようやく読んで、この作品は出版された当初に読みたかったと思った。