笠井潔『天啓の器』
笠井潔『天啓の器』
『天啓の宴』に続くシリーズ二作目だが、一作目は読み逃し。
本作は、天童直己(=竹本健治)の『尾を喰らう蛇(ウロボロス)』シリーズ三作目という設定。それがなぜ宗像冬樹(=笠井潔)名義で発表されたかというのも仕掛けのうち。内容は、両者が決定的な影響を受けた仲居『ザ・ヒヌマ・マーダー』(=中井英夫『虚無への供物』)の成立秘話に迫るというもの。
例によって小説のネタに困った天童は、編集者の三笠から耳寄りな情報をもらう。あの『ザ・ヒヌマ・マーダー』の作者仲居はひょっとすると殺されたのかもしれないというのだ。瀕死の仲居が入院する病室で点滴の針を抜いた何者かが目撃されたらしいのだ。
天童は病院の見舞い客や看護婦をあたり、仲居ファンの藤晶夫なる少年の失踪事件を知る。さらにまた『ザ・ヒヌマ・マーダー』発表時の筆名濤晶夫(=塔晶夫)と同名の少年が当時の仲居の側にいたという事実を聞きこむ。
藤晶夫少年が書いていた小説《ザ・ヒヌマ・マーダー》。そして藤少年の元に何者かから送りつけられた仲居を中傷するという手記<ザ・ヒヌマ・マーダー>。これらが引用され、テキストは錯綜していく。
本書は何よりも『虚無への供物』論である。登場人物たちは熱く語る。
『ザ・ヒヌマ・マーダー』はアンチ・ミステリの巨峰という水準を超えた、戦後の日本文学を代表する傑作だろうと思う。同時に、日本の二〇世紀文学の代表作でもある。(略)
『ザ・ヒヌマ・マーダー』が書かれたという事実は、ほとんど奇跡ではないだろうか。とても人間業とは思われない。氷沼家殺人事件の犯人の動機を超えて、『ザ・ヒヌマ・マーダー』という言葉の構築物が類まれな宝石のように燦然と輝き、仄白い月光にも似た怜悧な意味の光で、戦後日本の無意味の荒野をさえざえと照らしだしている。(P60)
『ザ・ヒヌマ・マーダー』は奇跡という言葉がふさわしい特権的な大作だ。仲居さんが生涯をかけ、営々と磨き上げては丁寧に宝石箱に収めた、珠玉の小品群とは存在する水準が違うんだね。神秘めいた言葉を無反省に使うべきではないとしても、作者に天啓とか恩寵が訪れたに違いないと、どうしても信じさせてしまうような。(P265)
われわれの世界に『ザ・ヒヌマ・マーダー』が存在すること、それ自体が奇跡だ。あの『ザ・ヒヌマ・マーダー』を書き上げるなど、とても人間業ではない。人間が書いたのでなければ、天使の作とでも言うしかないだろう。
『ザ・ヒヌマ・マーダー』の作者は天使なんだ。天上の黄金の一粒を携え、この地上に舞い降りた天使が、たまたま濤晶夫の名で呼ばれた。奇跡の作品『ザ・ヒヌマ・マーダー』は、天使に地上の名として選ばれた濤晶夫なる特権的な名前と、切り離されることなど絶対に不可能なはずなんだ。(P412)
よくぞ言ってくれたと共感せざるを得ない。
他にも唸らされる考察は数多い。
作家とは「巨大な作者」の意を受けて作品を記すペンに過ぎない。天啓を得て『ザ・ヒヌマ・マーダー』を執筆した後の作家仲居は果たして幸福であったのか。
小説を書くという行為は歩行、睡眠、または恋愛に似ているという。無意識にならできる、だが意図してやろうとして見失った途端に地獄の苦しみを舐める点で。
作家も定年制にした方がいい。特に本格ミステリは五十歳が限界かもしれない。等々。
そして事件の解明。全ての背景にあるのは天使的なものに対する憧憬であった。『ザ・ヒヌマ・マーダー』の犯人の苦闘もまた。
そして結末。<ザ・ヒヌマ・マーダー>を、『尾を喰らう蛇3』を、そして『天啓の器』を生成したのは偉大な作家の数葉の原稿に由来するという。剽窃の産物としてしか物語は存在できない。
中井ファン、竹本ファン、そして笠井ファンにはなんとも嬉しい一冊であった。
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