何も予備知識なしで読み始め、最初の短編「小豆洗い」でびっくりしたのは、彼の御行、小股潜りの又市の再登場。白装束に身を包み、鈴を鳴らす僧形のこの男は『嗤う伊右衛門』で極めて個性的な脇を張っていた。そもそもお岩と伊右衛門の縁談を取りまとめたのがこの人物だったのだ。
又市が要となり、山猫廻しのおぎん、事触れの治平、考物の百介など一癖ある面子を従えて、一党が為そうとするのは、より大悪党の退治。
このままの設定だと『必殺仕事人』になってしまうが、そこは京極夏彦、妖怪が絡んでくる。
あやかしはないとおもえばないが、あると疑うと必ず現れる。妖怪は見る者の心の中にこそある。繰り返し語られる台詞である。
だが、それのみではない。どの話でも何らかに取り憑かれた男が地獄落ちしている。人は鬼と化す。妖怪と化す。何かに執着し歯噛みしたときにいとも簡単に。
だからこそ単なる勧善懲悪に落ち着かない、人間の業の悲しみを感じさせてくれる。
小説としての技巧も凝らしている。「白蔵主」は一種の円環構造になっているし、「舞首」の三竦みの首なし死体の出現にはありえないものが存在するが故の美しさがある。
また時代物ということで、「塩の長司」では果心居士でお馴染みの呑馬術を堂々と仕込みに使う、ふてぶてしさがある。
どれも捨てがたいが、自分が狸の化身だと言う老人と若殿を悩ます物の怪の出現が哀感極まりない終局に結びつく「芝右衛門狸」と、次々と現れる女の腐乱死体の謎が又市自身の古傷を抉る「帷子辻」とがベスト。
いやいや。天才京極夏彦、楽しませてくれるもんだ。