『姑獲鳥の夏』
『姑獲鳥の夏』
初読のときはとんでもない複雑な筋だと思ったが、4冊読了後に読み返してみると、案外すんなりしたストーリーに感じてしまう。
時は1952年、京極堂とその一味の初登場。古本屋主人であり神主であり、なおかつ憑物落しを副業とする京極堂こと中禅寺秋彦。旧華族出身の美丈夫、人の記憶を見る能力を持つ探偵、榎木津礼二郎。語り手の神経を病む文士、関口巽。メインの探偵役となるこの三人に加え、事件にあでやかさを添える京極堂の妹で雑誌記者の敦子、そして職業軍人あがりの異相の警視庁刑事木場修太郎、果ては三度の飯よりも解剖が好きな監察医の里村に至るまで、京極ファミリーともいうべき存在感あるキャラクターたちが紹介される。
先ずは、関口と京極堂の大討論。脳と意識の共犯関係が生む仮想現実、そして量子力学的解釈による世界の不確定性。圧倒的な語りを通じて京極堂の憑物落しの手法の一端が明かされる。
関口が持ってきた二十箇月妊娠し続ける妊婦と密室から消失したその夫というカストリ種の噂話。それが彼らの旧制高校時代の先輩、久遠寺牧朗のことと判明、関口は京極堂から「君は君の脳を一切信じないようにした方がいいぞ」と罵声を浴びる。それがもう伏線であった。
関口はさらに探偵榎木津を訪問。そしてまた榎木津の超能力の京極堂的解釈が語り尽くされ、この作中世界での論理構造が読者に知らされる。
榎木津のもとへ依頼人として牧朗の義姉、久遠寺涼子が現れ、関口は得体の知れぬ衝撃を受ける。
ここまでが発端。
以上のところであの毀誉褒貶の嵐を呼んだ密室トリックの大部分が予告されていたと言っても過言ではない。フェアかアンフェアかの議論はあろうが、アクロイド的叙述トリックのひとつの到達点ではあろう。
私自身も初読時には戸惑いの方が大きかったが、このぬけぬけとした味は悪くはない。そして後で述べるようにそれこそが京極作品の魅力であるとも言える。
事件は急を告げ、久遠寺家は崩壊の危機に瀕す。関口の必死の懇願により漸く京極堂は立つ。久遠寺家の呪いを解くために。悲劇に終わりを告げるために。
墨染めの真っ黒い着流し。薄手の黒い羽織に染め抜いた晴明桔梗。手には手甲。黒足袋に黒下駄。鼻緒だけが赤い。黒衣の憑物落しが遂に登場する。
******以下ねたばれ注意******
いろいろ出てきた小道具の数々に翻弄された。
私個人として馴染みがあるものを列挙すると、南方熊楠と粘菌、『脳内革命』の脳内麻薬、『ドグラ・マグラ』的脳髄論。ホムンクルスはゲーテ『ファウスト』の印象が強い。屍蝋は勿論『八墓村』。偃王の呪法やら奇門遁甲やら、そして肝心要の京極堂が神主を務める神社に祀られる安倍清明とその紋所の五芒星ときたら、これはもう『帝都物語』しかない。そして全ての悲劇の源になる蛙の顔をした赤ん坊は、手塚治虫『ブラック・ジャック』に出ていたのを真相解明直後に思い出した。
京極堂による呪いの正体の解明には心底圧倒される。
憑物筋と言い伝えられる久遠寺家の血統。陰陽道、富の偏り、異人殺し、伝承の発生といったものへの民俗学的解釈。
無頭児という鬼子の誕生とその死。喪失感のあまり赤ん坊を攫う母親。断ち切らなかった因縁。医学、精神病理学をも援用してこの世の外の論理を辿る。
二重人格の発現や発狂までの経路をこれほどまでに綿密に解き明かし、その理論付けをしたのは『ドグラ・マグラ』以来のことである。
何十代、何百代の時の流れの果てに遂に出現したのは<久遠寺の母>。
大雨の夜の惨劇のあとに姑獲鳥の夏は終わる。
現実とは全て仮想現実に過ぎないのか。そしてまた人間は果たして本当に自分の意志で行動しているのだろうか。
京極堂は言う、みんながうぶめだったと。子供、自分の血筋、夫婦の愛の結晶。それぞれの登場人物がそれに心を奪われ過ぎたがために。これっぽっちの悪意の欠片も持たずに。人間の業であろうか。あるいは人間の業こそが妖怪なのだろうか。
本書は事件としても推理ものとしても八方破れである。
だが、この事件は語り手の関口には人格を揺るがすような打撃となり、憑物を落とす立場の京極堂でさえ決して無傷では済まない。
だが、非日常をかいくぐりながらも彼らはまた日常へと還っていく。この世に不思議なことは何もないのだ。
執筆 (1996.11.14)
初出 <霧笛>23号(1996.12.24)
《事件暦》……ねたばれ注意
1952.07
1日目
関口 京極堂を訪ねる
2日目
関口 稀譚社を訪ねる
榎木津の薔薇十字探偵社で久遠寺涼子に出逢う
京極堂を訪ねる、妻千鶴子は祇園祭で不在
3日目
関口榎木津敦子 雑司ヶ谷の久遠寺医院を訪ねる
入院患者出産
4日目
関口京極堂 藤牧の日記を検討、木場の来訪
関口木場 時蔵夫妻と原澤伍一の聞き込み
久遠寺医院の玄関打ち壊し
関口 京極堂に憑物落としを依頼
5日目
黒衣の陰陽師登場
久遠寺牧朗の死骸発見
6日目
警察の取り調べ、京極堂による謎の解明
大雨の夜の惨劇
10日目
後日談
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