『鉄鼠の檻』

『鉄鼠の檻』


 4作目にして京極夏彦にいったい何が起こったのか。
 先ずは『姑獲鳥の夏』で忘れることのできない役割を果たした箱根山中の旅館仙石楼に久遠寺院長が隠棲しているシーンから始まる。来あわせた中禅寺敦子や鳥口たちの目前で突如僧侶の死体が出現する怪事が起こるが、呼び寄せられた榎木津により瞬く間に解明される。ここまではまだ導入部に過ぎず、謎の禅寺明慧寺に舞台を移し、連続僧侶殺人事件へと発展していく。
 便所に逆さに突き立てられた老師の死体発見のくだりより、私が連想したのは『薔薇の名前』である。その予感は、本業の古本屋の立場で関わる京極堂により、発掘された書庫のあるはずのない書物の存在が匂わされることにより裏打ちさる。
 禅とは戦えない、戦わずして負けていると憑物落しとしての京極堂はなかなか出馬しようとしない。実際、仙石楼に降りた僧の鉄鼠を落としたのみで憑物落しを必要とする怪異すらも起こらない。

 明慧寺は二重の結界に守られた檻だった。妄執を持つ者たちを祓うため、師の助言を得た京極堂は、負けを承知で黒装束に身を包み明慧寺へと乗り込んでいく。
 そして……。止まっていた時間が急に流れ出したときに惨劇はまたもや起こった。


******以下ねたばれ注意******

 本作は明らかに破綻している。京極夏彦最初の失敗作という書評もあったと記憶するが、そういう捉え方もあるだろう。最後の殺人で状況から犯人が明らかになってしまうこと、見立て殺人でありながらも見立てになりようがないこと、動機を解明されても無茶なような切実のようなどうにも納得し難いこと。日常を越えた超論理が左右する時空に惑わされ、私には凄いのか失敗なのかも判断しようがない。京極夏彦ほどの名手ならもっと妥当な結末を付けられようものを。
 朝日新聞「ひと」欄のインタビュー(1996.6.12)を読んでわかったような気になれた。小さいころは僧侶になりたかったという。京極夏彦『鉄鼠の檻』は、例えて言えば北村薫『六の宮の姫君』であり、中井英夫『悪夢の骨牌』なのだ。対象に対する思い入れの深さによる書き手の暴走の産物。さあ、如何に。
 本作では禅というものに対して膨大な記述がなされている。禅の歴史、各宗派の違い、禅から生まれた芸術、禅寺での修行の有り様、果てはここで奇妙な役割を担った公案の数々に至るまで。
 京極堂は語る。数ある宗教の中で、殆ど唯一、生きながらにして脳の呪縛から解き放たれようとする法が禅なのだという。
 禅は言葉を排除する。呪いとは言葉を用いて行うものだ。京極堂の最も得意とする武器が効果ないのだ。
 大悟とは何か。意識の不連続を脳が修正する一瞬。だがそれは単なる通過点に過ぎない。

 それにしても『薔薇の名前』との類似が気になるのでにまとめてみたらぴたりとはまってしまった。『薔薇の名前』もまた極めて正体をつかみにくい物語であるが、そのテーマのひとつとして記号(=名前)に対しての本質(=薔薇)の不在というものがある。『薔薇の名前』の黙示録連続殺人には実は犯人はいなかった。バスカヴィルのウィリアム修道士は間違った図式を追って犯人に到達してしまった。
 『鉄鼠の檻』でも記号と真相はばらばらに散乱する。見立て殺人と思わされた奇妙な死体の様相の真意はそんなものとは懸け離れてたところにあった。明慧寺を檻と化して宇宙を封印した小坂了念や和田智稔の妄執が殺人を引き起こしたわけでは全然ない。真の貫首である仁秀老人こそが結界を張り続けてきた張本人ではあるが、だから犯人、というには飛躍がありすぎる。
 この奇妙な捻れ感の正体は何なのだろう。いったい檻は壊されたのか、それとも未だに健在なのか。
 そういう意味で『鉄鼠の檻』は『薔薇の名前』を通じて、本邦アンチミステリー3作の内の『虚無への供物』へと容易につながっていく。
 博物学的な捉え方をするなと京極堂に叱られそうだが、頼豪の三井寺には日本三大不動の一つであり秘仏である黄不動の画像がある。また冒頭の世間話に名があがったトニー谷はその愛児誘拐事件が『虚無への供物』に言及される。

 洞爺丸が沈没する1954年9月26日まであと2年足らず。京極堂はそれまでどんな日本を描いてくれるか。中井英夫が呪詛した時代をどう祓ってくれるのか。



《表》『鉄鼠の檻』『薔薇の名前』比較表……ねたばれ注意
『鉄鼠の檻』『薔薇の名前』
舞台箱根山中の禅寺明慧寺中世北イタリアのベネディクト会修道院
鍵となる書物『禅宗秘法記』 空海が著したとされる禅の教典『詩学 第二部』 アリストテレース著 笑いに関する哲学書
死体の見立て禅の公案ヨハネ黙示録
犯人真の貫首真の図書館長
動機悟った者を悟った順に読んではいけないものを読んだ者を
終幕明慧寺炎上修道院炎上


《事件暦》……ねたばれ注意

1953.2.
4日前
  尾島佑平 鼠の僧侶に出くわす
  今川 仙石楼に逗留
2日前
  京極堂及び関口夫妻箱根湯本富士見屋に逗留、京極堂書庫に入る
1日前
  飯窪季世恵 仙石楼に宿泊
  関口 松宮仁如を目撃、尾島佑平を按摩に呼ぶ
1日目
  今川 久遠寺嘉親と知り合う
  鳥口敦子 松宮仁如に遭遇、仙石楼に到着
  小坂了稔の死体出現
  鳥口 富士見屋に関口を迎えに行く
  山下警部補と捜査陣仙石楼に入る
  和田慈行 仙石楼に来る
2日目
  榎木津探偵登場、鮮やかに謎を解く
  敦子鳥口飯窪関口今川 益田菅原両刑事 明慧寺に立ち入る
  菅原下山、山下との打ち合わせ
  敦子たち 大西泰然老師と面談
3日目
  泰然老師の死体発見
  山下と捜査陣 明慧寺に入る
  益田刑事 敦子鳥口飯窪関口今川 桑田常信 仙石楼に降りる
  京極堂それを迎える
  菅野博行 土牢を出て暴れる
4日目
  榎木津久遠寺今川 明慧寺に入る
  京極堂 桑田常信の鉄鼠を落とす
  松宮仁如 笹原武市宅で警察に保護
  久遠寺翁 土牢の中で菅野博行と対話
  今川 菅原刑事に拘束される、久遠寺榎木津 仙石楼に強制送還
  松宮仁如と飯窪の13年ぶりの対面
  山下 菅野の死体発見
  桑田常信敦子鳥口 明慧寺に登る
  菅原刑事 久遠寺翁を明慧寺に連行する
  中島祐賢 山下桑田らと対話
  中島祐賢 円覚丹貫首に参禅、直後に撲殺される
  鳥口敦子 仙石楼に向かう途中で杉山哲童に遭遇
5日目
  京極堂 明石先生に深夜の電話
  哲童 鳥口敦子を仙石楼に運ぶ
  石井寛爾警部 仙石楼に到着
  和田慈行と僧たち 法会を始める
  京極堂 憑物落しに乗り出す
  明慧寺炎上
7日目
  火災鎮火

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