創元ライブラリ版中井英夫全集の第九巻。日記Uということで四編収録されているが、通常言われる日記と異なるものも含まれる。
1979年には五十七歳、この巻の中心事件となる一大事が起こった1983年には六十一歳。
晩年から死へと向かう時期の作者の小説以外の仕事の集成という感じである。
『月蝕領宣言』は、小説、エッセイ、さらには翻訳まで混ぜこぜにしてまとめられたもの。
「殺人者の憩いの家」は<幻影城>に掲載された作者の『虚無への供物』に次ぐ第二のミステリー。掲載誌は入手しているがもったいなくて今まで読めず今回が初読。
月蝕領と名付けられた高原療養所は法の手を逃れた殺人者を収容して月光浴で治療していた。語り手の作家が療養所の所長に近づいたのは、月蝕領主という称号を自分のものにしたいからだった。彼の誕生日9月17日が皆既月蝕となるその晩を期してかねてからの計画を実行に移すが、……。『幻想博物館』のミニチュア化という雰囲気。黒鳥館主人、流薔園園丁、そして月蝕領主。呼び名の変更は小説上はこのとき成され、この作が事実上の「月蝕領宣言」である。
「ポオ断章」では、ポオに対する尽きせぬ愛好の思いを漏らすが、その一方でポオとボードレールの像を見比べて、その悪相から父猛之進に連想は及ぶ。
「影の訪問者」では、C姉こと静の入院の夜に訪れてきた親戚の者を異界からの訪問者に重ね合わせる。
「翼のあるサンダル−あるいは蟾蜍の記」では、羽根木の家の門の外で見えない階段を探すようなそぶりをする老人を見て空想を飛ばす。
「異形の者」では、富士登山から戻ってきた母の装束にクリスチャンの母が巫女になったような異様な思いをしたことと、『とらんぷ譚』が完結して大きな山の中腹にいるような自分の状況が結びつく。月蝕領主を名乗ったときに自分はどんな異形なものに成り果てるのか。
「カニバリズムの夜」はその月蝕の夜のこと。北軽井沢の山荘流薔園でそのときを待つ。酒席の肴の蟹を喰らい、その浅ましき様子からカニバリズムという言葉が浮かぶ。蟹を喰らう小説として乱歩の『孤島の鬼』があげられる。
「リラダン「ヴィルジニーとポール」」は翻訳。ほんのさわりだけ。中井による注でこの作家の位置付けがなんとなくわかる。
「不在」は、亡くなったC姉の骨壷を抱えて山口の墓所まで向かう旅路のこと。重い重いと思っていた骨壷が急に軽くなってたじろぐ。まるで亡き姉が自分の内心の文句を聞きつけて軽くなってみせたように。軽くなった骨壷が地下の幽暗に達するまで筆者は見守る。
この作品集では小説は勿論、身辺雑記も幻想文学と化している。今までも中井の小説の数々に元となった事件があることはあらかた察しが付くが、この頃の中井の手によったときには私小説こそが幻想文学になる。
『LA BATTEE(ラ・バテエ)』は、<週刊読書人>に連載された時評的随筆。タイトルの意味は副題の通りで、ゴールドラッシュに憑かれた砂金掘りが来る日も来る日も木皿で砂を洗い続けて、いつかは小粒の結晶にでも恵まれないか、果ては木皿自体に砂金が染み付いて枕元に置いて眠るときに仄かな光を放つようにならないか、という儚い夢のことと4「二通の遺書」にある。
先ずは父や祖父など家系の話。作家の遺書や登場人物の命名法。旅について。タスマニアへ黒鳥を見に行った旅のこと。閏日と『虚無への供物』とその日に薔薇を届けてくれたVERAという女性のこと。時事を話題にすると、すぐ戦前や戦争直後の風俗に話が及ぶ。
一年以上の連載の後、53「分身」で大きな破局が訪れる。中井の”生涯の相棒”とも”分身”とも言われるB公こと田中貞夫の食道癌が発覚したのだ。55「コバルト60」で中井は述懐する。今までたびたび起こっていたように、書いていくうちに作者も気づかない伏線が張り巡らされ、最終回近くにそれが出現して見事な収束を遂げることを期待していたと。今回も確かにそうなった。だが、中井に最もダメージを与える形でそれが実現しようとしていた。
緊急の手術は成功してB公の命は助かった。だが、それが執行猶予でしかないことはA公こと中井英夫もよくわかっていた。この巻の残りは人間としての全ての属性を剥ぎ取られ記号と化したAとBとの愁嘆場とも地獄巡りともなる。
『流薔園変幻 北軽井沢の風物』の流薔園はもともとは『幻想博物館』の背景となった精神病院の名前である。北軽井沢に1974年に山荘を拓いたときに中井はその名をつけた。それまで自分の住居を黒鳥館と称していたのがここから新しい時代に入る。本文のこの年と前の年の記述は簡単なもので、日記自体は実質的に1975年から始まる。しかもほぼ軽井沢の山荘滞在時に限った日記である。
この日記の成立事情は読んでいって最後に明らかになる。ある意味でミステリーの仕掛けをばらすことにもなるのだが、明かしてしまおう。1981年のB公の食道癌の発覚とその後の闘病が中井を打ちのめし、Bを癌にした犯人が必ずいるはずだ、それは己だという確信に捕らわれ、その告発のために刊行されたのだ。犯人A自身が書き綴る犯行の記録というわけである。
1973年に北軽井沢で緑の中の廃屋に案内されてそれが後の『光のアダム』につながる。土地を購入、山荘の建築が始まる。
1974年6月、目黒から世田谷区羽根木に越す。
8月、山荘完成。10月、泉鏡花賞受賞。
1975年6月、山荘にヤマネ住みつく。
この年の記述のある仕事は『人外境通信』の後半、『人形たちの夜』後半。
1976年8月、『光のアダム』に着手。
1977年7月、バンガロー村の青年たちが起こした交通事故に遭遇。『墓地−終りなき死者の旅』の最終回に書いたものがこうして現実化してしまった。8月、『光のアダム』脱稿。
その他記述がある仕事は
『真珠母の匣』中盤、「幻談・千夜一夜」。
1978年7月、C姉が尿毒症で緊急入院。
8月、客が来て飲んだくれ遊んでばかりで仕事にならないという愚痴。
9月17日未明、Aの誕生日に月蝕が重なりそれを皆で見る。この日から月蝕領主を名乗る。
その他記述がある仕事は
暗号小説「薔薇への遺言」、怪の会の会誌に寄せた「卵の王子たち」。
1979年3月、C姉死去。8月、別荘地近くの集落で殺人事件。その騒ぎの様が記述されるが、やがて「名なしの森」に醸成されていく。
9月、助手の青年から「Aさんてもしかして評論家じゃないの?」と聞かれたことが記してある。
その他記述がある仕事は
「黄泉戸喫」。
1980年5月、アサヒグラフ”わが家の夕めし”の取材はBの手料理。
その他記述がある仕事は「花火闇」。
1981年は記録がない。この年、Bの食道癌が発覚し手術を二回行う。
1982年4月、三度目の手術を控えたBとともに山荘に来る。5月、B、手術を受けやがて退院。
同じく5月、A、内田百閨w百鬼園戦後日記』を初めて読み、自分の戦後日記を『黒鳥館戦後日記』正続として発表することを決意する。Bに出会うまでの青春の記録である。
さらにこの流薔園日記をも整理し始める。7月、8月に数回ずつ山荘へ行くが、毎度Bと行けるのはこれが最後かと思ってしまう。8月10日、”もうここが楽しくないし、何もかも変わってしまったこと判る。流薔園の宴は終わったのだ。”
最初は副題「北軽井沢の風物」の通り、別荘地で過ごす作家の普通の日記なのだが、最後の年の分で全体の意味がまったく変わってしまった。
『月蝕領崩壊』は1981年から1983年までの『流薔園変幻』に書かれなかった記録である。
内容は”もはや記号に過ぎぬAとBの二人が、得体の知れぬ何かに翻弄されるという、これは一種の抽象小説”。
第一部。1982年7月、首筋のリンパ節の手術の結果、Bは”傾いた人”になってしまった。
A、日記を書けば書くほど不幸になると嘆きつつも、その記録はやめられない。
1982年9月2日、小説が書けなくなった、楽しい嘘をつくことに興味がなくなってしまった、と記す。
9月4日、”結局Aは、三十三年と六か月、Bを利用してきただけではないか。その「念力」とやらで、Bを癌にしてまで手許へ引き寄せ――。”
9月12日、流薔園日記を書きつつ思う。”Bを殺したのはオレだと、いまやっと判った。”
9月16日、B、またもや手術、左眼を失う。Aの誕生日の前日。
9月25日、『黒鳥館戦後日記』脱稿。
ただただ病院へBを見舞いに行く日々が続く。仕事はなかなか捗らない。治療費で出費はかさむ。Aの体調もぐたぐたになる。
1983年1月8日、「夕映少年」脱稿。
3月2日、”二月末〆切の小説書こうとして、何もないことに愕然。本当に何ひとつ思い浮かばないのだ。二重星が羨ましいというだけ。何億年でも一緒にいられるのだから。”
4月6日、医師より最終宣告。もういつ呼吸困難に陥っても不思議ないとのこと。
4月21日、”もう何も書くことはない、Bが死にかけているとき、己が何を書いても仕方がない。”
4月27日、緊急手術。”B、5時09分、死。”
5月4日、Bが死んで七日目、寺山修司の訃報。寺山の第一作品集『われに五月を』を出した作品社の社長こそがBだった。何とも因縁めいたこと。
5月30日、Bの納骨。多磨霊園にて。まさに「五月は喪服の季」。
第二部。1981年1月、Bの食道癌発覚。
1月24日、BはAに言う。「小説を書いてくれ、それが最後の願いだから」
2月3日、最初の手術。A、食道と胃の病巣を切り取ったものを見せられる。
3月5日、B、退院する。Aの羽根木の家に来て、初めていっしょに暮らすようになる。この日、ちょうどC姉の三回忌の命日。
9月、B、下腹の痛みのために病院で検査。口の中にも異常があった。夏ごろから気づいていたが、Aを心配させないために言わなかったという。
10月26日、二度目の癌宣告。
11月1日、B、再度入院。手術はしないが、ラジウム針九本を歯茎の裏に刺し、そのまま一週間地下の一室に閉じ込められる治療法。
11月28日、退院。
1982年4月、Bの癌、リンパ節に転移。『流薔園変幻』の終結部と同じとき。
5月2日、Bの再度の手術。左の喉の静脈とリンパ節の殆どを削除。
5月22日、B、退院。
5月24日、”ひる、縁側で、Aの顔を見ながら薄笑って「バカゴが」という。こんな本音を打ちつけにいったことはかつてない。自分でもつくづくそう思っているから一言もないけど。”
5月25日、”夕、散歩に行く前、「まちがっていた」という。「何が」「何もかも」と。”
これはきつい。抜書きしていてもどんどん気持ちが暗くなってくる。
何とも重苦しい巻だった。AにとってBとの永訣が最大の打撃であるが、先立つC姉の死が暗澹たる予感を与え、続く寺山修司の死がさらに追い討ちをかけている。
Aが愛する死者を送ったのはこれが初めてではない。誰よりも愛した母の戦中の死。
太宰治と三島由紀夫の死の直前に禿鷹の様な形でまとわりついてしまったこと。
そして乳癌で逝った中城ふみ子との百二十日間の奇蹟的な恋。中城ふみ子の『乳房喪失』もBの作品社から刊行された本だった。
中城ふみ子の死に対する中井英夫の関わり方は、本全集10巻『黒衣の短歌史』で往復書簡が刊行されて初めて全貌が明らかになった。
愛すべき人が逝くのにつきあうのはいつでも悲劇には違いない。だが、中城のときにはその登場で短歌の革新を行おうとする決意があったし、また中井自身にもこれから大きな仕事を成し遂げる未来があった。
『月蝕領崩壊』でのBの死がこれよりもずっと重苦しいのは、この後のAの悲惨な晩年を知っているからだ。
読者としても愛する作家のここまでの心情吐露は読んでいて辛いものがある。
だが、これもAという作家の真実の姿に違いない。
敢えて辛い厳しい時期の日記を公開するのは、自分への厳罰や愛する人への挽歌のためである。
それが誰にでも起こりかかりかねないことであるゆえに感情移入は容易い。しかもAが中井英夫であるがために、その私小説は世界の不条理さを記録する幻想文学となった。