『中井英夫戦中日記 彼方より<完全版>』

『中井英夫戦中日記 彼方より<完全版>』


 中井英夫の戦中日記は学徒出陣して市谷の参謀本部という日本軍国主義の中枢に配置されながらも、そこで戦争への呪詛を書き綴った稀有の記録である。このたび戦後六十年を期して完全版が刊行された。

 日記は昭和18年10月8日から始まる。近づく出征の日を控えてのやり場のない苛立ちが感じられる。
 10月12日の記述が学生時代の最後。”明日は、常に来、且は永久にくることがない。明日といふ日はいつ来るのか。今日といふ日は何時くるのか。昨日はいつの間に来たのか。”

 十ヶ月後の昭和19年8月21日から日記が再開される。すでにこのとき市谷に配属されている。戦況はサイパン玉砕まで来ている。
 8月23日、従来版では削除されていた物語の構想。田畑文士村に集まった若い芸術家たちが劇団を結成しようというもの。
 8月25日、”戦争が終わつた時、第二の戦争は始まるのだ。”

 9月10日、友松岡吾郎に宛てた”精神革命起案草書”。
 9月12日、母死去。 戦争による食糧不足での衰弱死。一人出かけて帰った後に倒れているところを姉が見つけた。11日の暁方に息を引き取る。 圧倒的な悲しみの記述。 従来版では省略された大学ノート三十ページに渡るという嘆きの言葉が記載されている。口絵にもある”お母様””おかあさま””オカアサマ”とだけひたすら繰り返して書きつけた個所など。
 9月17日、己の誕生日に母のあとを追って命を絶とうとするが果たせず。
 9月18日、”今自分のもつともおそれ、もつとも悲しむのは、「母の死」より更に大いなる未来の生、への希望といふものが、他ならぬ私の母に対する冷酷さ、愛情のうすさを示すものだ、といふ点だ。”
 9月20日、小説「黒猫」を書き上げる。
 9月22日、”不思議な恋をまた始めてゐる。”

 10月3日、小学校の体操の時間に歌を歌わず先生に指摘された子に共感する。
 10月31日、総司令部から程近くの月桂寺を訪れてもう一つの中井家之墓を発見する。おびただしい童子、童女の戒名の中の一つ、残夢孩子に自分を仮託する。

 11月1日、空襲があったが、母の安否を気遣うという特権が既に失われたことを寂しく思う。
 11月15日、衛兵に立ちながらつくった詩を書き記す。小学校のそばで子供がたくさん遊びに来る環境。
 12月29日、母の百十日。母の残した旅日記をひもとく。

 昭和20年の3月末までの日記は紛失。残された断片に新兵への教育係としての新しい任務を書き写し、”一年前の自分では、夢みることもなかつたほどの好運であるが、それもこれも自分には、みんな母を売つて得たやうな気しかしない。”
 3月24日、目黒へ電鍵を買いにいったついでに古本屋を猟る。店先の様子や収穫が書いてある。目黒といったら
山田風太郎が下宿していた場所だ。ここで両者がすれ違ったかも。
 4月4日、新宿の空襲の際に豪の中で美少年の新兵をわくわくしながら抱きしめる。
 4月11日、自分のそうした性癖は小学校にもあがらぬうちからだと記す。
 4月16日、焼け野原となった田端の自宅跡を彷徨う。一切の過去が灰と化した。 ”成程幾多の美しい物語はやけ失せた。それだからこそ私の手で、自分自身で美しい物語を創ることが出来るのではないか。もちろんいくねんいくかげつさきのことかそれはしらない。”

 5月12日、ドイツ無条件降伏を知る。”「生きること、夢みること、美しいもの正しいものへの憧れ。」いつの日かはばたき出づべき新しい日の若者たち、その胸にそれらの、私達がみのこした見果てぬ夢が湧き出てくれと、それをいひのこしてゆかう、ゆかう。”
 6月22日、自動車で柏まで往復する。一年半ぶりに見た浅草は黒々と焼けて静まり返っていた。

 7月2日、日記とは別の用紙に書いた遺書。こんな最中にも口笛を吹きながら遠ざかっていく下駄の音に慰められる。
 8月6日、腸チフスで世田谷の陸軍病院に担ぎ込まれる。高熱で意識朦朧としながらも数日分の日記を残す。8月9日、ソ連参戦が知らされたときの静かな諦めの情景。
 8月11日の記述が最後。中井の家の思い出。
 このあと筆者は昏睡状態に陥り、8月15日の敗戦も知らずに9月まで眠り続ける。

 従来版との大きな違いは、やはり削除されていた母の死に対する慟哭の記述である。純粋な悲しみ。何もしてあげられなかった罪悪感。生きる目的の喪失。爆発的ともいえる感情の吐露を目の当たりにしてしまうとたじろぐしかない。

 そしてまた、戦争と距離を置いていたのは中井英夫一人ではない。 日本全体が戦時体制一色などということはなく、戦火の中でも下駄履きで口笛を吹いていた者もいた。 そして反骨の士がありながらも日本全体が狂気の戦争の時代に突入した。 そのことを示すためにこの日記は公開された。 戦後六十年が過ぎてこの日記が私たちに投げかけるものはますます大きい。



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