久々の中井英夫全集の配本。『黒衣の短歌史』は元々『蒼白者の行進』の次の刊行予定で、かれこれ五年も待ったことになる。詩篇・短歌論という分類になっているが、詩や短歌の世界で中井英夫が残した業績は門外漢には計り知れない。だがこの面を知らねば中井英夫の全てを理解することは到底できない。待ちに待ち望んだ渇きにも似たその思いはようやく癒された。
最初に詩篇。私は散文的な頭しか持っておらず、詩は全くわからない。それでも思潮社版『中井英夫詩集』を持ち歩いてわけもわからないまま読み耽っていた一時期を懐かしくも思い出す。いくつか印象深い詩だってあった。
これ以降は全てが初読。
『黒衣の短歌史』は、中井英夫が1949年から1955年まで日本短歌社で短歌誌<短歌研究>と<日本短歌>の編集者を務めたときの回想記。
戦後まもなくの閉塞した歌壇への苛立ちの数々。大きな事件があったときに新聞が歌人に紙面に載せる句を依頼したり、事件を引き起こした当事者や被告が今の心境と称して腰折れを披露する当時の微温的な風習と、それそのものが歌壇の一面の真実である苦々しさ。新人の活躍を期待するなどと口先では言いながら、いざ輩出してみると懸命に潰しにかかるその体質への嫌悪。中井は表に立たない黒衣(くろご)の立場で心から愛する短歌の刷新に邁進する。
1950年には葛原妙子が後の活躍から見ると地味な出発をし、1951年には塚本邦雄が「モダニズム短歌特集」で出る。一方、1953年に斎藤茂吉と釈迢空の二大巨星が落ち、嫌がおうでも大きな変革期を迎えようとしていた。1954年、折しも角川書店から新しい短歌総合誌<短歌>が出されることになり、それに対抗する企画として<短歌研究>で為されたのが新人作品五十首募集だった。その第一回(四月号)で中城ふみ子が、第二回(十一月号)で寺山修司が入選したために変化は決定的なものになる。
中城ふみ子は乳癌を患っての入院中で死を待つ身だった。
その歌の原題は太宰治から取った「冬の花火」だったのを中井が「乳房喪失」と勝手に変えて発表した。その反響は悪罵に近いものだったが、ライバル誌<短歌>に川端康成の推薦文付きで別の五十首が掲載されて流れが変わる。
そして中井の尽力により処女歌集『乳房喪失』が作品社から7月1日に刊行される。
初めて中井が札幌まで会いに行き、帰京した翌日の8月3日に中城は三十一歳の生涯を閉じた。
逆に十八歳の青年であった寺山修司の登場は初めは好意的に受け止められたのだが、その作品中に俳句の巧みな焼き直しがあることがわかると一転して集中砲火を浴びた。
だが、その青春の香りを今まで声をあげなかった一般の愛好家が支持し始める。しかし、1955年3月、寺山は不治といわれたネフローゼで倒れ入院する。
中城の死と寺山の病気に中井の革命への意気込みは削がれる。1955年1月、突如『虚無への供物』の構想に取り憑かれたこともあり、自然と編集が投げやりになる。
翌年、中井は角川の<短歌>に移る。彼が撒いた種は前衛短歌運動となって実り、その育成は彼の手を離れ後進に引き継がれる。だが、中井にはそうして運動体となったものには違和感の方が大きかった。角川では春日井建や浜田到を推したが、その後の仕事については多くを語っておらず、1960年に歌壇を退く。
愛してやまぬ上での憎しみは、短歌に対してでなく推理小説に対しても同じことだったのだろう。特に現代短歌有用論を嫌悪し、文学はそもそも無用なものだと言い切る。
物語作者としての『虚無への供物』に先立つ実践編であり苦闘の記録である。
1971年に潮出版社から新書で刊行された『黒衣の短歌史』が1975年に同社から増補新装単行本で出される際に、当時未収録の稿をまとめて『現代短歌論』として併録した。
戦後新人白書という副題の「無用者のうた」(1961)は『黒衣の短歌史』に一部引用されたものの全文で、自らが伯楽となった当時を振り返る。各歌人の小論では短いながらも的確と思える評価を与える。「むなしさの母胎」(1960)には、詩はしょせん”虚無への供物”にほかならず、という一節を残す。
『暗い海辺のイカルスたち』は1985年にやはり潮出版社より発刊された第三の短歌エッセイ集である。タイトルにはめくるめく飛翔を望みながらも蝋の翼を焼かれて青い海へ転落していった多くの歌人たちに捧げる意味が込められている。
「季花短歌彩」(1984)は数多の歌人たちを色に例えて評し、後半部にはそれにちなんだ掌編小説をつけて短編偏愛家の面目躍如である。
中城ふみ子と寺山修司について語ったものもまとめられる。特に中城についてはその出会いから永訣までの百二十日間が三十年の歳月を置いて回顧される。
書簡のやりとりをしながら彼女の才質をもっとも輝かしく世に示すという暗黙の誓いが両者に交わされていく。
歌集の『乳房喪失』という題名をしきりに嫌がる中城を説得する中井。
発刊された歌集に感銘を受けた時事新報社の記者若月彰が札幌に駆け付けた挙句に病人を励まそうと馘首を覚悟で一月も留まり、それがスキャンダルとして取り沙汰もされた。
中井は若月とは入れ違いに札幌に行き、四日間だけ枕頭に付き添った。そしてその直後の死。
中井は、自分は編集者であり関心はその作品だけにあったと語る。
最後の『中井英夫・中城ふみ子往復書簡』は刊行されたのは今回が初めてである。
中井英夫が死した今だからこそ両者の魂の交流は遂にこうして明らかにされた。
たった百二十日、殆ど書簡だけの関わりが太く強い絆を紡いでいく。
この地上でこんな奇蹟めいた出会いがありうるのか。
中城の登場という歌壇では十年に一度の事件を百年に一度の事件に仕立てようとする中井。誰のためでもなく「僕のために」。中井の手紙に中城は「灯りがともつたやうです」と答える。
死病に伏している中城に中井が厳しく歌を催促するのはそれにより命の炎をかきたてるため。
ようやくまみえて、それでも死すべき運命を実感せざるを得ない。だが、それをなおも燃え立たせそうとする決意。
もはや安手のドラマでも流行りはしない極限状況。現実こそがあまりにも我々の想像を超えて過酷であり劇的であった。
全体を通して、もちろん中井英夫らしくあちこちに後に小説に結実する数々の小片が散らばってもいる。
新聞記事にある自殺者への感慨、
ソビエトの科学者が作ろうとしている火星植物園の記事、
中城への書簡にある「黒鳥譚」の腹案など。
だが、ミステリー読者としてのそんなささやかな楽しみはふっとんでしまった。
本当に私は中井英夫の何を知っていたのだろうかと思う。人間の真実に触れて粛然とするしかない。