追悼・中井英夫

追悼・中井英夫


 中井英夫。1993年12月10日、日野市の田中病院にて急逝。翌日、電車の中で訃報を読み、驚愕の余りうめき声をあげる。
 好きな作家は勿論いっぱいいるけど、現存の作家の中であの人ほど好きな人はいなかった。そんな彼が地理的にはごく身近な場所から、とうとう遂に乙女座の彼方へと飛び立った。
 いつもこの世界に違和感を抱いていた人。本来属すべき世界に帰る呪文を探し続けてきた人。幻視者でありなおかつ現実を見つめる鋭い目を持った人。いつも大切な死者たちを送り続けた人。その人がもうこの世にはいない。

 中井英夫といえば、普通には大長編反推理小説『虚無への供物』、あるいは鏡花賞の<とらんぷ譚>の作者として知られています。でもそれだけの人では決してない。私にもその全貌はつかみ切れていませんが、今この時点で彼について記述します。

 中井英夫は本名。1922(大正11)年9月17日誕生。父は高名な植物学者の中井猛之進。厳父には馴染めず、ひたすら母と姉とを慈しむ。『虚無への供物』の氷沼家の血統は中井家をそのままモデルにしたものである。
 余談になるが、日本探偵小説の三大奇書のどれにおいても、巨大な父の存在または不在が長く黒い影を投げ掛けているのは興味深い。黒死館の亡き主スペードの王、降矢木算哲には虫太郎の厳父が投影されているし、『ドグラ・マグラ』に登場する二人の「父」は久作の実父、怪物的国士杉山茂丸のカリカチュアなのであろう。『虚無への供物』のモチーフが些か神話めいているのも、この辺に由来するのかもしれない。

 1944(昭和19)年、学徒出陣のため入営、市ヶ谷の参謀本部へ配属される。日記に戦争と軍人に対する怨念をひたすら書き綴る。この年母死去。翌年8月、腸チフスのため入院、敗戦を知らぬまま9月まで昏睡。この”終戦体験の消失”に以来延々とこだわり続ける。
 1946年、友人たちの援助のもとで第14次<新思潮>を創刊する。「黒鳥譚」の構想浮かび、<黒鳥館主人>を称する。
 あるとき訪問先の太宰治を「先生はよくもうすぐ死ぬ、と仰いますが、いつ本当に死ぬんですか」と問い詰める。その一月後の1948年6月13日、太宰入水死。
 1949年、日本短歌社に入社、<短歌研究><日本短歌>の編集長を勤める。そして葛原妙子、中城ふみ子、塚本邦雄、寺山修司ら多くの新人を見いだす。が、しかしその多くに早世される。
 また、この頃、三島由紀夫と知り合う。三島は『虚無への供物』第三章で舞踏家”藤間百合夫”としてちらりと登場する。
 1954年9月、洞爺丸転覆。
 1955年1月、突然に『虚無への供物』全編の構想浮かぶ。
 1956年、角川書店へ<短歌>編集長として入社。翌年6月、江戸川乱歩松本清張及び有馬頼義の両人に探偵小説を救うためと<宝石>への原稿を懇願。清張、『ゼロの焦点』の執筆を承諾。中井はその場に世話人として抜かりなくも居合わせる。
 1961年、角川書店退社。小学館の百科事典の編纂に加わる。

 1962(昭和37)年、前半第二章まで書き上げた『虚無への供物』を江戸川乱歩賞に応募するが、次席にとどまる。受賞作は戸川昌子『大いなる幻影』佐賀潜『華やかな死体』の二作、同じく次席は天藤真『陽気な容疑者たち』であった。
 1963年1月、ついに『虚無への供物』後半部を書き終える。分量は乱歩賞応募時のちょうど2倍となった。翌年2月29日、講談社から塔晶夫名義で刊行される。
 『虚無への供物』は1954年12月10日に開幕し、1955年7月12日に終わりを告げる。
 一見マニエリスムに凝り固まった新しい黒死館にして、実は昭和という時代の狂気を鮮やかにえぐり取ったこの作品が我々に投げ掛けるものは今なおますます大きい。
 私はこんな妄想を持っていた。『虚無への供物』は未だ完結していない。第8回乱歩賞に応募されたときと同様に。その後も延々と書き続けられてきた結末で、我々世紀末を生きる日本人がいつかまた告発される。おまえが犯人だ、と。ああ、真犯人の黒々とした哄笑よ。

 1969(昭和44)年8月、「黒鳥譚」完成。翌年5月タスマニアへ旅行。
 1970年11月25日、三島由紀夫、かつて中井が勤務した市ヶ谷自衛隊本部で割腹自殺を遂げる。
 この年より<とらんぷ譚>第1集となる『幻想博物館』の連載始まる。「甦るオルフェウス」は三島自決の晩に書かれたという。
 <とらんぷ譚>は以下のような内容です。
 第1集『幻想博物館』はスペード。<流薔園>なる精神病院を訪れた筆者が院長から聞く、患者たちがなぜここにいるかの由来記の数々。珠玉作多く、私が『銃器店より』とともにもっとも愛する短編集。だが、その結末は余りに激しく余りに呪詛に満ちている。
 第2集『悪夢の骨牌』はクラブ。第2回泉鏡花賞受賞作。美しい女主人と令嬢とに招かれた十名の客。何処からか舞い込む手記。この二人が青年たちを異境に送り込む魔女なのだろうか。後半部の過剰なまでの展開は暴走に近い。「戦後よ、眠れ」との叫びは痛々しくも悲しい。
 第3集『人外境通信』はハート。『悪夢の骨牌』の疲れが癒えぬのか、幾つか光る話はあるが、少々低調。例によって薔薇は咲き乱れる。
 第4集『真珠母の匣』はダイヤ。大正生まれの三姉妹。その前に現れるペルセウスのような青年と魔除けの宝石。そして宝石のような硬質のほのかな光を発する短編群。
 そしてさらに「影の狩人」と「幻戯」のジョーカー2枚が加わる。
 1974年、北軽井沢に山荘を開き、<流薔園園丁>を名乗る。
 1980(昭和55)年2月、四部作五十四編を『とらんぷ譚』として平凡社より刊行。
 それにしてもここまで記してみて改めて驚きました。短編の名手、中井英夫の意匠を凝らしに凝らした連作短編集<とらんぷ譚>がこうにも一つの問いかけで貫かれていたとは。戦争とは、戦後とは何だったのか。

 さて、中井作品の長短編ともに共通する顕著な特徴として、実在事件の作中への取り込みがあります。この作者は時代風俗も事細かに描写して返って夢幻の気を醸すのを得意としています。が、なんとも不思議なことに小説に取り上げられると現実の方が中井英夫の小説世界の方に漸近してしまうのです。『虚無への供物』にまつわる様々な伝説は有名ですが、例えば『幻想博物館』でも最初の構想では<流薔園>炎上で完結させるつもりが、当時精神病院の火事が相次ぎ、嫌気がさして現在の形にしたという逸話があります。さらには『人形たちの夜』の女子大生殺しから貴腐の発生のくだりは読者をすら飲み込み砕きます。

 中井英夫はその死においてもそれをたっぷり演出してくれた。私などはそうも思います。田中角栄なる名の戦後を具現化した人物を引き連れて、彼は逝ったのだから(田中角栄12.16死去)。

 この世界はもう既に中井英夫を欠いている。改めて今感じる途方もない喪失感。
 幻想とは逃避ではない。幻想とは、曇りのない目で現実を直視し、生き抜くことだ。そう、それがいかに無益な行為であるとしても。
 できることなら私もまた虚無への戦列に伍したいものだ。この身の全てを捧げて。



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