創元ライブラリ版中井英夫全集の新刊は小説編Xで、1983-1985年に刊行された小説集五冊を収める。これらは初刊以来初の文庫化であり再刊である。
『夜翔ぶ女』は、三部に分かれる。
第一部「ぶな館の殺人」は、シャーロック・ホームズのような、館もののようなタイトルだが、勿論違う。植物や毒、稀覯本、豆本など著者好みの意匠で固めた寓話。
第二部「夜翔ぶ女」は短編集。その長さは『とらんぷ譚』収録のものより遥かに短く殆どショートショートに近い。そんなに短くてもそれでも中井英夫の作品以外の何物でもない切れ味を持つ。特に表題作「夜翔ぶ女」が傑作。決まって終電間際にタクシーに乗ってくる黒衣の女に運転手は憧れをかき立てられるが、その女の正体は予想を裏切ったとても奇妙なものだった。
第三部「幻談・千夜一夜」は、ある理由で世をはかなんで自殺を図ろうとした少年を親類の美しい女性たちがあの手この手を使ってこの世に引きとめようとする。
アラビアン・ナイトのタッチでコミカルに描かれるが、戦後のからくりを見破ってしまうというほろ苦い落ちがつく。
『金と泥の日々』は、青井京吉を主人公とする連作。作者の本名と同じ左右対称の字面で「青い狂気血」とも読める名のこの青年は作者の分身である。
腸チフスで昏睡しているうちにいつのまにかに終戦を迎えてしまった彼は、憎んでいた戦前の世界から一転して新しい戦後の世の中を歩き出すことになる。生家を焼き尽くされて無一文になっての苦闘。戦争終結でやっと解放されたと思ったのも束の間、戦後の世相にも感じる強い違和感。
『黒鳥館戦後日記』『続・黒鳥館戦後日記』に重なる部分だが、連載当時はこれらの日記を公開するつもりはなかったという。
中井英夫が書いた私小説というところに価値がある。
『名なしの森』も短編集だが、なぜか収録作の質がかなりばらつく。意図がわからないものや、なんじゃこりゃというものも少なくない。
それでも極上の短編が二編もあるから充分許せる。
「干からびた犯罪」は、不思議の国のアリスや、作者の故郷田端や、さらにその地ゆかりの萩原朔太郎を素材にする。タイトルも朔太郎の探偵詩からの借り物で、なおかつ得意の時間旅行ものをひねった角度で扱う。これだけ趣向をてんこ盛りにして、それでも絶妙に着地する。もうただ感嘆するしかない傑作。
「盲目の薔薇」は『薔薇への供物』(河出文庫)で既読だが、お気に入りの一編。一人で暮らし庭の薔薇の盲芽に悩むヒロインを取り囲む状況を少しずつ明らかにしていきながら、とある一言で世界を崩壊させる。なんとも凄い。
『夕映少年』も短編集。「夕映少年」「月光の箱」「光の翼」の三作は、連作『他界の眺め』として構想されたが、生涯の相棒、B公こと田中貞夫の闘病と死により中断された。それを直接反映して噛み締めると苦い。
「星の破片」は、とらんぷ譚のジョーカー「幻戯」とともに限定豪華本に収録された自信作。ふと気になった女を見定めて近づいていく男はいつしか時を越えてしまう。さらりとしたその味わいは作者ならではのもの。
「星の不在」も初出がこれ一編での豪華本である。
陶芸家である主人公は仕事が思うようにいかないときにたびたび心臓がけいれんを起こし、やがて自らの心臓を天空の星と重ね合わせるようになる。心臓を星への捧げものにすることで傑作をものにしたい。そう焦る彼がついに得た悟りの境地へはまたしても時を越えて赴くことになる。壮年期の憂鬱を描いてかなりリアル。
『他人の夢』は、中編二作を収録。古い作品を書き下ろしで単行本化したものらしい。
発表順に読んできた読者は、作者の過去の作品で扱われた趣向に再度ぶつかって作品世界が乱反射を起こすのを見るようになる。前者は「黒塚」や「見知らぬ旗」、後者は「時間旅行者」「銃器店へ」「死者の誘い」など。
「他人の夢―一九四四年夏」は、ヒロインと叔母の緊迫した対話で幕を開ける。疎開をあくまで拒むヒロインは、自ら思い描く夢により戦争という悪夢を変えると言い切る。その夢の結果として許婚の従兄を含む三人の学徒出陣の見習い士官が安全極まりない市ヶ谷参謀本部に配属されたというのだ。
そういうことで物語の筋の上で作者の大本営での実体験がベースになっているから、戦中の青年の青春模様にもなってはいる。しかし、夢によって現実を変えるというテーマの幻想色は強く、本文中でも言及されるそれに先立つ夢、大本教の出口なおの「日本対世界の戦争で東京が元の武蔵野になる」という予言が二重写しになる。さらにヒロインの母が死んだ事故は、『虚無への供物』の第二の事件そっくりである。作者の全作品と前半生をトリックに用いた幻想ミステリーと評価することもできる。
「錆びた港」では、四十の角を曲がった主人公はある事件の現場に出くわしたことをきっかけに現実感を喪失していく。妻との不和、そして先妻の子の成長につれさらに大きな不安が頭をもたげてくる。重苦しい雰囲気と唐突な結末。
この救いのなさはちょっと辛い。
本書を読んでいるときは至福の境地だったが、読み終わってしまうと中井英夫の未読作が減ってしまったことが実に悲しい。
当初予告での全集完結まであと二巻。だが、それだけにとどまらずに補刊も刊行して、名実ともの全集となることを強く希望したい。